オオカミさんに気をつけて




「……メッサー君、大丈夫?」
「大丈夫です。問題ありません」

 口調だけはいつもと変わりないメッサー君が、ゆらゆらとした足取りで舗装された道の縁石に乗り上げる。慌ててその腕を引っ張るのも、今夜はもう何度目だろう。遠くにウミネコの鳴く海の夜風の中を歩いていても、火照って感じる体温はきっと勘違いじゃない。
 メッサー君は酔っている。

「珍しいね。メッサー君がこんなになるまでお酒に付き合うなんて」
「チャックの誕生日でしたので」

 常日頃、食事の誘いには滅多に首を縦に振ってくれない彼が、仲間を大切に思っていないわけじゃないとわかるのはこんなときだ。
 今日はチャック中尉の誕生日――だったのだけど、本人は運悪く夜勤の当直に当たってしまった。ウィンダミアとの戦争も終結した今、そんな事情があれば、ともすれば交替を買って出てくれそうなデルタ小隊の面々がそれをしなかったのには訳がある。
 曰く、彼の女性問題が発覚したからだ。

「チャック中尉、せっかくいい感じになれたかもしれないのにね」
「自業自得です」
「まあ確かに」

 同情の欠片もないメッサー君の言葉に私は真顔で同意した。
 今回取り沙汰されたチャック中尉のお相手は、アイテールでいつもオペレーターを担ってくれている三人娘だった。三人娘――そう。三人ともだったのだ。
 誰からも相手にされていないとばかり思っていた彼女達に、実は熱心にアプローチを続け、個別に非番のデートを勝ち得ていた努力は素直に認られるものだったけれど、それ以外が手落ちというほかなかった。食事をしただけで誰ともお付き合いまでいってない、どころか、手すら繋いでいないオトモダチだったとはチャック中尉個人の言い分だ。けれど三人が三人とも、自分だけが誘われていると思わせる態度だったのが勿論大問題で。
 誕生日二日前に、三人からきれいなモミジの跡をいち早くプレゼントされたチャック中尉が、ミラージュからは汚物を見るかのような視線を、ハヤテ君からは「うわ、マジ最低だろそれ」という裏表のない素直な言葉を立て続けに受け取ったのが昨日の夕方だったそうで。
 平和に浮かれすぎてボケたのかと、アーネスト艦長から直々に交替を禁止されてしまったのが誕生日当日の今日というわけだった。

「でも、パーティは出来て良かったわよね」
「あいつの大好きなバナナ酒は飲めませんでしたけどね」
「それは業務中だから」
「自業自得です」

 二度目の言葉にも苦笑しながら同意する。
 あまりにもしょぼくれていたチャック中尉の為に、同じ男なら気持ちはわかると言い出したアラド隊長が、業務開始までの間だけという条件付きでアイテールでのパーティ許可を取ってきてくれた。
 女性陣からは若干非難の目はあったけれど、隊長が部下を思ってのことだということもわかる。
 周辺の店からオードブルをデリバリーして、デルタ小隊とワルキューレとのささやかなものではあったけれど、それなりに場は盛り上がっていた。チャック中尉の任務開始時間まではあと二時間ほどあるから、きっと今もそうに違いない。

 けれどもちろん当直の彼の飲酒は禁止。
 悔し紛れに「主役命令だ!」とメッサー君に指を突きつけ、自分への祝杯は全てメッサー君が飲むようにと言い出したのが、そもそも彼がここまで酔っ払うことになった原因だった。
 本当は乾杯の一杯で帰ろうとしていたメッサー君があっという間に囲まれて、止むことの無い酒をジョッキで受けてはヤケクソとばかりに流し込む姿はなかなか珍しかった。ついつい流れに乗って、私も何度も注いでしまったことは反省はしている。
 だからということでもないけれど、お詫びもかねて、こうして彼を送る役を買って出たのだ。

「でもまさかメッサー君がこんなに酔ってるところを見られるなんて思わなかっ」
「酔ってません」
「……」

 食い気味に否定しながら、またふらりと縁石を踏む。バランスを戻そうと引いた腕に、私はするりと自分の腕を絡めてみた。またいつ揺れ出すかわからないメッサー君のタイミングを計るより、この方が効率的だと思ったからだし、それに――

「これは?」
「腕組み深夜デート」

 酔った勢いに付け込んでやろうと思ったから、という下心も多分にある。

「……なるほど」

 思惑どおり。
 私の腕も台詞もそのままに、こくりと頷いたメッサー君は絶対に酔っている。
 戦争が終わる前も、終わってからも、こんなにされるがままになってくれるメッサー君は初めてだ。気を抜けばすぐにふらりと傾いてしまうから甘い雰囲気とは程遠いけど、この近さは素直に嬉しい。
 この距離は、アル・シャハルでの戦闘後、重傷を負ったメッサー君のリハビリに嫌な顔をされながらも足繁く通ったとき以来かもしれない。

 あのとき。共鳴によって流れ込んできた彼の気持ちはとても真っ直ぐで熱かった。
 私を――私の歌を、どれだけ大切に思ってくれていたのか疑う余地もない。だけど同時に、恋や愛といった浮ついた感情は思い返せばなかったように思う。
 むしろ何度も果敢に食事に誘い、断られてはこっそり落ち込み、メッサー君がララミス星系へと転属が決まったと聞いてから「まだ一度も食事に行けてなかったのに」と酔って美雲に管を巻いた私の方が、よほど彼に恋をしていた。

 あの共鳴のおかげでメッサー君は一命を取り留め、けれど私の方は自分のそんな気持ちに気づいた途端に失恋を実感する破目になったというわけだ。しかも憎からず思っていたことが、その本人にバレたかもしれない。
 いい歳をしての恥ずかしさにのた打ち回りたくなったけれど、バレてしまったものは仕方がないと腹を括るまでは早かった。
 だって、彼を本当に失ったかもしれないと感じたあの絶望に比べたら、こんな後悔は比でもなかったから。

「ねえ、メッサー君」
「はい?」
「好き」
「……ありがとうございます」

 気づいた気持ちを正直にぶつけるようになって、食事に誘うときと同じように果敢に挑み始めてから何度目かわからない告白を今夜もしてみる。

「そろそろ好きになってくれる気になった?」
「……カナメさん」

 そうして顔色一つ変えずに振られることも、もう何度目かわからない。
 今日もダメか。まったく、酔っているくせにガードが固いんだから。
 恨みがましく思いながら、私はメッサー君の腕を掴む手に少しだけ力を込めた。裸喰娘々の男子寮まで送り届ける間くらい、この距離を許してくれるのがちょっとした好意だと思うことにする。
 ……たぶん、こうしているのがハヤテ君でも、今のメッサー君ならきっと気づかないんだろうけど。

 そうして歩き続けること数分。メッサー君が不意に寮へ続く道から逸れた。
 酔っ払いの千鳥足のせいじゃない。けれど明確な意思で進む方向に男子寮はない。
 私は慌ててメッサー君に絡めている腕を引いた。

「どこ行くの? そっちだと遠回りになっちゃうから――」
「女子寮はこっちですよ」

 当然とばかりにそう言ったメッサー君は、むしろ私へ「大丈夫ですか?」といわんばかりの視線を向けてきた。そんなことは言われなくてもわかっている。こっちは女子寮に向かう道で――……って、そういうことじゃなく。

「そうだけど今は先に男子寮に……って、ちょっと、メッサー君! 逆だってば、こらっ」
「俺はあなたを送ってから酔いを醒まして帰ります」

 ぐいっと引っ張ってみてもビクともしないメッサー君は、かわりに私の腕を引いてどんどん先に歩いていってしまう。それでも足下は少し危なげで、私はメッサー君の腕を引きつつ、小さい子にするようにゆっくりとしたトーンを意識して話しかけた。

「私は全然酔ってないから大丈夫なの。ね? それよりもメッサー君が先に寮に帰ろう?」
「俺も酔ってないので大丈夫です」
「酔いを醒まして帰るほどは酔ってるんでしょう?」
「酔っていますが、酔っていませんので、醒ませます」

 駄目だ。絶対酔っている。こんな人を一人で帰せるわけがない。
 するりと腕を解くと、メッサー君がちらりと私を見た。なんですかと言わんばかりの不満げな顔は、滅多にみることのない素直なもので、バルキリーで大空を駆る時の精悍さは影を潜めている。点々とついたラグナの街灯に照らされる顔は少しばかり眠そうで、しょぼしょぼと目を細めては夜道を睨みつける仕草は可愛かった。
 そんな酔っ払いの彼に送ってもらうわけにはいかない。
 腕ではなく、その手を取って軽く繋いで、私は今来た道へメッサー君を引っ張った。

「ねえメッサー君、本当に私は大丈夫だか、」
「裸喰娘々から女子寮までこんな夜道を一人で帰せるわけないでしょう」

 けれど言うが早いか、メッサー君は繋いだ手のひらからするりと指を絡ませ返して、また私を引っ張るように歩き始めた。夜風とウミネコの鳴き声が二人の足音にハミングして、後押しされているかのように錯覚してしまう。
 
 待って。待って、メッサー君。これ、手、指、が、すごく密着してるんだけど。
 いわゆる恋人繋ぎになっちゃってるんだけど。
 指の間に指の感触があるんだけど。
 ………………素面なら絶対拒否するくせに、この酔っ払い!

 思わず手を引き抜きかけた手は、存外強い力で繋がれた手を逆に引っ張り返されてしまった。抵抗する私を窘めるような表情でちらりと見たメッサー君が、何故か一瞬困ったように眉を下げる。その表情をしたいのは絶対に私だ。
 酔ってるくせに。
 精一杯の告白を何度も無碍にしてくれているくせに、こんなときだけ女扱いするなんてずるい。交差する指が骨張っていて、繋いだ手のひらが大きくて、そのくせ足下が危ういなんてずるい。かわいい。格好良い。

「……じゃあメッサー君のところに泊めて」
「カナメさん」

 まるでいつもと同じようにメッサー君が眉を寄せているのが見なくてもわかる。だけど今夜はメッサー君の方が本当は支離滅裂なだけで、私の言い分はもっともなはずだ。

「だってメッサー君足ふらついてる。ここまで縁石何回踏んだか覚えてないでしょ。そんな状態のメッサー君を女子寮から一人でなんて、私だって帰せるわけないじゃない。だから、今日はおとなしく私に送らせて」
「俺は男です。たとえそこら辺の浜辺で寝こけたとして、満潮と風邪に気をつける程度で済みますが、女性はそうはいかないんですから」

 言い分だけはもっともらしいことを口にするメッサー君は私の手を離してくれない。それどころか強く握り返されて、窘めるような表情でしっかりと見下ろされてしまった。
 その顔は、怒ってるというよりも本当に困惑しているように見える。

「もしかして、心配してくれてる?」
「当たり前です」

 すかさず断言するのも本当にずるい。そんなことを酔っ払った口でも言われてしまったら、男子寮まで引っ張っていく力なんて簡単に出なくなってしまう。そういうところ、どうせメッサー君はわかっていないでやっているのだ。
 それでも、私を送ってくれた後のメッサー君がラグナの浜辺で眠ってしまう姿を想像したら、素直に頷けるものでもない。メッサー君の視線からそっと自分の爪先に逸らして、私は唇を尖らせた。

「…………でも、満潮は危険だし」
「それよりもあなたには危険なものがあります」
「私に? なに?」

 いつの間にか歩調を合わせてくれていたらしいメッサー君から、ふうっと疲れたような息が聞こえた。
 酔っ払いに呆れられた。
 怒ったって仕方ないのはわかっているけど、ちょっと腹が立つ。
 不満を繋いだ手に力を入れることで伝えてやろうかしらと思ったら、それより先に、メッサー君の手が私を痛いくらいに掴んできた。

「わからないですか?」
「え、ちょっと痛い。なに?」
「ほら。俺だって十分危険だ」
「メッサー君が? 手、痛いよ。どうしたの?」

 男の子だから力が強いとでも言うことだろうか。
 メッサー君の言ってる意味がわからない。痛いくらいに力を込められた手を、それでも離さないままメッサー君を見上げると、彼はしばらく私をじっと見下ろして、それからすっと前方に視線を戻してしまった。
 同時に指の力も抜ける。
 まるで今のことを詫びるように、親指が私の親指の付け根を優しく撫でてくれるのがくすぐったかった。
 どうしたんだろう。酔っ払いのメッサー君ははっきりとおかしいけど、いつも以上に行動が甘い。
 ゆっくりとラグナの道を二人並んで歩いていると、メッサー君がぽつりと言った。

「こんな歌知りませんか。何だったかな……男は狼だから気をつけろとかいう……」
「♪おとこはおおかみなのっよ〜、きをつけなさっいー」
「それです」

 頭に浮かんだ曲をなぞるとメッサー君が頷いた。
 小さい頃、歌謡曲特集のヒットメドレーか何かで聞いた曲だ。耳になじみやすいメロディーラインにキュートな歌詞は直接的なのにいやらしくない。続きの歌詞を思い出しつつ鼻歌に乗せるが、全部はさすがに曖昧で思い出せなかった。確か大好きな男の子とデートをするような歌だった気がする。

「昔、地球で流行った曲だっけ。この歌がどうかしたの?」
「俺も男なので気をつけた方がいいです。特にこんな夜中にくっついて歩くとか、正気の沙汰じゃない」
「メッサー君、お父さんみたいね」
「……」

 昼夜問わず、危険なことも甘いこともしてくれないくせに。
 ちょっとした非難を含んで見上げてみたけれど、メッサー君はもう私を見ていなかった。それどころか、真っ直ぐに前を見る瞳は剣呑で、聞き分けのない娘を持った父親みたいに眉間を寄せている。
 私はため息を吐いた。
 一喜一憂しても仕方ない。呂律がしっかりしているからといって、このメッサー君は酔っ払いだ。真剣な受け答えは諦めて、私は繋いだ手を歩調に合わせて少し大袈裟に前後に振ってリズムを取った。

「だってメッサー君酔ってるし、メッサー君は危なくないもの」
「酔った狼なら可愛いということですか?」
「狼は見たことないからわからないけど、今のメッサー君はちょっと可愛いじゃない?」
「……」
「怒っちゃった?」
「いいえ。ただ、酔っ払っていても狼は狼です」
「ならメッサー君も牙を剥く?」

 私に大人しく手を振られながら、メッサー君は考え込むように繋いでいない右手を顎の下に置いた。それから「そうですね」と嘯いてくれる。むしろ私の眉間が寄りそうだ。

「可能性はあります」
「そうならいいのに」
「……」

 この際酔った勢いでもいいと半ば本気で思ってしまうくらいメッサー君が好きなのに、そういう冗談は嬉しくない。だけどそう言った私に更に眉間の皺を深くしたメッサー君は、何故だか苛立っているように見えた。
 彼の忠告を無視しているように思ったからだろう。でも、それは間違っている。
 私はちゃんとメッサー君に気持ちを伝えた。何度も。好きだ、と。付き合いたい、と。それに対するメッサー君の答えはいつもノーだけど、理由として「俺ではふさわしくありません」だとか「それは良い考えだとは思いません」だとか、はっきり拒絶してくれないのがいけない。外国語の翻訳機能みたいで意味がわからない。
 私の帰りの心配をして、男性に対する警戒心の少なさ――そんなつもりは毛頭ないけれど――を危惧したりなんかもするのがいけない。
 そういう中途半端な優しさや誠実さを見せつけられたら、もしかしていつかきっと、と普通は期待をしてしまうものだ。そういうところをメッサー君はわかっていない。恋愛感情は抱けないけど大切に思ってはいるんです、なんて、よくある恋愛小説の中で、普通は女の子が男の子にする仕打ちだ。

「ねえ、メッサー君」
「……」
「メッサー君?」
「……」

 無言になってしまったメッサー君の横顔を見つめていた私は、小さく息を吐いた。
 仕方ない。メッサー君は酔っている。
 今日はこれ以上何を言ったところできっと暖簾に腕押し。下手をすれば、また私が勝手に傷つく。
 結局今夜の私たちは平行線なのだ。
 メッサー君は私が心配で、一人でなんか帰せない。でも裸喰娘々に泊まるのはダメ。
 きっとチャック中尉が当直で、ハヤテ君達もまだ飲んでるからもしかしたらそのままケイオスに泊まってしまうかもしれなくて、そうなるとマリアンヌ達がいるとはいえ、私と二人きりになることを危惧しているんだろうと彼の気持は推測できる。
 でも私だって、メッサー君に送られてまた一人で男子寮までなんて帰したくない。

 だから、折衷案を提案してみることにした。

「ねえ。ならメッサー君が泊まっていかない? ゲストルームは一応あるし、デルタ小隊のエースパイロットなら護衛ということで管理の方にもいくらでも理由はつけられるから」
「……そういうことを……だからあなたは……」

 今までの中で一番まっとうな提案だと思うのに、メッサー君は言うなり頭をふるふると振り出した。
 繋いでいない方の手を額に当てて俯いてしまった彼を下から覗き込むと、指の隙間からくぐもった声が聞こえてくる。

「仮に俺がそれを了承したらどうするんですか」
「むしろ了承してほしいから言ってるのよ?」
「夜這いの危険性を考慮していませんよね?」

 夜這いとはまた似合わない単語が飛び出してきた。
 ストイックが服を着て歩いているようなメッサー君が、女子寮で夜這い。
 思わず目を瞬いて、私はちょんちょんとメッサー君の手を引いてみる。

「メッサー君が夜這いするの? ミラージュを?」
「……どうしてそこでミラージュが?」

 聞くと、メッサー君の手が下に落ち、面白いくらいに目を丸くした。あどけない表情はお酒のせいか、いつもよりずっと年相応に見える。歩調の緩まったメッサー君にくすくすと笑って、私も歩くスピードを緩めた。
 なんだかんだと前方にはもう女子寮のエントランスが見えている。
 この距離ももうすぐ終わり。

「冗談よ。でも、だってメッサー君、私のこと好きなわけじゃないから夜這いするなら誰かなーって。フレイアの方が良かった?」
「カナメさんがいいです」
「ふふ、そうよね……、って、ん?」

 低く聞こえた声に拗ねたのかと笑いかけて、私はぴたりと足を止めた。その手をメッサー君が引くから、またたたらを踏むようにして隣に並ぶ。
 ……聞き間違えた? のよ、ね?
 メッサー君をそっと盗み見てみるけれど、前方を真っ直ぐ見据えたままの彼は、まるで明日の天気の話でもするかのように淡々と口を開いた。

「夜這いするならあなたがいい」
「――あ、え? ええと、そうなん、だ? ……え?」

 酔っているからメッサー君の中でいろんな会話がごちゃ混ぜになっているのかもしれない。『夜這い』という言葉を、もしかして別の意味のつもりで言っているとか。きっとそうに違いない。
 そう思いながらもついつい視線を逸らせないでいるとメッサー君が私からするりと手を離した。元々歩幅の違う彼と半歩以上の距離が出来る。慌てて早足で追いかけると、メッサー君が目の端で私を捉えた。

「困りますか」
「へ? あ、ああ、そ、そうね!? なんていうか、メッサー君のイメージと違」
「あなたは全然わかっていない。俺を聖人君子だとでも思っているんですか」
「え?」

 口の端を皮肉気にちょっとだけ吊り上げたようなその表情は初めて見た。どうして今そんな顔をするんだろう。だけどメッサー君はすぐにまた前を向いてしまった。何だか少し怒っているようにも見えて、私は何を言えばいいのかわからなくなってしまう。

 いつものメッサー君は口数は少ないけれど、一緒にいて息の詰まるようなことはない。私の告白を困ったように流しても、全身で苛立ちを表したり、苦しくなるほど明確な拒絶はされたことがなかった。
 でも今は違う。メッサー君は私に対して苛ついているのだとはっきりとわかった。
 酔っているから? ――わからない。

「あなたの言う好きとはどういう意味ですか」
「メ、メッサー君?」
「俺と具体的にどうなりたいんですか」

 女子寮のエントランスまでもう100メートルもない。その距離でメッサー君は突然そんなことを聞いてきた。
 これは――どういうつもりだろう。
 慎重にメッサー君の様子を窺ってみる。
 酔いが醒めてきているのかも。――――でもまだ足はたまに左右に不均等に揺れている。
 酔っ払いの戯言? ――――どうせ明日には忘れているのかもしれない。

 でも覚えているのなら、私の答えはいつだって同じだ。
 私はぎゅっと目蓋に力を籠めて前を向いた。
 酔っ払いだろうと何だろうと、ちゃんと答える。もう後悔はしたくないから。

「だから、付き合いたいって言ったじゃない」
「付き合って何を? 手を繋いで歩くくらいならさっきしました」
「そ、そうだけど! それだけじゃなくて、その……だから、二人でデートをしたり、ご飯を食べたり、い、一緒にいたり……」

 だけど詳細をいちいち口にするのは思った以上に恥ずかしいものだ。
 酔っ払いめ。メッサー君の酔っ払いめ。
 羞恥心を心の中で罵倒に変えても、後半はもごもごと口籠ってしまった。そんな私を見ないまま、メッサー君の声が上から低く降ってくる。

「帰り際におやすみなさいと頬にキスをして、手を振って別れれば満足ですか」
「……何でそんなこと言うの」

 おかしい。何かわからないけど、様子が変だ。
 突き放したような言い方に不意に嫌な予感がして、私の足が止まる。気配ですぐに察したのだろうメッサー君も、数歩先で足を止めた。ゆっくりと振り返ったメッサー君は酔っている――はずなのに、いつもより力の籠った瞳が私をしっかりと捉えていた。嫌な予感を増長させる。

 やめて。やだ。聞きたくない。

「メッサーく、」
「俺には無理です。やはりあなたとは付き合えません」

 メッサー君は、はっきりとした口調でそう言った。
 ス、と頭の中から血が全て下に降りた気がした。
 もしかしていつか明確な答えを出される日が来るんじゃないかと思ってはいた。だけどそれは今日じゃない。こんなシチュエーションでもなかった。最初から良い答えはもらっていなかったから妥当と言えば妥当かもしれない。
 だけど――せめて。

「……酔ってないときにして。さすがにちょっと失礼だと思うもの」
「確かに少し酔っているかもしれません。でもずっと考えていた。今ので確信しました。俺は、あなたとは絶対に付き合えない」
「……」

 もう一度、きっぱりと言い切られて、頭が鈍い痛みを訴える。ズクズクと心音に合わせるようにこめかみをゆっくりと締め付けられていくみたいだ。
 ずるい。何でこんな時だけふらつかないの。さっきまで揺れていたくせに。いつも最初に視線を逸らすのはメッサー君のくせに、こんな日に限って青い瞳は真っ直ぐ私を射抜いている。
 月は明るすぎるし、夜の郊外はあまりに静かすぎるから、都合良く聞き間違えた勘違いだなどと自分を誤魔化すことも出来そうにない。

 ああ――彼の中で、この答えは揺るがないんだとわかってしまう。

「……ぜったいに?」
「絶対に」

 それでも諦め悪く確認した私に、メッサー君はすかさず拒否の言葉をくれた。それから「行きましょう」と言って背を向ける。我が儘を言って後を追わないという選択肢がなかったわけではないけれど、もうこの距離は最後になるのだと思えば、短い時間も勿体ないと浅ましい気持ちが沸いてきた。だからダメなのかも。可愛くない考えが出てしまうからフラれたのかも。
 意を決して開いてしまった距離を小走りで詰め、メッサー君の隣に並ぶ。さすがに手を繋ぐ勇気は品切れだ。だけど歩調に合わせて時たま掠める指先の温度に、胸の奥がしめつけられる。

 この手が、私に触れてくれることは二度とない。
 だけどいつか誰かに触れるのかと思ったら、彼に振られた実感が遅れてやってきた。メッサー君がこちらを見ないのをいいことに、目頭にぎゅっと力を入れてぼやけそうになる視界を踏みとどまらせる。今、あまり可愛い顔を出来ていない自信がある。

 振り向かないで、……でも振り向いて。

「カナメさん」

 とうとう一度もメッサー君が私を見てくれることはないまま、女子寮まで着いてしまった。静かに呼ばれる名前が、私に帰寮を促している。

「……送ってくれてありがとう」
「いいえ」

 女子寮のエントランス横で足を止めたメッサー君を、私は最後の強がりで振り返った。
 大袈裟にいってしまえば、これが最後の会話になるのかもしれないと思った。
 ワルキューレの活躍はまだまだ先があるし、デルタ小隊との連携も変わりはないけれど、少なくとも、同僚に恋をしていたカナメ・バッカニアは消さなければいけない。
 始まりもしなかった関係を、嫌な思い出にはしたくなかった。
 たとえまだメッサー君がへべれけに酔っているのだとしても、この笑顔が明日の彼に不自然に残りませんように、と祈りを籠めて口角を上げる。

「頑張ったんだけどなあ。メッサー君のタイプにはなれなかったの、すごく残念」
「タイプですが」
「……」

 思わず表情が固まってしまった。頭の痛みも増した気がする。
 酔っ払い。酔っ払い。何それ。バカ。酔っ払い。
 人が笑顔なのをいいことに、メッサー君、それはない。
 きゅっと握った拳の爪が手のひらに食い込んで、痛みに目頭が熱くなる。

「プランが違いすぎるんです」
「…………プラン?」

 悔し紛れに殴りかかってやろうかと思って、だけどメッサー君の言葉に踏み出しかけた足を止めた。私がエントランスに入るまでを見届けようとするかのように視線で促されたけれど、それを無視してもう一度「プラン?」と聞き返してみる。

「たとえばですが」

 素直にこくりと頷いたメッサー君は、そう言って切れ長の瞳を眩しそうに細めた。

「俺は、手を繋ぐなら指を絡めたいんです」
「え?」
「腕もいいですけど、こう、指を――わかりますか」
「――あ、うん。……え?」

 メッサー君の視線が僅かに下に移動して、私の手を見たのだとわかった。それから自分の手を持ち上げて、きゅっと握り込んだり離したり。しばらくその不思議な動きをさせたメッサー君が顔を上げる。その表情からは何を思っているのかまだ私にはわからない。

「でも、あなたは困ったじゃないですか」
「こ、困った? 何の話――」

 必死で頭を巡らせて、私は一つのことに思い至った。
 もしかしてさっきメッサー君から繋いでくれたときのこと? まさか。だって、あれは。違う。全然違う。困ったわけじゃない。ただいきなりだったからちょっとびっくりしただけで――そもそも、そういう意図があるなんてわかるわけがないじゃない。
 あんぐりと口を開けてしまった私が何かを言うより早く、メッサー君が更に続ける。

「デートも食事もかまいませんが、頬にキスだけなんて我慢できない。あなたを独占したくなる。抱きしめてキスをして、俺だけの跡を刻みつけたい。あなたが嫌がるようなことだってきっとします。それを、泣いて止めてと言われても、止められる気がしません。絶対に、あなたを二度と離せなくなる」
「――」

 これは――振った相手にする話じゃきっとない。
 乏しいというよりないに等しい恋愛経験の私にだってわかる。
 それからやっぱりメッサー君は酔っている。
 熱烈な言葉をほとんど息継ぎもしないで告白したメッサー君は、それから突然ガクリと首を下に落とした。

「メメメメッサーくん!?」

 一瞬頭が落ちてしまうんじゃないかと思うほどの角度に、慌てて駆け寄る。
 覗き込むと、片手で顔面を覆ったメッサー君が、指の間からぼんやりとした瞳で私を見た。

「だ、大丈夫……?」
「……カナメさん?」

 曖昧そうな焦点が次第にゆるゆると定まってきたと思ったら、メッサー君はもう一方の手で私の肩を押し返した。下を向いたままで、勢いよく背を向けられる。

「……酔っ払いの戯言です。忘れてください。俺も忘れます」
「ま、待って!」

 言うなり歩き始めてしまったメッサー君の背中に思わず呼びかける。が、絶対に止まる気はないとわかるスピードでずんずん大股で進んでしまう彼の背中に、私は猛然と飛びついた。

「メッサー君!」

 これ以上は進ませないと踵に力を込めて抱き止めると、メッサー君の身体がびしりと固まったのが腕を通して伝わってきた。止まってくれたのをいいことに更に腕に力を籠める。と、メッサー君の手がお腹に回した私の手に触れた。ついさっき、もう二度と触れてくれないと思っていたメッサー君の意志のある指先が、一瞬私のそこをなぞるように触れ、それからすぐに引き剥がしにかかる。それでも強情にジャケットの裾を離さないでいると、メッサー君は観念したように振り返った。

「……離してください」
「いや」
「酔いを醒まして帰りますから」
「そうじゃない」
「……浜辺で寝ません」
「そうじゃなくて」
「忘れてください。俺は忘れました」
「そうじゃ、なくて――!」

 そんな簡単じゃないでしょう? 少なくとも、私は全然簡単じゃないの。
 いつものように淡々とした口調なのに、もうそれだけには思えない。唇が期待に震えてしまうのを隠せないまま、私はメッサー君をしっかりと見上げた。

「……メッサー君は、もしかして私のこと好きでしょ」
「あなたの思う好きとは違いま」
「勝手に決めないで」
「――」

 ぴしゃりとメッサー君の台詞を遮る。
 わかった。――ううん、本当はよくわからない。どうして彼がそう思ってしまったのか。
 メッサー君が酔っ払いになってくれたおかげで、わかったことは二つだけ。
 メッサー君は私を好きだということ。
 それに、私をずいぶん買い被っているということだ。

 私のことを、ワルキューレの決め台詞でもある「女神」だとでも思っているんだろうか。本気で? だからカナメ・バッカニアは人間的な欲をまるで抱かないとでも?
 冗談じゃない。そんなわけない。
 歌いたいのも、それを銀河に届けたいのも、メッサー君が欲しいのも、全部私だ。私の欲望だ。
 私はこんなにも欲深い女なのに。

「私を聖人君子だとでも思ってるの?」

 メッサー君が私に言った台詞をそのまま返す。

「メッサー君が好き。私だって独占したいと思ってる。少しでも一緒にいたかったから今夜一緒に出たの。他の子に酔ってるメッサー君を預けたくなかった」

 具体的にどうなりたいのか、知りたいなら全部言う。もう恥ずかしいと口ごもったりしない。私だって恥じらいを捨てるんだから、これを聞いたらちゃんと実行して欲しい。

 私はジャケットの裾を離して、メッサー君の指先に触れた。びくりと揺れて逃げそうになる指を、今度は私の方からしっかりと絡める。そうして持ち上げて、メッサー君の右手の甲に頬を寄せた。
 骨張った大きな手は夜風の下でも暖かくて大きかった。

「手を繋いでくれたの嬉しかった。この手で、もっと触ってほしいって思った。キスも、したいの。メッサー君に私だけの跡を残して、全宇宙に私のものって見せつけたい。こういう好きはメッサー君の好きと何が違うの?」

 もう一方の手も取って私の頬をメッサー君の両手で包ませる。またぴくりと揺れて、ともすればすぐに離れてしまいそうなその上から自分の手をしっかりと重ねた。逃がさない。酔っ払いの言い訳なんてもう聞いてあげない。明日もし覚えていないなら、何度だって思い出させる。
 それでもなかなか言葉をくれないメッサー君を辛抱委強く待っていると、しばらくして、はあっと大きな息が聞こえた。
 メッサー君の手が私の顔を上向かせる。そうして親指が頬骨の位置を確かめるように動いた。

「……ここだけじゃないんですよ?」
「わかってる」
「……」

 即答に、メッサー君の目が困ったように細められる。そのまま頬骨から下がった親指は私のリクエストどおりに唇に下り、メッサー君が頬にそっと唇を落とした。それから一度視線を合わせて、ゆっくりと唇にも重なっていく。

「……」

 夜空の下を随分ゆっくり歩いてきたからもっと冷たくなっていると思っていたのに、想像以上に温かかった。しっとりと重なるだけだった唇からメッサー君の重みが離れる。と思ったらまた唇が押し付けられた。
 今度は少しだけ啄むような動きで軽く食まれる。
 二度、三度。角度を変えて下唇をもう一度――
 小刻みなキスになんとなく呼吸のタイミングが掴めなくて、重ねた唇の合間からそっと息を吸い込んでみる。

「ん――」
 
 と、その隙をつくようなタイミングで、ぬるりと舌が差し込まれた。思わず強張った私にメッサー君が身体を寄せる。いつの間にか後頭部に回されていた片手で頭の位置を固定されて、私は縋りつくようにジャケットの襟元を握りしめていた。

「……っ、ん、ぅ……ッサー、く――」

 口内を縦横無尽に動き回る舌肉が、呼吸も言葉も自由をくれない。
 クラゲ酒の芳醇な香りを纏う吐息に紛れてメッサー君のにおいを感じた。
 好き。大好き。言葉じゃ足りない。
 頬を撫でる手も、髪を乱す手も、その動きが甘くて蕩けてしまいそうだ。絡まる舌先から痺れが脳髄を駆け巡って、指先が、膝が、震えて力が入らなくなって――
 かくん、と抜けた膝と同時に、メッサー君の手が私の腰に回される。

「……カナメさん」

 支えて抱き寄せて、少しだけ掠れたメッサー君の声が耳朶へ囁くように届けられる。ぞくりと腰の奥が疼くのを感じた。酔っ払いのメッサー君はずるいくらいに甘ったるい。明日酔いが醒めたなんて言われても、私だって絶対もう離してなんてあげられない。

「だから言ったんです。狼は危険だと」

 耳朶にちゅっと唇を押しつけられた言われた言葉に、私はキッと顔を上げた。言ってやる。メッサー君は私をおとぎ話の女の子だとでも思っているの。狼が自分だけだなんて思わないで。

「わ、私だって狼なん――」

 言ってやる、と意気込んだ台詞は、けれどメッサー君の手におもむろに上向かされて途中で途切れた。

「好きです」
「え」
「食べます」
「まっ――」

 一方的な宣言をして、唇に掛けられた指が私の口を開けさせた。ほとんど同時に大きな口を開けたメッサー君に再び奥まで舐られる。全然話を聞いてくれずに吹き込まれる吐息は熱い。舌の動きは執拗で、甘くて熱くて、溶かされて。
 酔った狼はここまで容赦がないなんて。
 確かに危険だと感じたときには、もう全部がくまなく食べられたあとだった。


                                    【 END 】