ボクたちの二十四時間WAR!




こんばんは、モブリット・バーナーです。
現在もの凄く混乱の極みにいる為、冷静さを取り戻そう、自分を客観的に見てみようと判断した結果、脳内実況分析を行ってみようと思った次第です。

まず第一に。現況です。
一人暮らしの俺の部屋に、女性がいます。
名前はハンジ・ゾエ。
つい一時間程前まで食事をして飲んで、飲んで、飲んで、しこたま飲んで飲み過ぎた彼女に絡まれていました。
恋人ではなく、単なる――俺の好きなひとです。

第二に。
この状況に至るまでの課程をよくよく思い出してみます。
彼女との出会いは市街にある小洒落たバーでした。
酒好きの同僚に連れられて入った初めての店です。
カウンターで俺の同僚を間に挟み、彼女は仕事の後輩らしい女の子の相談に乗ってあげていたようでした。途中でその女の子の方に連絡――おそらく彼氏だと思われます――が入り、すみません、と泣きそうな顔で飛び出して行ってしまったのと、俺の友人が別の女性客に声をかけられ出て行ってしまったのがほぼ同時でした。
彼女に振られたからつき合えと言われてほとんど無理矢理連れてこられたはずなのに、現金なものです。
半ば呆然と見送った俺が溜息をつくと、隣でくすくす笑い声が聞こえてきました。
「お互い振られちゃったみたいだね」
それが初めて会話を交わした日の事でした。

ものすごく店の雰囲気にマッチしていると思った彼女は、ああいうお店は嫌いじゃないけど肩が凝るんだ、と言ってよく笑いました。笑うと急に子供のように無邪気で屈託なく、目を奪われるという意味を俺は初めて知りました。

名前も何をしている人なのかも全くわからない相手と数時間過ごしたのも、連絡先を交換したのも、後にも先にも彼女しかいません。
酒のせいに出来るほど酔っていたわけでもなかったのに、「ねえ、アドレス交換しよっか」と傾げた頭の横で端末を振ってみせたハンジさんに、俺も何の躊躇いもなく自分のアドレスを呼び出していたのだから、自分で自分に驚きます。
屈託のない笑顔や気負いのない話し方、それに少し――後に「少し」ではないことに気づくのですが――興味の対象物に対して興奮するきらいのある彼女に、俺が恋心を抱いてしまったのは、最初から決まっていたのかもしれません。
その出会いから何度かの偶然と、帰り際の約束を取り付けての別れを繰り返して、交換したアドレスにお互いの番号を呼び出すようになっての、本日。

ずっと手掛けていた大きなプロジェクトが成功したそうで、一緒に飲もうよとぐんにゃりとした声で電話を掛けてきたハンジさんは、受話器の向こうで既にかなり出来上がった雰囲気でした。
後ろがざわざわと騒がしいせいで場所が聞き取りにくく、片耳を塞いで何度か同じ質問を繰り返していた時です。
「――おい、代われ。クソメガネ」
抗議するハンジさんに被った男の声が俺の耳に届きました。初めて聞く声です。
「……ちっ、クソが。――ああ、突然で悪い。誰だか知らねえが、関係ないなら切ってくれてかまわない。大分酔って手がつけられねえ」
苛立ちを顕わに告げられて、咄嗟に「どこですか」と言った俺の心臓は嫌な音を立てていました。
彼女の仕事や仲間の話を聞いたのは勿論初めてではありませんでしたが、彼女の近くで親しげに話す男の声を聞いたのが初めてだったからかもしれません。
「回収に行きます」
そう告げて、取るものもとりあえず駆けつけた先で「わー、モブリットだー!」と抱きつかれたのは駅に程近い雑多なビルの間にあるこじんまりとしたバルの中。
ご機嫌な彼女に抱きつかれて押し倒されて、初めて実際に会った彼女の同僚らしき面々からは「お前がさっきの電話の奴か」「本当にいたのか……」「ハンジさんの妄想とかじゃなかったんですね」等、散々奇怪なものを見る目で囲まれたのも、まだたった数時間前の出来事です。
三次会に流れる彼らと別れ、ほとんど人影もなくなっている駅までの道を歩きながら「そろそろ俺も終電なんですが」と言えば、ハンジさんはくふふキヒヒと楽しそうにゆらゆら頭を揺らしながら、何故か電話を取り出しました。
車? それともホテルの予約か何かでしょうか。それならひとまず安心です。
黙って待つ俺の携帯端末が、胸ポケットで突然振動を始めました。
慌てて画面をタップして。
「もしもーし」
「……何してんですかあんたは」
目の前で俺に電話をしてきた酔っ払いに、がくりと力が抜けたのでした。

そんな彼女との通話によれば、
「終電はねー、五分前くらいに出たみたいでねー」
だそうで。思わず素っ頓狂な声を上げた俺に、ハンジさんはカラカラと笑って「大丈夫」と胸を叩いて見せました。
「この沿線の、トラムで三つ先の駅に降りるとすごく広い公園があるんだ。――知ってる?」
知ってるも何も、俺のマンションまでの行き道です。言えば「へーそうなんだ」とハンジさんは心底羨ましいといった表情で俺を見ました。
「あそこさ、景色も良さそうだなって前に通った時思ったんだよね。散歩とか、芝生に寝転んで読書とか気持ち良さそう」
気持ち良いのは認めます。郊外というほど市街から離れていない空間に、ぽかりと大きく開けた自然の緑は安らぐし、鳥や小動物、それに子供連れの夫婦など、趣味のスケッチの被写体にも事欠かない、俺の密かな憩いの場でもあります。それでもこんな夜は庭園に外灯が灯っているほか特に何もない所です。行きの電車はあっても、下りの電車は終わっています。そんな所に今から行くとか言いませんよね? それより今夜どうするんです? ――俺の内心の心配をよそに、ハンジさんはまたキヒヒと気持ちの悪い笑い方をすると、名案を思い付いた子供のようにキラキラとした瞳を俺に向けました。とん、と胸に拳を当てて、
「なので私ハンジ・ゾエ。そこの芝生に身体を預け、数時間後の朝日と共に目覚めま」
「うちへどうぞ!」

――そうして現況に続いたわけです。

一区間のごく短いトラムの駅を三つ行き、温い夜風に当たりながらハンジさんお目当ての公園を過ぎてマンションへ。
歩きながら酔いが冷めてくれることを願っていたものの、見事に期待を裏切った彼女は、途中から完全に睡魔と闘っていたようです。
寝るつもりだったらしい公園の横を過ぎた頃から足取りが不安なハンジさんがふらりとよろめいて、支えるつもりで差し出した手に凭れた身体が熱くてどうしようもありません。酒のせいで血流が良くなっているのでしょう。
「モブリット、何だこれ? 眠くね……?」
「も、もう少しで着きますから頑張って……重い!」
何だこれじゃありません。あれだけ飲んだらそりゃあ眠くもなるでしょう。俺が行かなかったらどうする気だったんだこの人は。
いやいやをするようにぎゅうと腕にしがみつかれれば、ひそかな柔らかさがどうしたって当たります。下手に動かすわけにもいかず、エントランスを抜けて足早に部屋へ。唸るハンジさんを引き摺りながらベッドに運んで、俺は寝かせるつもりでした。
勿論一緒にじゃありません。まさか。だって当たり前です。
こんな状況になってしまったわけですが、一つ重要な事実があるからです。もう一度言います。

俺と彼女は、俗にいう恋人同士ではないのです。

彼女に恋人はいないようですし(本人も言っていましたし、先程の同僚の皆さんの反応からもそうとわかりました。)俺にもいません。そして俺は彼女を好きですが、彼女がどう思っているのか俺にはまるでわからないのです。勿論嫌われてはいないでしょう。それくらいの自信はあります。
仕事の成功を伝えたいと思ってくれたり、仕事終わりに時間を合わせて食事をしたり、時間を忘れて終電まで二人で話したことだって何度もあります。けれども一切――別れ際にさよならのキスをすることすらただの一度もない関係を、名残惜しげに手を触れ合うことすらない関係を、どう捉えればいいのか俺にはわからないままでここまできました。
関係を壊すのが怖くて決定的な一打を決められないまま、こんなふうに別の一打を迫られてしまうとは夢にも思っていなかったのです。

「おおー! モブリットの部屋ー!」
「はいはい、モブリットの部屋ですね。ベッドはこっち――っておあああ! 勝手に開けない!」
まるで息をするようにサイドボードをバタンと開けたハンジさんが、DVDを引っ張りだしてにやりとこちらを向きました。
「思春期の男の子の隠し場所ってこんな感じとベッドの下って聞いたけど?」
「あんたさっさと寝てください」
後ろから両腕をホールドするように抱き止めてげんなりする俺に構わず、ハンジさんはくすくす楽しそうに笑いました。
まったくもう。思春期じゃないし、一人暮らしの男の部屋で、普通わざわざ隠す必要もないんですよ。……ああでも一昨日レンタルは返却しておいて本当によかった。
「君、女教師ものとか好きそうだよね」
「どういう偏見ですか」
「じゃあ妹もの。……うわあ、モブリット、ちょっとへんた」
「寝ろ」
後ろから口を塞いで黙らせます。いったいどんな目で今まで俺を見てたのか甚だ疑問な好みを推測されて、俺はげんなりとため息をつきました。誤解です。女教師も妹も、まったく興味はありませんし、最近はめっきりそういうもののお世話になることも少なくなりました。……一昨日返したものも、本当にものすごく久し振りで、特にこれといった趣味嗜好に走ったものでもありませんでした。内容は至ってシンプルで、強いて言えば女優が眼鏡で栗毛のハーフアップで――……まあ、そんなことはどうでもよろしい。
ハンジさんの手を引いて立ち上がらせて、「ベッドに行きますよ」と言えば、「はーい。ねえねえ、優しくしてね?」とケラケラ笑いながらで返されました。頭を壁に打ちつけたのは言うまでもありません。
何を考えているんでしょう。……いえ、何も考えていませんよね。だからそんなことが言えるんですよね。酔っぱらいの言葉をいちいち本気で考える俺がどうかしています。わかっています。

気を取り直して手を引いて、ようやくベッドルームに引っ張り込んで、彼女をベッドに座らせます。と、ハンジさんはおもむろに自分のブラウスに手をかけました。一つ二つとボタンを外し、俺が声を掛けるより早く、ガバリと頭から豪快に引っ張り脱ぎました。
「な、なな何やって……ハンジさん!?」
彼女が着ていたジャケットはリビングのソファの背に掛けていました。何の迷いもなくスーツパンツのファスナーに手を掛けたハンジさんに慌ててその手を掴めば、きょとんとした顔の彼女と至近距離で目が合います。
ああ、眼鏡も外さないと――いや、そうじゃなく。
「何って、パジャマに着替えようと……て、あ、そっか……ここモブリットの」
やっぱりこの人酔ってるんだな。すごくはっきり発音しながら、どこか噛み合わない会話が続きます。
「そうです、だから」
「モブリットの貸してくれる? あ、シャツでもいいよ」
「は、――はあ?」
「でも別に着なくてもいいんだけど……いっか着なくて」
「貸します! 貸しますからちょっと待って!」
またぞろもぞもぞと手を動かし始める彼女に慌てて立ち上がると、俺はベッドルームのクローゼットを開けました。どれにしようかと目を走らせている短い時間に、後ろで動く気配がしました。
「これ借りていい?」
「う、わ――っ」
ぴたりと背中に張り付いたハンジさんが俺の後ろからひょいとグレーのシャツを示しました。顔を横に向き掛けて、俺は言葉を飲み込みました。
あんた、脱ぐの早いですよ、というか何で下着姿で男にぴったりくっついてるんですか。襲いますよ。俺じゃなかったらとっくにあんた襲われてますよ。ああもう、くっそ、襲いたい。

「早く着てくださいっ!」
それでもまさか酔った彼女に不埒なことをするわけにもいきません。俺は大慌てで掴んだシャツをがばりと羽織らせ、素早くボタンを閉じてあげます。これでどうにか人心地つける――と思ったら甘かった。……そんなに身長も変わらない彼女の肩幅が、俺のシャツに着られて少し下がり、足の付け根ぎりぎりのところまでしか隠れていない丈の姿は反則です。自分のシャツを羽織った好きな女の威力を完全に舐めていました。これはダメです。早く下を、そう思う間に、ハンジさんはさっさとベッドに戻ってしまいました。
あ、これ着る気ないやつだ。俺の本能がそう告げます。
果たしてそれは正解でした。
膝をついてさっさと乗り上げ、ベッドシーツの中にするりと丸まった彼女が、何故か俺を手招きします。
「モブリットモブリット」
「……はい」
行かないとまた出てきそうです。
次あの姿で張り付かれたら、理性が簡単に家出しそうな勢いの俺は、仕方なしに彼女の傍に近寄ることを選択しました。
座って、と示されて、これも仕方なしにベッドの端に腰を下ろし、肩までシーツを掛け直します。
「どうしました?」
「手を貸して」
「手?」
ぽんぽんと肩を優しく叩いていると、少しとろりとした口調になってきたハンジさんがそう言って、ちょこんと手を出しました。反射で掴むと、何やら難しそうな唸り声を上げた彼女がちょっとだけ唇を尖らせます。
「やっぱりあなたの方が大きいね。私も結構大きい方だと思うんだけど」
「一応俺も男ですので」
「知ってるよ。モブリットは、出会った時から男性だった」
……そう、ですけど。
手のひらを合わせるように動かして言われた台詞に、どう返すべきかものすごく頭の回転する音が聞こえます。
「……そう認識してくださっていたなら何よりです」
えてして、そういう時ほど気の利いた言葉は出てこないものです。
もういいだろうかと逃げ腰になった俺を見透かしたかのようなタイミングで、ハンジさんの指が俺の指にぴたりと張り付きました。
「指長いね」
「……あなたも」
ついでにいうなら細いです。あと白いです。手首だって、簡単に抑えつけてしまえそうで――なんてどんどん思考が危ない方向に進みそうになって、俺はぶぶんと頭を振りました。わかっていないのでしょう。彼女はそんな俺を不思議そうにじっと見つめて、それからおもむろに指に指を絡めました。交差した指のせいで彼女との距離が物理的に近づいて、俺は息を飲みました。

「ねえ、このシャツ、モブリットのにおいがする」
「っ、お、俺の服ですからね」
それなのに、本当何を言い出すんでしょうかこの人は。
「うん。ベッドも」
「俺のベッドですからね!」
「あなたに抱かれてるみたい」
「俺の――――」
何を――本当に、何を、言い出すんでしょうか、この人は……!
思わず開いた口が塞がらず見下ろした先で、俺を見上げるハンジさんの瞳が潤んでいるのがわかります。
ねえ、と呟くように言いながら、彼女が絡めた指で俺の手を軽く引き寄せました。
「ハンジ、さん――」
限界です。
ギ、と軋む音を立てて、彼女の上に俺の影が濃くなります。真っ直ぐ見つめて近づく距離に、ハンジさんがゆっくりと瞼を下ろします。肘をついて、空いた片手で彼女の頬をゆるりと撫でて――……
「……くぁ……」
「……」
「ぷー……すふぅー……」
「……」
あとほんの零コンマ何秒の距離で聞こえた音に、俺はぎしりと体の骨を鳴らしました。
おそるおそるそのままの姿勢で目を開けます。
もうこのまま力を抜けば触れるはずの唇が薄く開いて、規則正しい吐息が細く聞こえていました。
「こ、」
ここで寝るとか――やっぱりそういうオチですかそうですか!
くっそ寝顔が可愛いなチクショウ。
頬に触れていた手で、最後の抵抗とばかりに唇をなぞると、ぴくりと動いた彼女に起きてしまうかと身構えて、けれどもすり寄るように頬を押しつけてくる無意識の動きに、俺の心臓が跳ねました。今まさに生殺しを敢行してくれている可愛くない彼女の、そんな仕草が可愛すぎます。チクショウです。本当にチクショウ。
唇に滑らせていた親指を、無意識に爪の先ほど中に入れて、我に返って引き抜きました。
……危ない。理性よカムバックサンキュー。
すっかり気持ち良さげに寝息を立てている彼女に握られている手を今度こそ離さなければなりません。俺の今夜の寝床はリビングのソファです。仕方ありません。そう思って腰を浮かし掛け、
「……ん、…りっと」
しかし彼女の呟きに俺は動きを止めました。今、俺を呼んだ……んでしょうか。
「ハンジさん?」
おそるおそる名前を呼んでみましたが、どうやらただの寝言のようです。残念な気持ち半分、ホッとした気持ち半分でもう一度手を離そうとして
「……き、だから、……いてよ、ここ、」
絡めた指を自分に抱き込むようにして寝返りを打った彼女にそう言われたら、もう寝言でもどうしようもないじゃないですか。
引き込まれるまま力の抜けた体が、ぼすんと彼女の横に倒れます。本当に、もうどうしようもありません。
「明日起きたら覚悟してくださいね」
どうせ聞こえていないのですから、はっきり宣言してやります。
左手をしっかり絡めたままの彼女を今度はこちらから抱き込んで、朝の挨拶を考えながら、俺は瞼を下ろしたのでした。



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