たとえば、もしものこぼれ話 「――ということで、付き合ってはいないんだって」 「匂いは強くなっているがな」 「だろうね」 事の顛末を隣のミケに話しながら、ナナバはふうっと強めに息を吐いた。 上手くいけば二人の関係に変化が、くらいの軽い気持ちで一石を投じたに過ぎないのは認めるが、思いの外、彼らは拗れた。どちらもいい大人なのだし、その内どうにかするだろうと思ってはいたのだが、あまりに妙な方向に突き進んでいく彼らの様子に、さすがに妙な罪悪感を覚えたナナバがハンジの背中を少し押し――その結果、『素直に』というアドバイスを受けて、別の意味で素直に考えた二人は、予想の遙か斜め上を音速で超えた関係に落ち着いてしまったらしい。目下、その落ち着き方が、ナナバの腑に落ちないところだった。 「……思春期でももっと進むと思ったんだけど」 「ハンジだからな」 「いや、モブリットが」 そう、問題は彼なのだ。 ハンジは、ハンジだ。そういうこともあるだろうと考えも出来る。自覚すらなかったらしい彼女が、モブリットを『替えのきかない男』と認識したのは大いなる一歩だとナナバも思う。だが彼は。 素直に胸の内を吐露し合って、書庫室で一晩抱き合って、それでまさか遠慮会釈なく馬鹿みたいに近い距離を堪能しだすとは思わなかった。 男だろうと背中をどついてみたくもなるが、ハンジを取り巻く周囲へのあからさまな牽制を見るに、自分の想いに自覚はあって、しかも他に渡す気もないらしい。 けれどそんな悠長なことをしていていいのか。ハンジが他に落ちないとも限らないのに。 「身体の関係から始まることもあれば、手を繋ぐことから始まる関係もある。あいつらにはあいつらのペースがあるんだろう」 「そうだね。ハンジに誰か紹介するかな」 「……」 真っ当なミケの意見を完全に無視したナナバが唸る。 ミケは何とも言えない表情で隣の彼女をそっと見下ろし、すん、と当て所なく鼻を鳴らした。 ぶつぶつと何やら算段し始めたナナバはやる気だ。 「……馬に蹴られるなよ」 「誰が良いかな……ひとまずリードルフの班員に――」 生返事を返すナナバに、ミケはそっと嘆息したのだった。 ***** 「駄目だ」 「だから今回はハン」 「却下」 「何でモブリットが」 「不可」 「……」 ハンジの部屋で、間にハンジ当人を挟み繰り広げられるモブリットの口撃に、ナナバは半眼でグラスを傾けた。 二人のやり取りを、ハンジはケラケラと笑いながら揺れている。 ミケへの宣言通り、穏やか過ぎて見える水面に二石目を投じてみようとハンジの部屋を訪れたナナバは、ドアの前でモブリットと鉢合わせした。今にして思えば、それが運の尽きだと言える。 牙を隠した狼の野生の勘か。 珍しく自分も用があるのだと引こうとしないモブリットに、仕方なくそのまま話を進めれば、ハンジが何を言うより早く、彼が全て途中で遮ってくれての今。まさに取り付く島もない無表情男は厄介だ。 「ちょっとハンジ、あんたの番犬どうにかして」 「珍しく酔ってるんだよ。詰めてた提案書にやっと許可が下りたから気が抜けたのかな。ふひっ、可愛いなあ」 ナナバの抗議に、ハンジはグラスに口をつけながらぐにゃりとした声で笑った。 駄目だ。酔っているのは完全にこっちだ。 これを見越して自分との会話の応酬に勤しみながら、ハンジのグラスにとくとくと酒を注いでいたというのなら、何たる策士。どうしてそれを、ハンジを落とすことに使わない。 「そうは言うけど、モブリット。ハンジ自身が会ってみたいって言ったらどうするつもり?」 「……」 そういうことだって絶対にないとは言い切れない。 容姿でどうしてもということはなくても、例えば実験の良き理解者であったり素晴らしいパトロン候補者であったり。 一度話をしてみたいと言われて時間の都合さえつけば、ハンジは邪険にはしないだろう。そこから何が始まるかは誰にもわからない。 ふふん、と胸を張ったナナバの投石にモブリットは無言で口を噤み、それからハンジに向き直った。 感情がわからない程に抑揚のない声で静かに言う。 「会ってみたいですか?」 「ん? うん? え、誰と?」 「……」 ちょっと待て。今のハンジに聞いてどうする。 こちらの会話に一切入らず一人ふわふわと酒を楽しんでいたハンジは、当たり前のように何も話を聞いていない。 モブリットから掛けられた突然の質問にぱちくりと目を瞬いて、予想通りの反応を示した。 「今ハンジに聞いたって――」 「さみしいです」 呆れ口調で言い掛けたナナバの言葉が終わらないうちに、モブリットがハンジの頬をつとなぞった。 「ん?」 それに別段驚いた風でもなく、ハンジも当然のように受け止めて、その手の上から手を重ねる。 「モブリット? どうしたの?」 「さみしいです」 「は?あんた、ちょっと何を――」 もう一度同じ言葉を繰り返したモブリットは、ナナバの言葉などまるで聞こえてないかのように、ハンジに向かって寂しげに微笑んで見せた。 「あなたの命令なら従いますけど、俺は、さみしいです」 (あざとい……!!) そこそこ長い付き合いのナナバでさえ知らなかったモブリットの一面を突きつけられて、思わずボトルをテーブルに叩きつけくなるほどの痒さに襲われる。 年下と部下と、少し前の言質を混ぜて、よくもまあここまで分かりやすく迫るものだ。さあ、ハンジはどう出る。笑うか照れるか。さすがに慌てて誤魔化すか。 少なくともここまであざとく好意を見せつけられてしまえば、さすがのハンジも出方を変えざるを得ないだろう。 モブリットに至近距離で覗くように見つめられているハンジは、けれど彼の言葉を受けて、何故だか真剣な表情になった。 「ハンジ……?」 眉を寄せ、それから頬に置かれたモブリットの手を離させると両手で包みこむようにぎゅっと握る。 鼻と鼻がくっつきそうだ。 「会わないよ! そんな顔しなくて大丈夫だから」 椅子を寄せずいっと迫るハンジに、モブリットも引くことはない。 相変わらずあざとく上目遣いに不安と寂寥を滲ませた顔で、ハンジの眼を見つめ返す。 「……本当ですか」 「本当本当!」 「本当に?」 「うん、本当」 だから大丈夫だ、と笑ったハンジが、そのままモブリットの額に自分の額をこつんと当てた。 アルコールのせいで頬を赤く染めてはにかむ姿は、襲ってくれと言わんばかりだ。 「よかった」 けれど、真っ正面からそれを向けられたモブリットは、それこそこちらの気が抜けるほど安堵の表情を浮かべると、ハンジの鼻に甘えるように鼻をすり寄せる。 (――バカなの!?) 何が――どこが良いものか。 これで何で、何が、どうして、もう本当に―― 「……戻るわ」 見つめ合って微笑み合うくせに名前のない関係から進まない二人に、何だか色々疲れ果てた。げんなりした表情を隠しもせずに席を立ったナナバへ、二人から同時に「おやすみ、ナナバ」と声を掛けられて、ナナバの疲労は否が応にも増したのだった。 ***** 廊下の端を何やら重い影を背負って歩いて見えたナナバを見つけ、ミケはその肩にポンと手を乗せた。 「ナナバ。どうだった」 今夜は確か、ハンジに例の話をすると息巻いていたはずだ。 けれどこの様子から察するにあまり良い方向に進まなかったようだと当たりをつける。 案の定ギギギと音がしそうな固さで振り向いたナナバは、ミケを見るなり脱力したように首を振った。 「どうした」 そういえば、モブリットがハンジの部屋の方へ向かう後ろ姿を見たような気がする。もしかして部屋で鉢合わせたのだろうか。だとしたら他の男を紹介するなどというナナバの企みが上手くいくわけはない。 スン、と鼻を鳴らしてみると、強く香るナナバ自身の爽やかな香りの他に、ハンジとアルコールと、それからモブリットの臭いがした。 ナナバがすっと眉を寄せ、「ねえ、ミケ」と小さくミケを呼ぶ。少し屈むようにして言葉を拾えば、ナナバの手がミケのシャツを力なく握った。 「……何であれで気づいてないの? 何であれで我慢出来るの? 頬触って鼻つけて……え? 子供の熱でも計る以外で額合わせる? キスすればいいじゃない。何? あいつらの唇って額なの? 気づいてないの私だけ? どうしようミケ、意味がわからない」 随分な当てつけがされていたらしい。容易に思い浮かぶ二人のいつもの近い距離に額を打ちつけるナナバの姿が見えるようだ。 だから馬に蹴られるなよと忠告したのに、どうせ聞いていなかったのだろう。 「飲み直すか?」 「飲み直す」 柔らかいナナバの癖っ毛をくしゃりと撫でたミケの提案に、素直に頷くナナバの頬をあやすように親指で撫でる。僅かに唇を尖らせて見せるこの表情は、おそらくミケにしか見せないものだ。 それは――モブリットがハンジに向ける視線の意図と同じものだ。 大切な友人達へ向けるナナバの心配はもっともだが、ハンジがそれに気づくまで、そう時間はかからないだろうとミケは内心で思っている。後少し。それまで優しく見守ってやればそれでいい。そうすれば縮まった距離はあっという間に差分を埋めるはずだから。 「今日そっちで寝るわ」 「わかった」 当然のように言ったナナバに頷く。 二人から同じ匂いがするようになるのもそう遠い未来ではないだろうなと思いながら、ミケは部屋のドアを開けた。 【FIN】 2年前に出した初めてのモブハン本「たとえば、もしもの思考を廻り」のその後、というか、本編終了から後書きうしろのオマケssの間のこぼれ話。 本当はこっちを載せようか迷ってて、いや、やっぱ気づく方がいいなとなってお蔵入りしていたものです。 |