君と恋するコーヒーブレイク1 「モブリットってハンジのこと好きでしょう」 常連客の一人に恋して約半年。 そんな彼女の友人に投げかけられたその一言で、モブリットは思わずサーバーのグリップを思い切り握りこんでしまった。 ホイップ少な目でと付け足されていたオーダーにも関わらず、思い切りエクストラホイップになっている。 「え、な、……え?」 何で、どこからバレたんだ。 青褪めて赤らめてまた青褪めるを繰り返しているモブリットに、ナナバはぶっと吹き出した。隣のミケがあまり表情の見えない中に僅かな憐憫の情を浮かべてモブリットを見つめている。レジスターの中にいるいつもの面々は、モブリットの手から溢れかえった可哀想なホイップ追加のコーヒーを抜き取ると、新たに用意した注文通りの品をそっとナナバに差し出してくれた。その肩がぷるぷると震えている。 「大丈夫大丈夫。みんな知ってるから。バレてないのハンジだけ」 「え、え、え?」 「協力してあげようか」 「え?」 さっきからまるで同じ単語しか口に出来ていないモブリットに悪戯っぽい視線を投げて、ナナバはレシートの裏にさっとペンを走らせた。はい、と渡されたそれには見覚えのないナンバーが記されている。それが密かに――密かに、のつもりだったのだが――モブリットの想い人である彼女のプライベートナンバーだと知ったのは、もう随分前の事になる。 ************************* 君と恋するコーヒーブレイク ************************* いつもは閉店間際の30分、駆け込みのようにやってきては同じものを注文し、お疲れ様とヒラヒラと手を振って帰っていくことの多いハンジが、今日は珍しく平日の昼間にやってきた。珍しいですね、と気安く声を掛けられるようになっていることが奇跡のようだ。あれから一方的な宣言通り、元々ハンジと連れ立って来店することの多かったナナバが、何くれと時間を見つけてはハンジを巻き込んでモブリットに話し掛けてくれたおかげで、互いのフルネームもおおよその職場も、それに最寄りの駅まで知っている仲になっていた。一店員と常連客という立場から見れば、随分進んだものだと思う。それに読書という意外な共通点も見つかって、今では時折お勧めの小説を交換するというオプションまでついている。 「うん。この間の代休なんだ。モーニングコーヒーもいいかなって」 「ああ出張の……。お疲れ様です。いつものですか?」 「うん――あ、やっぱり待って。せっかくだしモブリットのおすすめのやつにする」 「この前のでいいんですか? アーモンドの?」 「それそれ。美味しかったから」 へへ、と屈託のない笑顔を向けられて、モブリットの心臓がドキリと跳ねた。 いつもは混んでいる店内も連休明けの月曜日、昼にはまだまだ早いこの時間では、ちらほらと疎らに客がいるだけだ。ほぼ面子も決まっていて、それぞれが音楽を聴いたり小説を読んだりレポートを書いたりと、思い思いに自分の時間を満喫している。 席までお持ちしますねと告げて、モブリットはカウンターを移動した。 いつもナナバと来る時には選ばない一人掛けのソファに座ったことを確認して、渡されたショップ限定のタンブラーに熱湯を注ぐ。蒸気で曇るその中の台紙は入れ替えの出来るタイプで、以前モブリットの描いたハンジのデフォルメした似顔絵が入っている。紙コップで渡す際に遊び心で付け加えることのある簡単な絵を、ナナバが大袈裟に褒め称えて、悪ノリしたハンジにせがまれて描いたものだった。怒らないでくださいよと念押ししたそれをいたく気に入ってくれたらしい。「モブリットの顔も描いてみて!」と言われるがまま少し間をおいて描いた紙はハンジの持っていたノートの一枚だったのだが、そこに後からイニシャルだけを書き添えてここに入れられているのを見た時は、顔から火が出る思いだった。 ハンジに他意はないのだろうが、それだけで一日スマイルの大安売りが出来たほどだ。 「お待たせしました」 「ありがとう」 カスタマイズした出来たてのコーヒーを持って席に行くと、ハンジは読んでいた小説から顔を上げた。熱いですよ、と一言添えると、またありがとうと返される。そんなやり取りにも気分が浮足立ちそうになって、モブリットは慌てて内心を叱咤する。それから思い至って声を掛けた。 「あの、ハンジさん。すみません、今日俺本を持ってきてなくて」 ハンジに借りている小説があった。 昨夜読み終わっていたのだが今日が早番勤務だった為、来店は夜とばかり考えていたモブリットは本を自宅に置いてきていた。 栞を挟んでタンブラーに口をつけていたハンジはきょとんと眼鏡の奥の目を瞬かせ、それからああと破顔する。 「いつでもいいよ。それに今日は私がフライングしたんだし。時間のある時にでもゆっくり読んで」 「読み終わりました。主人公の壁外調査のくだりが面白くて気がついたら一気に」 「本当!? 私もそこが一番滾るとこだったんだよね! あれ今度映画になるんだって」 「実写ですか? 合成や特殊メイクすごいことになりそうですね……気になるなあ」 「私もちょっとそこ気になってる。ねえ、時間合ったら一緒に行こうか」 「え」 「あ――」 本当に興奮していたのだろう。タンブラーを持ったまま身を乗り出したハンジの足が弾みでローテーブルの脚に当たり、置かれていたリットが床に落ちる。それを寸でのところでキャッチしたモブリットが「一応洗ってきましょうか」と提案しようとして、白い制服のシャツの胸ポケットからペンが落ちた。今度は誰にも拾われず床まで落ちて、あっと思う間もなく、その後を追うように白い紙がひらりと落ちた。 「モブリット、何か落ち――」 「あ、それは!」 拾おうと腰を浮かせたハンジの手から、慌てたモブリットが奪うようにその紙を取った。 つい出てしまった大声に、一瞬店内の視線がモブリットに向けられて、しかし常連客達の優しいスルーに助けられた。カウンターの仲間からだけは肩を竦めて、気をつけろと目顔で言われる。 ごめん、と内心で謝ってモブリットは握りしめた紙片をさっと胸ポケットに仕舞い込んだ。 いつにないその行動にハンジが驚いたようにモブリットを見つめていることに気が付いたのは、ペンを拾ってからだった。 「あ、その、すみません!」 「……ううん。なんかごめんね。大切なものだった?」 「違います!――いや、違わないけど、その、これはただのレシートで」 「レシート?」 あの日ナナバに一方的に渡されたハンジのプライベートナンバーの書かれたものだとはまさか言えない。 掛けられるはずもないそれを、けれども捨てることも出来なくて、やっぱり返さなければと思いながら早半年。ナナバに返せないまま、何とはなしにいつでも渡せるようにと出勤時のポケットに忍ばせる癖がついてしまっていたのだ。 「ま、前にナナバさんから借りて! ……というか渡されて、返そうとですね……!」 間違っていないが何かおかしい。 単なるレシートについての説明としては不十分すぎることを突っ込まれたらおしまいだ。 そう思えば余計挙動不審になってしまったモブリットを見つめるハンジは、しかし「そっか」と言っただけだった。 何故だか僅かに視線を逸らされた気がする。 「あの……、あ、リット、洗ってきますね」 「いいよそのままで。ありがとう」 まだ手にしていたタンブラーの蓋を言い訳にしようとしたモブリットへ、ハンジが手を差し出した。持ち主がいいというのだから、無理に洗いに行くこともない。モブリットがハンジに返すと、視線を逸らしたままでもう一度礼を言ったハンジが小説の続きを開く。 会話はこれで終了だ。 妙な雰囲気になってしまったとひどく後ろ髪を引かれながら立ち去りかけたモブリットへ、「あのさ」とハンジが声を掛けた。 振り向くとさっと視線を逸らされて、ハンジは何かを逡巡しているように見える。 しばらくそのまま待っていると、ハンジが意を決したようにモブリットを見上げた。 「モブリットって、ナナバを好きなの?」 「――は?」 あまりに突拍子もない質問に、モブリットの口からは真の抜けた声が出てしまった。 おそらく表情もずいぶんだらしないことだろう。 けれどもハンジは難しい表情を崩さずに、モブリットの反応を窺うように眉を寄せた。 「バーで受け取る時とか、何かいつも真っ赤な顔で話してることが多いから、そうなのかなって」 「ち、違いますよ! 全然! まったく!」 ものすごい誤解が生じている。 理解した途端、モブリットは急き込むようにハンジに一歩詰め寄った。 常連客達のちらりと向けられる視線を気にしている暇もない。カウンター越しの咳払いも、後で謝るが今は無理だ。 赤くなっていたのを見られていたことも今更ものすごく恥ずかしいが、それよりもその誤解は全力で解いておきたい。第一モブリットが赤くなっていた原因など、全てハンジだ。やれ誕生日情報だの、デートに誘わないのかだの、挙句スリーサイズを教えられそうになった日には、思わず耳を塞いだものだ。まさかあの行動は見られていないと思いたい。聞きはしなかったものの、うっかり一晩想像してしまったのは男の性だが罪悪感もひとしおなのだ。 「そうなの?」 「そうです!」 おそらく今も赤い顔になっているだろうモブリットに再三の確認をするハンジは、三回目の同じ回答でようやく納得したらしい。表情を和らげて、ソファに背中を深く預けた。 「なら良かった」 「え……?」 それから少し困ったように眉を下げ、えへへとはにかんだような笑みを向けられて、モブリットの鼓動が都合良く跳ねそうになる。 「あの子、彼氏いるからさ」 「ああ――ミケさん、でしたっけ」 「知ってるんだ?」 「はい。たまに二人でいらっしゃいます」 いつも寡黙な人物ではあるが、ナナバの協力という名の揶揄が過分になると、同性だからこそわかる目線でのフォローをくれる好人物だ。 「そっかー、あー何だ、良かったー!」 「あの……?」 ミケの名前を出したモブリットに、ハンジが今度こそ破顔した。 両手両足を伸ばして心底ホッとした顔をして、モブリットと目が合うと、へにゃりと相好を崩す。 少し照れたような、それでいて無邪気な表情はモブリットの初めて見る顔で、疑問を口にしながらも胸が高鳴ってしまった。 そんなモブリットの内心を知らず、ハンジはほったらかしになっていたタンブラーを両手で大事そうに持ち上げると、へへっと笑った。 「モブリットがナナバのこと好きだったら、可哀想なことになるなーってずっと思ってたから、なんか安心して気が抜けちゃったよ」 「あー……そういうことでしたか」 気に掛けてくれていたらしいことは素直に嬉しかったのだが、残念な方向の心配をされていたようだ。 勝手に高鳴っていた心臓が少し形を潜めていく。 しかし心配の種が減ったハンジは、まだ湯気の出るコーヒーを満足げに嚥下して、それからモブリットに笑いかけた。 「うんうん、本当に良かった。あ、ねえ、モブリットは好きな子いるの?」 これもまた突然の問いだ。 ナナバへの誤解が解けた途端に、他の異性との恋を気に掛けられた胸の燻りに、モブリットはどうにか笑みを乗せた顔で答える。 「ハンジさんは――恋人、とか、いるんですか?」 「うん? 私? はは、いないよー」 いないのか。 いや、それはナナバ情報で聞いていたが、それでも本人の口から聞くのとそうでないのとではまるで違う。 今なら――いつもの夜のバー越しにする会話とは少し違う今なら、この話題をもう少し続けても良いだろうか。 とくんとくんとまたぞろ高鳴りだした鼓動を抑えるように握った拳を心臓に当てて、モブリットはぎこちない笑みのままハンジに言った。 「好きな人は?」 「いないかなー」 「作る気も?」 「おお……なに、今日は珍しく質問攻めだね」 「す、すみません!」 「いいよ、楽しい」 指摘に思わず頭を下げかけたモブリットへハンジが笑う。 (……たのしい) そういえば、二人でこんなに本以外の会話をしたことはなかったかもしれない。 何度か閉店後にナナバの計らいで、ハンジと三人、駅まで一緒に帰ったことはあったが、それも三人での会話にすぎない。それこそハンジが誤解をする程度にはモブリットは緊張していて、ナナバが間で会話を振り分けてくれていたのだ。 ほとんど初めての二人きりでの会話でこんなプライベートに踏み込んで、学生の恋バナのような知性を捨てた話題でも楽しいとあけすけなく答えたハンジは、ひひ、と笑って、それから少し悪戯っぽい視線をくれた。 「いい人がいたら考えるかもしれないけど。そういうモブリットは? いるの? 彼女」 「あなたに」 「ん?」 「あなたに、なって、いただければ、嬉しいんですけども」 「――……うん?」 それは、今日、言うつもりはまるでなかった言葉だった。 「好きです」 タイミングもムードもへったくれもない。 するりと滑り落ちるように言葉にしてしまっていた。 「え……え。私? え、と、ナナバ、じゃないよ?」 「知ってます。俺はあなたが――ハンジさんが好きなんです」 けれども零れ落ちてしまった告白はもうどうしようもなくて、モブリットは高鳴る心臓とは別に妙に冷静な部分でそんな自分を捉え始めていた。 ハンジのことだ。軽く「ありがとう」と笑って終わりになる可能性が大だろう。 けれどももし、二度とここにすら来てくれなくなったりしたら――借りていた本が返せない。最寄りの駅は知っていても、住所まで知っているわけではないのだから。ナナバに渡してもらう手も――いや、それよりもさっきハンジは何と言った? 映画に誘ってくれたのではなかったか。ああ、しまったな。せめて仮初でも一度くらいデートの真似事をしたかった。その後で告白すれば良かった。何で今、しかもこんな店内で。 「――え、ええと、ちょ、ちょっと待って。す、少し混乱してる……」 想いを告げたきり黙ってしまったモブリットの前で、ハンジはそう言いながらタンブラーに口をつける。 表情に嫌悪の色は見えないが、あからさまに困惑している様が見て取れて、モブリットはハッと我に返った。 そうだ。この場で困るのは彼女の方だ。何て浅慮なことをしたのか。咄嗟に謝罪が口をつく。 「嫌な思いをさせてしまったのだとしたらすみませ――」 「違う違う! そういうんじゃなくて――!」 しかしハンジは慌てたように、モブリットの言葉を途中で遮った。 タンブラーを片手に、もう一方の手を顔の前で思い切り振る。それから何故だか視線を左右に泳がせて、ハンジはもぞもぞと居住まいと正すと、ぼそりと呟くように言った。 「――ごめん、だってずっと、その……あなたはナナバが好きなんだとばかり思っていたから寝耳に水っていうか……あの、ごめんね……?」 ハンジの謝罪はモブリットへの断りだろう。わかってはいたが、胸が痛い。 それでも一生懸命答えてくれたハンジの誠実さに、きちんと立場を弁えた店員と常連客に戻れる兆しを見つけて、モブリットは泣きそうな顔で笑顔を作った。さすがにハンジもモブリットを見てはいないから、こんな情けない顔を見られずに済んで、そのことに少しだけホッとする。 「ずっとって……いつからですか」 もう苦笑しか出ない誤解に問いかけると、ハンジはタンブラーに口をつけて、コーヒーの水面を覗きながらで声を荒げた。 「だからずっと!――仲良いんだなあ、不毛だなあ、知らないんだろうなあって」 「言ってくださいよ……」 明確な時間はわからないが、短くない月日をそんな風に見られていたのか。いっそ泣きたい。 自嘲気味に笑ったモブリットへ、ハンジがバッと顔を上げる。 「言えないよ! 言えないだろう!? ナナバ相手じゃ絶対失恋決まってるけど、可能性はゼロじゃないよとか言えないよ! あんまり傷つけないであげればいいなって思ってたんだし、何でナナバかなあ、私だったら問題ないのにってずっと思って――……」 「え」 「ん?」 「……あの、それって」 ムッと寄せられた眉と台詞が一致しない。 思わず口を挟んでしまったモブリットは、聞き間違いかと何度も頭の中でハンジの言葉を反芻して、否定と期待を繰り返した。その度に心臓が跳ねて思考が乱れて結論が出ない。ダメだ。心音が煩すぎる。 「――あ、わかった」 と、ハンジがおもむろにタンブラーをローテーブルに置いた。 何がだろう。 そう思う間もなく、モブリットの手がハンジに取られる。 「付き合う。付き合おうモブリット」 「え」 立ったままのモブリットに、座ったままのハンジが手を握る力を強くする。 「私あなたのこと好きだったみたいだ」 「ええっ」 「たぶんずっと」 「え、ちょ、……えっ?」 これは――何が起こっているのだろう。 聞き間違いにしては随分はっきり声が聞こえる。 「嬉しくない?」 「う――え、あ、え、えええっ!?」 絶叫に近い疑問符を叫んでしまったモブリットを、真剣な瞳が真っ直ぐに射抜く。 寝耳に水――そう、こんなシチュエーションでの返しなど、まったくどうして寝耳に水だ。混乱している。 ついさっきのハンジを模倣するかのようなモブリットの思考は、しかし先に状況を把握したらしい常連客とカウンター内の仲間から降って沸いた暖かくも静かで疎らな拍手によって、恋が実った事を知らされることになったのだった。 ****** みたいな。 しがらみないモブハンも可愛くていいなあと思いましたもぶはんっ! |