とどけ、残響ホライズン




 耳に、染み入るような音が聞こえる。


     *****


 その声は、初めはさざ波のような振動だった。
 それがいつからか珠になり、音になり、声になって、歌になった。
 今がいつでここがどこで、自分が何者なのかも漠然とした意識の中、何度もあの人が俺を呼ぶから、自身の名前を思い出せたのだと思う。


 あの時、空で散ったはずの命が再び光を求めて彷徨っている。


 戻れるのか。そうだとして、戻るべきなのかわからない。自信がない。
 本当はこのまま再び光を閉ざしてしまった方が面倒なことはないはずだと、そうどこかで理解もしている。
 戻るといえば聞こえはいいが、何の保障もありはしないのだ。もう空は飛べないかもしれない。それどころか、脳内で好き勝手に考えられる今と違って、言葉を音に乗せて話を出来るようになるのかすらあやしい。

 意識が芽生えて初めに思い出したことといえば、自分がこうなった原因の浜辺だった。
 ワルキューレの危機の情報が入り、命令違反など百も承知で勝手なエンゲージした。
 挙句に視界に広がるあの一閃。

 彼女は、カナメさんは無事なのか。どうなんだ。
 細胞の欠片一つ自由にならない身で、文字通り身を焦がすような想いは、彼女の声が耳に届いた瞬間救われた。

「メッサー君、あけましておめでとう。今日も朝から良く晴れてるよー。いい天気!」

 今日も当たり前のように朝早い時間だろうにやってきてくれたのを声で知る。
 この人を失わないですんだという事実を知れただけで満足だ。正直、情けない姿を知られるくらいなら――というエゴを十分に理解するだけの脳が回復しているらしいのが辛いといえなくもない。
 そう思っている自分がいるのは確かだが、けれど、少なくとも、彼女は俺が消えることを望んでいないことも知ってしまった。

「髭、伸びたねえ」

 少し間延びした口調で、頭頂部に彼女の手が伸ばされた。
 手櫛でやわやわと梳かれる心地良さは、昔日の幼少期の頃以来だ。懐かしさと嬉しさと、それからもう二度と取り戻せない寂寥が胸を去来する。瞼の裏に滲んだ熱を、柔らかく押し当てられたタオルで拭われてしまうのはいつものことだった。
 ほどよく蒸らされたタオルの熱に心が落ち着く。
 枕元に用意されているらしい水桶から聞こえる水音と、シュコ、という圧縮された空気の音。それに柑橘系の爽やかな香りがしたと思ったら、始まりの合図だ。
 彼女の指先が頬に、顎に触れて、鼻の下にも遠慮なく泡が乗せられていくのが感覚としてわかった。

「はいメッサー君、こっち向いてねー。次はそっち……ん、いいこー」

 毛の流れに逆らって薄い剃刀を動かしながら、泡のついた指先で前後左右に俺の頭を動かす彼女は手慣れている。初めのうちは、剃刀の当て方だって鋭角に過ぎる状態だった人間がここまで出来るようになるのは、一朝一夕のわけもなく。鼻歌交じりに軽快なタッチで剃られれば剃られるほど、奪ってしまった彼女の時間を想って申し訳ない気持ちになる。

「よしっ! さっぱり上出来! メッサー君かっこいい!」

 けれど彼女の口から後ろ向きな言葉を聞いたことは未だない。
 残った泡を拭い、蒸しタオルで再び顔を拭いてくれた彼女は、つるりとなった俺の頬を何度も満足げに撫でている。剃り残しがないかの最終確認も兼ねているらしい。
 それからゆっくりと気配が離れて、何かを探すような音がし始めた。
 カサカサと折り畳まれた紙を開く音がする。
 なんだ? 台本だろうか。もしかしたら新曲の歌詞でも見るのかもしれない。

「さて、メッサー君」

 そう思っていたら、少し改まった口調で彼女が俺を呼んだ。

「新年なので一応けじめというか、抱負というか、……メッサー君に手紙を書いてみたんだけど、聞いてくれる?」

 自分の意思では開けない視界のせいで、硬質なその声音から、彼女のいつにない緊張が伝わってきた。
 何かが出来なければ、脳は勝手に別の器官を自己修復にあてるのだと、昔パイロットの養成所時代、座学でならった知識が思い起こされる。

(カナメさん?)

 手紙――けじめの手紙。

(――ああ。そうか)

 何となく、内容に予想がついた。
 同時に彼女の不器用な真面目さを想う。
 こうなってからの正確な日時を把握できない。いくら思考を思い出しても、皮膚感覚が発達しても、礼のひとつ、指先を掠める一瞬さえも返せない俺に、何かを決心したのだろう彼女を引き留める権利はない。

 いいのに。何も言わず、あなたの自由な時間を取り戻しても。
 ――俺のことは、忘れても。
 あなたが幸せであればいい。どこでも。誰の元でも。

「ええと、……ンンンッ」

 新曲に初めて声を乗せる時ですらあまりしない咳払いをして、彼女が手紙を読み始める。

「メッサー君、あけましておめでとう。昨年中は大変お世話になりました」

 ずいぶん定型的な始まりだ。実は生真面目なカナメさんの性格がよく表れているなと内心でそっと頬んでしまう。
 それにお世話になっていたのは俺ばかりで、彼女じゃないのに。

「アル・シャハルでは助けてくれて本当にありがとうございました。あなたのおかげでワルキューレは全員無事だったし、ウィンダミアとの戦争も終結を迎えることが出来ました。改めてお礼を伝えるのがこんなにも遅くなってしまってごめんなさい」

 そんなこと、どうでもいい。礼を言われることなど何もしていないのだ。
 あの一瞬のあと、白騎士がどうなったのかはまだ俺は知らない。だがワルキューレが全員無事だというのなら、おそらくあの後彼らは戦線を離脱したのだろうと思う。直接的な攻撃から遠ざけられたという意味でなら、確かに救えたと言えるかもしれない。
 だが、と思う。
 むしろ今、信じられないくらいの献身へ、礼の一つも言えない俺の方があなたに不義理を働いている。
 だというのに、彼女はそこで一度言葉を区切ると細く深い息を吐いた。

「……本当は、ずっと伝えたいと思っていたんだけど、メッサー君の顔を見て言うには、あの日の記憶がまだ私の中で鮮やかすぎて、……もし、ありがとうを私が口にしてしまったら、また『任務ですから』『大したことではありません』と素っ気なく言ったあなたが、今度こそ本当に私の前から全部いなくなってしまいそうで、怖くて、なかなか言えませんでした。……ごめんなさい』

 カナメさんの声が震える。泣いてはいない。けれど、その一瞬を空気に混ぜて飲み込んだような音がした。

「――改めて。本当に本当に、どうもありがとう」

 違う。カナメさん、違う。謝る必要なんてない。あなたが俺に謝る必要なんてなにも。
 礼は俺が言う方だ。
 歌ってくれてありがとう。諦めないでいてくれてありがとう。ヴォルドールでも、それから、アル・シャハルでも。
 あなたの歌に、俺は何度助けられたか知れない。あなたの歌に、存在に、俺は希望を持っていられた。犯してしまった罪に苛まれ、再発の恐れを抱え、その気持ちのまま自分のまだ持てる力も吐き捨てて死を選ばなかったのは、あなたが生きていてくれたからだ。
 俺は、あなたに何か少しでも必要とされることがあるのなら、その為に全てを掛けようとそう思えていた。本当に。
 再び空を翔ける喜びを知れたのも、生きていたからこそ。あなたの為に、生きようと思えたからこそだ。

 思春期の子供のようだと笑われても仕方がないが、そんな大それた想いを、あのクラゲ祭りの最後の夜にあなたに伝えたちっぽけな言葉の中へ、その全てを含ませたつもりになって去ろうとしたのは俺のエゴだ。ありていに言ってしまえば、言葉にする勇気がなかった。
 そのくせ頭の片隅で点滅していた「伝えない」という選択肢は見えない振りをして話してしまった。
 それが、あなたを苦しめたのなら本当に心の底から申し訳ないと思う。忘れてくださいあんなこと。そうあなたに伝えたいのに声が出ないのは拷問に近い。

 動け、動けとひたすらに念じる。
 こんなに目覚めを強く意識したのは、もしかして自我を取り戻してから始めてかもしれない。

「ねえ、メッサー君」

 俺のことなど忘れていいのに、だなどと格好つけて諦めていたはずが、彼女の呼び声一つでまた性懲りもなく意志を覆して返事をしたくなってもいる。我ながらなんて現金なものだろうと思う。
 短くない間をおいて、すん、と鼻を啜る音が聞こえた。

「……美雲もフレイアも倒れたあのとき、私にはもう無理。ここでワルキューレは終わっちゃうのかって、本当はあのとき諦めていた。だから、メッサー君が来てくれたときは一瞬何が起こったのか信じられなかった。メッサー君はもう二度と私と会うつもりはなかったんじゃないかって思っていたから」

 なんだ。すっかりバレていたのか。
 最後だと思ったから、あんな告白まがいのことをした。本当は言わなくても良かったのに、恩着せがましくあなたの歌に助けられた、などとヴァール化までチラつかせて。
 そう言えば彼女の記憶の片隅に残ると思っていたのは事実だ。
 無意識に、自分がいなくなった後、距離が近くなるだろうなと予想していた人物に影を落としたかったのかもしれない。なんて浅ましい。そのせいで、彼女が苦しむだなどと考えもしないで、女々しくも触れられなかった焦がれた女性の中へ、自分という存在を擦りつけた。
 カナメさんが、また少し息を吸った。

「でも、それ以上に怖かった。私が諦めたこと、忘れたこと、――弱くて惨めでどうしようもない部分を、全部―全部あのときあなたに知られて、嫌われてしまうんじゃないかと思ったから」

 そうして続く言葉に我が耳を疑う。
 嫌う? 俺が? カナメさんを? ありえない。
 それを伝えたくて、力の入らないあらゆる細胞に意識をこめるが変わらない。

「でもあなたは私を信じてくれた。最後まで私の歌を信じてくれた。伝わったよ。メッサー君の気持ち。だから私も歌えました。あの日、あのAXIAはあなたの為だけに歌ったの。伝わっていたら嬉しいです」

 今度は少しはにかんだような口調のカナメさんに、俺は聞こえない言葉を脳内で繰り返す。
 伝わっていた。俺にもはっきりと伝わっていました、カナメさん。

 あなたの歌が、パイロットスーツに装着されたスピーカー越しにだけでなく、身体中のあらゆる組織に共鳴していたかのようだった。歌に包まれるという現象をあれほど実感できたことはない。もはや気持ちいいのか悪いのかも意識出来ないほどの一体感だった。
 あなたが再び歌に力と自信とを取り戻していく様が手に取るようにわかって、心が勇気づけられた。
 機体にも、そしてヴァールに浸食されていく俺自身へも力が満ちた。
 だから、最後まで限界を超えてあなたを護ることが出来た。

「メッサー君」

 口で言えない代わりに想いを込めていると、そのせいではないだろうが、カナメさんの声が少し明るさを取り戻していく。

「私を信じてくれてありがとう。護ってくれてありがとう。もしかしたら、誰かの気持ちをこんなに信じられたのは生まれて初めてかもしれません。信じるって強いね。すごく、すごく強いね。あなたが命を賭けて信じてくれたから、私は今もここにいます。あなたが信じてくれた私を、私は二度と裏切りません。自分を、歌の力を信じるよ。私の歌が強くメッサー君に作用したから、ヴァール化を抑えられたと聞きました。それから、アル・シャハルでのあのとき、一命を取り留められたということも」

 それは、俺自身もこうなって初めて知った事実だった。
 俺の意識が戻っていると知らない医療関係者が、俺の枕元で彼女や隊長達へ状況の説明をしているのを聞いていたから間違いない。
 とうに頼るべき家族のない俺の状態を預かる責任はどこにあるのか甚だ疑問だったが、ひとまず直属の上官としてアラド隊長が名乗り出てくれているらしい。それも非常に申し訳ない。ヴァール罹患者ということで大元はケイオスの管轄―ひいてはレディMの管轄になるのだろうが。
 本来フォールド・レセプター因子を持たない俺が、カナメさんと共鳴出来たこと自体が不可解だという話もあった。
 それこそ未だ未解読のプロトカルチャーの影響があったのではという仮説はあるそうだが、これも推測の域を出ない。
 何はともあれ、一時的にでも常軌を超えて活性化した細胞のおかげで、あれだけの致命傷を負いながらも、俺は辛うじてこうして一命を取り留めることが出来たらしい。

 ここまでの説明を研究者達が懇切丁寧に二人へ説明していたのには理由がある。
 曰く、貴重な被検体となった俺を、研究施設で貰い受けたい、ということだ。
 さもありなん。俺が研究者でもそう思うだろう。そもそも生きているのか死んでいるのかもわからない肉の塊だ。
 けれどその形ばかりの申し出に、猛然と反論したのはカナメさんだった。

 もしもそんなことをするのなら、今すぐ待機しているワルキューレ―おそらくレイナだ―から、この話を全銀河に暴露する。彼はまだ生きている。この会話だって聞こえているに違いない。人権侵害は百を超える法令に違反する。ケイオスの全てを潰すつもりなら自分ごと連れて行けばいい。そうでないなら戦争だ、の勢いだった。

 むしろ超法規的措置で連行されてしまうのではと思ったほどだ。
 あまりの剣幕に押された形でアラド隊長がいくつか交換条件を提示し、後日なんらかの取り決めがなされたらしい。詳細はわからない。が、現状俺は定期的なデータを取られ手厚いともいえる植物人間生活を送れている。二人には頭が上がらない。
 あの日、他の人間が出払った病室に残ったカナメさんは、俺の手をずっと握りしめながら「よかった、メッサー君、よかった」と何度も何度も囁くように溢していた。

「いつかメッサー君が目を覚ましてくれるって信じてる。何年でも。何十年でも」

 そう言ったカナメさんが、何故か、少しはにかんだような咳払いをした。それから少し間をあけて、メッサー君、と俺を呼ぶ。

「目が覚めて、おばあちゃんになった私がいても、まだ好きでいてくれますか。それだけがちょっと心配です」

 自分の耳を疑うことになったのは本日二度目だ。
 まだ? ――いや、そうじゃなく。
 俺の気持ちはクラゲ祭りの夜も、あの共鳴の日にも完全に伝わっているだろうとは思っていたが、好き――?
 これは、まさかそういうことか? でもどうして。

 俺の病室へ足繁く通ってくれることは、目の前で壮絶に散り掛けた元同僚への不要な責任を感じてのことだと思っていた。
 俺が余計な気持ちを伝えてしまったばっかりに。
 捨て置けないのは、優しすぎるせいだからだと。
 だって、どうしたって、彼女には想い人がいたはずだから。

「そういえばマキナから、私はアラド隊長のことが好きだと思っていたと言われたました。メッサー君もそう思っていたはずだとも」

 こちらの思考を呼んだかのように、カナメさんが続ける。
 少し笑いを含んだ口調で、手紙が捲られる音がした。

「どうしてそんなことを思っちゃったのかなと思うんだけど、違います。これだけははっきりさせておかないと、私の沽券に関わるので。隊長にはメッサー君のことを色々相談させてもらっていました。食事に誘っても断られるとか、メッサー君の好きなものが何かとか。一度誕生日にプリンをあげたことがあるの覚えてるかな? あれ、メッサー君が隊の冷蔵庫にプリンをストックしているという隊長からの情報流出で得た結果のプレゼントでした。その時、さすがに手作りはどうですかねと言われていたんだけど、メッサー君があれを誰にも渡さないで食べていたという結果も入手済みです。思い切って渡して良かった」

 なんてことだ。はっきりと覚えている。
 隊長から「女からのプレゼントか」だの「ひとつ貰っていいか」だのと肩を抱かれてからかわれたのまでも覚えている。まさかあの全てが俺の反応を確かめる為の演技だなんて思わなかった。あからさまに怪訝な顔をしてもらった紙袋を隠すように抱え込み、隊長にすら分けずに食べたことを、あの人はどう彼女に伝えていたのか。

「……嬉しかった」

 声音だけで、その表情が脳裏に簡単に描けてしまう台詞だった。
 まさか、そんな。そんなことがあるなんて欠片も思っていなかった。
 最初から自分にはありえないと諦めていた。妄想にすら抱いたことは一度もなかった。
 その彼女がまさか。

「メッサー君が起きたら、したいことがたくさんあります。今度こそ食事にも行きたいし、二人でラグナの浜辺を歩きたい。砂浜は足を取られやすいので、そのときは手を繋いでくれたら嬉しいです。メッサー君が眠っていたときの話もたくさんするね」

 浜辺で散歩する姿を想像しているのかと思うほどの間があって、それからカナメさんが、ふ、と笑った気配がする。

「それから、ハグがしたいです。実は今もたまにしちゃってるんだけど、本当は気づいていたりするのかな?」

 混乱する頭に、カナメさんが更に問題発言を放ってきた。
 ハグ? それは最近いつも帰り際にするあれのことだろうか。
 見えない視界で感じるのは「またね」というカナメさんの別れの言葉と、手に触れる感触。ついで胸にかかるしっとりとした温かい重み。てっきり最後のマッサージか何かの一環だと思っていた。まさか意図を持って凭れかかっていただなんて。

 からくりを教えられた途端、急速な欲が沸き上がる。


 触れたい。カナメさんに応えたい。


「あれね、私が一方的に寝込みを襲っているみたいに見えるらしいので、メッサー君にはやっぱり出来るだけ早く起きてほしいです」

 くすくすと笑う彼女の鈴を転がしたような声が聞こえる。
 きっと口元に手を当てている。
 見たい。もうとっくに起きているのだと伝えたい。

「それからね」

 ギ、と椅子の軋む音がした。カナメさんの気配が動く。
 少しして、ベッドが端に少し傾いたようで、カナメさんの匂いが鼻腔に近くなった。これは、おそらく彼女ッは俺のベッド脇に腰を下ろした動きに違いない。
 彼女のたおやかな指先が、ふに、と俺の唇に触れた。

「キスもしてね。メッサー君と、たくさん、したいです。ファーストキスは実はまだとってあるので、もし私がおばあちゃんになってて、ちょっとなと思っても、そこだけは仕方ないので我慢してでもしてください」

 絶対に無理だ。ありえない。
 照れた口調で告げるカナメさんに、俺はありったけの想いを込めて否定した。聞こえているはずはないとわかっても、これを言わずにはいられない。
 当たり前だ。あなたはカナメ・バッカニアだ。ただのファンから本気の輩まで大勢いる。どんなに取っておくと言ってくれても、そんなあなたのファーストキスなんて、今起きなければあなたがおばあさんになるまでに絶対他に奪われる。
 寂しさの隙など、突こうと思えばいくらでも。方法だって腐るほどある。
 そう思ったら、頭の中のシナプスが一斉に活発な動きを始めた気がした。
 現金だろうと何でもいい。
 取られたくない。彼女を。誰にも。

(動け、動け、動いてくれ――)

 指先でも瞼の薄い皮膚の一部でもどこでもいい。動け。お前達だって聞いていたはずだ。カナメさんの言葉を。眠りについて今日までずっと、俺と一緒に。お前達は全部で俺だ。俺を起こせ。言うことを聞け。もう十分怠惰な生活を送ってきただろう。そろそろ主導権を俺に返してくれてもいい頃だ。

 信じていると彼女は言った。俺が目覚めるのを信じていると。
 信頼には応えなければ。彼女は俺に応えてくれた。ならば次は俺の番だ。彼女をこれ以上待たせてたまるか。
 俺の信じたカナメさんを、カナメさん自身が信じるのだとも言ってくれた。その彼女が信じている俺の目覚めを、俺自身が裏切ってどうする。
 動け。起きろ。

「今年も、これからも、ずっとよろしくお願いします。――以上!」

 懇願にも似た思いで命令し続ける俺の傍で、元気よく宣言した彼女が手紙を折る音がした。カサカサと小さな紙擦れの音がして、おそらく丁寧に畳まれたそれが俺の枕元にあるサイドテーブルの引き出しに仕舞われたのがわかった。
 それから胸の上にいつもの重み。

「大好きよ、私のデルタ2」

 いつもと違うのは、胸の上に囁くように告げられた言葉と、俺の病衣をぎゅっと握る指先の強さだ。その手が少し震えている。
 不安なのだとすぐにわかった。口に出して言葉にしても。当たり前だ。

 ――もう少し。もう少しだ。動け。細胞に伝えろ。頑張れ、もっとだ。俺の全て。

「じゃあね、メッサー君」

 胸の上に囁きが聞こえて、それと同時に、ぴく、と筋肉の一筋に痙攣を感じた。
 そうだ。いいぞ。
 彼女に伝えたいことがある。たくさんあるんだ。





「……も、……し、だけ、」





 辛うじて、呼吸に音が乗る。使っていなかったせいか、舌が上手く回らない。
 久し振りに聞いた自分の声は、信じられないくらいたどたどしくて掠れていた。
 胸の上のカナメさんが、ひどく緩慢な動作で顔を上げる。
 その顔が見たいと思ったら、瞼が震えてほんの僅かに視界が開けた。まだ白く膜を張ったようではあったけれど、視力を失っていないのがわかって単純に嬉しい。
 彼女の顔をぼんやりとだが、視界に捉えた。
 おかしい。記憶の中の彼女よりあか抜けて眩しい。この人は一体どこまで綺麗になっていくつもりなんだと、場違いな心配が頭を掠める。
 それからやはり早く動けるようになりたいと切実に思った。

「……ま……って、て、……さ、ぃ」

 もう少しだけ。
 すぐに元通りというわけにはきっといかないけれど、絶対に戻ってみせますから。
 手はまだ上手く動かない。けれど感覚はある。大丈夫だ。

「め、っさー、くん……?」

 信じられないと言わんばかりに胸の上から俺を見つめるカナメさんが、名前を呼んだ。
 手紙を読んでいたときより遥かに舌足らずで、上擦って聞こえる。
 薄目を開けている俺と目が合った瞬間、その懐かしい海色の綺麗な瞳から、ボロリと大粒の涙が零れた。

 待って。すみません、泣かないでください。
 まだ拭ってあげられる自由がこの手にないのがものすごく口惜しい。

「本当に……?」
「――メ、さん、な……ぃ、で……くだ、さぃ」
「本当に、メッサー君……、メッサー君……?」
「――い、そ、……です」
 
 傍から見ればおかしな確認かもしれない。
 けれど俺達には必要な作業なのだとわかる。
 まだ筋肉が弱いからか、気を抜けば落ちてきそうな瞼を力の限り振り絞りカナメさんの瞳を見つめる。
 涙を拭えない代わりに溢れる瞬間を捉えるように。

「め、めっさ、く……、メッサぁ、くん、メッサー君、メッサー君……っ!」

 伝えたいことが百分の一も伝えられないのがもどかしい。
 自由な身体を持っているはずのカナメさんも同じように、何度も何度も呼吸に躓くように俺の名前を呼んだ。
 抱きしめたい。泣かないでと涙を掬い、愛を囁いて――ああ、でもまずは。

「……い、です」
「メッサー君、メッサー君、何? お水欲しい?」

「キス、した、い、です」

 誰に奪われる前にあなたの真新しい唇に、心からのキスを。
 絶対に俺から。
 強い意志で伝えた欲望に、一瞬ぱちくりと瞬いたカナメさんが、それから一瞬で破顔した。聞いていたの、と笑いながら、愛おしそうに何度も俺の手を自分の頬に摺り寄せて。






「待ってる。待ってるから、たくさんしてね」



                                    【 END 】

2017.01.01のお年賀コピー本としてへちまさんに送らせて頂いたメサカナssになります。
アニメ本編後、メッサー君生存ifのお話です。二人は清い関係でお付き合いもしていなかったという設定。