教えてバーナー先生!




キスにはそれぞれ意味がある――

久し振りの班別対人訓練の帰路だったか。
そんな話題になったのは、宿舎と宿舎の間を繋ぐ裏通りの一角で、熱い抱擁を交わしている男女の兵士を見てしまったからだった。別に珍しいことでもない。が、昼日向、下手をすれば任務中という時間帯にわざわざ陰に隠れてするというのは、あまり公に出来ない間柄なのかと邪推も沸く。

「ねえ、あれどうしようか。声掛けた方がいいと思う?」
「……馬に蹴られますよ。掛けたいならどうぞ。俺は離れた所で応援しています」
「え、それ酷くない?」

隣で本当に一歩引いた部下を振り返る。
ここを通るのが研究室までの一番の近道なのだが、仕方ない。急を要する実験があるわけではないのだからと、ハンジは大仰に肩を竦めてみせた。

「仕方ないから遠回りするか」
「そもそもそれが本来のルートですけどね」
「うっお、細かいな! モブリット最近小姑化してない?」
「失礼な」

ぶつぶつと文句を言いながら表通りへと歩きだしたハンジの斜め後ろに従うモブリットは、特に気にした風もない。随分自分の扱いに慣れてきたものだと思いながら、ハンジは「そういえば」と首を傾げた。

「キスって意味があるんじゃなかったっけ」
「はい?」

何の事はない雑談だ。かなり昔――入団する前かした後だったかも判然としない昔に、誰かがそんな話をしていた気がする。先程見た光景に触発されたのか、ふとそんな場面を思い出した。

「そうそう、確かキスの場所に……じゃないか、回数? あ、三回連続でしたら悪口だ!」
「……それはくしゃみです。三回もしておいて悪口とかどんな嫌がらせですか」
「あれ、そうだっけ?」

ポンと手を打ったハンジにモブリットが呆れたように言った。振り返り、少しだけ歩調を緩めて隣に並ぶと、そうですよ、と小さな苦笑が降ってくる。

「キスをする場所でそれぞれに意味がある、というのなら聞いたことがありますけど」
「あー、そうだった。そんな話を誰かがしてた気がする!」
「……恋人と?」
「うん?」
「あ、いえっ、何でもありません」

聞き取れなかった言葉を拾おうと隣を見ると、目が合った瞬間、モブリットが慌てたように首を振った。
何を言い掛けたのだろう。しばらく続きを待ってみたが、彼は黙って前を向いてしまった。大分傾いた陽射しのせいか、心なし顔が赤く見える。
今の流れで何をそんなに言葉を選ぶ必要があっただろうか。キスの話がまずかった? だが別に他愛ない雑談だ。無理矢理迫ったわけでもない。訝るハンジの視線に耐え切れなくなったのか、モブリットは誤魔化すように咳払いを一つして、言いにくそうに口を開いた。

「あの――それで分隊長はご存じなんですか?」
「何が?」
「……キスの意味、という話では」
「そうだったそうだった。いや、あるらしいって話を誰かが言ってたなって思い出しただけ。結局あの時は誰も知らなかったんじゃなかったかな――ああ、そうか。訓練兵の時だったのかも。同室の子達と……」

確か――確かそうだった。
もうほとんどいなくなってしまった同期の顔が記憶に甦ってきて、ハンジの眦がふと下がる。
そんな話を教官に聞くわけにもいかず、仲間内でも耳年増な少女が、いつか全部わかったら教えてあげると息巻いていた情景が淡く甦ってきた。
あの子は何回目の壁外調査でだったろう。

「――たとえば、髪は『思慕』ですよ」
「え?」

微笑ましい時代と郷愁に巻き戻っていたハンジを、モブリットの声が今に戻した。
振り仰ぐと、存外柔らかい視線の彼が自分を見下ろしていることに気づいた。モブリットはたまにこういう顔をする。
例えばハンジが少し煮詰まっている時だったり、妙な喪失の中で一人もがくしかない時だったり――そこを抜けて一番最初に見る顔がこういう顔のモブリットだと、そう悪くない気持ちになるようになったのはいつ頃だったかわからない。ただ、ハンジが自覚したのは最近だった。
目を細めて見つめられるなんて、それこそ親かここでは年長のエルヴィンくらいのものだったはずなのに。
彼らとは少しだけ違う表情を覗かせるモブリットの目元の柔らかさが嫌ではなかった。
仲間を想いハンジの心に潜んだ感情が、その視線で霧散する。

「キスの場所と意味です。瞼は『憧憬』、頬にはいくつかあって『親愛』『厚意』『満足感』――」
「え、ちょっと待って。モブリット知ってるの?!」

指を折りながらそらんじられて、ハンジは目を丸くした。

「俺が知っているのはいくつかの場所と意味だけです。気になるなら、その他や謂われはご自分で調べてください」
「待った待った! 書くから待って!」

道の端に寄り、目指す兵舎とは違う壁に寄りかかる。
ごそごそと胸の釦を外し、手帳を構えると、ハンジは改めてどうぞと促した。
まさかこんな所で答えを知る事が出来るとは。
ふと思い出した記憶の懐かしさが潜んだ今、それ以上に知識欲が刺激される。息巻く上官の姿にホッとしたように少し笑ったモブリットは、また最初からゆっくりと言葉を繋いでくれた。
鼻は愛玩、喉は欲求、爪先は崇拝、背中は確認、指先は賞賛、唇は愛情、エトセトラエトセトラ。
淀みなく披露される知識に「へー!へー!」といちいち感嘆の声を上げながら書き込みを終えて、ハンジは満足げにノートを見つめた。数えてみると22カ所、同時に複数の意味を持つ場所があるのも面白い。

「ねえねえ、この中でモブリットが私にするとしたらどこにする?」
「は?」

思いつきの言葉に虚を突かれたような表情でモブリットが聞き直した。自分ならどこにするのが一番合うだろうかと考えて、ハンジはノートと彼を見比べながら、ずいっと一歩前に出る。

「例えばでいいよ」

意味を持たせてするとしたら、『親愛』と『友情』の頬と額くらいが丁度良いか。唸りつつモブリットの顔をまじまじと見定めてみる。モブリットからしてくれるなら、自分にどんな意味をくれるのだろう。
じりりと距離を詰めていくと、モブリットが思い切り後ろに飛び退った。

「し――しませんよ!?」
「えー、いいじゃん。キスくらい別に減るもんじゃないし」
「減るも……って、それ女性が言う台詞じゃないですから!」

無理にさせる気があったわけではないが、距離を取ってまで赤い顔で正論を諭してくる年下の部下は何故だか少し面白くない。先程まで穏やかな深さで自分を見つめていたくせに何だその変わりようは。だがあまり深追いをして、後でセクハラとエルヴィンに叱られるのも遠慮する。
壁に戻ってどうしたものかと熟考したハンジが気分を害したとでも思ったのだろう。若干の警戒を残しつつもまた傍まで戻ってきたモブリットから、「思考の柔軟性に関しては指先です」という面白くも何ともない真面目な回答を貰ったハンジは、それを言うのですら妙に居心地悪く目を泳がせた部下としての可愛さに免じて追求するのはやめておいた。
指先の意味は『賞賛』だ。記載したメモ帳で確認してからパタリと閉じて、胸ポケットに仕舞い直す。
それを合図に歩みを再会すれば、すかさず横についたモブリットに、改めてハンジは言った。

「それにしても、モブリットがキスに詳しいなんて意外だったな」
「詳しいわけでは……。姉が一時期そういう話にやたら凝っていた時期がありまして。ほとんど無理矢理教え込まれたんですよ」

本人はすっかり忘れているみたいですが、と苦笑する表情に深い愛情が滲んで見えて、ハンジは目元を和らげた。気がつけば先程より二人とも歩調が大分遅くなっているが、急ぐ用はないのだ。ハンジは隣を歩く部下を見遣った。
さっと記憶にある身上調査書の家族構成を思い出す。両親と姉が二人――いや、三人だったか。確か下にもいたはずだ。

「お姉さんかー。可愛がられたでしょう」
「いい玩具でしたね。女系家族の男子なんて扱いの序列は最下位と紙一重です」
「それは愛情をたっぷり注がれていた証拠だよ」
「注ぎ方の問題ですね……」

何かを思い出しているらしいモブリットの眉間が寄せられる。子供の頃の少しばかり羽目を外しただろうお遊びは、どうやら弟受けがあまりよろしくなかったらしい。
それでも家族への愛情の深さは垣間見える話しぶりは微笑ましく、ハンジは伸びをしながら空を見上げた。

「はは、でもちょっとわかるなあ。そんなつもりはないんだよ。今思えばってことは――……ある、かも? どうだろう、子供の頃だしあまり覚えてないけど、興味や楽しいと思うことを一緒に分け合いたかったんだと思う」

自分の価値観が須く他人も同じではないのだということに気づくまでの短くない時間を、親兄弟――特に年下に生まれついてしまった者が被害を被るのはよくあることだろう。身に置き換えてハンジは過去を振り返った。
キスの意味も経験もなかっただろう子供に意味を教え込んだ彼の姉と、イモリやカマキリを本気で泣き出すほど嫌な人間がいるとは思わず持たせようと迫った自分は、どこか似ていると言えるのかもしれない。

「……分隊長の弟さんとは、ものすごくわかりあえる気がします」

何をと口にしてはいないのに、感じることがあったらしい。しみじみと呟いたモブリットに笑って、ハンジはニヤリと口角を上げてみせた。ひょいと覗き込むようして前に回る。

「でもさ。無理矢理でも覚えたその知識で女の子を口説いたこともあるでしょう?」
「ありませんね」
「え、何で!?」

子供の頃に得たキスの知識を今でも覚えているくせに、思春期に何をしていたのか。さらりと否定されて、ハンジは次の揶揄いの言葉を驚きに変えた。と、呆れたようにモブリットが肩を竦める。

「そんなに驚くところですか? キスひとつにいちいち意味の説明なんて蘊蓄、普通嫌がられますよ」
「……使い方の問題だね。残念な弟だー」

変なところで生真面目なモブリットらしい答えに頬を緩めて、ハンジは頭に手を伸ばした。柔らかい金髪をくしゃりと撫でると、振り払いこそしないものの、珍しく苦笑ではなくムッととした顔のモブリットに睨むように見つめられた。

「誰があなたの弟ですか」
「お姉さんに重ねて見てもいいよ?」
「全然似ていません」

軽口のつもりで言ったハンジに、モブリットは今度こそはっきりと否定した。家族に重ねるだなんて、少し度が過ぎたらしい。ごめん、と言い掛けたハンジの手を、しかしモブリットは思いの外ゆったりとした動作で自分の頭から外させた。そのままじっと指先に触れられて、ハンジの方から動きにくい。モブリットの手が少しだけ力を込められた気がした。
不満げな表情の意味を計りかねて見つめていると、

「あなたを誰かと重ねるなんて不可能だ」

憮然としてそう言い切られて、ハンジはぽかんと口を開けてしまった。「一緒にするな」という意味ではないらしい。家族と重ねた非礼に怒ったのだと思ったのに、こんな基準まで自分にあったとは思わなかった。改めての驚きを感じて、ハンジは思わず息をついた。
奇怪だなんだと野次られる傾向の自分を、純粋な尊敬と、おそらくそれ以外の感情を含んでいるらしいことに気づいていないわけではなかった。けれどもはっきりとさせないでいてくれる居心地の良さに浸たりながら、反面そうなったら自分はどうするつもりなのかという思いから、回答を避けていた節は確かにあった。だというのに、まるで告白まがいの発言を受けて、安堵しているらしい自分にもハンジは改めて驚かされていた。

「あなたはあなたです。姉に重ねたことなんて一度もない。あなたは俺の――俺の、尊敬する、上官、です、し」

何故だか尻すぼみになっていく言葉と裏腹に、目尻を染めた彼の視線は逸らされなかった。
ああ可愛いなと思ってしまったのは、どんな感情からだろう。

「ありがとう。――ねえモブリット」

少なくともイモリで泣いてしまった弟のようだと思ったことは、ハンジだって一度もない。
取られていた指先を返して絡める。一瞬ぴくりと動かして、そのまま大人しく固まってしまったその手を、ハンジはもう片方の手でいいこいいこと撫でさした。

「私も、君を弟のようだと思ったことなんて一度もないよ」

今のように指先をとられた先で、じわりと熱の灯るような存在を、弟に見るのは不可能だ。

「モブリットはモブリットだ。私の――」

仲間で部下で、理解のあるとても得難い副長で――

そう意味を乗せて言うつもりが、自分でも軽く驚くくらいの熱情がこもってしまったのはどうしてだろう。
これではこちらもまるで告白をしているようだと思いながら、目を丸くしてこちらを見つめるモブリットに、ハンジはふっと微笑した。

「――私の話をいつも最後まで馬鹿にしないで聞いてくれるし、理解しようとしてくれるし、どんなに無茶をしても絶対全力でギリギリを見極めてくれる。私が振り向かないでいけるのは、必ず君が居てくれると信じているからだ。ありがとう」

それに食事の心配と風呂の催促と着替えの準備と。数え上げたらキリがないな。
ね、と笑顔を向けると、数回目を瞬いてモブリットは我に返ったように、ハンジの手から自分の手を引き抜いた。いつもは穏やかそうに弧を描いた柳眉がしなやかに吊り上がっていくのを見ながら、怒らせたかなと思う。けれどもその顔が夕陽以外の朱を刷いて見えたから。

「本当に感謝してるんだよ? 君は私の知らないことを教えてくれる」
「からかわないでください。そんなこと――前半はあなたの補佐として当然ですし、後半は自覚があるなら問題です。そこは本当に直してください」
「あれ、信じてないな?」
「信じるも何も……。感謝は有難く頂戴します。ただ知識や経験であなたの知らないことなんて――」
「キスの意味も教えてくれたよ」

言うが早いか、ハンジはモブリットの鼻先にしれっと唇を触れ合わせた。
鼻先は『愛玩』だと胸ポケットの手帳に書いた。

「あ、ここって大切って意味にもなるよね?」
「――!!?」

目を覗きながらでそう言えば、モブリットが面白いくらいに後ろに跳んだ。

「あああんた、何し――っ!?」

鼻どころか顔を覆って、声にならない悲鳴を上げる。その耳が異様に赤くなってしまっているのは、もう夕陽のせいだけに出来そうもない。
ああ、やっぱり可愛いなあ。
しばらく頭を撫でさせてくれる隙をくれなさそうなほど警戒の目を向けられながら、ハンジはふはっと吹き出した。
弟のような歳の、弟には思えない相手に抱いているらしいこの感情も悪くない。
笑いで溜まった目尻の涙を拭いながら「ごめんごめん」と言ったのは、モブリットの逆襲までそう長くかからないとは知らない、過去のある日の出来事だった。


******


ふと目が覚めて、最初に映る顔が彼だということに驚かなくなったのはいつからだったか。正直あまり覚えていない。
いつもは柔らかく顔の中心付近で分かれている前髪が無造作に下りているのは、昨晩自分がいいように乱してしまったせいだ。よく見れば実は整った顔立ちの彼が、今はやたらとベビーフェイスに見えるのも、ふわふわとさせてしまった前髪の効果だろう。
寝起きの頭とはいえ、これが可愛い等とうっかり思ってしまうのだから、自分は相当どうかしている。
緩んだ頬を自覚しながらそっとベッドから腕を出して、ハンジは寝息のリズムを崩さないモブリットに手を伸ばした。

「……ハンジさん?」
「ん、まだ早いから寝てていいよ」

カーテンを開けてもおそらくまだ朝陽は届いていない。
思い切り抱きついておいて言うのもおかしな台詞だとは思ったが、ハンジはそう言うと、もう少し勝手に抱きついておこうとモブリットの背中に回した腕で、ぽんぽんと優しく叩いた。頭上で微妙に唸る可愛い部下を思いやるつもりで、寝かしつけるように二度三度とさすってやる。そのまま寝てしまうかと思ったモブリットの腕がハンジの腰に回された。

「おはようございます」

意外にはっきりとした声とともに、ハンジの旋毛にキスが降る。柔らかな唇の感触と吐息の温もりに頭を上げかけて、ハンジはふと動きを止めた。
キス、キス、――意外なところにも意外な意味があるという口付けの行為。
モブリットが教えてくれたキスの場所と意味とが頭に浮かんで、ハンジは記憶を手繰ろうと、抱き寄せられたままの胸に額を押しつける。

「ハンジさん?」

少しだけ腕の位置を上に動かしたモブリットが名前を呼んで、けれども答えのないハンジの様子にそれ以上の言葉を掛けてはこなかった。
それをいいことに、思う存分思考の波に没頭する。
手の甲は尊敬――禁書で読んだことのある騎士の宣誓の様式からきているらしいということを後で知った。この壁内でも、貴族達のダンスではそういう申し込みの方法が当然にあるのだから、なるほどなと興味深いところでもある。唇は愛情ーー深さによって親子から恋人同士まで幅広く対応の聞く応用力は面白い。何よりハンジ自身、挨拶のキスから甘さと激しさで翻弄されるようなキスまで、それこそ抱きついている男の唇と与え合っているのだから、知識と理解がリンクしている好例だ。額は慈愛、だっただろうか。ここの理由は何が由来なんだっけ。
いや、それよりも旋毛。そう今は旋毛だ。旋毛に落とすキスの意味をモブリットから聞いただろうか。いや、そもそもなかったような気がする。それともどこかに書き留めたのを忘れているのか――

「……つむじ……、はない、か……?」
「……」

腕の中でほとんど無意識にだろう呟かれた言葉に、モブリットが首を捻った。
つむじ? 巨人の――いや、あなたの?
思考に溺れているらしいハンジの唇が、小さく単語を紡いで開閉を繰り返しているのがわかる。
その言葉とハンジの様子にあたりをつけたところで、ハンジが「ねえ」と眉を寄せてモブリットに視線を戻した。

「はい」
「まだキスの意味覚えてる?」
「覚えてますよ。旋毛はそもそも理由を知りませんけど」
「……」

さらりと付け足された言葉に、ハンジが驚いたように目を瞬かせる。
どうやら当たっていたようだ、と内心でほくそ笑みながら、モブリットはもう一度ハンジの旋毛と、それから額とに軽く唇を落としてみせた。

「俺の独自解釈でさっきと今の行為を説明させて貰えれば、おはようございますという挨拶と、朝からくっついてくるとか可愛いですね、というくらいの意味でしたけど」
「……モブリットめ」

しれっと解説してきた可愛げのない恋人の台詞に、ハンジはキスの落とされた額に手を当てた。何で考えていたことがわかったんだ。しかも意味を増設されて、そんな目で柔らかく見つめるなんてやめてくれ。
仕事に入ればカチリと切り替わるモブリットのスイッチが、今は完全に自分に向けられているのだとわかる柔らかい視線で覗き込まれて、ハンジはムッと唇を尖らせた。
隙をついてするりと入り込むのが随分上手くなったものだ。「減るもんじゃないし」という言葉に頬を染めて抗議していた、あの日の可愛らしさはどうやら家出中らしい。

「……モブリットめ」

くやしい。
腕の中から地を這うような声で恨めしげに呟けば、それも予想の範囲内だったのだろう。くしゃりと眉を下げたモブリットは苦笑して、宥めるように二度三度と優しくハンジの背中を撫でる。
巨人の側から慌てて引き剥がす時の強引さとはまるで違う。ハンジの身体を知っている男の、愛撫に似た甘い動作だ。
猫がどこを撫でれば喉を鳴らすのかを知っているように、犬が何をされれば尻尾を振るかを知っているように、ハンジの矜持に揺さぶりをかける。

くやしい。くやしい。

甘やかそうとして甘やかされたのも、見透かされたのも。
忘れた頃に、恋人は男だったのだと思い出させるタイミングも何もかも。

「モブリットめー!」
「わ――!?」

このまま終わらせてなるものか。
やさしく包んでいた腕を振り払うように抜け出して、ハンジはモブリットの上に乗り上げた。
さすがに予想していなかったらしく、朝に似つかわしくない声を上げたモブリットが、目を丸くしてハンジを見上げる。それにフフンと鼻を鳴らして、ハンジはニヤリと口角を上げた。

「バーナー先生はキスにお詳しいようだから、色々ご教授願おうかな」
「は? ちょっ、待――」
「間違えたらペナルティ。今日の巨人の生体実験、絶対私が先陣切る」
「はあ!? 何を馬鹿な――」
「ここ! の意味は何でしょー!」
「う、わっ!」

モブリットの抗議は全て途中で遮って、ハンジは有無を言わさずその二の腕に歯を立てた。キスとは名ばかりの軽い攻撃に、モブリットがびくりと身体を揺らす。
その反応にしてやったりと目を細め「もう降参?」と嘯けば、モブリットは全く納得がいかないという表情のまま、不承不承で答えを口にした。

「……『恋慕』、ですね」
「ちっ」

正解だ。
モブリットの胸元に顎を当てて見上げていたハンジは、くそ、と小さく毒づいた。簡単すぎたか。なら次はどうだ。

「ちって、あんた――」
「じゃあここは?」
「ちょっと!?」

言うが早いか、ハンジは豪快にシーツを捲り上げ、脇腹に滑り込んで唇をつける。擽るように腹筋を啄めば、モブリットが慌てた声を上げた。

「わっ――、え、腹は……『回帰』、ですっ」

それも正解。
もうやめましょうよと戸惑うように言うモブリットには耳を貸さずに、ハンジはぺろりと唇を舐めてみせた。
シーツを頭に被った状態で少し下がり、腰骨の上から指でなぞる。

「じゃあここ」
「だから……ああもう、『束縛』ですね!」

つ、と動かしても動じない返答はやはり正解で、「この野郎」と内心の罵理雑言が頭を擡げる。少しくらい喉を詰まらせるなり、言葉を飲み込むなりしても良い場所じゃないのか。
確かに場所の意味を教えてくれたのはモブリットに違いないが、それでも何だか面白くなってきた。ハンジは自分を支えるモブリットの腕を捩って逃れ、ぐいと身を乗り出した。

「う、わ!」
「ここー!」
「『祝福』、と『友情』……って、だからもう――」

さすがに歯は立てずにリップ音を響かせた額の意味も正解だ。すかさず頬に唇を滑らす。

「ここは!?」
「『親愛』『厚意』『満足感』!」
「一個くらい間違えろよ!」
「あんたこそ、全部覚えててやってるでしょ!」

両頬を挟んで睨めつけると、モブリットも離させようとハンジの両手首をきゅっと掴んだ。
本当にそろそろやめましょうよ、困ったような口調はそれでも咎め立てているわけではなく、ただただ突拍子もない言いがかりをつけてくる恋人を――ペナルティの内容は完全に仕事のそれなのに――宥める甘やかした声音でしかない。
ああくそ、とハンジはやはり内心でそう呟いた。

「あの――」
「後少しだけ」

ため息をこぼしたハンジは、モブリットの頬を挟んでいた手の力を緩める。
完全には離さないまま、注意を促すつもりで親指の腹で何度も撫でて、ハンジはゆっくりと身体を起こした。

「じゃあね、ここは?」

右手を支えに、左手で胸板に触れる。モブリットが答える前に、そこに唇も触れさせれば、ほんの僅かに筋肉が皮膚の下で反応した。その振動に顔を上げ小首を傾げてみせると、モブリットは吐息を吐き出すように唇を開けた。

「……所有、ですね」
「正解。じゃあ次、ちょっと難しいやつ。モブリットにわかるかなー」

いいこいいこと髪を乱して、最初にモブリットがしたと同じ、旋毛にちゅと唇を寄せる。目を瞑って享受した彼がおそるおそるとハンジを見上げた。

「――ハンジさん?」
「見ないで当ててみて」
「何を――……」

言い掛けたモブリットの唇に、しっと口を窄めて人差し指を当ててから、ハンジはにやりとした笑みを浮かべた。目を閉じるのを促すように、瞼の上へゆっくりと掌を当てる。皮膚の下で何度か瞬いたモブリットの睫毛と薄い瞼の動きが止まるのを待ってからゆっくりと手を外す。
僅かに緊張した面持ちのモブリットを微笑で見つめ、ハンジはそっと身を屈めた。
あの日教えてもらった位置とそこに灯る意味を頭で反芻しながら、狙いを定める。

「ここ」

音を立てて、ハンジはモブリットの耳朶に軽く唇をつけた。

「……っ耳、は『誘惑』、で」
「まだあるよ」

首に、喉に、それから掌――

どこにも軽く、けれどもそこにしているのだとわかるように長めのキスを落としていく。
首は『欲望』、喉は『欲求』、掌は『懇願』で合っているはずだ。
最後の掌には文字通り伝わるようにと想いを込めて瞳を閉じる。

「……」
「……」

もういいよ、という言葉に代えて何度もそこを啄めば、モブリットがゆっくりと瞼を持ち上げた。まだ軽く瞼を伏せたままのハンジが、気配を感じて掌から視線を戻す。
自分を真っ直ぐ見つめてくるモブリットの無言に催促して、ハンジはもう一度掌に唇を寄せた。
つい先程までポンポンと正解ばかりを口にしていた唇が、生真面目な真一文字を作っている。真意は伝わっているみたいだが、返事はどうするつもりだろう。

「……わかった?」

朝陽は未だ形を潜め薄灰色の支配する室内で、ハンジは唇をつけたままで小さく言った。他に、誰に聞こえるわけもない距離で、内緒話をするように。
そうして指の奥から覗き見る瞳の奥がじわじわと欲に染まる様を確かめる。答えを言い掛けて口を開いたモブリットが動きを止めた。ハンジに取られている手をスライドさせて、やわりとその頬を撫でる。
無言で引き寄せられるまま、ハンジは顔を近づけた。
瞼を完全には下ろさずに、真意を確かめ合うかのような熱の灯った視線が交わり、惹き合うように唇が触れる。

「回答です――わかりましたか?」

吐息が唇をくすぐる距離で、モブリットが囁いた。
唇にキス。その意味は『愛情』。それは知ってる。
けれども愛情の範囲は広いから。
頬に添えられた手に手を重ねて強請るように、ハンジはモブリットの唇に囁いた。

「……わからなかった。バーナー先生、もう一回」
「22ヶ所おさらいしますか」
「いいね、教えて?」

薄灰色の世界の中で、くるりと視界が反転する。
まずは愛情の範囲からきっちり教えてくれるらしいモブリットに乗り上げられて、ハンジは答えを求めるように唇を開けた。


【End】

・髪:思慕 ・鼻梁:愛玩 ・胸:所有 ・腿:支配
・瞼:憧憬 ・背中:確認 ・掌:懇願 ・腕:恋慕
・耳:誘惑 ・手首:欲望 ・腹:回帰 ・額:祝福、友情
・唇:愛情 ・爪先:崇拝 ・腰:束縛 ・頬:親愛、厚意、満足感
・喉:欲求 ・指先:賞賛 ・腿:支配 ・手の甲:敬愛 、尊敬 
・首:欲望 ・足の甲:隷 ・脛:服従