He made up his mind. 線引き、という言葉をこうまで意識したことはかつてなかった。 ******* 会議室から出てきたハンジを少し離れた場所から見つけたモブリットは、そのすぐ後に続いて出てきた一回り以上小さな人影に、掛けかけた言葉を咄嗟に飲み込んだ。 「ハンジ、さっきの件だが決まったら知らせろ。夜中でもかまわない」 「わかった。ああ、エルヴィン! リヴァイもいいって言ってくれたよ」 後ろに向かって声を張り上げるハンジは、持っていた資料をバンバンと叩いて喜んでいる。ややもして姿を見せたエルヴィンが穏やかに頷いて、一言二言、ふたりに向けて言葉を掛けたようだった。 今後の作戦の話だろうか。だとしたら今日か、少なくとも近い内にモブリットには話が回ってくるはずだ。事前の立ち回りが必要な様子は、今見える部分からモブリットにはわからなかった。 しばし遅れてミケも部屋から出てきたが相変わらず口数は少なく、反対方向からやってきたナナバに一度頷いて、そのまま二人で行ってしまった。 ミケ班に急ぎの用が出来たのか。 声を掛ける明確な理由を持たないモブリットは、それを羨ましいと思ってしまった。 そんな自分に内心で呆れる。 視線の先では肩を並べ言葉を交わしながら歩き出した三人の姿に、行き交う兵士達が一様に道を開け、会釈をして過ぎるのが見えた。 それに対する三者は鷹揚というのではまるでない。ただ、それを極自然のこととして受け流し、今後の展望について真剣に言葉を交わしながら歩いている。 (……ああ) その姿を見つめながら、モブリットは改めて納得した。 まだ調査兵団に入りたての頃――あの頃は分隊長だったエルヴィンに感じた畏敬と高揚感を、後から、けれどあっという間に肩を並べたリヴァイに、そして常に共にあって、けれど先を行くハンジにも感じていることを。 素直に格好良いと思う。尊敬もしている。 男としてというより一個人として羨ましくもあり、また自分を叱咤する存在でもあると思う。 けれど、いつの頃からか彼女に抱く感情は、それだけではなくなった。 どうか、隣に在りたいと思う。 その為に自分は成すべきことをしてきたはずだ。 けれどこうしてモブリットの目に映る羨望が形となって目の前に現れると、らしくなく自分を比較してしまう。 (俺は、俺以外にはなれない。なる必要はない) そう思うのに、感じる不足分を何で補えばいいのか、補えているのか、無駄な焦燥を覚えてしまう。くだらないことだと知りつつも、頭でっかちな思考のせいで声すら掛けるのを躊躇ったモブリットは、自分自身に嘆息した。 「あれ、副長? どうかされたんですか?」 と、後ろから不意に声が聞こえた。 首だけで振り返ると、肩より下の位置に見知った黒髪がきょとんと大きな目を瞬いてモブリットを見上げていた。 「ニファ」 「何か見えます? ――あ、分隊長!」 ひょいとモブリットの後ろから覗き込むやいなや、すぐに見つけたハンジの姿にニファの声が跳ねた。 それに気づいたのはリヴァイだ。身振りでハンジにそれを伝えると、気づいたハンジが振り返る。ぶんぶんと嬉しそうに手を振ったニファに、ハンジはいつもの笑顔で片手を振って見せた。 隣のモブリットにも気づいたのだろう。何かある? とでもいうように視線をくれたが、モブリットは黙礼で返すに留めた。 エルヴィンに促され顔を戻したハンジは、そのまま三人で廊下の奥に消えていく。 「分隊長に声掛けなくて良かったんですか? 何か用事があったんじゃ……」 尊敬する上官の姿を満足げ気に見送って、ニファがモブリットを見た。 けれどモブリットに用という用は本当にない。 強いて言えば名前を呼んで、ニファのように合図を送るくらいしか思いつかないが、さすがにそれをやっていい階級でも年齢でもない。 見上げてくるニファに苦笑して、モブリットは首を横に振った。 「いや、偶然見つけただけだから。ニファは? どこかに行くところだったんじゃないのか?」 「あ、私はトイレの帰りです!」 詳細を聞き出すつもりで振った話題ではなかったのに、あまりにハッキリ返されてしまったモブリットの方が気を遣う。 「……そこは濁してもいいぞ?」 「副長ですし」 「ああ、そう……」 悪気なくあっけらかんと言われるのは、親愛からか。どうなんだ。 年若い部下の発言に若干戸惑いと残念な気持ちを抱くモブリットをまるで気にせず、ニファはハンジの行ってしまった方を見ながら歩き出した。 「分隊長ってすごく分隊長ですよね」 「うん?」 研究室に戻るつもりなのだろう。モブリットも一緒になって歩きながら隣のニファに目を向けた。 「そう思いませんか?」 「……いや、ハンジさんは分隊長だから」 質問の意図が掴めなくて、モブリットは曖昧に言葉を濁す。けれどニファは「そうじゃなくて」と握り拳を作って、モブリットの横でぶんぶんと上下に振って見せた。 「違います、そういうのじゃなくて……こう―普段は他の分隊長より近いっていうか、距離を感じさせないで接してくれることが多いじゃないですか。急に抱き締められたり、頭撫でられたり、キスされたりしますもん」 「そこは怒っていいぞ?」 「ハンジさんになら別にいいんです」 「そっか……」 そこは分隊長という役職がどうのという問題とは別の問題がある気がする。が、何故か嬉々として話す彼女は別のことを言いたいらしい。 口を挟まないでいると、ニファは一つ二つと指を折り始めた。 「話し始めたら止まらなくなるし、お風呂入ってくれないし、食事も忘れがちで、よく副長がサポートしてますし」 「……」 そこもどちらかというとマイナス面での問題だ。 これらのどこに『すごく分隊長』という言葉が反映されてくるのだろう。否定できない事実の羅列にモブリットは黙って続きを待つしかない。 両手の指が折り返しを数えたところで、ニファはふっと表情を揺るめた。 少しはにかむような笑顔をモブリットに向ける。 「壁外調査に向かう時、私たちに必要以上に気負わせないように背中を押してくれますよね。やっぱり何度経験しても緊張はしちゃいますし―……前の班はちょっと感じが違ったので、最初すごく新鮮でした」 照れたような嬉しそうな顔でニファが笑う。 確かにそうだ。ハンジは必要以上にプレッシャーをかけることを好まない。自分はどこまでも先へと無茶をしすぎるくらい進むくせに、他者を思いやることを忘れないのだ。 ハンジに言わせれば、不必要な期待は任務の遂行に余計な重圧を感じさせるし、ひいては萎縮によって成功率の低下を招くということらしいが、元を正せば思いやりだ。 相手の力量を推し量り、より良い方向に力が発揮できるように指導していると同義にもなる。 ただその方向がたまにひしゃげてしまうから奇人だ変人だと言われることが多いだけで、気づく者は気づいている。 これを正直に伝えれば「そんな優しい人間じゃない」と言いそうなハンジを想像して、モブリットの頬が緩む。 確かに壁外調査に向かう門前で奇行種との出会いに胸をときめかせている上司の姿というのは、あまり見られることではない。 「まあちょっとハンジ班は毛色が違うかもしれないな」 「でもすごく好きです」 「……うん」 今度は何故か得意満面に宣言するニファに、モブリットも素直に頷いた。 一般的には変わっているのだろうと思う。けれどハンジを形作る全てが彼女をハンジたらしめている。それがハンジの魅力だ。 「変わってるなって思うところもたくさんあるんですけど、でもたまにすごく『ああ、やっぱり分隊長だな』って思う瞬間があって、そういう時、ちょっとドキッとしちゃうんですよね」 研究室へと続く廊下を歩きながら、ニファはそう言って悪戯っぽい顔をモブリットに見せた。 「さっき、団長と兵長と歩いていたじゃないですか。年齢も性別も違うはずなのにすごくしっくりくるっていうか、思わず『あの人、私の分隊長なんですー!』って自慢したくなるくらい格好良くて」 モブリットもそう思った。 三人の姿に一瞬言葉を飲み込むほどに気分が高揚するのを感じた。心臓を捧げたのは人類にだが、彼らが上官として前に立つ時代を共に出来ることを誇りに思う。そこにハンジがいることを誇らしく思わないわけはない。 ただ、ごくたまに、少し自分を省みてしまうことがあるだけだ。 それはくだらない自尊心のせいなのか、兵士として以外の彼女を知っているという独占欲が、首を擡げてしまっているせいなのかわからない。 「そうだな」 だとしたらあまりに矮小だ。 内心でそんな自分に嘆息しながら頷いたモブリットに、横で見上げるニファがちょこんと首を傾げた。大きな目が真っ直ぐにモブリットを見つめてくる。じっと見つめられ過ぎて、疚しくもないのに疚しいことでも見透かされているような気になってくる。 居心地の悪さにモブリットはニファから視線を逸らした。 「副長と分隊長が一緒にいる時も、そういうことありますよ」 と、その横顔にニファがはっきりとそう言った。 「……ん? 俺?」 「はい」 思わず顔を戻せば、ニファはやはりモブリットをじっとその大きな瞳に映したまま、迷うことなく頷いた。 「ほとんど会話なんてないのに意志の疎通が出来ちゃう時とか、一を聞いて百を知ってるみたいな時とか、こんなに通じ合ってる両翼みたいな二人が上官なんだぞ羨ましいだろみたいな気持ちになります」 「……そんな場面あったか?」 やはりどこまでも真っ直ぐな瞳を向けてくるニファを見つめ返して、モブリットは首を捻った。からかわれているわけではないらしい。 ハンジを見ていて、先程のように思うことなら何度もあるが、それを向けられるような覚えがモブリットにはまるでない。 ――自慢と羨望と焦燥と。 抱えているのはいつも自分ばかりだろうに。 けれどそんなモブリットを、ニファはつんと唇を尖らせて見つめてきた。不満げに両手を腰に当てて、少し怒っているようにも見える。 「ありますよ。毎日です。羨ましくて、私ももっとお二人に近づきたいって思ってます」 言うなりそっぽを向いたニファが、早足になる。 彼女のペースに合わせてモブリットも少し歩調を早めながら、そっとつむじを見下ろしてみた。怒っている―のとも違う。「羨ましくて」をわざとのように強調したニファの本音はここだろう。 「……宣戦布告?」 「そーですよ!」 今度こそはっきりとむくれた顔で振り向いたニファに「負けませんからね!」と指を突きつけられてしまった。 憧れて、尊敬して、羨ましくて、追いつきたい。 好意と闘争心を剥き出しにすることは、モブリットには難しい。けれど、いつの間にかそう思われる立場にいたのだということを自覚して、モブリットは思わずニファの頭をヨシヨシと撫でた。 「わ、わっ! ふ、副長?」 「いや、可愛いなと思ってつい。ありがとう、ニファ」 そうだ。根本はモブリットも同じだ。 (俺は、俺以外にはなれない。なる必要はない) エルヴィンの先導する意志を、惹きつける引力を。リヴァイの技術を、揺るぎない意志を。 そしてハンジの真っ直ぐな決意と、茨の道を突き進む強さを。 羨むことはこれからも当然あるだろう。 肩を並べて輝いて見えるのは、きっとどうしようもないことだ。けれど。 (俺は俺として、すべきことをするだけだ) そうした先に、いつも自分はあったのだから。 そういう自分を、ハンジは求めているとも知っている。 「……元気でました?」 モブリットの手を頭に乗せたニファが、そう言って大きな瞳を瞬かせた。 参った。そんな態度は見せていなかったはずなのに、彼女はハンジのことだけじゃなくモブリットのこともよく見ていたようだ。 多少の情けなさを苦笑で隠して、モブリットはニファの頭から手を退けた。 「はは。お見通しか」 「宣戦布告しましたからね。ウカウカしてたらハンジさんの片翼は私がなっちゃいますよ」 「それは困るな。頑張らないと」 またビッと突きつけられた指に心底からそう思う。 いつどうなるとも知れない世界で、自分に出来る最大限を。自分と、そして自分が思う大切な人の為に。 目蓋の裏に今見た眩しい光景は留め置いたまま、改めてそう決意する。自分の下にある道を踏みしめながら、モブリットは研究室へと続く廊下を踏み出した。 【FIN】 大好き絵師さんのきゃらさんに送らせていただいたSS本です。 リクエストは『普段は気安いのにそういえば団長兵士長と肩を並べられる上官なハンジを意識しちゃうリットのワンシーン』でした。 後日まさかの表紙絵までいただけてしぬかと思った第二弾! |