週末の至上命令




やりかけの研究資料を山と抱えたハンジが、「お先ー」と口を口を動かしただけの台詞を残して自室へ引っ込んでから、もう随分な時間が経っている。絶対休みも寝もしないと踏んだモブリットがすかさずその後を追い、資料整理を自称しながらハンジの居室に居座ってからも、随分時間が経っていた。

「……分隊長」
「んー?」
「そろそろ一度休憩を取られて下さい」
「んー」
「聞いてます?」
「んー?」

聞くだけ無駄だ。聞いてないのは目に見えている。
集中力は素直に尊敬しこそすれ、繰り返される生返事に、モブリットはここに来て何度目かわからない溜息を吐いた。
しかしこれくらいで諦めるわけにはいかない。今日こそは彼女に色好い返事を――いや、行動で示してもらわなければならないのだ。その為に自分はここにいると、モブリットは自分自身に言い聞かせる。
曖昧に言っても無駄だ。真意が伝わらず一向に埒が明かないのなら、いっそはっきり言ってしまおう。
意を決して、モブリットはもう一度その背に呼び掛けた。

「分隊長、休憩を取って下さい」
「んー」
「というか、風呂に入って下さい」

苦情が来ているのだ。
何故だか――副長だから当然といえば当然なのかもしれないが――モブリットにばかり、どうにかしろという清潔を愛する人類最強の兵士長から。
体調への配慮は当然心得ているが、生活面での衛生管理は一体いつから部下の仕事に組み込まれているのか不明だとは思う。けれども「聞いてくれない」では納得してくれそうもない眉間の皺を思い出して、モブリットはぶるりと身震いした。勇気を振り絞って「兵長から言ってもらえませんか」と進言してはみたのだが、「今週中に洗わねえなら、お前と同室にしてやる」と憎々しげに言われた期限は、当日持って後一時間を切っている。
ついでに言えば去り際に「明かりもただじゃねえんだが」と呟かれたのは、寝かせろという暗黙の命令に違いない。
無謀で横暴な二つの上官命令を胸に秘め、モブリットは少し毅然とした声でハンジを呼んだ。

「分隊長」
「んー?」
「風・呂・に! 入っ・て・下・さ・い!」
「うわっ――……ビックリした。モブリット? どうしたの?」

一語一語はっきり区切って言えば、やっとで意識に届いたらしい。
ハンジは初めて気づいたとでもいうように振り返ると、目を丸めてモブリットに聞いた。

「……そろそろ休憩を挟んで、サッパリして下さい」

耳に届いていなかった時の事は、掘り返しても仕方ない。
報われなかった努力には涙を飲んで蓋をして、モブリットは改めてハンジに真っ直ぐ向き直った。
しかし、すぐまた「ああ」と口中で呟いた彼女の視線が資料に戻る。緊急性はないと判断されてしまったのだろう。
モブリットにとっては死活問題になりかねない上官命令をハンジは知らない。

「んー……うん、もうちょっと……ここまでしたらちゃんとするから」
「それもう三回は繰り返してますよね」
「じゃあ後三回くらい繰り返しても変わらな」
「変わります! 研究に没頭される気持ちもわかりますが、倒れてしまっては元も子もないですよ」

言葉を途中で遮って、モブリットはつかつかとハンジの机に歩み寄った。捲りかけたページを手の上から掴んで止めさせる。ここへ来る時、食事も碌に摂っていないらしい彼女へ作ったサンドウィッチが、資料の横ですっかりパサついているのを指摘すれば、ようやくハンジは悪戯を見つかった子供のように拗ねた視線でモブリットを見上げた。
彼女がこの仕事にどれだけ心血を注いでいるかは知っている。出来ることなら好きな事をして欲しいし、させてあげたい。
けれども、その感情と社会秩序と自身の平穏を天秤に掛けて、モブリットは心を鬼にした。

「それに、上官の著しい不衛生は下の士気に関わります。わかったらさっさと風呂へGO」
 
ビッとドアへ指を突きつけるモブリットへ、ハンジがムッとして唇を尖らす。

「士気に関わるほど不衛生って酷くね?」
「頭に置いた手を顔につけてから言ってみて下さい。先日リヴァイ兵長にも言われてたじゃないですか。半径三メートル以内に近づくなって」
「無理じゃんね。会議の席ほとんど隣だっつの」
「そういうことじゃないでしょうが」

何でこの人はこうなんだ。
反省の色がまるでないハンジの態度に、モブリットは深々と溜息を吐いた。
このまま押し問答を続けるより、浴室に押し込めて出入り口を封鎖した方が早いかもしれない。
額に手を当て考え込んでしまったモブリットにちらりと視線をやったハンジが、観念したように肩を竦めた。名残惜しげに資料の文面を目で追って息を吐く。

「……もー。本当に今いいところなのにな……」
「身体が温まった方が、血流も良くなって、より良い発想が生まれるかもしれませんよ」

渋々ではあるが、やっと入る気になってくれたハンジの気が変わらない内に、モブリットは素早く洗濯を済ませた寝巻きを用意しにクロゼットの引き出しにしゃがみ込んだ。上手いこと言うな、と笑ったハンジが、後ろで椅子を引く音がする。

「まあいいか。じゃあササッと入ってくるね」
「あ、これ着替えで――……て、ちょっと!」
 
ササッとじゃなく真皮が新しく生まれ変わるまで入ってきて下さい、と脳内で付け足しながら振り向いたモブリットは、思わずハンジに駆け寄った。

「何」
「じゃないですよ! 何脱ごうとしてるんですか!」
 
躊躇なく半ばまで外されていたシャツのボタンを、引っ手繰るようにして合わさせる。床に落としてしまった寝巻きは後で拾えばいい。第一ボタンまできっちりと掛け直していくモブリットを、しかしハンジは至極真面目な顔で見上げると、そのまま小さく首を傾げた。

「人間は服を着たまま湯船に入ったりしないんだよ、モブリット?」
「知ってますよ。バカにしてんですか」
 
少なくとも、風呂に入った経験なら、モブリットの方が遥かに上だという自負がある。
そのいずれの場面でも、浴室へ服を着ないで行くマナーは存在しない。
さも自分が正しいかのような言い方にすかさず返すと、ハンジが苦笑で掛けたばかりの第一ボタンをす、と外した。

「冗談だって。面倒だったから、シャツくらい脱いで行こうとしただけで――」
「普通そこはジャケットくらい、ですよ。シャツくらいって、風呂場まで下着で行くつもりですか」
 
外で肉体労働中の男性兵士ならまだしも、それ以外ですぐ下が下着一枚とわかるインナーウェアだけで廊下を歩いて良いわけがない。外されてしまったボタンを再び掛け直しつつ諭すように言ったモブリットへ、はいはい、とおざなりな返事をくれながら、ハンジが面倒そうに耳を塞ぐ仕草をした。

「別に下まで脱いでないじゃん」
「痴女か。いい加減にしないと団長に言いつけますよ」
「……ハゲるかな?」
「コメントしづらい!」
 
そこだけやたら沈痛な面持ちで上目遣いを向けるハンジに断言して、モブリットは拾い直した寝巻きを胸に押し付けた。

「……着替え、こちらです」
「ありがとう」
 
冗談でも、また脱ぎ出されてはたまらない。
大人しく受け取って歩き出したハンジの後ろを自室のドアまで警戒しつつ見送りながら、モブリットはふと思い立って声を掛けた。

「髪、最低二回、泡立つまできちんと洗って下さいね」
「えぇー面倒……はいはい」
 
眉を顰めて振り向いたハンジが、降参と軽く手を上げる。
本当に実行されるかはわからないが、とりあえず聞いてくれただけでも上々だと、モブリットは胸を撫で下ろした。

「廊下の途中で脱がないで下さいね」
「しないってば」
「戻って来る時も、ガウンの前締めて下さいよ」
「はいはい」
「先に身体洗ってから湯船に入るのわかってますよね?」
「わかってますー。さすがにバカにしてんのか」
「ちゃんと肩までゆっくり浸かって。カラスの行水は駄目で――」

 続け様に言い掛けて、ドアノブを回したハンジが、ぴたりと止まった。
 その背にぶつかりかけて、慌ててモブリットも足を止める。

「――モブリット」
 
さすがに小言が過ぎただろうか。
俯き加減で名前を呼ばれたモブリットが返事をするよりも早く、ハンジがするりと開けたドアの後ろに滑り込んだ。それから顔半分をひょっこりと覗かせ、モブリットをじとりと見上げてくる。

「そんなに心配なら一緒に入れば?」
「――――」
 
突拍子もない提案に思わず息を飲んでしまったモブリットは、にやりと口角を上げたハンジに我に返った。

「は、入るわけないでしょう!?」
 
悲鳴にも近い返答は、閉められたドアで隔たれてしまう。
軽快に遠ざかる足音を聞きながら、モブリットは不覚にも熱を帯びてしまった自分の頬を片手で覆った。

(落ち着け落ち着け落ち着け俺)

何を言い出すかと思ったら。冗談にも程がある。
呪文のように頭の中でそう繰り返して、モブリットはさざめく自分の心臓に言い聞かせた。
そうだ、落ち着け。自分にはまだここでの使命があるじゃないか。
戻ってきたら続きをしようとするに違いないハンジを止めて、今日こそはベッドで寝てもらう――それまでが自分に課された任務なのだ。その為には資料を片付け、ベッドを直し、ああその前に絶対濡れてるだろう髪をきちんと乾かさなくては。
頭の中でどうすれば大人しく寝てくれるかを考えながら、モブリットはとりあえず大きな深呼吸をすることから始めたのだった。


【END】


そうして無理やり髪の毛洗うくらいの副長に成長していく苦労人モブリット・バーナーだといいです。
1 1