無自覚テンプテーション(02) 「カナメさんが光って見える?」 温めのコーヒーをなみなみと注いだマグをブリーフィングに使った小部屋のテーブルに置いて、アラドはあんぐりと口を開けた。フライトログなら後にしろと半ば無理矢理連れ込んで、先程の態度について問いただすつもりだったのだが、こんな言葉を口にする羽目になるとは思ってもみなかった。 誰であれ人の顔を真っ直ぐ見つめるメッサーが、カナメにだけ逸らすことを指摘するところから会話の糸口を探ろうと脳内で考えたプランは早々に破られ、難しい顔をしたメッサーの方から「実は」と切り出してきたのだ。 その彼は今アラドの前で、難しそうに眉を寄せている。 「はい。ですが医療班での検査に異常はなく、ケイオスの医師からは疲れ目ではないかと――」 「いや、待て待て待て」 現状を説明しだしたメッサーに、アラドはすかさず右手を上げてそれを制した。医療班にも相談したのか。そんなキラキラした問題を。それはさぞかし驚かれたことだろう。 「カナメさんが光って見える、と言ったのか? 医療班に?」 「いえ、さすがに個人名は伏せましたが。視界が眩しく見えることがある、というふうに伝えたところ、疲労やストレスからくる――」 「待て待て待て待て」 それだとニュアンスがだいぶ変わる。精神的な問題から肉体的な視力の問題にすり替えたらしいメッサーに、思わずアラドは同じ言葉を繰り返してしまった。 本気か。いや、メッサーのことだ。本気なのだろうが、さすがに鈍いにも程がないか。 アラドは負けず劣らず寄ってしまった自分の眉間をぐりぐりと力強く揉みしだいてから、メッサーに視線を戻した。 まだ若いとはいえメッサーも男だ。過去の恋愛云々については――彼の辿ってきた経緯を思えば際どい思い出に触れるおそれがある為、そう細かいことを聞いてはいなかったが――、さすがに男女関係がまるでなかったわけでないところまでは、世間話的に知っている。というより酒を飲ませて聞き出したことがある。 そんな男が、どこでどうしてそうなった。 「そりゃもっと単純なことだろうよ」 「単純、ですか」 肩を竦めるアラドの言葉を、メッサーが繰り返す。 けれど思い当たる節は何もないと言わんばかりの表情に、アラドの眉がこれ以上寄りようもないほど寄ってしまった。単純だろう。これほどわかりやすいものもない。 「カナメさんの笑顔が輝いて見えるんだろう?」 「いいえ。笑顔でなくとも、常に光の粒子が舞っているかのようで――……そうか」 ふと、メッサーが言葉を切った。僅かだが眉が上がり、声にひらめきの色が乗る。やっと気づいたかこの空馬鹿め。遅い。苦笑を禁じ得ず内心で毒づくアラドを前に、メッサーは持ち上げた右手で口元を押さえる。どうせ光に包まれて見えるカナメのことでも思い出しているのだろう。そう思っていたら、 「彼女のフォールド波の影響で、俺の視力にもなんらかの――」 「違うな!? どうしてそうなった!?」 「……はあ?」 真面目も度が過ぎればただの馬鹿だ。隠しようもなく、はあっ、と大きく息を吐いたアラドに、しかしメッサーも思い切り訝しげな顔になった。つい先程のひらめき顔に期待した自分が馬鹿だったと考えを改め、アラドは噛み砕くような説明を始める。 「特定の異性がキラキラして見えて、フライトもしていないのに近くにいると動悸が高まって、だが医学的問題はないということは、だ」 飛行訓練を始めたばかりの新人へ向けた座学でさえ、こんな馬鹿げた講義はしない。 それがまさか死神の名を冠し、怖れられる程の正確無比なエースパイロットに向けてすることになろうとは。 「もう答えはひとつしかないだろうが」 「ひとつ……?」 「そうだ。異性、キラキラ、ドキドキ、といえば?」 「……まさか、ヴァール化の影響が!」 「真面目か!」 ガクリと膝を突きそうなほどの深刻な表情でハッとしたメッサーを遮り、アラドは声を荒げた。ヴァールを鎮静出来る力を持つ女神の歌声で、視力に異常を来してどうする。 が、やはりわけがわからないとばかりにメッサーの眉間の皺は深くなるばかり。 その表情は真剣そのもので、昨夜の管を巻いていたカナメとはまるで違うはずなのに、どことなく姿が被ってしまった。これだけ互いに執着しているくせに一歩を踏み込まないカナメとメッサーは、もしかしたらやはりどこか似ているのではないだろうか。 「――メッサー、正直なところ、お前カナメさんをどう思う」 「どう……?」 「そうだ。彼女のことを、どう思っている」 昨夜、アラドはカナメにも同じ質問をぶつけている。そのときのカナメは好きだと答えた。それはまだ恋とは呼べないまでも、その後の言動からはどう考えてもただの友人や同僚に向けるものとは思えなかった。一歩進んだ好意だとアラドは考えている。ではメッサーは。 アラドの質問を受けて、メッサーは僅かに姿勢を正した。 「ワルキューレのリーダーであり、高いマネジメント力のある人物だと思います。美雲・ギンヌメールやフレイア・ヴィオンのようなずば抜けた数値ではありませんが、いかなる場面でも発揮されているフォールド波の安定も高く評価されるべきところでしょう。周囲への配慮にも長けていると感じます。戦術ユニットとしてのパフォーマンスに関しては、元アイドル経験者としてストイックな面も見受けられますが、プロとしての側面でいえばやはり長所になるのでは、と、僭越ながら自分は判断しています。その他でいえば」 「待て。俺が悪かった」 すらすらと普段の寡黙さが嘘のようにカナメを評価していくメッサーに嘘はない。けれど、まるで報告書を読み上げているかのようだ。この部下が馬鹿のつくほどの真面目な奴だと知っていたのに、うっかり忘れた自分が悪い。酒の入ったカナメより、ある意味で性質の悪いメッサーの前に再び手を上げて制しながら、気持ちの通じなさに少しだけ泣きたくなる。 だがそれを押しとどめ、アラドは咳払いで気持ちを変えた。 「俺が悪かった。聞き方を変える。彼女を、女としてどう思う」 「――」 そう問えば、さすがのメッサーも息を飲んだ。アラドの言わんとしていることにようやく気づいてくれたらしい。ホッとしたアラドの前で、メッサーは先程よりも明らかに強張った顔つきになった。緊張――しているようだ。が、なぜだか恋心の初めにしては重い表情な気がしなくもない。 まるで謝罪でもしそうな勢いだなと思っていると、メッサーは本当にアラドに向かって頭を下げた。 「……誓って昨夜は何もしていません。するつもりも本当にありませんでした。これより更に気を配ります。不快な思いをさせてしまったとしたら、申し訳ありませんでした」 「メッサー? は? おい、何を」 「しかし、ひとつ言わせていただきたいこともあります」 意味が分からず疑問を口にしたアラドの言葉を遮って、メッサーがゆっくりと頭を上げる。あっと言う間に見下ろしてくるその瞳には、はっきりと非難の色が滲んでいた。 「……そこまで大切な女性を、あんな状態で何故俺なんかに任せたんですか。きちんと最後まで責任を取るべきであったと思います。あの場にいたのが俺だったから良かったものの、一歩間違えれば取り返しのつかない事態になっていた可能性だってあるんです。それを」 「メッサー、待て」 ようやくアラドの理解が追いついた。どうやら自分はこの部下から斜め上方向の非難を浴びせられているらしい。 酔った女性を他人任せにしたことについては甘んじて受け入れる。わざとだし、人選にミスはなかったと信じているが、それについてだけならカナメに対して謝ってもいい。だが、メッサーのいわんとしていることはそこではないのだろう。 アラドはすっかり冷めきっているマグを手に取ると、大して乾いてもいない咽喉を潤した。 コトリと小さな音を立てて机に戻す動作を時間稼ぎとでも受け取られたのか、メッサーの雰囲気が鋭角に尖ったのがわかる。お前の為のインターバルだぞ、と心の内で答えながら、アラドは口を開いた。 「何を勘違いしているのか知らんが、俺とカナメさんには何もないぞ」 「………………彼女の気持ちを知っていて、俺に投げたということですか」 「盛大な勘違いだな」 「……」 鼻で嗤ってしまったアラドへ、メッサーの瞳は非難からむしろ嫌悪の色を濃くしたようだ。面白くないなら食ってかかってくればいいものを、押し黙ってしまうのはメッサーの悪い癖だ。もう少し操縦技術以外にも貪欲になればいいのだ。自制の強さは戦闘機乗りとしての美点だが、ことプライベートに関しては身体にも心にもよろしくない。 例えば上官のものだと思っている女に恋をしたなら、宣戦布告をぶちかましてこい。それでこその若さだろうが。空中で命懸けのドッグファイトなら出来るのだから、命のかからないここならもっと気安く求めればいい。 自分を睨みつけてくるメッサーの顔を真正面から受け止めて、アラドは続ける。 「投げたとして、俺にそういう好意がなければお前に無理強いされるいわれはない。面倒ならお前も誰かに投げれば良かったんだ。あそこなら、そうだな。チャックがいただろう。裸喰娘々だぞ?」 「……」 カナメには聞かせられないなと思うくらいにはひどい言葉を選びながら、アラドはクッと咽喉を鳴らした。長身の部下から言葉はない。その代わりに、見る間に尖りを増してくる気配に、アラドは内心で息を吐いた。 まったく、揃いも揃ってどうなっているんだ。昨夜はずるいと詰られて、今日は視線で射殺されそうになっている。厄年だったか。 「そもそもお前の知っている彼女の気持ちと、俺が知っている彼女の気持ちが同じとは限らん――……メッサー、お前今すぐ鏡で顔を見て来い。まるきり凶悪犯の面になってる」 「……は?」 限界だ。これ以上謂われのない嫌悪を可愛い部下から向けられたくはない。しかもカナメとは違いメッサーは素面なのだ。記憶は薄まれど消えることはない彼から、後々までも恨まれたくはない。 カナメへの無礼は内心で詫びつつ、アラドは残りのコーヒーを一気に咽喉の奥へと流し込んだ。細く眇めた目で自分を睨むメッサーを見つめる。 「俺はお前が昨日彼女に何をしたのか、俺が帰った後で彼女がお前に何を言ったのか知らんし、完全にプライベートなことを詮索するつもりもない。一夜の過ち結構。そこから始まるものがあろうがなかろうが、どうでもいい。お前がどういうつもりで彼女の誘いを断り続けても、それはお前の問題だ。……察することは出来るがな」 「……」 アラドの見る限り、真面目が過ぎて恋愛方面に疎い印象はあれど、メッサーが度を過ぎるほどそちらの方面に鈍いとは思えない。容姿にしろ職業にしろ、これだけ揃えば嫌でもそれなりの経験はついて回る。本人の性格以前の問題で、男とは得てしてそういうものだ。 その彼がこうまで頑なにカナメへの感情をシャットダウンしているのは、おそらくアルヴヘイムの一件があるからだろう。忘れろと軽々しく言えるものでは決してない。一生をかけて背負い続けるものになる。傍観者に過ぎないアラドには計り知れない想いを抱えるメッサーが、今後誰かと幸せになる自分の未来を許せないと思っているのだとしたら、それもわかる。違うと言ってやることは簡単だが、こういうことは本人が自分で納得して、どうにか折り合いをつけるしかないのだ。 自身がヴァールに罹患したことは幸いにもまだないアラドだが、ヴァール化した仲間を撃ち殺した経験なら何度もある。ワルキューレの歌で自我を取り戻しても、自分を許せず自死の道を選んだ者も知っている。その度に自分の無力を叫びだしたい衝動なら、アラドにだって今でもあるのだ。 けれどそれで救われた命があることも知っている。 これから救うことの出来る命が未来にあるということも。 自分が許せないからという理由で自分自身を殺すことは、すなわち未来で助かる可能性のあった命をも殺すことになる――といえば大袈裟か。だが真理の一端でもある。 自分の幸せは自分でしか決められないとはよく聞く話で、だがそれとは逆に、自分の幸せは他者の幸せの上にあることもまた事実なのだ。自分の生が誰かにとっての幸せになるなら、それを拒絶することはその他者の不幸だ。 誰かの為に幸せになる道を選ぶ。メッサーは、きっとまだそれを自分に赦せていない。 消すことのできない過去のせいで幸せになる権利がないと真剣に思っているだろうこの若者は、だから、自分の言動で今いる者から希望を奪っていることに気づけていないのだ。 「お前が誰とどう付き合おうが嫌われようが俺は知らん。だが、言い方に少しは気を配れ。好意を無碍にし過ぎるな。これは年長者として――というより、男としてのアドバイスだ」 ビッと指を突きつけてやれば、メッサーは僅かに瞠目した。表情筋はあまり頻繁に活躍しない男だが、瞳はそこそこ正直だ。泣く子も黙る鬼教官としてきつい口調に自覚はあるのだろうメッサーは、それを任務上の問題と認識しようとしたようだ。 けれど最後に付け加えられた「男として」という部分に戸惑っているらしい。 上官であるアラドの忠告で、元軍属らしく諾と言い掛けたメッサーの顔に疑問が浮かび上がっている。 「は、あの……それは、どういう」 上官として以外の自覚はないだろうとは、流石にもう察しがついている。 アラドはしっかりとメッサーを真正面から見据えてやった。会話はこうするものだ。 目を見て、素直な言葉で相手に伝える。 「直視が眩しいのか知らんが、あからさまに逸らしすぎだ。あんなもん、さすがに俺でもされたら傷つく」 「え――」 さっきのメッサーは酷かった。 さりげなく逸らされるだけでも避けられていると普通はわかる。腹を立てるか傷つくかは人によるだろうが、少なくともカナメは後者だ。ただでさえ嫌われていると思いこんでいる節のある彼女があんな態度を取られれば、どれほど傷ついていたことか。 けれどもやはり、メッサーは無自覚だったようだ。本気で驚いたように呆けた顔をする。 アラドは少しばかり意地の悪い方法で、メッサーをカマに掛けてみることにした。 「彼女のことがどうしても嫌でもな、あれはないだろうが。これからもデルタ小隊とワルキューレとして関わりがあるんだ。ああまで気づかれないようにしろ。それくらいは人としてのマナーだろう。それともナニか? あれくらいの距離も困るほどに嫌なのか? まあ、そこは相性の問題もあるから強くは言えんか。それなら任務に支障が出る前にパートナーを含め、フォーメーションの変更希望を申請しても構わないぞ?」 「ま、待ってください! 俺は、カナメさんに嫌なことなど何も!」 そこまで言えばさすがのメッサーも誰のことか気づいたようだ。アラドがあえて伏せていた名前を出してまで言い募るメッサーは、心底慌てている。 ほらね、カナメさん。こいつはあなたを嫌ってなんていませんて。 今この場面だけでも切り取って見せることが出来れば、少しくらい安心させてやれただろうに。 呆然としているメッサーに肩を竦めて、アラドは自分に出来る最後の言葉を口に乗せた。 「お前が言っていたとおり、彼女は気遣いの面でもプロだからな。そんな顔も見せないだろうが――……随分傷ついていたろうなあ。自分のパートナーにあんな態度を取られたら、そりゃあ俺だったら落ち込んでペアチェンジを申し込むかもしれん」 「そんな――!」 少しばかり芝居がかってしまったアラドを、しかし聞き入っていたメッサーは全く気づかなかったようだ。カナメからパートナーの変更を申し出ることなどあるわけがない。だというのに真剣な表情で考え込んでいるメッサーは、その可能性を模索して激しく落ち込んでいるようだった。 「考えるな、感じろ」 そんなメッサーの肩にポン、と軽く手を置いて、アラドは昔何かの古い映画で観た台詞で最後のエールを送ってやった。 【 ⇒ 】 前回のお話の翌日のお話。 |