言葉じゃなくても伝わるから(02)




 ブリーフィングで決まったことを、通常の連絡網としてワルキューレのメンバーに伝えてしまえば、自主練を希望する者を除いて今日は他にすることがない。カナメは先日行われたワクチンライブの映像をモニタールームで映し出しながら、動作チェックを行っていた。
 ダンスが入るとレイナの音程に少しばかりの乱れが入る。ライブならではと言えなくもないが、同じ振り付けでブレないマキナを見れば、そのズレは基礎体力の向上でまだ修正がききそうな気がする。ただ問題があるとすれば、基本的にはパフォーマンスに重点を置く気はないレイナのことだ。

「……どう言えばヤル気を出してくれるかしらね」
「メッサーが?」
「え?」

 唐突に後ろからかかった声に振り向けば、いつからいたのだろう
 美雲がモニタールームの扉に背を預けこちらを見ているところだった。

「美雲、帰ったんじゃなかったの?」
「あなたの姿が見えたから、少し気になって」
「なあに? 悪さなんかしてないわよ?」

 不穏な名前が聞こえた気がしたが、きっと気のせいだ。話題になるわけがない。つい脳裏をよぎった数時間前の感触を追い払い、カナメは美雲におどけて見せた。けれど表情を変えないままの美雲は、背中を預けていたドアから離れ、ゆっくりとカナメの隣の椅子に座った。
 視線で追ったカナメの後ろで、少し間を置き、ドアが微かな空気音を立てて閉まる気配がした。

「美雲?」
「そうね。休憩中のエースパイロットを襲うのは、そう悪いことじゃないものね」
「え――」

 今度は聞き間違えようがない。
 美雲の言葉に思わず声が出てしまったが、当の本人はといえば、モニターに流れるワクチンライブの映像を真っ直ぐに見つめているばかり。 その表情だけでは、言葉の真意は読みとれない。



 まさか見られた? いつ?
 でもあのときは、確か仮眠室のロックはかけたはずだ。
 頽れそうになった身体を膝で支えたメッサーが、カナメの背中をドアに押しつけても、人を検知して開くはずのドアは閉まったままだったのだから。



 なら美雲が言っているのは何のことだろう。
 カナメの思考がめまぐるしく色々な仮説と回答を導き出そうと頑張っている。
 仮眠室に入ったところを見られていたとしたら、仕方ない。それくらいならいくらでも言い訳くらい思いつける。そもそも入るのも出るのも一瞬のことで、その間に二人の間にそうとわかる艶めいたものなど――当然のように――なかったはずだ。

「……次のフォーメーションのことでデルタ2に確認しておきたいことがあって、姿が見えたからついいいかなって押し掛けちゃったの。でも、そうよね。メッサー君には悪いことしちゃった。あとでバナナ酒奢って許してほしいんだけど、また断られちゃうかな」
「そうしたらまたアラドと飲むの?」
「どうだろう。もしかしたらそうなるかも。その時は美雲も一緒にどう?」

 仮眠室に滞在していた時間は短い。少し苦しい言い訳に聞こえなくもないが、じゅうぶん筋は通っている。
 肩を竦めてそう言って、カナメは仲間内の誘い断り二番手の美雲に苦笑して見せた。

「あなたがメッサーに悪いことをしたのかしら?」
「……言葉のあやよ」

 しかしおかしなところを拾ってきた美雲にちらりと視線を向けられて、カナメはすっと視線を逸らした。
 そう、言葉のあやだ。だが、休憩時間を奪ったことは申し訳なかったと思ってはいる。

 少し長引いたブリーフィングに小休憩が設けられたとき、不意にメッサーの顔が見たくなった。ものすごく疲れたとき、チョコレートのひとかけが染み渡る効果を求めるようにメッサーの姿を探してしまったのは、本当に無意識だったと思う。
 飛んでいるVF-31Fの姿だけでも、カタパルトデッキに降り立つ姿でもいい。視界の端に本物が映ればいい。
 そう思ったが、この時間のフライト訓練は予定になかったはずだから無理だ。それなら今頃彼はフライトログの整理でもしているのかもしれない。それとも――

 そんなことを考えながらなんとはなしに向かった先で、少し疲れたように見えるメッサーの姿を見つけたカナメは、気がつけば「メッサー君」と呼びかけていた。いつものように「お疲れ様です」と素っ気なく言ってくれればそれで良かった。お疲れ様と返して、少し会議が長引いちゃって、と苦笑でもして、それじゃあまたねと終わるつもりでいたのだ。
 カナメは断じてそれ以上を望んでメッサーを探していたわけじゃない。
 けれど、カナメを認めたメッサーの表情があからさまに強張ったのがわかった瞬間、勝手に足が動いていた。
 もしかすると、表情も胸の内を表すように冷たく固まってしまっていたかもしれない。

(初めは、メッサー君からだったくせに)

 彼が自分をどう思っているのかわからない。
 もしかして、嫌われているのかと思っていたこともあったほどだ。だが任務の連携が上手くいったとき、カナメが疲れているとき、眠いとき、嬉しいとき、僅かな変化を伴った表情でメッサーは短い言葉をかけてくれる。いつも、メッサーが真っ先に気づいて気遣ってくれる。少し気弱になっていたのを見抜かれてアラドを寄越されたときはさすがに驚いたが――アラドも「自分で行けばいいだろうと言ったんですがね」と苦笑していたくらいだ――彼なりに年長者の方が甘えられるのではと踏んだのかもしれない。
 そういうふうに気にかけてくれていることはわかっているし、疑いようがない。

(でも、だから……)

 彼はカナメをそういう意味で気にかけていたわけではなかったのかもしれない。と思えば、自分の気持ちが面白いくらい沈むのがわかった。
 あの日、初めてメッサーとキスをした日。たぶんに彼は雰囲気に飲まれていた。それくらい、いくら経験の乏しいカナメにだったわかっていた。それでも、初めて彼が見せた隙を逃すまいとしたのはカナメのずるさだ。

(キスするのが嫌な相手じゃないってことは確かなんだと思うんだけどなあ……)

 今でも求めればいつだって応えてくれるメッサーの唇を思い出して、カナメは頭を抱えたくなった。
 ユニットリーダーとしての自分に迷いがあった時期だった。歌もフォールドレセプター値の高さも、若さも個性も、それぞれに抜きんでたメンバーの中で、求められている自分の価値を思い悩むのは今だってよくあることだ。そこにたまたま色々なことが重なって、自分で自分を追いつめ気味になっていた。その些細なブレを、メッサーに見抜かれてしまっただけだ。
 そんな極上の甘やかしを、カナメの弱さが逃せなかった。

(でも、メッサー君からキスしたい相手じゃないのよねきっと)

 気にかけてくれているのはわかっている。それは彼がデルタ2で、カナメが彼の警備対象だからだ。それ以上を感じてしまうのはカナメの期待で、メッサーは任務上沸いた仲間への親愛が度が過ぎて、キスまで拒まないでいてくれているのだとしたら――。考えれば考えるほど、胸の奥がキリキリと痛む。








「カナメ」
「――うん? なに?」

 そう思っていると、画面を見つめたままの美雲が不意にカナメを呼んだ。そうだ。今は美雲と話をしている途中だった。我に返って返事をしたカナメに、美雲はコントロールパネルを軽やかに操作して次の曲へ移動させながら言葉を続ける。

「あなたは誤魔化しているつもりかもしれないけれど、それはちょっと難しいわ」
「……何のこと?」

 流れる音楽のボリュームを下げてから、両肘をついて顎の下で両手を組んだ美雲が、ふうと短い息を吐く。

「好きな相手とキスをして、どうしてそんなに絶不調な顔になっているのか教えてほしいわね」
「すっ……!」
「してたでしょう、メッサーと」
「しっ、え、み、美雲!」

 どう聞いても疑問ではなく確信している美雲の言葉に、カナメは思わず椅子から立ち上がった。
 本当に見られていた? でもどこで。いつ。今日? さっきの?
 ――いや、まさか、だって、どうして、なんで、どうしよう。
 頭の中が疑問符で埋め尽くされていく。

「……どうして」

 落ち着けと自分に言い聞かせて、やっとそれだけを口にする。
 モニターを見つめていた美雲が、ゆっくりと顔をカナメに向けて、それから面白そうに人差し指を自分の唇に当てた。

「口紅、乱れ落ちてたもの。それに彼の唇にも。メッサーが自分であなたと同じ色の口紅を塗る趣味があったなんて想像したくないし、ね?」
「………………そ、そんなに、だった……?」

 そんな指摘をされてしまえば、もう本当に誤魔化しようがない。
 悪戯っぽく笑う美雲の視線から逃れるようにカナメは両手で顔を覆った。火が出そう。自分のことよりも、メッサーの唇につけてしまったらしい口紅を見逃したことを残念に思ってしまった自分の心が恥ずかしい。
 ここにメッサーがいなくて良かったとカナメは心底思った。こんな顔を見られてしまっては、好きで好きでたまらないと告白しているようなものだ。メッサーにその気はないのに、重い女だと思われてしまう。そうしたらきっと、もうキスもしてくれない。
 ふるふると羞恥と後悔でふるえがちな手をゆっくりと離して、カナメは自分をどうにか落ち着かせるために息を吐いた。

「……教えてくれてありがとう。気をつけるわ」
「嘘よ。乗ってくれてありがとう。むしろ夕方なのに取れてなかったことの方が不自然だったわね。撮影もないのに念入りに直し過ぎよ」
「なっ」

 悪戯の種明かしをする幼女のような微笑でカナメの唇を美雲が撫でた。指先に着いた口紅は、そういえばカナメがブリーフィングが終わった後で塗り直したものに違いないと思い至る。そこまでされて、カナメは自分の失言を悟った。

「だ、騙し……っ」
「人聞きの悪いことを言わないで。あなたが勝手に認めてくれたのよ?」
「そっ、な……っ、だっ」

 そうだ。当たり前だ。キスで口紅が取れたとして、美雲に会うまでどれだけ時間があったと思う。化粧直しはきちんとしている。メッサーにしたって、あの後しっかり寝ただろうに、いつまでもそこに残っているわけがない。ワクチンライブ用のメイクはしていない。ほとんど色付きリップのようなルージュが多少ついたところで、一舐めで終わる。

「あなたはデルタ2とキスしてる」
「――」

 もう言い逃れは出来ない。
 別にケイオスの就業規則に反しているわけでもないのだ。
 カナメは今度こそ諦めたように息を吐いて、椅子に深く座り直した。ほとんど脱力といってもいいかもしれない。誰にも知られないように過ごしてきたのは、もちろん褒められた関係でないことがわかっていたからだが、それより何より、メッサーの気持ちが自分にないことを知っていて、それを性と立場で繋ぎ止めるような真似をしている自覚が多分にあったからだ。

「………………自分でもバカだと思ってる」
「何が? 彼とキスをしていることなら別に問題ないじゃない。好きなんでしょう、彼のこと」

 当然とばかりに結論を急がれ、カナメは眉を寄せた。
 好きかどうかを考えられるほど、甘酸っぱい気持ちはさっさと置き忘れられている。勿論カナメは嫌いではない。というより好きだ。いつから、どうしてだなんて忘れてしまったけれど、あの寡黙で、ともすれば鉄面皮を貫こうとしがちな彼が自分に向ける視線の中に、仲間だけでない特別な感情を探してしまうようになっている自覚くらいある。
 カナメさん、と名前を呼ばれるのが好きだ。どうしました、と覗き込むような切れ長の瞳が可愛いと思う。
 だが、一度あやふやな境界を越えた時から、決してメッサーから求められないことに意地になっていることが欠片もないかといえば、はいと素直に頷けない。

「……わからないわ。別に付き合ってるわけじゃないし」
「好きでもない相手とあなたはキスをするの?」
「わからない。だって――だって、メッサー君だって、別に私のことを好きなわけじゃないもの」

 好きじゃなくてもキスくらい出来る。特に男の子はそうだろう。そういう生き物だと思春期を習う授業で昔聞いた。その証拠に、普段あんなにも寡黙なメッサーが、キスの時だけ饒舌になるのに翻弄されるのはカナメだけで、メッサーの姿を目の端で追ってしまうのもカナメだけで――つまりメッサーには随分余裕がある。
 考えれば考えるほど落ち込んでいく気分を止められないカナメに、美雲が不思議そうな表情を向けた。純粋培養を絵に描いたような無垢な瞳に責められてるような気になるのは、自分に後ろ暗さがあるからだ。

「それ、メッサーが言ったの?」
「知らないけど」
「聞いたの?」
「……聞けるわけないじゃない」
「でもキスはしてるんでしょう?」
「……付き合ってくれてるだけだから」
「直接聞いてもいないのに、カナメリーダーともあろう者が随分消極的なのね」

 そのとおりすぎて言葉もない。でも、だって仕方がないではないかと思う。
 どちらかの告白から始まった関係ではないのだから。


 ――メッサー君は私が好きだからキスしてくれるんでしょう? なんて今更聞けない。
 ――本当はどうでもいいけど、キスが好きなの? これに肯定されたらたぶん泣きそう。


 拒まれたことはないけれど、それはやはりデルタ小隊とワルキューレ間の相互関係が理由なだけで、本当はすごく迷惑だったらどうしようとは、実は常に頭の片隅にある可能性の一つでもあるのだ。
 相手が誰だということは告げないまま、前にそれとなく意中の人を振り向かせる方法を相談したアラドには「ワルキューレのリーダーですよ? キスのひとつもしてもらったら大抵の男はコロッと落ちますって」と親指を立てて言われたというのに、話が違う。
 キスのひとつでコロッといかされているのは自分ばかりだ。

「わからないわ。あなたは単にキスがしたいだけなの? メッサーじゃなくてもそこにいれば誰でもいいということかしら。アラドでもハヤテでもチャックでもアーネストでも――」

 カナメの悩みなど気にしていないらしい美雲が、心底わからないというかのように首を振った。

「人を痴女みたいに言うのはやめて。――好みくらいあるもの」
「どんな?」
「どんなって……」

 たとえば、パイロット。一つ年下だったりすると可愛さが増すかもしれない。それに長身で、精悍で細面な顔つきで、ごくまれに見せてくれる笑顔が存外優しかったりするといいなと思う。裸喰娘々で子供達にせがまれて連れ回される姿は、いつも部下達に見せるそれとはまるで違って、見ているだけで表情が緩む。
 子供達の頭を乱暴に、けれど優しく撫でる大きな手のひらが羨ましかった。キスをねだれば頬を包む感触に、同じ温かさはきっとない。

「私は……だから、たとえば、」

 美雲の手前、適当なタイプをでっち上げようと思ったのに、目蓋の裏に浮かぶメッサーに全てを持っていかれて言葉にならない。俯くカナメの頬に、美雲の指先がふと触れた。求めている温もりとは違うが、導かれるように顔を上げれば、まっすぐに見つめる紫の瞳に、自分の情けない顔がはっきりと映っていた。答えはそこに書いてある。

「あなたは、メッサーとしたいのね」

 わかりきった回答を読み上げるようにそう言われて、カナメは観念した。

「………………そうよ」
「メッサーがいいのね」
「…………そうよ」

 もう自棄だ。どうせ本人に聞かれるわけでも言うわけでもない。
 踏み込んできた美雲の真意はわからないが、このまま抱えた不満を聞かせてやろう。そんな気持ちになってきた。

「それは好きということではないの? 何をそんなに悩んでいるのかしら」
「だって、メッサー君は私じゃなくてもいいんだもの」

 あなたがいいのだと言ってくれたら、悩む必要などどこにもない。情熱的なキスと同じような言葉をくれれば――いや、言葉じゃなくても別にいい。ふと絡む視線の中に、欲する色があればいい。そうしたらカナメの方から好きだと言うのに。それ以上は求めないのに。

「……」

 けれどキスの後はことさら冷静にカナメの呼吸を気遣うメッサーには、一切そんな気はないのだ。情けなさに目蓋の裏がじんわりと熱くなってきてしまう。それを誤魔化すように、カナメは美雲に笑いかけた。

「言ったでしょう。私がお願いするからしてくれるだけで、メッサー君は優しいから、きっと頼めば他の人にでもしてくれる。だから」

 好きも嫌いもないの、と続けようとしたカナメの前で、美雲が妖艶な笑みを見せた。

「じゃあ私も頼もうかしら」
「えっ」

 思いも寄らない発言に、カナメは思わず立ち上がってしまった。
 勢いあまってコントロールパネルに当たった指がライブ音量を上げる。アップテンポで流れる『いけないボーダーライン』があまりにも美雲の台詞に適っている気がして、カナメは慌ててモニターを切った。

「興味があるのよ。メッサーなら色々知ってそうだし」
「知っ、え? み、美雲、メッサー君のこと好きだったの?」
「そうね。嫌いじゃないわ」
「そっ、そそそそうなんだ……っ?」

 知らなかった。というより、考えたこともなかった。メッサーが他の誰かと、だなんて。
 思わず声が上擦ってしまうほど、隠しようもなく動揺している。
 先程まで見せていた純粋な表情を消し去った美雲が、そんなカナメを挑発するように目を細めて見せた。

「カナメと付き合っているならと思っていたのだけど、違うなら別にいいかしら? 私もメッサーにお願いしてきてもいい? 私ともシてって」
「そ、そうね! 別にメッサー君とは何でもないし、決めるのはメッサー君だし、私は別に何か言う立場にあるわけじゃないもの!」

 そんな顔でねだったことなどカナメだってまだないのに。
 見たこともない美雲の微笑は、同性のカナメですらぐっとくる。こんな表情で、こんな体躯の歌姫に迫られて、それこそ落ちない男はいないのではないかと思う。カナメにはキス以上を決してしてこないメッサーだって例外じゃない。美雲になら、もしかしてもっとずっと、その先だってしたくなってしまうかもしれない。

「なら、いってくるわね」
「いってらっしゃい!」

 す、と音もなく立ち上がった美雲にほとんど怒鳴るようにそう言って、

「……激しくしてくれるかしらね――」
「――――っ!」

 立ち去り際、うっとりと呟くように囁かれた美雲の言葉に、カナメの身体が考えるより先に動いていた。
 美雲の細い手首を、カナメの手がぐっと強く引き留めている。

「この手はなに?」
「…………………………」

 この手首にメッサーの手が触れることなんて考えたくない。簡単にくるりとメッサーの太く長い指は回ってしまう。カナメの手でさえあっさり捉えて、壁に縫いつけてしまうメッサーの手が、指が、他の人に同じようにするなんてダメだ。

「カナメ」
「………………………………め」
「なあに?」

 綺麗な白い肌だ。いつも練習で間近で見ているから知っている。こんな美女に迫られて嫌な気分になるはずがない。誰でもいいなら――カナメじゃなくていいメッサーなら、きっと承諾してしまうから。

「………………………………だめ」
「聞こえない」
「……だめ。いかないで。あなたが頼めばメッサー君してくれるから、やめて」

 そうなれば、きっと自分にはしてくれなくなる。違う。たとえ関係の継続があったとしても、他の誰にもあの瞬間を渡したくない。

「どうして? 付き合ってないんでしょう? 彼が誰と何をしようがあなたには関係ないことだと思うけど?」
「そうだけど。そうなんだけど、……だめ」
「メッサーのこと好き?」

 もういい。もうわかった。わかっていた。諦める。

「――好きだから、やめて。お願い」

 はっきりと真っ直ぐ美雲を見つめて、カナメは言った。

「…………」
「…………」

 メッサーが自分を好きじゃなくても、カナメがメッサーをどうしようもないくらい好きなのだ。好きだからキスしてほしい。他に目を向けてほしくない。いつもどこか遠慮した風に接してくるメッサーが、キスのときだけ距離を縮めてくれるのが、本当はすごく嬉しかった。その分、キスの終わりに冷たく出来る距離も、熱の籠もっていないだろう瞳も見るのが辛いから、カナメはいつも顔を見ずに部屋を出た。
 絶対に重い。そんな面倒くさい女の本音も、メッサーに直接言えない分ここでしっかり認めるから、余計な手出しをしないでほしい。
 表情の読めない微笑を浮かべた美雲はしばらくカナメを見つめ、それから不意に肩を竦めた。

「美く――」
「――だそうよ、メッサー」
「……?」

 何を言っているのか、わからなかった。まさか名前を呼び間違えられた……?
 眉を寄せたカナメの後ろで、気配が動いた。
 美雲が楽しそうに掴まれていない方の手を上げて、人差し指をそちらへ向ける。

 まさか。
 そんな。

 その先を目線で追えば、入り口のすぐ側に見覚えのありすぎる人物がいた。

「メ、メメメ、メッサー君っ!?」
「……すみません。その、立ち聞きするつもりでは」

 これは何かの冗談だ。悪い夢なら醒めてほしい。今すぐに。
 完全に困ったといわんばかりに顔を顰めたメッサーが、申し訳なさそうにカナメからすっと視線を逸らす。まさか。これはまさか、全部聞かれた。いつからいたのかなんて聞く必要もない。美雲との会話の途中でドアが開いたわけはないのだから、最初からだ。

「私が言ったの。カナメに弄ばれて悩んでいるようだったから、そこで気配を消していなさいって。優秀ね、あなたのデルタ2。完全に気配を絶てていた」
「な、え、な……」

 どうして、なんで、そんな真似を。
 メッサーもメッサーだ。いくら美雲に言われたからとはいえ、途中でいくらでも退出するタイミングは作れたろうに。しかもどうして気配を絶つのがそんなに巧いのか。おかしい。おかしすぎる。美雲の口車に誘導されて、メッサーへの想いを口にしてしまったではないか。全部聞かれた。どうしよう。どうしたらいい。好きでも何でもない女からの好意なんて、重いなんてものじゃない。
 目を白黒させているカナメから手首をするりと抜き取った美雲が、一歩、メッサーへと歩を進める。そちらが見られない。

「私がキスを頼んでもしてくれるのかしら、メッサー中尉」

 揶揄するような口調は、真剣なのか冗談なのか判然としない。

「笑えない冗談だ、美雲・ギンヌメール」

 けれど即答で断じたメッサーの言葉に、カナメの心がホッとする。
 キスをねだったカナメには一度もされたことのない返しだ。
 だが美雲の歩調はいっこうに緩まない。

「カナメとはするのに?」
「……カナメさんとは違う」
「そうね。メッサーはカナメのことが好きなんだものね」
「――え」
「美雲・ギンヌメール!」

 思わず顔を上げたカナメの視線の先には、見たこともないくらい険しい顔をしたメッサーがいた。目が合うと、ハッとしたメッサーがまたカナメから視線を逸らす。すぐ目の前まで迫った美雲が、メッサーの前でわざとらしく首を傾げる。

「あら。だってさっき言っていたじゃない。カナメが他の男に泣かされたら、泣かした相手を許さないんでしょう? 辛そうなカナメを見たくなくて、あなたで忘れさせてあげたいからキスしてるんじゃなかったかしら」
「美雲・ギンヌメール!」
「……メッサーく」
「そこまで言っていません!」

 そう言ったメッサーがバッと口元を片手で覆った。しまったといわんばかりの表情だ。いやがおうにもカナメの心臓が音を立てる。そこまでとは、どこまでだ。泣かされたら、忘れさせてくれるようなキスをしてくれるつもりがあるのか。カナメを泣かせた男を許さないというのなら、泣かせた相手がメッサーの場合、どう責任を取ってくれるつもりなんだろう。つまり、カナメは泣きそうだ。

「そうね。『彼女が望むことなら全部叶える。それだけだ』だったかしら」
「美雲・ギンヌメール!」

 メッサーによる本日三回目のフルネーム絶叫。
 もうすぐそこまで迫った美雲が、メッサーの目前でわざとらしく小首を傾げた。カナメからはもう背中しか見えないが、メッサーの苦虫を噛み潰したような表情を見るに、おもちゃで遊ぶ子供のような表情でもしているのかもしれない。

「メッサー、カナメのフルネームも言える?」
「カ……ッ」
「……バッカニア」
「……知っています」

 詰まってしまったメッサーに助け船のつもりでそう呟けば、メッサーもそう呟き返したきり、また片手で口元を覆ってしまった。

「…………」
「…………」

 落ちてしまった沈黙の中で、美雲が悠然と振り返った。悪戯が成功したかのような笑顔は、何も知らない無垢な幼女のようにも見えて、小悪魔のようにも見える。目が合うと、すっと右手を持ち上げた美雲がトレードマークのワルキューレサインを作って左右に軽く振った。

「二人とも我慢のしすぎは体に毒よ」

 歌うような声でそう言って、美雲が部屋のドアロックを解除した。
 そのまま軽やかに出ていけば、メッサーの後ろでシュン、と静かな空気音が聞こえた。





                                    【 ⇒ 】

キスから始まるメサカナ。
私の中の美雲さんイメージは、出来る三歳児。