In the Mood ――身体に跡は残さない。 そうしろと命じたわけでも、そんな約束を交わしたこともない。 ハンジ自身がまったくつけないかといえばそういうわけでもないのだから、二人の暗黙の了解というよりは、モブリット個人のスタンスといった方が正しいのかもしれない。 別にそれがどうということもないのだが、今日久し振りに足を向けた浴場で、聞こえた若い女同士の会話がなんとはなしに耳に甦って、ハンジは「あのさあ」と口を開いた。 「あなたって、つけないよね」 「はい?」 いつものように二人残った室内で、背中合わせの配置の机に陣取りながら事務作業に専念しているモブリットは、仕事の話と思ったようだ。生真面目な口調で振り返ったのが気配でわかる。首だけ巡らして次の言葉を待つモブリットに、ハンジは身体ごと捻って向き直ると、とんとん、と自身の首元を示してみせた。 その仕草に一瞬訝しげに眉を顰めて、何をいわんとしてるか察したらしい。ああ、と口中で呟いたモブリットは、それだけで興味を失ったかのように、書面に視線を戻してしまった。 「なんで?」 「口より手を動かしましょうよ。終わりませんよ」 「終わるよ。あと三枚だし。そっちは?」 「……五枚です」 「問題ないね。手伝おうか?」 「結構です」 仕事を言い訳に出来るほどの量でもない。 はっきりと誤魔化しにかかっている部下の背中は思いの外頑固に見えて、ハンジは小さく肩を竦めて、机上の書類にペンを向けた。 浴場で見かけた例の彼女は、胸元に赤い跡を散らしていた。それを友人らしい人物に指摘され、湯気に煙る中でもそうとわかるほど赤く恥じらいで可愛らしい悲鳴を上げていた。 「で? モブリットはつけるの嫌とかそういうの?」 特段そういうじゃれ合いをしたいわけではないし、例えば件の彼女のように知人にそれを指摘されたとして、もし自分ならどうするか――「ああ、うん。昨日のだね」とでも言うかもしれない。ただ名前も知らないその彼女が「……やめてって言ってもすぐ付けようとするんだもん!」と困惑の中に愉悦を滲ませ弁明を試みていた様子に、ふとハンジの中で疑問が湧き出てしまっただけだ。 「……何でそんな事気にしてるんですか。今更でしょう」 そう今更だ。 付き合い初めの初心な恋人達なわけではない。だからこそ、衒いもなく聞ける類の疑問だと思う。 こちらを向かないままで答えてくれたモブリットに、ハンジはくるりとペン先を回してサインを書き込みつつ、うん、と頷いた。 「確認したことなかったなと思って。つけられるのが嫌なら私もしないし」 「嫌じゃないです」 「……そっちは即答するんだ?」 存外強い口調で否定されてぶっと笑う。 ハンジが彼の身体に跡を残すこともそう多い方ではないはずだが、どうしようもない昴りや勢いで付けてしまう衝動は、どうやら今後も受け入れてもらえるらしい。了解を得たことで、しばらく頻度が高まりそうだなとおかしく思いながら、揶揄するように言えば、モブリットは観念したように細い息を吐き出した。 「……男と女じゃ色々違うじゃないですか」 「色々って?」 「だから……」 ページを捲る音がする。 少しだけ逡巡するようにリズムの狂ったペン先で、流麗な文字で名前を刻んでいるのを示しながら、モブリットが言う。 「こっちは名誉の負傷だとか羨望だとか、そういうやっかみですみますけど、女性は色々邪推されやすかったりですね……」 言いにくそうに告げられた回答は、なるほどモブリットらしい理由に聞こえる。 普段から周囲との調和をはかることに長けている副長の、尤もらしい気遣いだ。けれども納得出来るかと言えば、ハンジの答えはノーだった。 「えー、それだけ?」 「他に何があるんですか」 自分の分の最後の書類に素早くサインを書き落として、ハンジは紙面の端を机上でトトンと叩いて揃える。 積み上げていたファイルの一番上に閉じて、くるりと身体を反転させた。 まだ頑なに背中を向けたままのモブリットの手元はよく見えないが、彼もそろそろ終わりだろう。そうあたりをつけて、ハンジは椅子の背を跨ぐ。 「あれってさ、所有欲そそられると思うんだけど。少なくとも私は結構そうなんだけど」 「……は?」 つけている時よりも、ふと目についた瞬間。 こんな箇所に触れたのは――これは自分のものなのだと――内心の欲が満たされる。 甘く疼く薄暗い独占欲の愉悦とでもいうのだろうか。 赤黒く染みた鬱血の跡を見つけた朝に気づかされた欲望は奥が深い。 何度注意してもつけるのだと真っ赤になっていた若い彼女の恋人は少し困ったものだと思いはするが、だからこそハンジはその気持ちもわからないでもないのだ。公言できる無言のマーキングが所有欲の表れだとするのなら、つけない男の真意とは如何に。 「だからつけないってことはさ、別に誰のものでも気にならないってことかって――」 書面を捲る背中を見つめながらでそう言えば、モブリットの手が一瞬動きを止めた。 けれども振り向かないままで、すぐに筆記は再開される。 「あれ、図星だ」 「――それ、本気で言ってるなら少し怒ります」 「本気じゃないけど、結構怒ってるじゃん」 「……」 おそらく最後の書類に目を通し終えたはずのモブリットは、しかしそれになかなかサインをしようとしない。こちらも見ない。 キスマークひとつにずいぶん口が堅いなと訝りながら、ハンジは腰を上げた。 モブリットの横に立ち、左に置かれた処理済みの書類に手を伸ばす。 「なら何で? つけるの下手とか? でもキス上手だよね」 「褒めてるんですか。比較対象がいると妬かせたいんですか」 「どっちもかな。で、何で?」 自分よりよほど丁寧に事務作業をこなす彼の処理に不備がないのを確認する。 それから、最後に残されている書面のサイン欄を、ハンジは指先で軽く叩いて促した。 サインを入れれば彼の仕事もこれで終わる。決済ではなく提出の確認の為だけに書き込むサインは、そう悩む必要もないはずだ。 渋々といった体でそこに名前を書き込んだモブリットは、確認を終えてじっと待つハンジの視線に、隠しもせずにため息を吐いた。 それから、やはりこちらは見ようとしないままでポツリと呟く。 「…………男は調子に乗りやすいんですよ」 「モブリットは少し調子に乗った方がいい」 「……あなたは肌が白いんです」 「お、おう――……ごめん、切り返しが斬新すぎてよくわからない」 それが跡をつけない理由と何か関係が? 拍子抜けする台詞の意図を問い返すと、モブリットは更に息を吐いて、手元のランプをじっと見つめた。 「目立つんです」 「うん? なに――ああ、跡が?」 「だから仕事中もし目に付いたらですね、……すみません、俺の集中力の問題です」 平坦な口調で言い掛けた言葉を途中で飲み込み、モブリットは前髪をぐしゃりとかきあげる。その様子に思わずハンジは目を瞬かせた。 「……それってさあ」 「察してください」 「その気になっちゃうってこと?」 「察しろって」 言葉遣いがぞんざいなのは、相当本音が漏れてるからだろう。 軽い驚きとともにハンジは手元にまとめていた書類を机に置き直した。 ベッドで情熱を感じないわけでは勿論ないが、冷静だなと感じる部分がなかったと言ったら嘘になる。 いつもいつも悔しい程にハンジの反応を確かめながら事に及ぶ素振りさえ見せる彼に、そんな抑制のきかない感情があったのか。 跡をつける独占欲など比較にならない秘めた欲望を抱えていたとは、さすがに想像していなかった。 部下としての線引きだとか、ハンジへの気遣いだとか、そういう類の延長だろうと予測していたのに、まったく予想外すぎて、胸の奥がトンと突かれてしまったじゃないか。 少し考えて、ハンジは「ねえ」とモブリットに呼びかけた。 「じゃあさ、絶対見えないところにつけるとか――」 「想像するでしょうが」 「……」 これも予想外の即答だった。 「……あなたって意外とさあ」 「察してくださいっ」 見えても見えなくても、集中力が途切れるらしいモブリットに抑えた声で怒鳴られてしまった。それでもまだこちらを見ない彼に、こみ上げてくる甘い笑いを隠して、ハンジはモブリットの頬を掴んだ。無理矢理顔を上げさせれば、ものすごく反抗的な視線が不承不承向けられる。 なんだその顔。俄然させたくなってくる。 「じゃあ見えても気にならないところにつけるとか」 「……はあ?」 「うっわ、その顔」 覗き込むように視線を合わせたハンジに、モブリットはどこぞの人類最強も真っ青なほど、深く眉間を寄せてみせた。 我慢のきかない男の本音が払拭されそうな表情だ。 ぶはっと吹き出せば更に剣呑に目を細めたモブリットの頭をくしゃりと撫でて、ハンジは机の端に凭れるように腰を掛ける。 それからおもむろにジャケットの裾を肘まで捲くり上げた。 「ほら、例えばこことか。色気も何もないだろう?」 「……」 肘をくんと折り曲げて、モブリットの眼前につきつけてやる。 彼の言うとおり、あまり日に当たることのない部分の素肌は確かに白い。 だがこうして見ても女らしい華奢さとは一線を画する引き締まった腕は、ここに跡のひとつがあっても何かを刺激する心配はないように見えた。 「つけてつけて」 最中がダメなら雰囲気のない今でいい。 はい、とそのまま差し出すと、思い切り嫌そうに顔を顰めたモブリットが、ハンジの腕を退けようと掴む。 それを押して更に強請れば、じとりと少し拗ねたような色を滲ませてモブリットがハンジを見上げた。 「……あんたね」 「いいじゃん、ね? モブリットがつけてるの見たことないし」 「誰がしてもやり方なんて同じでしょう」 「誰にされてもいいとか言うなよ?」 「……そんな所、自分でつければいいじゃないですか」 「バカにしてんのか」 誰に、というファクターが重要だとわかっていてこの言い種だ。 ずいっと顔を寄せてむくれたハンジに、モブリットも負けじと睨み返してくる。 けれどもハンジが一歩も引く気のない事を悟ってか、掴んだ腕をくるりと返した。 「知りませんよ」 「何、が――」 手のひらを上向かされた腕に、やわりとモブリットの唇が這う。 突然の行為に指先がピクリと跳ねるが、そのまま舌先がハンジの腕をねとりと突いた。 ひとつ所ではなく、上に下に、唇の柔らかさと舌肉の熱が落とされていく。 「あのさ……、ンッ」 「――……」 ぢゅ、と音を立てた唇に、ハンジの口から息が零れた。 跡をつける行為というより、これではただの愛撫だ。 その声の出先を確かめるように、モブリットが視線だけをハンジに向けた。無言の視線が交錯する。 唇の他は、手首と肘に添えられただけの接触で、そこからじわりと甘い痺れが広がってしまう。 何度か啄むように軽く、そして最後に痛いくらいに強く吸い上げ、ようやくモブリットは唇を離した。 「……」 「……」 唾液に濡れた赤い跡が、肘に近い右腕の柔らかい部分にはっきりと色づいて主張している。 二人の間に落ちた沈黙の中、「あ」と呟いたモブリットが我に返ったようにハンジの腕から顔を逸らした。 「す、すみません……っ」 「え、あ、いや」 ぎこちない動きで腕を解放されて、つられたように、ハンジもぎこちない動きで捲くっていた袖を下ろす。それからまたしばしの沈黙。 そうして跡の上から隠すように左手で箇所を抑えたハンジが耐えきれず声を上げたのと、おそらく同じ気持ちでモブリットが口を開いたのはほぼ同時だった。 「――つ、つつつつけ方やらしいな!?」 「知りませんよって言いましたからね!?」 ほとんど悲鳴で怒鳴り合い、お互いの主張にまた同時に口を噤む。 左手で抑えた腕が熱い。 目に入ってしまったら、先程感じた熱の在り処をうっかり思い出してしまいそうで、ハンジはジャケットの上から更に強く押さえ直した。 何が「知りませんよ」だ。跡が見えたらその気になる? 腕ごときでその気にさせて、どの口が言うんだ。 跡を見る度、舌の動きを、唇の感触を、自分を見つめる彼の視線を、思い浮かべる自信がある。 そう思うだけで頬が熱くなってしまった今も、跡が消えるまでのこれからも、いったいどうしてくれるつもりだ。 「……やっぱりモブリットはつけなくていいよ!」 「……だからつけませんて!」 お互い背けた視線の先に蟠った熱の残滓だけを揺らめかせ、机上のランプが油の切れかかった音を立てるまで。 ハンジは腕につけられたモブリットからの初めての跡を、上からしっかりと押さえ込む。 責任取れよと内心で毒づきながら、やけに意識をさせてくれた唇の感触を頭の中から追い出そうと、強く瞼を下したのだった。 ************************ |