モノクロショコラが融ける前@ 明日は非番だというナナバが寝酒にどうだと持ってきた酒を、人気のない休憩室で傾けつつ、他愛のない話題で消費している時だった。 新兵時代の仲間が先日の壁外調査で負った怪我が原因で兵団を去り、田舎に戻って結婚をするといった話になったせいだったと思う。自分達の青春時代を振り返り、酒の力も伴ってか、面白おかしく、時には妙なくすぐったさを感じながら互いに揶揄し合っていた。 あの頃はまだひたすら希望に満ちていて、巨人の進撃もどこかで遠い話のように感じていたような気さえする。誰と誰が恋仲だとか、誰が横槍を入れたらしいとか、過酷な訓練を熟しながらもそんな日常には事欠かなかった。 それが今じゃ適当に擦れて、良くも悪くも終わりを見据えた関係しかない気がする。 確かそんな話をうっかり溢してしまったからだろう。ナナバが手酌で酒を注ぎ足しながら、俺の上官の名前を口にしたのだ。 「ほとんど四六時中一緒でお互いの事わかりあって信頼してて、そういう気持ちになったことないの? 一応男と女でしょう?」 「一応って……」 それを言うならミケ分隊長とナナバだってそうだろうに。 苦笑で誤魔化しながら軽口を叩けば、残念でしたと言ったナナバが、一息でグラスを傾けて可笑しそうに小さく笑う。 「ミケは意外と手が早いのと本能に忠実」 「――お前、結構酔ってるな」 二人は多分そうだろうなとは思っていたが、いきなりのカミングアウトは少しばかりガードが甘くなりすぎだろう。久し振りの酒の誘いは、彼と喧嘩でもしたせいなのかもしれない。 例えそうだとしても、朝になればそれなりに、任務ともなれば当然信頼が上回る関係だということは、今までで充分知っている。 ナナバと彼がいつからそうだったのかは知らないが、二人の間にあるその強さと勇気を、俺は心底尊敬している。 いっそ羨ましいとさえ思うほどに。 「だってモブリットは好きでしょ」 「は?」 「ハンジのこと」 「ナナバさーん、絡み酒やめてもらえませんかー」 「付き合ってないの? そうだとして、ホントに一回もしたことないの? たまに一緒に寝てたりするのに?」 「寝――、何でそれ知っ……、あ」 まだ中程まで残っている酒の上から、無謀にも注ごうとするナナバを避けながらで答えかけ、にやりと口角を上げた彼女に己の失言を知らされた。 研究室で突っ伏したまま二人で朝を迎えた事に関してなら目撃情報は多々あれど、互いの自室でうっかり寝入ってしまった朝の情景など、誰にも見られてはいないはずだと今更気づく。 施錠もしてるし、仮に掛け忘れたことがあったとして、立場上この兵団の中で分隊長、副長の地位を持つ俺達の部屋へ、返事を待たずに押し入る人間はそう多くない。 「あなた達から同じベッドの匂いがすることがあるってミケが。やっぱりそうなんだ」 「……本当にただ寝てるだけだよ。研究熱心な上官とそれに付き合って睡眠欲に負ける一部下なだけで何もない。本当に」 「性欲に負けないっていうのは、モブリットがすごいのかおかしいのか」 「そういう関係じゃないんだって」 唸るナナバのグラスに酒を注いで否定の言葉を口にする。 本当に。ただの一度も、あの人とはキスだってない。 被検体から引き剥がす時に掴んだり抱き寄せる以外の意味を持たせたハグをしたことも、同じベッドで寝ることだって、俺の意思だったことは一度もないのだ。 ハンジさんが自分の部屋に戻るのが面倒になったからだとか、限界を迎えそうな俺に仮眠を勧めたはずの彼女が気づいたらベッドに潜り込んできていたとか、寝顔にキスする余裕のあった例のない不本意な同衾とでもいえばいいか。 吐息と体温を感じても心頭滅却に励むしかない部下を、男と見ていないからこそな態度を常日頃から示されて、それでも無謀に手を出せるほど、捧げた心臓に毛は生えていない。 「でもモブリットはハンジを好きでしょ」 「だから――」 「言うつもりはないってこと?」 酔っ払いの絡み酒を一笑に付そうと振り向いた先にあったのは、意外なほど真面目な顔のナナバだった。揶揄の欠片も見えない真剣な視線に気圧されて、先に逸らしてしまっては肯定したと同じことだ。グラスに残っていた酒を喉に流し込むと、両手で持っていたせいで随分ぬるくなってしまった液体がまるで煮え切らない自分のようだと嗤いたくなった。 「ないね」 観念して、そこだけしっかり本音をこぼす。 ――と、ナナバが微妙に眉を顰めてくれた。 「言っても困らなさそうに見えるけど」 「笑って流してくれるなら言ったかもな」 「好意はきちんと真正面から受けるタイプだよ彼女は」 「だからだよ」 考えたことがないわけじゃない。 受け入れられるも拒まれるも、それらを全てすっ飛ばして一線を越えるという選択肢を、これだけ近くにいながら一度も考えないわけがない。それくらいはただの男だ。彼女はそう思っていないのだろうけど。 でもだから――考えたからこそ、そして踏み止まっているからこそ、背中に彼女の体温を教授する栄誉に与っていられる。 よしんば何かの弾みでそういう関係になったとして――彼女が自分にそんな揺らぎを見せるとは到底思えないが――、関係の終焉を想像するのが嫌なのだと本当は薄々気づいているが、それこそ思春期の青写真もいいところだろう。 巨人の事でいくらネジが振り切れようと、他人にどう見えていようと、あれほど素晴らしい人間はいないと心底そう思っている。閃きに煌めく頭脳も可能性を疑う慎重さも、それにいつでも見えない希望を見据えるそのひたむきな瞳の純粋さにも気づいてしまえば、きっと誰もが同じ感想を抱くはずだ。絶望を知って、それ以上の可能性を追ってぐしゃぐしゃになるその姿は、何て泥臭く、そして輝いて見えることか。 尊敬してやまないそんな上官から、極稀にぽつりと零される弱音に胸が震えるのを、いったい誰が止められる。弱さを預けられたという事実が、信頼された部下の証であると同時に、男としての衝動を抱いて何が悪い。 その強さも弱さも敬愛している、傍で力になりたいと思う。 けれどもそれとは全く別の次元で見える抗い難い人間としての魅力に、俺はもうずっと惹かれ続けている。 彼女は明晰で真面目。そして他人を思い遣る。 切り捨てる上官としての判断以外の場所では、俺なんかよりもずっと深い所で他者を受け止めようとする。 だからこそ、だ。 人類の絶望と希望を一心に受け止めて誰よりも真剣に考えるあの人だからこそ――。 「これ以上、一部下のこんな余計な気持ちの事まで考えないで、ゆっくりしてほしいんだよ」 そう言った自分がどんな顔をしていたのか、見えていないから正確にはわからない。けれども情けなくなりすぎない程度に笑えてはいたはずだ。 あの人が望む部下であるために、性別の垣根を越えた仕事で信頼を得る努力は息をするように出来る自信がある。そうやって今まで傍にいた。生き抜いてきた。これからもそうあろうと思っている。 求められていない分を弁えずに今の関係を手放すことになったとしたら、自分に目も当てられない。それにたぶん、彼女がとても傷つくはずだ。失いたくない大切な部下だと、以前そう言ってくれたから。 (……嫌われたくない、なんて青すぎて誰にも言えないな) ナナバは「そんなこと」と言いかけて、その後は黙ってグラスを静かに傾けてくれた。 ここはミケ分隊長との馴れ初めでも聞きだすべきか、いや、どうだろう。自分の首を絞めにいくようなことになるかな。 この一本が空になれば、仕方がないから飲み直しに俺の秘蔵を出してくるか。それでこの酒盛りに誘った本来の捌け口になってやらなければフェアじゃない。 最後の酒をナナバのグラスに注ぎながら、酒のせいで少しだけ緩んでしまったモブリット・バーナーに、俺はいつもどおりの蓋をした。 ****** |