エアポート・キス




「忘れ物は!? ないですか!?」
「ないない! 多分!」

 空港のエントランスから一度も止まることなく駆け抜けながら確認すれば、抜きつ抜かれつで走るハンジは大声でそれに答えた。
 大きめの荷物は先に到着先へ送っているとはいえ、日用品がそこそこ詰まったデイパックを奪って走っていたモブリットは、ハンジの答えに声を上げた。

「多分って! しばらく戻って来られないんですよ!? わかってます!?」
「わーかってるって。どうにかなるでしょ」

 けれど当の本人だけが、どこか他人事のように意識が軽い。
 額に汗を流しながら笑われて、モブリットは内心でムッと眉を寄せた。
 しばらくが一年なのか、それ以上になるのかはまだ未定だ。彼女がやりたい仕事をやっていられるのが一番だとわかっているし、今回の渡航が糧になるだろうことも理解している。
だが。

「……どうにもならないこともあるでしょう」
「えっ? なんか言ったモブリット!」
「イイエ!」

 思わずぼそりと溢した呟きを拾われ掛けて、モブリットは慌てて矛先を元に戻した。出発口のゲート前でようやく足を止めると、二人は同時に上がった息に胸を抑えて力を抜いた。
 だがゲート前の係員が、すぐに表示された時間と自分達とを交互に睨むような視線を向けてくる。

「おっと。時間ギリギリだっけ。怒られちゃうなー……お?」

 それに気づいたハンジが、それでも悪びれずにそう言って、パタパタと何かを探すようにポケットを探り始めた。
 その様子にピンときたモブリットは、デイパックを下ろしハンジにぐっと押し付ける。

「はい、チケットはこっち!」
「おおお? こっちに入れてたと思ってたのになくて焦ったよ」
「落ちてましたよ……本当に気を付けてくださいもう」

 ため息をつくモブリットに、ハンジはごめんごめんとやはり軽く笑ってみせた。

「後はもう乗るだけです。睡眠不足は機内でしっかり補ってくださいね」
「うん。ねえ、ありがとうモブリット。本当に君が電話くれなかったら完全にアウトだったよね」

 デイパックを背負いチケットを確認したハンジが、楽しそうにふひひと笑った。
 全然楽しいことはなかった。
 モブリットはやはりため息をつく。
 まさか出発当日に研究室でそのまま寝こけているなんて、誰が想像つくものか。
 最後になるかもしれないと勇気を振り絞ってコールを鳴らした自分がまるで道化だ。今日だって──いや、今日だけじゃない。ハンジが行ってしまうとわかった日から、この微妙な距離に立ち止まっているかのような関係をどうにか進める手立てはないものかと、まんじりともしない日々をモブリットは送っていたというのに。

「いや〜、でも荷物は持ってきといて良かったよ。自宅からなら完全に間に合わなかったし」

 チラチラとこちらと腕時計を見遣りながら黙して示す係員の視線を受けて、モブリットはハンジの背中を押した。

「ラボからだって、ほとんどアウトでしたよ。ほら、もう行かないと」
「飛ばしてくれてありがとね」
「……イイエ」

 ラッシュを過ぎた時間だったとはいえ、今まで法令遵守をモットーに生きてきたモブリットが、国道で信じられないスピードを出した記念すべき日になった。

 どうしてそんなことになったのか。
 記憶を辿れば何てことはない。

 何度目かのコール音の後、ようやく出たハンジの声があからさまに寝惚けていて、モブリットは言いたい言葉を伝える前にうっかり現状を聞いてしまったのだ。

 え、なに、ここ、……あれ? モブリット……? と欠伸混じりの確認をされて、フライトの出発予定時間と現時刻を瞬時に計算してしまったモブリットは、甘やかす気にも、のんびりと用意した言葉を伝える気にもなれなかった。
 素早く状況を判断し、セーターの上にジャケットを羽織りながら、モブリットは片耳と肩の間で押し付けた端末に向かって声を上げる。

「10分で行きます! 全部そのままでいいですから、さっさと顔だけ洗って門の前にいてください! 本気で乗り遅れますよ!?」
「お、おう! モブリット、愛してる!」

 慌てたハンジの声が聞こえて、返事の代わりにモブリットは通話終了を乱暴にタップした。
 その言葉をこんな流れで聞きたくはなかった。

(そんな軽い気持ちじゃなかったのに)

 ラボの仲間が徹夜続きの研究中、絶妙のタイミングで眠気覚ましのコーヒーを淹れてきた時に言われるのと同じような、軽々しい愛の言葉を聞きたかったわけじゃない。
 それを伝え合う関係になれないかと様子を窺い、時期を逃し、とうとう今日が別れの当日になってしまった。
 けれど、今朝あの瞬間まで焦れた日々に頭を悩ませてきた自分とは違い、ハンジにとっては、いつもと何ら代わり映えのしない日々を過ごしていただけだったようだ。
 しさを感じるのは独り善がりだとわかってしまったモブリットに、もう一度勇気を振り絞る気力はない。

「気をつけて」
「感謝してる」

 律儀にまたここまで送った礼を言おうとしたハンジに、はいはいとおざなりな気分で答え掛けて、

「それはどういたしまし、て──」

 トン、と背中に回された温もりに、モブリットは一瞬言葉をどこかに忘れてしまった。
 ハンジの頭が、モブリットの肩口にぽすんと軽く押し付けられる。

「あ、あの……?」
「本当だよ」
「は、はい。ええと、わかり、ました……?」

 なんだ? 何が起こっている?
 なんでハンジさんが俺に、こんなところで、別に徹夜明けにコーヒーを持ってきたわけでもないのに、ええと、そう だ、何か難しい実験の補佐をしたわけでもまるでないのに──ん? あ、そうか、空港まで送ったからか、いや、でもそれにしたって、これはやり過ぎです、距離がおかしい、いや、そんなことより時間がもう本当に──

「じゃあ、いってきます!」
「あ、え、あ、はい」

 抱き締め返していいのか、それは単なる後輩としては不遜すぎるのか、その判断がつきかねているうちに、ハンジは抱きついた時と同じようにあっさりモブリットから離れてしまった。
 身長はさほど変わらないのにほっそりとした身体と、柔らかい肉付きに今更ながら惜しいことをしたなと下心が顔を覗かせる。もう二度とないだろうに。別れ際、言い逃げくらいすれば良かった。
 ビッとおどけた敬礼をしてみせたハンジがそのままゲートへと駆け出して行く。
 振り返らないその背中を、せめて目に焼きつけよう。
 女々しい自分を笑うのは帰ってからだ。
 抱き締められなかった感触を心の中で反芻して、素敵な思い出になるまでは、あとどのくらいの年月が必要なんだろうか。
 ハンジがチケットを係員に手渡す。

 さようなら、俺の好きな人。

「……え?」

 などと勝手に心で恥ずかしい言葉を掛けていたモブリットの視線の先で、ハンジがぴたりと足を止めた。
 ぐるりと回れ右をしてこちらを向く。
 忘れ物だろうか。だがもう取りに行く時間など──

「モーブリットーッ!」

 係員がアッと声を漏らしたのと、ハンジが短い距離を詰めたのは同時だった。
 返事をする暇もない。
 ものすごい勢いのまま、再びモブリットの胸に突っ込んでくるのかと思ったハンジは、衝撃を与える寸前で立ち止まった。
 ぐい、と両手で頬を挟みこまれ、 唇に熱い弾力が押しつけられる。



「──」



 何が、起こったのだろう。


 ぱちぱちと何度目を瞬いても、開いた瞼が映すのは、瞳を伏せたハンジの顔で──

 ハンジの手のひらがモブリットの頬にひたりと張り付いて、形を覚え込ませるかのように頬骨を、瞼の下を、顎のラインを撫でていた。
 重ねただけの唇を僅かにハンジの唇が食むように動く。
 びりびりと甘い神経毒に犯されたような衝撃が全身に走った。

「…………」
「…………」

小さな音を鳴らしてやがて唇は離れたが、モブリットはやはり何度も大きく目を瞬いてしまう。

(キス、キス……? え、いま、彼女から、俺に──?)

 疑問符ばかりが浮かんで消えない。
 なんで、どうして、どういうつもりで。
 こんなに至近距離でハンジを見つめたことはなかった。ハンジが、モブリットを見つめることもなかったはずだ。
 すぐそこで自分の瞳を探るように覗き込んでいたハンジは、係員のわざとらしい咳払いでピョンとモブリットから距離を取った。

「今行きまーす!」
「あ、あのっ──」

 するりと身を翻してしまったハンジの腕を捕まえようと手を伸ばし、寸でのところでハンジはゲートの向こうへ行ってしまった。
 モブリットはその背に叫ぶ。

「これは、どういう……!」

 振り返ったハンジはいつもの笑顔で──いや、僅かに照れ臭そうに見える笑顔で──後ろ向きで歩きながら声を張った。

「そのままだよ! 最後かもしれないと思ったから勇気出してみた! 嫌じゃなければ、続きは待っててほしいなって!」
「ま、待ちます! じゃなくて、本当に!? で、電話はしても!?」
「勇気品切れ! 次は君から!」
「します! 会いにも行きますから!」

 思わず身を乗り出したモブリットを、係員が申し訳なさそうに腕を広げて押し止める。
 このゲートさえなければ走っていって抱き締めたい。それをしてもいい距離に、ハンジの方から詰めてくれた。まさかこんなことが起こるとは、まったく思ってもみなかった。

 今更ながら、ハンジの頬が赤いことに気づいたが、たぶんそれはモブリットも同じはずだ。
 顔が、身体が、心臓が熱い。

 ハンジの後ろから空港職員が鬼の形相で迫ってくる姿が見えた。
 いつまでも後ろ向きで歩く迷惑な乗客に、早く、と急かす声でハンジがくるりと背を向ける。すみませんと笑いながら小走りになる背中がどんどん見えなくなっていく。その姿を最後まで見つめていたモブリットは、はあっと息を吐いた。
 目の前のジャンパーから伸びた腕を無意識に掴んで──

「──と、すっ、すみません…っ」

 パッと、モブリットは手を離した。ついでに後ろへ二、三歩下がる。
 一見するとラガーマンのような体躯の係員は、モブリットに掴まれた腕を軽く擦って、無言で首を横に振った。
 それから右手を持ち上げると、親指と小指を立てて顔の横へと持ち上げて見せる。

「っ」

 その口が、コール、と象ったのを最後まで見られず、モブリットはぐるんと音が出そうな勢いで係員に背を向けた。
 さきほどまでとは別の意味で顔が熱くてたまらなくなる。
 待ち合い広場を見渡せば、一部始終を見ていたのだろう疎らの人波が、ニヤニヤとにこにこのどちらかの笑顔をモブリットに向けていた。

 走り出したい。くそ。
 こんなことになるなんて、まったく思ってもみなかった。

 脱兎の如く逃げ出したい足を叱咤して、モブリットは出来るだけ普通の歩幅でその場を離れる努力をした。
 ようやく好奇の視線から逃れて、滑走路に並ぶ飛行機を見られるラウンジで、モブリットは安堵のため息を吐いた。
 普段の自分なら絶対に起こり得ない状況に、まだ頬の熱が冷めやらない。
 彼女といるといつもこうだ。
 自分のペースを乱される。
 知らない自分を教えられる。

『勇気出してみた!』

 照れを誤魔化すようなハンジの明るい声が耳の奥に甦った。
 ずっと目を開けていたから覚えているハンジの伏せた睫毛も思い出せば、するすると唇の感触も簡単に甦ってきて、モブリットは片手で口元を覆った。ガラス張りの窓にごつんと額をつけると、冷たさが少し気持ちいい。
 そのままハンジが乗っているだろう飛行機の動きを目で追いかける。

『次は君から!』

 次、はなんだっけ。キス──じゃないな、まずは電話だ。
 取り付けられた約束を反芻して、滑走路を滑り始めた飛行機を見つめる。
 あの飛行機のフライト時間は確か五時間。到着予定時刻は──

(早い、か?)

 離陸した飛行機がどんどん高度を上げていく。
 早くない。遅いくらいだ。
 あっという間に小さくなっていく飛行機に内心でそう呟いて、モブリットは踵を返した。
 車のキーをポケットから取り出して、手のひらの中で遊ばせる。

 本当は、ハンジからでなくモブリットから一歩を詰めようと思っていた。
 それなのに勝手に尻込みしてしまった。
 勇気を出してくれた彼女に今度は──今度こそは自分から。

(次の長期休暇はいつだったかな……)

 二人のスケジュールを頭の中で確かめながら、モブリットはゆっくりとした足取りで、自宅への道を戻り始めたのだった。




【FIN.】




空港での別れ際現パロモブハン。
付き合ってないモブハンのハンジさんが長期出向でいなくなっちゃうYOなモブハンde空港のお話。