美味しくなあれ




 本当に子どもの頃に、一度。
 泣いていた彼女に会ったことがある。会った、というより見たというのが正しいか。
 おそらく家族とピクニックにでも訪れたのだろう。森の入口近く、木々が開け木漏れ日の降り注ぐそこに、ベビーベッドが置かれていた。
 ミルクの美味しそうな匂いに誘われて、まだ生まれて数ヶ月の俺は、上手く運べない足をいっぱいに伸ばし覗きこんだ。そこにいたのが彼女だった。
 ぐずりはじめて潰れた蛙のような声をあげようとしていたらしい彼女は、俺を見て、ぱちくりと大きな目を瞬かせた。


 泣かれる。

 咄嗟にそう思った。



『人間には近づいちゃダメよ。彼らは我々を虐げるから。危険を感じたら殺しなさい』



 両親の言葉が脳裏を過り、浅はかな自分の行動を恥じた。
 人間の臭いはしていたが、近くにはいないと思い込んでいた。
 今なら何か食べ物が、なんて馬鹿な勇み足をしてしまったのだろう。
 赤子自体に直接虐げる力がなくても、泣けば親がやってくる。

 その前に、一思いに。
 幼い牙でも喉からいけば。

 ガバリッと大きく口を開けて、喉元に牙を突き立てようとした瞬間、彼女が満面の笑みを浮かべた。同時に腕が伸ばされて、思わずすくんだ隙に小さな手が痛いくらいに俺の顔をわし掴んだ。
 キャッキャとはしゃいだ声をあげる彼女からは甘いミルクの香りがして、胃袋を満たす臭いとは違うものが辺りに満ちた。

 鼻先を伸ばすと目を細めてやけに嬉しそうな顔をする。舐めると甘い味がして、けれども牙を突き立てようという気はいつの間にか霧散していた。
 彼女の小さな手はとても柔らかくて、まだ上手くない動きで俺を必死に捕まえようとしているようだ。
 思わず尻尾がゆらりと揺れる。

「──ハンジー…」

 その時、少し離れた場所から聞こえてきた人間の声に、俺は弾かれたように彼女のベッドから飛び降りた。
 脇目もふらず、一目散に森へと逃げる。
 後ろで堰を切ったように響いた泣き声がじんじんと耳に木霊する。森の緑と風を受け、家族の元へと走る自分に、彼女の甘い匂いが残っているようだった。

 必死で走り、巣穴に戻ると、両親にはこっぴどく叱られた。
 勝手に一匹で遠出をしたこと、言いつけをきちんと守らなかったこと。
 それに、人間の子どもは美味しいのだそうだ。
 せっかくのチャンスだったのにバカねえという姉達には、それほど腹は空いていなかったんだと言い訳をして、そのくせ与えられた仔ウサギは頬張った。その様子を温かく苦笑して見つめられている気配は無言でやり過ごして、食事を終える。そうして彼女の話題は出さないようにしようと、俺は心にそっと決めた。

 人間は成長が遅いと聞いたことがある。
 目の前で牙を剥いた俺に向けられた、あの無邪気な笑顔が、瞼の裏に焼きついていた。
 伸ばされた頼りないふっくらとした手と、そのくせ力強い動き。舐めた頬の柔らかさ。引っ張るように掴まれた頬の毛からは、まだ彼女のミルクの香りがしているようなそんな気さえする。
 ハンジ、と呼ばれていたあれが彼女の名前だろうか。

(──ハンジ、ミズ・ハンジ、ハンジちゃん、さん……?)

 夜になり冷えた空気から庇ってくれる家族の毛皮に身体を温められて丸まりながら、俺は月明かりの届かない巣穴から外に視線をやって、胸の内でそっと名前を諳じる。

 赤子は美味しい。今夜の仔ウサギも柔らかくて美味しかった。
 この世に生きとし生けるものは誰もが肉で、肉は食物で、肉は腹を満たしてくれる。俺も肉のひとつにすぎず、そして彼女が肉に還る日も、いつか必ずくるだろう。

 でもその前にもう一度、いや、もっと。
 ──彼女はたくさん笑うといい。
 笑顔も笑い声も、元気に動く手足も全部。もっともっと。

 そう思うと、身体ではなく、胸の奥がじわりと優しい火が灯ったような気がした。
 目を閉じて、溢れるようなあの表情を思い出す。

 彼女が美味しい対象から外れるまで、あとどれくらいかかるのだろう。


【FIN.】




何を思ったか突然の狼モブリット君と人間ハンジさんの物語もどき。
続きませんが、脳内続きでは、別の意味で美味しくなってしまうハンジさんにぐぬぅぅ…となって、人狼になるモブリット君がいます。