貴方のそんな声は知らない




 それは偶然の出来事だった。


 夕食を食べて、その場で少し浮かんでしまったアイデアに熱中しそうになった私に、モブリットが手際よく要点をまとめた用紙をくれた。寝てしまって忘れたら困る、と言い出しかねない私の先手を打つのも、いつからか彼の得意分野になってしまった。
 出会った頃は遠慮の残る動きで私の行動を制止しようとしていた彼は、すっかり先見の力が宿ってしまったようだった。

「おっ、わかりやすいねこれ」
「ありがとうございます。これで心置きなく眠れますね」

 食べ終わって久しい夕食のトレーを私の分もまとめて片づけてくれるモブリットの後ろを歩きながら、言い方が可愛くないなとちょっと思った。

「最近、私に対する扱いが雑じゃないか?」
「部屋までお送りしますよ?」
「そういうのじゃなく!」

 やっぱり可愛くない。
 昔は部屋まで送ること自体に衒いのようなものが見えた時だってあったのに。
 まあいつまでもそんなことを意識されるような関係では、彼とこんなに居心地の良い関係は築けていなかったろうから良いんだけども。
 何となくすっきりとしない気分のままブツクサ文句を言う私に苦笑して、モブリットが肩を竦めた。

「なら、どうすればいいんです?」

 どうすれば?
 改めて聞かれると答えに困る。
 別にこれといってあるわけじゃない。
 懐古主義なつもりもないから、今と昔の態度の変化をどうこう言うつもりもない。ただ――……なんだろう。私に対して、少し、雑だな、と、思っただけだ。

「あ〜……」
「分隊長?」
「私はどうして欲しいのかな?」
「……いえ、ちょっと良くわかりませんけど」

 そりゃそうだ。
 私の無茶な質問に心底困ったように眉を寄せたモブリットは、にわかに心配そうな顔になった。

「お疲れですか? 体調が悪かったりしませんか?」
「え? いや別に――」

 言うが早いが、モブリットの手が私の額に伸びた。おそらく平熱を確認して首を傾げ、それから首筋をそっと包むように触れる。私の首よりよほど高い彼の体温が血流を活発にしたのか、それとも知らない間に本当に体調が悪かったのか、私の体温が少し上がった気がした。

「……あ、ちょっとあったかい、かも?」
「熱が出てきたんじゃないですか? やっぱり今日はもう無理をしないで寝てください。行きましょう」

 労るような優しい口調で促されて、私はおとなしく頷いた。
 宣言通り部屋まで送ってくれたモブリットは、そのままベッドメイクを施して、私がベッドの中までしっかり入るのを見届けた。適当に掛けた布団はしっかり首まですっぽりと被るほどに掛け直されて、「やっぱり熱は気のせいだったかもー!」とベッドサイドに置いていたモブリットのまとめ用紙に手を伸ばしたらさっと取られた。「これは後で水と一緒にお持ちします」だなんて、やっぱり可愛くない一言をくれて、そうして彼は出て行ってしまった。
 それでも最後にもう一度首筋に手を当てて熱を計り、心配を顔に張り付けて私を見下ろすその表情は、申し訳ないなと思う反面、子供の頃に風邪を引いた時のような、家族の意識を一身に受ける特別な日のような満足感があった気がする。

(……ん? 彼、別に父親じゃないけどなあ?)

 どうしてそんなことを思ってしまったのか、自分でもよくわからない。
 けれどもそう思えば、妙に納得できてしまう気がして、私はベッドの中で何だかおかしくなってしまった。
 そういえばモブリットは何くれとなく私の世話を焼いてくれる。元々はそんなことまでする必要はないけれど、私も彼に小言を言われるのは嫌ではないし、彼が心底嫌々しているとも思えないから、凹凸がぴたりとハマるように、今の関係は居心地がいいのかもしれない。
 父親というより母親に近い小言のオンパレードを思い出しながら、私は少しまどろんでいた。

 それからそう長くは経っていなかったと思う。
 意識がぼんやりと浮上して、上げた目蓋をベッドから少し離れた位置に置かれたランプの明かりが柔らかくさした。
 いつもはベッドサイドに置いて本や資料に目を通す癖のある私を知っているモブリットがそこに置き換えたんだろう。まったく細かい所に気が回る。

「――……あれ」

 けれども、置かれていたのはそれだけだった。
 持って行かれたままのまとめ用紙も、持ってきてくれると言っていた水もない。枕元の台から眼鏡を取って掛けると、少しずつ慣れてきた視力で壁の時計を目を細めて見る。
 ベッドに入った時間を正確に覚えているわけではなかったが、おそらく一時間と経っていないだろうと思われた。
 モブリットはどうしたんだろう。
 用紙を敢えて置いていかないくらいはするだろうが、あれだけ心配してくれていた私に水を持ってくると言っておいて、忘れる彼ではないはずだ。私が寝入り端だと思ったから?少し考えて内心で首を振る。眠っていれば息を潜めて水差しを置いていくくらい彼なら出来るはずだからだ。
 事実、これが初めてではないし、モブリットが珍しく体調を崩した時は私だって同じようなことをしたこともある。
 だとしたら、手の離せない何か――巨人絡みなら責任者である私が何ら呼ばれないことはないはずだからこれは除外――が、彼に起こったということか。

「……」
 何かはわからないし、彼のプライベートに首を突っ込むほど酷い上官ではないつもりだ。このままもう一度目を瞑ってしまえば、そう遠くない時間に水差しはそこのテーブルに置かれるだろうともわかっている。
 ただ、なんとなく。
 本当に何となく、自分で水を持ってこようと思い立って、私はベッドを抜け出した。


 ドアを開ける。
 廊下に人の気配はない。
 ブーツではなく、すぐそこの給湯に向かうだけだからいいかと思った浅い部屋履きは音もなく廊下を進めてくれた。
 あと少し。狭い給湯室はすぐそこだ。あ、しまった。グラスを忘れた。昨日使ったグラスを朝モブリットが片づけてくれて、そのままだったはずだから、このまま水差しだけ持ってきてもグラスがない。食堂まで取りに行こうかと考えたが、面倒くさいと脊髄が反射で否を下した。
 まあいいか。何ならそのまま飲めばいい。

「……ん?」

 行儀悪いと怒るモブリットが見えるようだと思っていた私は、ふと給湯室に感じた気配に足を止めた。
 中から押し殺したような声がする。

「――から、……なの?」

 女性の声だ。
 語尾の上がった口調が質問というより懇願のように聞こえる。次いで聞こえた男の声に、私は思わず息を飲んだ。

「そういうつもりはないって前にもはっきり言っただろう?」

 同じ語尾を上げるのでも、こんなに違って聞こえるものだとは知らなかった。
 そう思ってしまったほど硬質なその声は、いっそ冷淡なほどで。

(……モブリット)

 パン、と小気味良い音が聞こえたと同時に、私はその場に背を向けてしまった。
 別に公共の設備を前にそんな話をする方が悪い。私は盗み聞きをするつもりなんて全くなかった。
 本当にただの偶然だ。
 まさか、彼の――モブリットのそんな現場に遭遇してしまうなんて。
 部屋に戻って部屋履きをそこらにバラバラに脱ぎ捨てベッドに潜る。
 何故か心臓が大きく音を立てていた。気がつけば呼吸も荒い。

「……あんな声、出すんだな」

 布団を頭まですっぽり被って呟けいた声は、やけに大きく耳に届いた。
 何だか聞きたくなかった――いや、違う。知らないモブリットを、あんなところで見つけたくなかったのかもれいない。

(大人しく寝てれば良かった)

 言われたとおりにそうしていれば、モブリットは水差しときっとグラスもつけて持ってきてくれて、私は飲むだけで良かったのに。
 風邪の時の特別待遇は、嘘だと知れたから終わってしまったのかもしれない。
 もうだいぶ知っていると思っていたはずの彼の知らない声が、耳の奥にジンジンと響いて、私は眠気の冷めた瞼を無理矢理閉じた。


【Fin】


深夜の真剣文字書き60分一本勝負に初トライしてみた作品です。
部下で世話焼きで可愛いモブリットの、男な現場を目撃してザワザワっとしたハンジさん。