闖入者は何をとぞ言う




午後から、次の壁外調査で使う対巨人用捕獲機の改定案の進捗について、技巧班に赴いていたハンジが戻ってきたのは、日もだいぶ西の地平へ姿を隠した頃だった。
試作機は思った以上に期待通りの出来だったらしい。
溜まり気味だった書類も意気揚々と鼻歌でも歌いあげそうな勢いで有能さを発揮してくれたお陰で、残すところはモブリットの持ち分だけになっていた。といっても分隊長の認め印を経て、最終要綱をまとめるだけの仕事に大した手間もない。
夕食を終えてから執務室に戻り、それらにかかっていたモブリットは、ドアの外の気配にペンを止めた。

「――あ、やっぱりこっちにいた」
「分隊長」

ひょっこりと顔を覗かせたハンジが、するりと中に入ってきた。
背中越しに見えた続き部屋の研究室は、モブリットがここに来た時と同様、月明かりだけが光源のようだ。
持ってきたランプの灯りで手元を照らしていたモブリットは、顔を上げ、ハンジの姿に軽く目を瞠った。

「何ですかその格好」

いつもの隊服でも装備を解いての部屋着でもない。この時間にこんなところまで来るには不適切すぎる寝間着姿でも勿論ない。オレンジ色の油明りに照らされてはっきりとした色はわからないが、おそらくくすんだモスグリーンのようだった。

「あれ知らない? つなぎって言って――」
「いえ、名称でなく」

ファッション的意味合いで訊いたわけじゃない。それにつなぎくらいモブリットも知っている。
既存の作業着をひとまとめにしたようなその服は、形態的にはオーバーオールに似ていると思う。主立って違うのはやはり上部か。長袖の作業着をそのままに、腰の切替まで開けてしまうことが出来るそれは、暑い時期なら中に着込んだシャツだけ出して、袖を腰で結べばいい。
以前、技術部で試作機の実験に付き合った際、紋章入りのジャケットが汚れては困るだろうと貸し出されて、モブリットも何度か着用したことがあった。
普段と違う慣れない着心地に違和感はあれど、馴染んでしまえば動きやすく、作業の場では機能的だと理解もしている。
――が、それを何故ハンジが。ここで、今。

「今日技巧班に試作機の進捗を見に行ったろ? その時技術部の兵士がこれを着ててさ、動きやすかったし面白そうだから一着貰って――」
「経緯でもなく。何でわざわざその格好で来たんです?」

一度帰隊したハンジは、いつもの兵団服を着ていたはずだ。
完成した書類を受け取りに行ったモブリットは、今日の成果を嬉々として語ろうとした彼女に「明日聞きますから。今日は休んでください」と言って自室へ送り出したのだから間違いない。それがつい数時間前の事で。
何故わざわざ一度着替えてからこんな時間に来たのだろう。自分を探していたようだから、まさかまた無茶ぶりな実験を強行するのに付き合えというんじゃないだろうな。そもそも寝たんじゃなかったのか。
身構えてしまったモブリットへ、ハンジが不思議そうに首を傾げた。

「こっちでこの格好って珍しいだろう? せっかくだし、仕事も終わったからいいかなと思って。君に見せようと思ったんだけど」
「……つなぎを?」
「つなぎを」

至極真面目な顔で頷かれるが、いまいち事情が呑み込めない。
頭の中で疑問符が沸いては消えるを繰り返しながら、モブリットも首を傾げる。

「……それは、ありがとうございます……?」

で、良いのだろうか。よくわからない。
貰った物を見せるついでに着てみただけということだろうか。思い立ったら即行動のハンジらしいといえばハンジらしい。
それならそれでまあいいかと納得して、モブリットは目の前の書類に意識を戻した。

「モブリットもあっちで何度か着たことあるんだろ? これ便利だよね。隊服より収納スペースを多く取れるし、着脱も手間がかからない」
「用途によりますよ。その分普段の隊服よりゆとりのある構造ですし、立体機動ではワイヤー巻き込みの可能性が高くなります」

モブリットの手元を覗き込んだハンジが、ごそごそと向かいの椅子を引いた。そのまま背凭れを前にして跨ぐと、ふんふんと相槌を打ってくる。つまり結局、つなぎの話をしたくなったとか、そういうことでいいのだろうか。
試作機の改良部分の詳細については資料を交えて話を聞く必要があり、当然時間も要となる。明日にしましょうと諫言したのが実は面白くなかったから、せめてもの意趣返しで夜半の襲撃に来たのかとも疑ったが、ハンジの手元に資料は一切ないようだ。「休んでください」という部分が聞き入れてくれているらしいことに内心でほくそ笑みながら、モブリットは作業を続けた。

「平地での業務にはうってつけだと思うんだけどねー、つなぎ。でもやっぱりそこだ」

びっと指を立てるハンジが、本気で現存の制服に取り入れたいと考えているわけでないというのは、笑いを含んだ口調でわかる。モブリットも「そうですね」と頷いて、次の書類を一枚捲った。

「土木作業や機械油の関係者には重宝されると思いますよ。ただ兵士に当てはめるとなると、やはり立体機動に移る可能性を排除するのは難しいですし、そう考えると定着は難しいでしょうね」

そもそも壁外調査でつなぎの収納スペースを活用する可能性は極めて低い。
変わった鉱石や植物の発見があれば、持ち帰ることは無論あるが、それらは大概荷運び用の馬車に乗せるし、個人採取をしたとして、現兵団服の収納で事足りない程の量では、その後の機動に影響が出過ぎる。
生きて帰ることを第一義に掲げる壁外調査で、そんな本末転倒はあり得ない。
わかりきっているだろう点を再度ついたモブリットに、ハンジはふふんと鼻を鳴らした。

「オフの日の部屋着や寝間着代わりならありだろ」
「……そもそもそれは作業着では?」
「お、ご不満? 着飾った方が好きだった?」
「すっ――別にっ、そういう意味じゃありません!」
「声大きいよ」

どこからそっちの流れになった。
思わず顔を上げたモブリットに、ハンジはにやりと笑いながら、シッと人差し指を立ててみせる。
面白そうに弓なりに細めた色素の薄い光彩がランプの揺れる明かりで煌めいて、やけに扇情的に見えてしまった。

「っ、……着飾ってくる事なんてないでしょうが」
「仕方ないよね。夜会用の貸衣装着てくるわけにもいかないし――モブリット、やっぱりそっちの方が好」
「きとか言ってません。その目やめてください」

乗り出し気味にはっきりとからかわれて、モブリットはじっとりと目を眇めてハンジを睨んだ。

「ごめんごめん、冗談だよ」

言葉とは裏腹に全く悪びれずに言うハンジは、まだ自室に戻る気はないようだ。
椅子の背凭れに腕を乗せ、その上に顎を預けながら、じっとモブリットの作業の様子を見つめている。
特に何をされるということがなくとも、そうあまりに見つめられると集中が削がれるというものだ。残り数枚となった書類に落としていた視線を上げてハンジを見れば、続けて、と口の形だけで言われてしまった。
言われなくてもしますから。だからあなたはさっさと部屋で休んでくださいって。
軽く腕まくりをしているつなぎの袖から、顎を乗せるハンジの顔にちらりと視線をやって、目が合う前にそっと逸らした。

「……俺はまだ仕事が残っているんですが」
「そうだね。ところでモブリット。どうして私がつなぎを着てきたかわからないかな」

溜息を吐いたモブリットに、同じ格好のままでハンジがまた、びっと指だけ立てた。
突拍子もないことを聞いてくる。

「は? ……つなぎが珍しいから見せようと思ったと、あなたがさっき言ったんですよ」
「それもあるんだけど。うーん、じゃあヒントね」
「いえ、だからまだ仕事が」
「つなぎの利便性は何でしょう!」

まったく話を聞いてない。
大して手間取る仕事ではないとわかった上でやっているのだろうが、何がしたいのかもよくわからない絡みをされて、モブリットは訝しげに眉を潜めた。
目を通す書面はあと五枚もない。
仕方のない人だなと思いながら、ペンの後ろで文を追いつつ頭の片隅につなぎを浮かべる。

「利便性? 収納スペースが多い、とかですか?」

ハンジ自身が言っていたことだ。

「他は?」

うんうん、と頷くハンジが更に求める。
他に――つなぎの作業的な利便性?

「保温性、防塵性に優れる、着脱時間の短縮……」
「そこ! つまり楽だ! モブリットも着たことあるならわかるだろう?」
「それは、まあ」

つなぎの着脱に大した思い入れがあるわけではないモブリットだったが、そこに食いついてきたらしいハンジの勢いに気圧されてしまった。そんなに着脱が気に入っていたのか。少し驚いてハンジを見ると、ラフに着込んだ上のボタンが二つほど掛けられていない事に気がついた。作業用としてではなく、本当に部屋着にするつもりなのかもしれない。
確かにつなぎの着脱は楽だ。下履きの要領で穿いてしまえばいいのだから、シャツの皺を気にするような心配もない。曖昧に頷いたモブリットへ、ハンジが「だろう?」としたり顔を向けてきた。

「脱ぎ方がわかるなら、脱がし方もわかるよね。これ脱がせるのも楽だと思う?」
「負傷者の治療を前提にしての見解ですか? 腹部付近を裂傷の場合、脱がしやすいとは言えないですよね……いや、ですからそもそも立体機動を行うと考えた場合、やはり上下は」
「じゃなくて」

何だ? 本当に採用案を練りたいのか?
彼女にしては珍しい部類の案件だなと改めてペンを置いたモブリットに、しかしハンジはカタリと椅子から立ち上がった。動きにつられて見上げると、真面目な顔が試すように傾げられた。指先で、モブリットと自分を、ゆっくり交互に指し示す。

「君は、これを脱がせるのが得意かどうかを聞いている」
「そ――」
「利便性についての質問は、まあ、ということなんだけど」

……そういうことか!
どこからそのつもりだったのかはわからないが、ランプの明かりから少し離れたせいで、夜の闇と月明かりの薄淡い光源に浮かぶハンジに、否が応でも昴ってしまった鼓動が悔しい。開けられた首元に覗く素肌は、つまり下にシャツを着ていないとかそういうことか。うっかり手にしていたペンを取りこぼしてしまったくらいは動揺させられて、モブリットは慌てて机に視線を戻した。

「し……仕事が、まだ」
「うん。だから」

じっと注がれる視線を感じて、触れてもいない部分からじわりと熱くなってくる。

「待ってていい? あなたの部屋で」
「〜〜〜〜〜っ」

あんたの部屋にしてください。今から行くなら不自然すぎる。
そんな真っ当な台詞も出てこないほど動揺したのは、思いがけない誘いのせいだ。
つなぎに欲情したわけではない。決してない。断じて違う。
斜めな言い訳を自分にしながら言葉の出ないモブリットの耳に、ぶっと小さく吹く音が聞こえた。
くそっと毒づく余裕のないのをいいことに、じゃあね、と勝手に納得したハンジはそう言って、さっさと部屋を出て行ってしまった。
溜息を吐いて口元を抑える。
熱くなっているのがわかる頬は、ランプの灯りが近いせいだと自分自身に言い聞かせながら、モブリットは戻された椅子を半眼で見つめた。

突然なんだよ、いつもあなたは本当に。今日はゆっくり休んでくださいと言ったでしょうが。

それを言えなかった自分の負けだ。
ハンジの言葉通りつなぎの着脱などあっと言う間で――――違う、そうじゃなくて寝かさないと。
モスグリーンの見慣れない着衣に手をかける妄想をぶぶんと振った頭で追いやるように努力しながら、モブリットは思い切り集中力の欠いた頭で書類にペンを戻したのだった。