Thank you for your everything.




窓から差し込む光が太陽なのか月なのか気にしなくなるのはいつものことで、壁外遠征でもない限り、打ち合わせ等の日程調整は優秀な副長が折につけ私に知らせてくれる。
それをいいことに今日も今日とて、数値の見直しから始まって、どうしても経過をみたいデータの実験に勤しんでいた時だった。

「分隊長はいつなんです?」
「んー? 何が?」

同じように肩を並べて記録を見返していたモブリットがそう言った。
何のことかわからなくて聞き返した私に、彼は「聞いてませんね?」と声を低めた。ちょっと待った。何だっけ。
んー、あー、と濁して目の前の顕微鏡を覗きながら、記憶を手繰る。
何だ? 夕食の話か? いや、そもそも夕食なんてとったのいつだ? だがそれを言うと、はっきり目くじらを立てられるのがわかるから言及しない。そういえば腹が減ったような気もしない。ふと、横から出された何かを咀嚼したような気がして、私はちろりとモブリットに視線をやった。机の上にトレーと深めの容器、それからパン屑の乗った皿がある。
やっぱりだ。また、餌付けされてしまったようだ。ありがたいことに。

「サンドイッチ、ありがとう」
「どういたしまして。……記憶あったんですか」
「いや、今不意に思い出した」

そこで驚かれるのもどうなんだろう。
答えた私に呆れたように嘆息した彼が、先にファイルに視線を戻した。それにならって私も顕微鏡に戻る。

「今夜はスープもありましたよ」
「え、それは覚えてない。口移し?」
「なわけないでしょうが。スプーンですよ。雛ですかアンタはっ」

照れるでもなく純粋に声を荒げたモブリットの声で、そういえば何か暖かいものを飲み込んだ記憶が、頭の片隅にうすぼんやりと甦った。カチリと当たった金属の音も後付けのように耳に聞こえて、そういえばと思い出す。
同時に、するすると昼間の記憶が瞼の裏に、まるで紙芝居のように回り始めた。
確か昨日もこのまま経過を観察したまま朝を迎え、昼前に商工貴族との打ち合わせの時間だとモブリットに急き立てられた。馬車に揺られてる時間はなさそうで、さっさと支度をし馬に乗る。当然そうなることを予想して馬を二頭準備してくれていたのは、やはりモブリットだ。
それからローゼ内にある、他とは一線を画する洋館の中で小一時間ほど折衝を――主にモブリットが、私の懸命な状況分析と滾る予定を適当に端折ってまとめて――して場を辞する頃、陽気な音楽が流れ込んできたのだ。
『――楽団?』
『バースデーソングですね』
借りた厩から愛馬を連れ、一般市民を隔絶する為だけに設けられたような外向きの鉄柵がついた門をくぐる。どこかの窓が開いているのだろう、子供たちの歓声と拍手が沸き起こって、また別の音楽が軽快に演奏され始めたようだった。
ついでに良い匂いも漂い始めて、胃袋が刺激されてしまったようだ。「ポテトフライでも買っていこうよ」と寄り道を勧めた私に、珍しくモブリットも同意したのを思い出した。

そういえば、さっきまでその昼間話した予算の話をしていたんだった。
そこから私が意識を飛ばしたのだとしたら、兵団の話から横道に反れたのだろうと思う。つまり、ポテトフライ――は、別に可もなく不可もなく、いつもの市井の味だったから違うな。じゃあやっぱり誕生日か。

「ハッピーバースデー、モブリット!」
「誰が俺の話をしてましたか」

おっと違ったか。そうか、私か。
冷静なツッコミと同時に、若干苛立たしげにトトンと机を叩かれる音が聞こえて、修正する。

「――ああ、ええと……今日って何日だっけ?」
「五日です。もうほんの三十数分ほどで六日ですけど」
「じゃあ来月来月。九月五日」
「そうですか、来月――」

納得し掛けたモブリットが、パタンと重いファイルを机に置いた。

「――って、今日じゃないですか! 九月ですよ今!」
「ん? そうだっけ? 別に大したことじゃないだろう?」

壁外調査の日程を一月間違えていたなら、そりゃあ万死に値するけど、私の誕生日なら問題ない。兵団においてもそうじゃなくても、そんなに大袈裟に怒られることもないはずだ。それなのに、モブリットは椅子を引くと、立ち上がり、つかつかと私の横にやってきた。
顕微鏡を覗く視界に影が落ちたことで彼の近さに気づいた私が顔を上げる。と、眉間を寄せたモブリットが私を見下ろしていた。

「大したことです。寝てください。日付も曖昧になるほどだなんて限界だ」
「誕生日くらい好きにさせてくれてもいいじゃないか!」

そのまま強引に椅子を引かれそうになったのを、両端に齧り付くようにして抵抗する。モブリットが呆れたように息を吐いた。

「思い出した途端いかにもな理由に使うの止めてください」
「思い出させたモブリットが悪いね」

言われるまで本気で忘れていたくらいなのに。
憮然と言い切る。けれどモブリットはまるで意に介さないようで、椅子にしがみついていた私の手を取った。

「誕生日くらい労いますから、いいからさっさとせめて仮眠でも取ってください。続きは俺が見ていますから」
「ずるい、モブリットだって寝てないだろう!?」
「分隊長よりは寝ています。あなたが起きたら、俺も仮眠を取らせていただきますから」

椅子から離した私の手首を掴んで、モブリットは後ろのソファを目で示した。部屋のベッドで、という条件は譲歩してくれるつもりらしい。……うん? 譲歩? 譲歩って何だ。上官ぞ? ハンジ・ゾエは上官ぞ?
思った時には少し遅かった。
のそのそと引かれるまま、少し強引にソファに身体を沈められる。
乗っていた資料をモブリットが手早くまとめる横から、こっそり一冊引き抜こうとしたのも目敏く見つけて取り上げられてしまった。無駄な抵抗で起き上がり掛けた私の視界も、モブリットに隠される。

「はい、横になってください。あ、資料持ち込み禁止! ブランケットどうします? とりあえず一枚。はい、目を閉じて」
「あーあーあー! なんっってことだ、モブリット! 世界が闇で包まれた!」
「俺の手です。安心して口閉じて寝てください」

瞼の上に暗闇と、じわりと伝わる熱がある。顕微鏡と記録ノートの往復しかしていなかった私の目は、大分疲れていたらしい。丁度良い重さが案外気持ち良い。……なんて言えば「だからもっと早く休んでくださいとあれほど――」等とお説教が溢れることは目に見えているから、言ってやらない。
それに、こうまで強引に休憩を勧めてくる彼というのも、実はあまりないことなので、これは意外と本気で、私の体調を気に掛けているというやつだ。ここでゴネても、おそらく一度は横になるまで、モブリットはあの手この手で私を沈めようとしてくるだろう。
そのうち無表情で静かに怒りながら「分隊長」と言う彼の声が耳に聞こえる誕生日というのも、よく考えたらよろしくない。
それでなくても、徐々に眼圧を掛けてくるモブリットはかなり本気だ。
気持ち良さが痛みに変わる前にと、私は渋々口を尖らす。

「わかった。じゃあ三十分経ったら起こし――」
「三時間以上経ったら声を掛けます」
「なんってことだ! 誕生日が終わってしまう!」
「気にしてなかったくせに!」

わざと恨みがましく言った私に、さすがのモブリットも声を荒げた。が、せっかくの困り顔も、瞼を閉じさせられた状態では、見ることも叶わない。非難のこもった口調に、私は沈められたソファの上で軽く肩を竦めてみせた。

「商会や王侯貴族じゃないんだ。毎日忙しく生きてたら時間なんてアッという間で、誕生日なんて思い出すこともないよ」

それが本音だ。訓練兵になる前は、そりゃあ家族で祝いもしたけど、それこそ遠い出来事過ぎて比較にもならない。
修了後は生きることに必死で、新たな可能性が広く深すぎて、自分のそんな些細なことにまで気が回る余裕もなかった。そもそも気にする性質でもないし。誤解がないように言うと、祝うことそれ自体を悪とするつもりは毛頭ない。知っていればおめでとうと思うし、誘われればパーティーに参加もする。
だがモブリットの言い分は、私とは違うようだった。
半分同意で半分反論といった体の口調には、苦笑が乗って耳に聞こえた。

「でも祝いたい人はいるでしょうに。ニファが知ったら泣いて悔しがりますよきっと」
「はは、泣かれたら困るから、今日の事は秘密だな」
「じゃあ来年は盛大に祝いましょうか」

当然のように言われた台詞に、私は一瞬言葉に詰まった。
何も贅沢は敵だというつもりも、本気で迷惑と思ったわけでも勿論ない。気遣いは素直に嬉しい。
ただ、ほんの少し。想像もつかない来年をさらりと口に乗せたモブリットに、素直に驚いてしまったのだ。
――来年の誕生日。
次回の壁外遠征もまだ終わっていないのに、何て希望に満ちた提案だろう。
肉も野菜もそうたくさん手に入れられるわけもないから、料理自体は質素かもしれない。けれど、ニファにケイジにゴーグル、リヴァイやエルヴィン、ミケにナナバにリーネにゲルガー。この面子でリヴァイ班を呼ばないとかないな。ペトラに酒を飲ませて、リヴァイが送り狼になるのを見届けるなんてこともあるかもしれない。
まだ見ぬ光景が瞼の裏で明るく踊って、それからすぐに光の届かない闇の不安に溶けてしまった。

「分隊長?」

明日の事もままならない調査兵団に属する身で、期待は絶望と表裏一体だ。
ともすれば足元を掬われそうな期待は、叶わなかった時の闇を一層深くする。
モブリットの申し出はありがたい。とても素敵な夢を見た。けれど、モブリットの手の下で、私は静かに首を振った。

「……いいよ。生きてたら、それだけで奇跡的な毎日だ。誕生日なんて、過ぎ去る一日のうちの一つにすぎない」
「……」

そこに意味を見出さなくても構わないから、その分生きるために努力してくれ。
まるで新兵にでも言いそうな訓示が過ぎって、それくらいわかり過ぎるほどわかっている彼に言う言葉としては適切じゃないなと思い直す。何かを察したのか黙したモブリットに笑って、もう一つの本音も告げる。

「祝うような歳でもないしさ」
「いくつになっても、俺は感謝しますよ」
「うん?」

しかしモブリットは存外真剣な声音で訥々と続けた。

「あなたがいたから救われた命がある。進んだ研究がある。あなた自身がどう思おうと、あなたと出会えて、こうして机を並べられることは、俺の誇りです」
「……」
「そのあなたが生まれた日なら、他の誰にとってただの一日でも、俺にとっては感謝しない理由がない」

そう言われて私が否定したら、モブリットを否定したことになってしまう。祝いたい人、というのに、まさか彼自身が含まれていたなんて気づかなかった。泣いて悔しがるというモブリットの様子はまるで想像出来ないけれど、祝いたいと思ってくれていた事実に、どう返せばいいかすぐに言葉が浮かばない。
嫌じゃない。嬉しい。モブリットと出会えた事に、私だって感謝している。

「……モブリッ」
「起きなくていいです。残り僅かの誕生日なんですから、ゆっくり休んでください」
「ぶっ! ……くっそ。いい感じに持ち上げたのは、結局この為か!」
「まさか。フィフティー・フィフティーでどちらも本心です」

思わず起きかけた私の目元をぐいっと押し付けたモブリットに、再びソファへと沈められる。
何だよ、人が折角感動したのに!
突然の熱い告白に柄にもなく緊張したし、何か言ってしまいそうになった私の純情を返せ。くっそ。口の巧い副長はこれだから困る。いっそのこと、もう本気で起きてやろうか。
瞼に乗るモブリットの手を取ろうと、その手に重ねて、だけど反対の手ですかさず取り返されてしまった。
見えないのは不利だ。モブリットの動きも視線もわからないから対処が後手後手にならざるを得ない。

「誕生日なのに、部下に弄ばれた……」
「お詫びに来年は何か贈りますよ」

ぶすくれた私に、悪びれもせずモブリットが言う。しれっとした顔が浮かぶようだ。
誕生日が終わるまであと三十分もあるんだから、徹夜してもいいですよ、とかそういう気の利いたプレゼントをくれる気のない部下に、私はますますぶすくれた。取られた手は器用にブランケットの中へと誘導されて、大人しく従いながら不満を口にする。

「今年はこれで打ち切りか」
「何か欲しいもの、ありました?」

寝ない私に苦笑している口振りだ。ブランケットの上からあやすようにポンポンとリズム良く叩かれて、睡魔を誘うつもりらしい。けれど折角の申し出に、私はモブリットの掌の中でぱちりと瞬きをしてやった。

「リクエスト受付中?」
「……あまり、高価な物はちょっと」
「じゃあねー」
「聞いてます?」

ニヤリと口角を上げると、モブリットが困惑したのがわかって、私は益々口の端を持ち上げた。自分から言った手前、今更取り消すことも出来ない彼は、私の欲求に身構えている。証拠に、胸を叩くリズムが止まってしまっている。私が言うであろう次の言葉に集中し過ぎて、瞼に乗せた手もすぐ離れそうなほど軽い。
私はブランケットから片手を出して、モブリットの手に自分の手を重ねた。瞼に感じる熱より低い体温だったんだなと改めて思う。
二人分の重みを感じる目が、じわりと闇を深くして、けれども触れているのがモブリットだとわかるから、もうどこにも不安はなくなった。

「あの、分隊長――」
「もう少し、こうしてて」

もっと理不尽な無理難題を吹っかけてくると思っていただろうモブリットが、微かに息を飲む気配がした。
まさかの可愛らしい私のリクエストに、驚いて、眉を下げた彼の顔が見えないのは少しだけ勿体ない気もするが、それよりこの心地良さが欲しかった。
闇も、光も、いつでも表裏一体だ。
瞼を覆えば訪れる闇は不安を胸に抱かせるが、そこにある温もりが希望という名の光を連れてやってくる。

「……ハンジさん」
「ん?」

また、モブリットが私の手に触れた。ブランケットへ戻れということだろうか。
大人しく離された手は、しかしすぐには下に向かわずに、モブリットの手が形を確かめるようにゆっくりと包み込んできた。
思ったより大きな手だ。いつも制止を振り切って駆け出す私を必死に繋ぎとめてくれる手は、少年だった頃から馴染ませたブレードで皮が厚く、私のそれと同じように、いつも当たる皮膚の一部が硬化している。
生きている、と思わせる体温に包まれて、何だか胸が熱くなる。

「誕生日、おめでとうございます」
「……へへ、ありがとう」

忘れていた誕生日を祝う言葉が耳に届いて、自然と頬が緩んでしまった。
気にしなかった数分前が嘘のように、その言葉が嬉しいと思った。
今日が終わるまで、後何分になったんだろう。
生きていて良かった。私との出会いに感謝してくれるという、少し口煩いけれど、尊い部下に恵まれた。彼のくれる体温がとても気持ち良いということも知れた。
こんな他愛のない事でさえ、この世に生まれてこなければ、わからなかった事なのだ。
ひと時でも、この気持ちを知れたことに意味があるんだとすんなりと思った。その為に生まれてきたというのなら、その日を、今日という日を、私も感謝しないわけにはいかない。
モブリットの言葉が、今更じんわりと身体に巡る。

「眠るまでこうしていますよ」

きゅ、と少しだけ強められた手の強さも、瞼に置かれた掌の温度も安心する。
多分私はこれからも、出会いと別れを繰り返して、喜びと悲しみに翻弄されて死ぬ瞬間まで生きていく。その瞬間まで、温もりを分け合える存在が傍に在る事に感謝する。
手の甲を擦られるリズムでようやく訪れた睡魔に、私は頷くことも忘れて、馴染んだ体温に意識を溶かしていくことにした。


【Fin.】