モノクロショコラが融ける前A モブリット、と呼ばれた声がやけに甘く聞こえたから――。 正直あの夜の言い訳をと言われれば、モブリットはいくらでも並べ立てられる自信がある。 足取りが覚束ないほど飲んでいた割に呂律はしっかり回っていた愛しの上官は、やけに自分を避けていた。理由を聞けば「何だか君に甘えそう」ときたのだから意味が分からない。はいはい部屋に戻りましょうと取ろうとした手をすり抜けられて、「酔っ払いに注意!」と高らかに宣言したハンジに、モブリットは唇を指の先で押し付けられてしまった。そう思うならそろそろ飲むのを止めればいいのにと思ったものだ。 普段から散々言うことを聞いてくれずに無茶ばかりするくせに、無礼講に近い宴席で絡まれないのでは、気分がささくれ立つには十分だった。 甘えればいいのに。酒のせいにしていくらでも。 仲間達からはいつもよりピッチが速いとからかわれたが、モブリットは酒に強い。 いっそ記憶も飛ぶくらい酔ってしまえる性質なら良かった。 つかず離れずの距離で、頬を紅潮させて捕まえた巨人の成果について熱く語るハンジの手から、つるりと陶器のコップが滑り落ちそうになったのを、モブリットの反射が救った。ほとんど真後ろから抱き込むようにして手ごと掴めば、本気で驚愕した顔のハンジがモブリットを振り返った。まるで「まだいたの?」と言われたような気になって、モブリットははっきりと声に険を滲ませた。 「飲み過ぎです、分隊長。指に力入ってないじゃないですか」 「た、たまたま! たまたまだから大丈夫!」 どこがたまたまなものか。 何度もコップを探して長机の上を空振っていたのを、モブリットが気づいていないわけがない。 あきらかな嘘に正直にムッとした表情をしたせいだろう、ハンジの隣で一番の絡み被害を受けていたリヴァイが、メガネ、と呼んで眉間の皺を深くした。珍しく間を取り成そうとしてくれる雰囲気の柔らかさは、アルコールのおかげだろうか。 リヴァイが開いた酒瓶に向かって話し始める。間違いない。酒のせいだ。 「確かにてめえは飲み過ぎだ。明日に障んだろうが。さっさと自室に戻れ」 「ええっ! 何それ! あんなに熱く語り合ってたってのに、今更それはないよリヴァイー」 そういうハンジもナッツに向かって抗議している。もう完全に出来上がっているじゃないか。 素面なら削がれそうな間違いの対象物を見下ろしつつ眺めつつ、延々抗議をしていたハンジが、わからずやめと憎々しげに呟いて、ひょいとナッツを摘み上げた。 兵長に見立てたナッツが彼女の口に運ばれる――そう思ってしまったのは、モブリットもやはり飲み過ぎていたせいかもしれない。 「ダメです」 「ふえ?」 体が勝手に動いていた。 ハンジの手首をぐいと引いて自分の頭を下げると、モブリットはそのまま彼女の指先からナッツを奪った。唇がハンジの指先を掠めたせいか、元々力の入っていない指先だったからかは判然としないが、零れたナッツをガリリと噛み砕く。指先の方が美味しそうだと思った感情は、たぶん上手く隠せていたと思うが、ハンジはきょとんと赤く潤んだ瞳を何度か瞬かせてモブリットをじっと見ていた。 「部屋に戻りましょう。送ります」 「……ええ〜、まだまだ飲めるよ!」 掴んだ手首をくんと引いたモブリットへ、ハンジがハッとしたように引き返す。 こんな酔っ払いの抵抗は、いっそ抱きかかえて運んでしまうのが早いだろうか。物騒なことを考え始めていると、リヴァイがやはり空き瓶に向かってゴンと自分のカップをぶつけた。 大方ハンジの頭を殴りつけているつもりなのだろう。グラグラと揺れる空き瓶に舌打ちをしている。 「おい、クソメガネ。たまには旦那のいうことを聞いてやれ」 「だ――」 「ええ〜、だって今日はなんか……なんかさー……」 酔っ払ったリヴァイの言葉に訂正を入れるでもなく、ハンジは平然と新たなナッツを摘み上げている。 どうせまた小さな一粒にぶつぶつと話し出してしまうのかと思ったのだが、ハンジはうんうん唸り声を上げて、それから突然机に拳を叩きつけた。手の下でリヴァイに見立てられたナッツが無残に潰れてしまっている。 「モーブリットー!」 そうして不意に立ち上がると、椅子を蹴倒す勢いで、ハンジはどんとモブリットに抱きついてきた。 思いがけない行動に翻弄されて、慌ててハンジを抱き留めたが、そのまま後ろの壁に頭を打った。 リヴァイの言葉で赤面しそうになった途端これだ。一喜一憂する自分が馬鹿みたいじゃないか。まるで気にしていないハンジに少し虚しい気持ちになる。だが、何故だか離れようとしないハンジの様子に、具合でも悪くなったのだろうかと背中をそっと擦りあげ、 「分隊ちょ――」 「……ほら、だからさー。なんか、今日はダメなんだって。甘えちゃいそうなんだもん」 唐突に胸元へこぼされた台詞は、一瞬幻聴なのかとモブリットは思った。 宴もたけなわなこの場所で、いつもどおりの彼女の奇行に構うものは誰もいない。 壁に凭れる二人は誰にも気に掛けられず、リヴァイも既に新たな相手と何やら小難しい顔をして、先程までの会話はどこにもなかったことになっているようだった。 もしかしたらハンジ自身も酔っていて、何を口走ったかわかっていないのかもしれなかった。いやたぶんそうに違いない。それでも、モブリットには聞こえてしまった。甘えそうだとハンジが言った。抱きついて、今もモブリットの腕の中で、どうしようと呟いている。知らない振りは出来そうもない。 だから、つい。 これだけは酒の勢いだったと言えるだろう。 下ろし髪の耳朶をかき分け、安酒の香りと少し汗ばんだ彼女自身のにおいを吸い込む。 「……甘えたらいいじゃないですか」 唇を寄せて、耳朶につけて。 吐き出す吐息に乗せて囁けば、腕の中で、ハンジが息を飲んだ音が聞こえた気がした。 ******* それからはもう、たぶんずっと頭が沸騰していた。 宴席を抜けることは不必要に容易く、廊下に出て澄んだ夜の空気を吸い込んだはずが、部屋に着くまで全く動悸が収まらなかったのを、モブリットは覚えている。酒に酔えないというのは、こういう記憶を持て余すということだ。適当に甘く改竄出来ない自分を呪いたくなる瞬間でもある。 それでもハンジの「甘えたい」という言葉の意味を、どこまで都合良く解釈しても許されるのか、それくらいは考える余裕はあったのだ。部屋に彼女を送り届けた時までは。 何とはなしに離れ難くて、手を取ったままベッドへ向かう。 ベルトを外してジャケットを脱がせ、文机の椅子の背凭れへきちんと掛けて、請われるままに隣に座った。 肩に触れた体温の高さと、軋みを上げたスプリングの音。 それに「モブリット」と囁くように呼んだハンジの声がやたらと甘く胸をくすぐり痛いほどで。そのせいだ。返事をするつもりがうっかり額にキスをしていた。目を開けたところでこぼれそうなほど見開かれたハンジの瞳に、内心でモブリットはひどく慌てた。やっぱり。そういうつもりじゃなかったか。そうだよな。何で先走ってこんなこと。 けれども謝るのも違う気がして、モブリットは立ち上がる。おやすみなさい、と言ってしまえば、今ならまだ挨拶のキスだと誤魔化せるはずだ。 だが、そんなモブリットの意に反して、ハンジは「モブリット」と名前を呼んだ。その手が、迷うモブリットの指先を掴んで、潤んだ瞳にモブリットが映り込む。 「甘えさせてよ」 「――」 これがもし幻聴だったとしても、たぶんモブリットには抗えなかった。引力のようにハンジに引きつけられてしまったに違いない。 暗闇の中、息づく音さえ消えそうな二人きりの室内で、月明かりに薄ぼんやりと照らされた彼女は、あたかも霧に浮かぶ幻のような心許無さをその表情に宿していた。行かないで、と声にならない声が聞こえた。そう思うのは都合が良すぎるだろうか。でも、確かにモブリットにはそう聞こえたのだ。 月光が柔らかく膜を張った彼女の瞳を、夜の星を散らしたように時折きらりと反射させて、子供のようにも艶めいた女のようにも見せている。 ギリギリの均衡が水面に消える波紋のようだ。 今手を伸ばさなければ二度と掴ませてもらえないような気にすらなって、モブリットはその日初めて、ハンジの上に影を作った。 経験がないのかもしれないと気づいたのは、たぶんかなり最初の方だったと思う。 もしかして、と思う程度で止めてやれるわけもなく、よしんばそうだとして、だからどうしたという気持ちで塗り潰されていたのだから、そもそも経験の有無は意味のないものだった。 ただ、気づいていたという事実が、今もモブリットの記憶の中で、暗い愉悦と罪悪感を伴って蟠っているだけだ。 ハンジは何度もモブリットの名前を呼んで、その裸体をしならせた。 いつもの少し低めのハスキーな声音が、モブリットに抱かれながら信じられないくらに甘くなり、それだけで自身が昂ぶるのがわかる。そうさせているのは自分だ。耳元で途切れがちになかれるだけでイキそうで、深く唇を繋げることでその声ごと貪った。 身体中触れていないところがないくらい丁寧に撫で回し、啄み、震える足を掲げて開かせる。 待って、やだ、いや、その言葉だけを都合よく耳から素通りさせて、赤く熟れた秘部を指で舌で愛撫した。 入口より少し奥、ようやく二本の指で周りの壁を押し込むように蹂躙できるようになったとき、ざらつく壁面の一角で、ハンジの身体がびくりと跳ねた。無意識だろう逃げる腰を押さえつけて、乗り上げるように敏感な突起にも舌を這わせる。や、という鼻にかかったなき声に責める動きを強くして、親指の腹に突起を任せて押し潰す。舌でもちゅっと音を立てて吸い上げると、臍の窪みから胸のひっそりとした頂きまで辿って先端を口に含む。頭を振ったハンジが伸ばした腕を自身の首に誘導して、下を弄っていない左手で、ハンジの背中を強く抱いた。 「も、ぅ、モブリット、や――んぅっ!」 最後まで言わせないようにと唇を塞ぐ。 舌を嬲り、言葉を奪う。 その間も右手は忙しなく秘部を弄り、ハンジが小さな悲鳴を上げて、一度大きく体が跳ねた。首に回させていた腕が滑って震え落ちたのをベッドシーツの上で指を絡めて縫いとめて、モブリットは再び足を開かせた。 「や、ぁっ――」 もうこれ以上待てそうもなかった。はちきれんばかりの自身をハンジのそこに押し当てる。にちり、と鳴った水音に腰から頭の芯まで怖いくらいに震えが走った。ここに入る。たぶん、いや、きっと絶対。まだ誰も知らない彼女の中に、今。 「待っ」 「ハンジさん」 おそらくそれが、その夜でモブリットがハンジの名前を呼んだ最初で最後だったかもしれない。 よくよく考えなくても最低な経験を強いた自覚しかなくて、頭を抱えて土に埋もれてしまいたくなる。 いたいと言って噛みしめられた唇も、喘ぎの合間にまってと呟いていたことも、目尻を濡らした幾筋の涙も、全て無視してハンジを奪った。 酒に溺れた夜のせいだと何度も自分に言い訳をして、抗う気のない快楽のままハンジを抱いて。 どろどろのまま溶けるように眠りに落ちた翌朝だ。 「――うっおぉ……なにこれ腰痛えぇ……っ!」 腕の中から地を這うような呻きが聞こえて目が覚めるのは、さすがにモブリットの予想外だった。 二日酔いは大丈夫らしいと明後日の方向を考えて、それより酷いことをしたのだという事実に昨夜とは別の次元で今更震える。抱いていた腕に力が入って、目覚めをハンジにも気づかれてしまった。 「あ、おはようモブリット」 「お――はようございます」 「昨日ごめん。実はあんまり覚えてなくて……モブリットは覚えてる?」 「え」 若干の衒いとともに言われた言葉に衝撃を受けて固まってしまったモブリットを、ハンジは同士と受け取ったらしい。へへ、と困ったような笑みを浮かべて、上目遣いにモブリットを見た。 「ねえこれ、どう考えてもいたしてるよね」 「……そう、ですね」 「やっちゃったかー」 「……あ、あの」 「ごめんね。あー、まあお互い記憶も朧なようだし、これ幸いとすっきり忘れて――」 「いいえ!」 「え?」 なかったことにはしたくない。 ハンジの言わんとしていることを察して、モブリットは咄嗟に身体を起こして叫んでいた。驚くハンジの顔が見れずにベッドに縫い付けるように肩を掴んだまま、どういえばいいのかと逡巡する。 あなたに記憶がなかったとしても、俺は全部覚えてるのに。 あなたにとっては、そんなに些細な出来事でしたか。 俺は、一生忘れられない。あなたの声も、反応も、流した涙が俺のせいだということも―― 「いえ――いいえ、無理です、その、俺は……」 ずっと欲しかったものが、口にすることは一生無理だとどこかで諦めていたものが、一夜の夢から目覚めた朝に、さらさらと零れ落ちていく音がする。 だというのに、それ以上気の利いた言葉の一つも出てこない無能な男に見下ろされたハンジは、やはり驚いたように両目を開いていた。それから「モブリット」と名前を呼ぶ。それは昨夜、何度も聞いた甘さとはまた別の、いつもの呼び方に少し親しみを混ぜ込んだような音に聞こえた。 「じゃあ、ええと、よろしく」 肩を抑えるモブリットの手をごそごそと窮屈そうに退けさせて、ハンジに右手を差し出される。思わず隣に寝転んでしまったモブリットが、わけのわからないままその手を取ると、きゅっと握り返された。 へへっと笑ったハンジの目尻に昨日の涙の跡を見つけて、モブリットはもう片方の手でそっと触れた。おとなしく目を閉じたハンジに「なに?」と囁かれても答えられずに、もうすっかり乾ききったその跡を何度も撫でる。ゆるゆると瞼を上げたハンジが、モブリットの頬に触れた。 明るい部屋では初めての距離にいるライトブラウンの瞳がモブリットを真っ直ぐに見つめて、それからまたゆっくりと閉じられる。何を、と言われたわけじゃない。けれども月夜の引力とはまた別の引力に惹かれるかのように、モブリットはそっとハンジに唇を重ねていた。 よろしく、と言った彼女の真意は、つまり、こういうことで良いんだろうか。 自分は、そのつもりしかないのだけれど。 「……よろしくお願いします」 「うん。よろしく、モブリット」 シーツの中では一糸纏わぬ姿で触れ合いながら、握手を交わしてそっと触れ合うキスをする。 アンバランスな挨拶の朝が、二人の関係の始まりだった。 |