口に出したら。 「お前は俺の女だろ、って言ってみて」
「はあ?」 またおかしな事を言い出した。 つい今し方、先週の壁外調査の成果について話し合っていたはずのハンジから、突拍子もないリクエストを寄越されて、モブリットは遠慮なく眉をしかめてしまった。 それにも構わず、ハンジが存外真面目な顔でモブリットを肘でつつく。 「いーから、ホラ」 「嫌ですよ。何ですかそれ」 「今朝食堂で若い女の子達が話してたの思い出してさ。これ、一度は言われてみたい台詞なんだって」 それがどうして「言ってみて」に繋がるのか。ハンジの思考回路はたまによくわからない。例えばモブリットがそれを耳にしたとして、朝から元気な新兵だなと思いこそすれ、それを部下に言わせようとは思わない。 つつかれたせいで落ちかけたファイリング前の紙をいくつかまとめて間に挟み、モブリットはわからないとばかりに首を捻った。 「あなたが言われてみたいわけじゃないでしょう」 「興味は出たんだよね」 「自分が言ってもその興味は満たされないと思いますよ」 「物は試しだって。一回でいいから!」 「えー……」 「モーブリーットー」 いいじゃん減るもんじゃなし、と言いながら、ハンジがぐりぐりと肘を押しつけてくる。そのまま廊下の端へと追いやられて、モブリットは仕方なしに口を開いた。 「――オマエハオレノ女ダロ」 「オイ」 不本意ながらも上官の無謀なリクエストに応えたというのに、ハンジの反応は芳しくなかった。 「満足しました?」 「なわけないだろ。真面目にやれよ」 「……真面目にって」 そんな台詞を昼日向の兵団庁舎の廊下のど真ん中で、どうやって真面目に言えというのか。本当にとんだ無茶振りだ。 第一この手の台詞は自分の中にないのだから、俺様的な言い方といい、ハンジの期待に応えられるとも思えない。 そもそも何を期待しているんだ、この人は。 資料を小脇に抱え直して渋っていると、半眼でモブリットを見据えていたハンジは息を吐いて踵を返した。頭の後ろで手を組むと、拗ねたようにも見える仕草でモブリットに背を向ける。 「ケチー。いいよ、じゃあ今度ケイジにでも頼んでみるから」 「――え、ちょっと」 「リヴァイは――ペトラに誤解させたら可哀想だし、彼いちいち怒りそうだしなー。エルヴィン……エルヴィンもいけるか……?」 「ハンジさん!」 「うん?」 前を行く上司の腕をとっさに掴んで引き留める。 どうしてそんな台詞を聞きたいのかは、やはりよくわからなかったが、他の班員や、まして幹部組――彼女にとっては気の置けない仲間なのだろうがそれでも――にまで迷惑をかけてはいけないという使命感が先に立ったのだと思う。 実験以外の無茶振りに、自分ほど耐性のないケイジでは、それこそあらぬ誤解を与えそうで、男としても部下としても、それは非常に可哀想だし、リヴァイ辺りに知れでもしたら「躾がなってねえぞ」と問答無用で削がれるのは自分だろう。 ――それに。 冗談でも、二人きりでそれを言われる目の前の上司を想像して、不意に過ぎった感情が、モブリットの手に妙に力を篭めさせた。 「一回だけですよ」 振り向いたハンジの腕を掴んだまま、モブリットは、はぁと小さな息を吐き出した。瞬いた彼女の明るいブラウンの瞳が好奇心で煌めいて、自分の顔を映し出す。 本当になんで俺はこんなこと。絶対ないのに。ハンジさんめ。 ハンジの腕を解放する。期待に満ちているらしい彼女の目を見つめ返し、モブリットはそのまま壁にトン、と手をついた。自然、二人の距離が縮まる。少し、近づきすぎたかもしれない。 頭の片隅で妙に冷静な距離を分析しながら、それでもこれは上官命令だと内心で自分に理由を付けて、ハンジの顔色を窺った。 笑い飛ばすか、実験に成功した時のように喜ぶか、はたまたやっぱり大したことないな、と失礼な感想でも述べられるのか。考えるモブリットに、ハンジが何故か戸惑うような視線を向けた。ああ、早く言えよということかな。 そう判断してモブリットは腕の中に囲ったハンジを見つめ直す。 「え――と、モブリットちょっとこれ近くな――」 「――あんた、俺のものでしょう?」 言った。言いましたよ。ほら、笑えよ。 しかしどこかぼうっとした視線でモブリットを見つめ続けるハンジからは、なかなか反応が返されない。 「……分隊長?」 「えっ、な、なに!?」 訝しんで名前を呼ぶと、ハンジが弾かれたように裏返った声を出した。自分で自分の声に驚いたのか、慌てて口元を豪快に隠す。が、動きに比例するかのようにモブリットから逸らされた目尻が瞬時に赤く染まっているのが見えてしまった。何だその反応は。 「あの……」 「……」 「分隊長?」 「ちょ、だから近いって」 ぐぐっと押し返してきた手まで赤い。押された場所から伝播して、モブリットも急速に顔に熱が上がった。 「……ちょっと、なんであなたが照れてるんですか!」 「ててて照れてないよ!?――これはその、違う! だだだだって……だってモブリットが言い方変えるから!」 「は!?」 何のことだ。 堂々とした言いがかりを口にして、ハンジはぎっとモブリットを睨みつけた。目尻が赤い、というより瞳が何故だか潤んでいる。怒鳴られていなければ、どうしましたと囁いて抱擁のひとつもしてしまいそうな表情はいきなりずるい。 モブリットはぐっと息を飲んでそれを誤魔化した。 「『お前は俺の女だろ』だっつってんのに変えたじゃん!」 「同じじゃないですか!」 「全然違うね! まんまモブリットだったね!」 「……俺に言えって言ったのあなたでしょうが!」 「だから言い方が違うんだってば!」 巨人の無茶な生体実験に上がるテンションとは違う様子のハンジは、はっきりと支離滅裂で、まったく意味がわからない。 とりあえずモブリットが辛うじて理解出来た部分は、台詞回しが気に入らなかったということだけだ。 ここでいつまでも押し問答をしているわけにもいかない。 少しだけ冷静になった頭で結論づけて、モブリットは興奮で顔中を赤く染めたハンジに「わかりました」と折れることにした。 「ハンジさん」 「何さ――」 壁に付けた手を一度離すと、ほっとしたように見えたハンジの肩に置き換える。 手の中でハンジがぴくりと僅かに跳ねた気もしたが、モブリットはそのままずいっと距離を縮めた。 「よくわかりませんけど、もう一回言えばいいですか?」 さすがに「お前」はやりにくいから、そこは変えてもいいだろうか。 後は何だ――そうだ、真面目に言え、だったな。 「いや、もうい――」 「あなたは俺の」 「わー! わー! わー!」 「ぶっ!」 しかし最後まで言わない内に、いつの間にか脇から抜き取られた資料で、モブリットは思い切り顔面を打ちつけれた。まだファイリング前の書類がバラバラと音を立てて床に落ちる。 呆気に取られたモブリットを押し退けて、ハンジは素早く距離を取った。眉を寄せて、けれども怒っているというよりは困惑していると言った表情は耳まで赤く染まっていて、モブリットの方が更なる困惑を隠せない。思わず胸の奥がドキリと大きな音を立てる。 何だかものすごく悪い事をしでかした気分だ。 「……え、あの」 ハンジさん、と名前を口にしようとして、しかしハンジがバッと両手で耳を塞いだ。そのままぐるりと背を向けられて、一瞬後に脱兎の勢いで駆け出してしまう。 「モブリットのむっつりー!」 「――ちょ、人聞きの悪い!」 捨て台詞は、あっと言う間に廊下の彼方だ。 追いかけようと手を伸ばし、モブリットは足下に散らばった書類に、ぐ、とその場に踏み止まった。ものすごいスピードで突き当たりを曲がってしまった上官の背中はもう見えない。 「……そんなに言い方マズかった、か……?」 ふざけたつもりはなかったが、むしろ真面目を意識しすぎて空回っていたのかもしれない。今頃中抜け著しいファイルと共に研究室に辿り着いただろうハンジに、もう少しイメージトレーニングを積んでからきちんと言おうと、モブリットは口中でもごもごと同じ台詞を繰り返しながら、散らばった資料を拾い集めたのだった。 (おしまい) |