HAVE A BREAK AS YOU LIKE! 新たな被験体が手に入るまでにしておくべき実験と考察――
次回の壁外調査まで数週間に迫ったある日のこと。各隊副長以上の幹部で召集された全体会議を終えた午後、そんな議題を世間話のように交わしながら歩いていれば、タイミング良く二人の部屋の分岐で話が終わるわけもなく。 「――それだどシャフトにかかる負荷が大きくなり過ぎませんか」 「油圧ポンプの出力調整で補えるはずだ。改良するならそこからだろうな」 「では固定ロープに黒金竹を編み込む比率は従来の……」 半歩先行くハンジの爪先が迷うことなくモブリットの部屋へ向いた。 それに異を唱えることもなく、モブリットも言葉は止めずに、そのまま自室の鍵を胸ポケットから取り出して続く。部屋の前についた時だけ、前に出てドアを開けながら、ああでもないこうでもないと言い合う二人は普段通り過ぎて、それを目にした誰かが見咎めることもなかった。 せいぜい「また朝までご苦労だな」と僅かにモブリットへ同情が寄せられる程度の認識でしかない。 「明後日の審議にかけるでいいですか? 早めます?」 「間に合うだろ。今日の様子なら技巧班もまんざらでもなかったし」 「それはあなたが挑発したから……」 「戦略の一つだよ、バーナー副長」 ととん、と自分の頭を人差し指で叩くハンジに片眉を上げて、モブリットは肩を竦めた。それから審議用と自分用とに必要な資料の構想を、頭の中で軽くまとめる。そうだ、確か有用な参考になりそうな本を、先日書庫から借りてきていた。片面の壁を適当な資材で書棚用に設えたそこから選んで引き抜くと、ふんふんと小さく頷きながら横についたハンジが本の背表紙を指で軽くなぞっていく。 「相変わらず綺麗にしてるね」 「ありがとうございます」 「私も読んでいい?」 「ご自由に」 この部屋にある本は、ほとんどハンジも読破していると思うのだが、二度三度と繰り返すことはモブリット自身もままあることだ。気に入った本がなければ、前の非番で買い込んだ書籍がまだ整理前の紙袋の中に入っている。ちらりと視線だけを机の横の紙袋に向けて、しかし書棚を吟味しているらしいハンジの背中に何も言わず、モブリットはベッドに腰を下ろした。 必要箇所を探すまでに少し時間がかかりそうだ。 ブーツを脱いで足を崩す。没頭すると少し姿勢が丸くなってくる。少し腰を伸ばすべきだろうかと、強ばった背中の張りで時間の経過を計ろうとしたちょうどその時。 左腕にドン、とハンジの頭がぶつかった。 「……ハンジさん?」 「んー?」 読書の背凭れ代わりにされたのだろうか。 そう思って横を見たが、ハンジの視線は本には向いていなかった。というより本すら持っていない。結局お目当てのものがなかったのだろうか。けれども「他にないの」と求めてくるでもなく、モブリットに頭を預けるハンジの視線は書棚と垂直にある壁か、またはその壁面にある窓の外へ向いているようだった。 ――結局背凭れなら、それはそれで。 読書に戻ったモブリットが、ぱらりとページを捲っていく。左から右へ、横に文字をなぞったところで、またハンジの頭がドン、とモブリットの腕を叩いた。 「……」 「……」 どん、どん、どん。 次第に圧力を強めていくハンジに押されまいと左腕をずらして読み続けると、それを追うように寄せられる頭の重さが増していく。そのまま押しつけるようにして膝に頭を乗せたハンジが、ごろりとうつ伏せて、モブリットの手の中にある本をじっと見つめた。 「……何です?」 「べっつにー」 読みたいわけではなさそうだ。 「……ちょっと、邪魔なんですけど」 「んー?」 言うとまたごろりと体勢を変えて太腿に肩まで乗り上げられてしまった。読みにくいことこの上ない。モブリットは右手だけに持ち変えた本をずらして、ハンジを見ないままに口だけ開けた。 「あんたね……いい加減にしないと怒りますよ」 「ふふん」 「?」 まるで得意そうに鼻を鳴らされて、モブリットは漸く紙面から顔を上げた。今のは笑うような流れだったか。膝上のハンジを見遣る。と、ハンジはにやりと口角を上げた。 「モブリットは怒らない」 「はい?」 モブリットの語尾が上がる。人の読書――もとはハンジの計画の為の読書だ――の邪魔をして、挙げ句膝を我が物顔で支配しているくせに、おかしな断定をしてくれたものだ。けれど訝しげに訊き返したモブリットへ、ハンジはより一層得意満面の顔になった。まるで難問の解を説明する生徒のように、嬉々とした口調で「あのね」と続ける。 「君が本気で怒る時は、驚くほど感情を殺すんだ。自分で気づいていない? 静かに怒るって、あれ結構な圧力だよね。無表情がそのうち無関心に変わるんじゃないかって冷や冷やする。でも今君はこっちを見てるし表情も豊かだ。だから今は、呆れてるけど怒ってはいない。図星だろ」 息巻いて、どうだと言わんばかりに見上げてくる瞳はこれでもかと煌めいていた。うっかり反論しようものなら全力で論破されそうな予感しかしない。 本気云々はそもそも沸点の高いモブリット自身では計り知れないものではあるが、ハンジが言うのだからそうなのだろうと納得して、モブリットは息を吐いた。そこまでわかってくれているのは嬉しいが、それでも何故か退く気のないらしいハンジの意図がわからない。 兵団の才媛が、たまにこうして子供じみた事をするから困る。 「あ、また呆れたろ」 「……部下に呆れられるような真似をしないでください」 「恋人にかまってほしいだけなんだけどなあ」 「……」 と思っていたら急にこれだ。 何度時間を共有しても掴みきれないハンジの突飛な告白に、モブリットは口元を引き結んだ。本気で驚いた時ほど感情を殺すよう努力しているということまでは、おそらく知られていないに違いない。 頭に入らなくなってしまった本のページは開いたまま、次の言葉を探していると、ハンジがおもむろに右手を上げた。 「ねえ、モブリット」 きゅ、と軽く握り込んだ指が、モブリットの口に触れる。 「息抜きしようよ」 無邪気な台詞で試すように、やけにゆっくりと発音する。ハンジの指が、その背でモブリットの唇をほんの少しだけ柔く開けた。けれどもそれ以上深くはせずに、悪戯めいた瞳がモブリットを見上げてくる。 唇につけられた指だけで強請られて、モブリットは同じ姿勢のまま、じっとハンジを見下ろした。 「……」 「あれ、ほんとに駄目だった?」 「……」 無表情の奥に隠した逡巡は、どうやら上手く誤魔化せているようだ。 瞬いたハンジが手を引っ込めつつ、唸りながら膝の上で反転する。もぞもぞとシャツ越しの腹に一度顔を押し付けて、それからもう一度上を向いた。若干拗ねたような表情が、ライトブラウンの瞳に揺れる。 「真面目め。……いいや、ごめん。じゃあ部屋戻る――」 言って、起き上がりかけたハンジの唇を、モブリットは不意に奪った。上から覆い被さるような体勢で、開いた口から途中の言葉ごとぺろりと食べる。顔の向きがあべこべなせいで、かみ合いきらない唇の隙間に舌をするりと差し入れれば、驚いたようにハンジが小さく喉を鳴らした。 苦しげな声に、ちりりと爪先が煽られる。 無意識にだろう顎を上げたハンジの頬を逆さになぞって、モブリットは漸く食んでいた唇を離した。 先程とは別の意味で瞳を揺らす彼女の濡れた唇を親指で拭って溜息をひつ。 「……不真面目なので、息抜きで終われなくなるから嫌なんですよね」 単なる甘い戯れだけを請われていたのだとしても、それで止められる自信はない。今がギリギリ瀬戸際だと暗に示したモブリットへ、ハンジが小さく吹き出した。 「そこはあなたの意志次第」 「……あとこの体勢キツいです」 「要訓練だな。仕方ないから付き合ってあげよう」 鼻を付き合わせ至極真面目な顔で嘯くハンジに、再びモブリットは背中を丸めた。宣言どおり手伝う気らしい彼女の腕が首の後ろに掛けられて、先程よりも少しだけ上体を起こしてくれる。啄む唇が離れる度に、顔の向きに少しずつ修正を掛けながら、ハンジの体を支えるように背中に手を差し入れた。 いつの間にか放置していた本が足に当たってちらりと見遣る。と、モブリットの支えを基点に膝へ乗り上げたハンジがモブリットの両頬を掴んで鼻先を噛んだ。 「イッ」 「こら、不真面目」 半眼で睨まれて、尖らせた唇にモブリットはお詫びと称してキスを送る。下唇を何度も甘く優しく食んで背中を撫でる。バックルの固定を無視して、腰からシャツを引き抜きながら、直接肌に手を這わせると、漸くハンジのお許しが出た。薄く迎え入れてくれる唇の間に掬うように舌を差し込む。 「ん……、ぅ」 甘い吐息すら許すまいと、モブリットが口づけを次第に深めていく。舌肉でハンジの動きを絡め、歯列をなぞり、跳ねた舌を絡め合う。粘着質な水音が吐息の間に不規則に流れる。 「ぁ、ん――モ……リ、ット」 「――……はい?」 頬から耳朶、それから髪に行き着いた手で乱すハンジに名前を呼ばれ、モブリットはゆるりと舌を引き抜いた。銀糸の繋がりが切れる前に、ハンジが荒れた呼吸を逃がしながらで視線を下げる。 「ベルト邪魔だな。当たる」 上気した頬でむくれるように言ったハンジが、おもむろにモブリットの胸のベルトに手をかけた。勝手知ったるベルトの固定を、焦れたように外していく指に合わせてジャケットを脱ぎ、ハンジよりも迷いのない手つきで彼女のベルトも外していく。 向かい合わせのやりにくさに笑いながら時折ふざけたキスを強請るハンジに答えて、そのジャケットも床に落とす。その反動か、だいぶ脇に追いやられていた本もずるりと下に落ちてしまった。服とは違う重い音に向けた視線の先に、部屋のドアが目に入った。 「あ」 「何。モブリットは本が恋人? 私は繋ぎか」 「いやいや、どんな繋ぎですかそれ――っ、うわっ」 着々とシャツを引き抜き肌蹴させていたハンジが、ぐっとモブリットを押し倒した。自身も乱されたシャツとベルトを中途半端に引っかけた扇情的な姿のまま、濡れた視線でモブリットを睨み据える。 乗り上げて上体を倒し、目の前で憮然と頬杖をつくハンジに困ったように眦を下げ、モブリットはまたちらりとドアの方へと視線をやった。 「……鍵かけました?」 モブリットはかけていない。それを思い出してしまったのだ。ノックもせずに無遠慮に開ける輩はいないだろうが、それでも万が一ということがある。押し倒されながらで言ったモブリットに、ハンジはきょとんと目を瞬かせ、 「――ああ」 それから当然のように頷いた。 「かけたかけた。あなたが本に没頭してる間に」 バカだなあという不本意な言葉を賜りながら瞼の上に唇が降る。 「……ちょっと。用意周到じゃないですか」 「戦略の一つだよ、バーナー副長」 「ものは言いようですね、ゾエ分隊長」 額から鼻先までおかしそうに指でなぞって、ハンジがふふんと胸を張った。 「だから言ったろ? あとは君の意志次第なんだって」 どうする、と挑発的に囁かれて、モブリットは眉を上げた。不真面目な自分の回答なんてひとつしかないと知っているくせに。 「じゃあちょっと」 「わ――」 からかうようなキスを落としてくるハンジの腰を引き寄せ、ぼすんとベッドへ反転させる。若干乱暴に組み敷いたせいで、ギ、と軋んだ木枠が二人の体を受け止めた。 「真面目に息抜きさせてください」 「……誘惑に負けたな?」 「不真面目なもので」 後ろに回ったハンジの手が、笑いながらモブリットの髪を梳く。その手に引き寄せられるように距離を縮めて、モブリットは頬を撫でた。ハンジさん、と声にはせずに唇への振動だけでうっそりと囁く。 ――途端、ハンジの瞳に戸惑いと羞恥、それに期待が乗ったのがわかった。胸の奥の小さな嗜虐がざわざわと揺れる。 これ以上の言葉は全部後でいい。 余計な会話で弄ばれる前にと、モブリットは有意義な息抜きを求める唇に唇を合わせて、浮かせた背中からベルトをするりと引き抜いた。 <Fin.> |