モノクロショコラが融ける前B




それは壁外から無事に帰還し、上層部や他兵団や商会への報告を全て終えた夜の事。
付き合わないかと秘蔵のボトルをチラつかせたミケに誘われ、皆の寝静まった談話室について行ったら先客がいた。よう、と言われたミケが無言で彼の隣に座る。偶然というわけではなかったらしい。既に三人分のグラスが用意されていたが、さほど気にせず「よ」と手を上げ私もその隣に座った。酒を酌み交わせる人数が増えるのはいいことだ。
三人揃っての最初の一杯は壁外に散った仲間たちへ。それを飲み干してしまえば、後はダメな大人の簡素な酒宴に早変わりする。
立体機動のワイヤーがどうの、班員の連携がどうの、巨人の生体実験がどうのと健全な話題で盛り上がったところで、議題が私の副長になったのは、今覚えば予定調和だったのだろう。

「モブリット? 大切だよ?」
「ならもう少し奴の胃も大切にしてやったらどうだ」
「え? なになに? モブリット腹壊してたの?」

そんな様子はなかったけれど。今日の別れ際、おやすみなさいと言っていた彼の様子を思い浮かべてそう言えば、リヴァイは眉間を嫌な感じに歪ませて、ミケはグラスに視線をやった。何でこいつら人の副長の健康状態を私より先に把握してんだ。そう思ったが、言うより先にリヴァイが呆れたように溜息を吐いた。

「……あいつも何でお前なんかが良いんだかな」
「本当デキた副長だよねえ」
「あ?」
「――何?」

そつなく業務をこなして無闇に遠巻くこともなく、きちんと話を聞いてくれるし、なおかつ理解しようといてくれる。一種トランスに陥る自覚のある私を、諦めずに果敢に毎回引きずり戻してくれるのも、部下ならもう彼くらいだ。
モブリットの献身にしみじみ感謝していると、リヴァイが変な声を出して私を睨んだ。

「副長、なのか?」
「何言ってるの、そんなの当たり前――……リヴァイ酔ってる?」

モブリット・バーナーは第四分隊副長だろう。今更確認のいることじゃない。
まさかと思い、酒の注がれたグラスを取り上げようとしたら、素早く遠ざけられてしまった。この反応の早さなら、酔っているわけではなさそうだ。
疑問に思っていると隣のミケが私を呼んだ。

「モブリットとは何もないのか」
「それどういう――……」

腹を下してるとかそういう話かと考えて、二人の妙に奥歯にものの挟まったような言い方で察しがついた。
なんだ。今日の誘いはそういうことか。
合点した途端、自分の口角が持ち上がっていくのを感じた。何を言い出すのかと思ったら。わざわざ酒宴の席を設けてまでとは、そんな大層な話でもないのに物好きなものだ。

「いわゆる男と女の関係って話? ないない! まったく! これっぽっちも! あるわけないじゃん。モブリットだよ?」

そう、モブリットだ。そりゃ研究も佳境に入ればほとんど四六時中一緒にいるし、風呂に入れさっさと寝ろ栄養を摂れと耳元でガミガミやかましい――もとい、心配してくれる姿に、そういう邪推をされていることも知っている。が、私達にそういう浮いた雰囲気は一度もない。嘘偽らざるそれが真実。
ぶはっと笑ってグラスを煽れば、ちっと舌打つリヴァイとは逆に、ミケは存外真面目な表情のまま私に次を注いでくれた。

「モブリットだから、だ。あいつはお前を好きだろう」
「そうだろうね」
「……ハンジ」
「私も好きだよ。でもそういうのじゃない。彼の好きは尊敬とか敬愛とか、そういう類のものだ」

彼らが何を言いたいのか何となくわかる。こんな世界でふらふらしているように見える私達の関係を、生存率の観点から純粋に心配してくれているのだ。供される酒の質がよすぎるから、たぶんエルヴィンも一枚噛んでいるに違いない。付き合いが長い分だけ面倒くさい親しみを感じる。
私の断言に、けれども納得がいかないのか、二人はちらりと目顔を合わせ、またミケが静かに口を開いた。
リヴァイが煽って、ミケが突く。なるほど。役割分担もしっかりしている。連携の妙が取れているのを見ているのは、立体機動でも会話でも、それ自体は嫌いじゃない。むしろ少し楽しくなってきてしまった。

「それだけか」
「それだけだよ。他に何があるの。そうじゃなきゃ彼の言動はおかしいことになっちゃうでしょ――っと」

その楽しさで、うっかり口が滑ったしまった。
酒のせいもあるのかもしれない。
別に疚しいことではないが、いちいち彼らに心配の種を蒔くことはなかった。が、クソメガネ、と呼ぶリヴァイは捨ておいてはくれないらしい。どうでもいいけど、質問する時くらいメガネはやめてもいいんじゃないか?

「何があった」
「寝てるんだろう。モブリットと」
「……におい? さすがミケ!」

それでもどこまでの進展具合かはわからないからだろう、珍しく難しそうに眉をしかめて私の言葉を待っているミケに、少し申し訳ない気持ちになった。
肩を窄めて誤魔化してみても二人の視線は逸れてくれない。楽しいけれど面倒な飲み会に付き合ったなと反省する。
寝てる――そう、モブリットとは寝ることがある。けど、そういう寝方はしていないんだよ。キスだってしたことないんだから、あるわけないだろ。どういえばわかってもらえるだろうかと逡巡して、私は空いたグラスに手酌で半分ほど酒を注いだ。

「あのね、二人が考えてるようなことは何もない。研究に付き合ってくれるもんだから調子に乗っちゃって、何徹にもなっちゃうことがあったりするだろう? で、二人してグロッキーで、面倒だからここでいいやって寝ちゃうことがあるだけだよ。あったかいんだよモブリット。なんか気づいたら熟睡みたいな。ね? ほら、健全な睡眠欲。あなたたちと違う」
「合意の上だ。非合法のように言うな」

暗に彼らのパートナーを示唆してみても、こうもあっさり返されてしまっては揶揄うことも難しい。ミケに質疑のバトンを受け渡しているリヴァイはそれだけ言うと、後はただ眉間の皺を深くしただけだった。
というか何で今更こんなことを聞かれなきゃいけないんだっけ。考えて、ああそっか。昨日モブリットと一緒に部屋を出たところを、そういえばリヴァイに見られていたなと思い出した。その後エルヴィンの執務室に書類を提出しに行ったらミケがいたし、午後から彼の元にモブリットを遣いに出したこともあった。なるほど。同じニオイでもしていたのかも。いや、きっとそうに違いない。これといった既成事実の証拠もないから今まで黙っていた彼らが、ついに乗り出したのはそういうわけか。でもそれ、何の物的証拠にもなり得てないぞとツッコむのは止めにした。
いつものことだと放っておいてくれないのは、実はイイ奴だからだよねと言えば、特にリヴァイには怒られそうで、面倒だから今は言わないことにする。
男女の仲は多々あるし、上下関係も信頼関係も、それぞれ多様にあるんだということを説明しても無駄だろうから、おとなしく質問に答えておくか。その方が解放が早いと、まだそれほど酒の回っていない頭で判断する。

「モブリットは何も言わないのか?」
「小言ならしょっちゅう言われてるけど」
「そういう意味じゃない」
「言わないよ。言わないししない。彼は私をそういう目では見ていない」

だから一緒にいられるんだろう? と言って笑えば、ミケは怒るでも呆れるでもなくじっとこちらを見つめてきた。まるで内心を見透かそうとするかのような無言な視線は、するのは得意だがされるのはあまり気持ち良くはない。

「お前も、そういう目で見たことはないと?」
「今日はやけにつっかかるんだなあ、ミケ」
「言質を取ってこいと言われている」
「ナナバ?」

指摘すれば、ようやくミケの顔がムッと歪んだ。してやったりな気分でくすくす笑いがこみ上げてくる。
その気分に押されて、私は首を横に振った。

「ないよ。私にあったら彼が困るでしょ」
「何故」
「なぜって――私これでも彼の直属の上官なんだけど。ああ、リヴァイもそうだけど、そっちは合意の上なんだし?」
「俺達のことはいい」

こっちのチビは歪めた眉間は平常運行だから、表情の変化はわからない。ただ、ミケのバトンを奪い返して私に突きつけてくるくらいは、この会話に苛ついているのだということがわかった。

「だがあいつも男だ。一つベッドで寝るなら、そういうことになったとしても――」
「それならそれで仕方ないね」
「……ハンジ」

咎めるような響きで名前を呼んだのはミケだ。それに呼応してチッと舌を打ったリヴァイもきっと同じ気持ちなのだろう。どうにも彼らは私を誤解しているようだ。それにモブリットのことも。

「さすがにそれくらいわかってる。だから私は、例えばこの飲み会後に、あなたたちと同じ部屋に帰るつもりはない」
「それはつまり、あいつならいいってことだろ」

結論を急ぐリヴァイに笑って、私はグラスを一息に煽った。

「でもそういうことにはなってない――つまり、そういうことだよ」

だから最初から言ってるじゃないか。
モブリットにその気はないって。

例えば手の掛かる上官を無茶だ止めろと諫めながらも、私が本気で求めれば絶対に応えてくれる献身さがある。あったかい布団の中で腕に抱いて私に安らいだ時間を与えてくれるのも、須くその延長であって、巨人に近づく私を止めようと回される腕と、そこに何らの差違もない。それを私は知っている。おはようと言えば「……あんた、もう本当自分の部屋で寝てくださいよ。体痛い……」と嘆く彼はどうしたって素直だろう?

そんな彼のことだ。私が本当に求めれば、おそらくモブリットは拒まない。その程度には彼が私に執着してくれているのをわかっている。そうなったとして、きっと彼は何事もなかったかのように振る舞ってくれるだろう。そんな都合の良い関係も、私の為なら、自分に多少思うところがあったとしても、飲み込んで道を均そうとするんだろう。
そんな優しすぎる彼を知っていて、これ以上を求めるなんて、どうして出来ると思うんだ。

空いてしまったボトルを振って、わざとらしくリヴァイを真似た舌打ちをする。ミケが今度こそ呆れを存分に含んだ声でもう一本をあけてくれた。ボトルの先で示されて、グラスを差し出す。

「ハンジ、お前モブリットと二人で酒でも飲んでみたらどうだ」
「ええー、絶対やだよー!」
「ひでえな」
「どうして」

同時に問われて、私は思い切り眉を顰めた。
二人で酒。冗談じゃない。班員全員で飲むだとか、慰労会や祝賀会で席を一緒にするならともかく、飲んでる時はそもそも彼の近くにいたくないのだ。

「だって絶対セクハラしそうじゃん!」
「大概してんじゃねえか」
「そうじゃなくて!」

私はダンッと拳を強くテーブルの上に叩きつけた。もっと直接的なセクシャルハラスメントを、万一彼にしたら困るじゃないか。
あなた達とさえ、面倒くさいと思いつつグラスを傾ければこんな話題を続けてしまうほど、アルコールは箍を緩めようとしているのに、モブリットと二人なんて冗談じゃない。
笑いと喧騒渦巻く酒宴なら関係ないが、二人はダメだ。理性ではありえないと思っているだろうモブリットが、例えば恋人に重ねてしまって間違いが起きた朝が来ないとも言えないし。青褪めて謝罪する彼を想像してみろ。ものすごく不憫でどうしようもない。
さすがにそれは言葉に出さずに苦虫を噛み潰したような気分でグラスを呷る。

「酔っ払いは普段より安全だと思うが」

と、ミケがぼそりとそう言った。
聞き返そうとしたところで、リヴァイがしたり顔で頷く。

「ああ、勃たねえからな」
「おい、セクハラ軍団。さすがに削ぐぞ」

何だこいつら。
酒の失敗談を語りだしたわけじゃないんだろう。人の顔を見るな。
ジト目で睨んだ私に、ミケが気にしないとでもいうように視線を逸らして自分のグラスを傾ける。

「他に理由があるのか?」

他に? そもそもモブリットが酒の勢いでどうこうしようとしてくるわけがないじゃないか。
そこのところをわかってないなあ。むしろ問題は私なんだよ。ただでさえ、いつもモブリットに負担をかけて、さらに酔っ払いの世話までさせたら可哀想だろう? へべれけになった私が絡むというのは、こうして飲んだ翌朝にミケがよく言っていることだった。ナナバからも「ハンジはよく絡む」と半眼で窘められたことだってある。だからしない。モブリットには絡まない。時折擡げる感情の行く先を、彼にだけは見せてはいけないとわかっている。

「……だから、普段より絡んだら迷惑だってことくらい理解してるし、そのくらいは彼を労う気はあるってこと! 言ったろ。モブリットは大切な副長なんだよ」

いつの間にか大切の意味が追加されてきてしまっていたのは、自分でも驚いているところだ。
それでも私は、彼から送られる尊敬と敬愛に応えたいとも思っている。
これは最近気づいたことで、つまり私はモブリットに嫌われたくないと思っているらしいのだ。

(呆れられてるのは知ってるけどさ)

自嘲気味に内心でそう付け足した私を、ミケとリヴァイが何とも言えない表情で見下ろし、見上げてくる。
振り切るように、グラスに残った琥珀色の液体を一息であけ、私は勢いよく机に戻した。
この話はここで終わりだ。寄って集って散々人の話を聞き出そうとした罪は重い。ナナバの話は――ミケのことだ。聞けばペラリと話すだろうから置いといて――ペトラの話を聞いてやる。それこそ根掘り葉掘り。合意の上に至るまでの詳細はどのみち口を割らないだろうから、最近ののろけと進展具合を。
リヴァイがザルでも知るものか。飲ませて飲ませて絶対僅かでも割らせてやる。息巻く私の気概を察したのだろう、ミケが困惑したように片眉を上げ、それからすっと視線を逸らしてくれたのだった。