仄暗い先に擁す道しるべ




民衆の歓声は静まり、今は静かな興奮の渦巻く熱気に変わっていた。
フレーゲルとその父の代から受け継がれた古参の商人達が、今頃縦に横に、今後の手筈を整え奔走しているはずだ。
ハンジとモブリットは、今後の動きを確認するため、フレーゲルが用意してくれた一室にいた。
古くひび割れ、風か馬車の振動にかはわからないが、カタカタと音を出す窓から静かな外を見下ろしていたハンジが言った。

「――さて。これでひとつの終着が見えそうだな」
「そうですね」
ピュレの真っ直ぐな情熱に当てられ、頑なだったロイも、さすがとしか言いようのない早さで活版印刷を進めている。
「これで……彼らの汚名は晴れる」
「ええ」
「……言葉と表情が違うよ、モブリット」
「……」

先程から全く心の入っていない相槌だけのモブリットに、たまらずハンジは苦笑を乗せた。
大手を振って解決を謳える事態には程遠いことはわかっているが、今後への緊張とも違うモブリットの表情は読めない。思えば彼のこの雰囲気は、エルヴィンが拘束された辺りから徐々に、そして一班の所在が明らかになった時からより強固になったように感じられた。肩を竦めてみせても、モブリットの表情は変わらない。
沈黙して自分を見つめる彼から目を逸らして、ハンジは窓枠に行儀悪く腰を下ろした。

「これからリヴァイ達と合流するっていうのに、彼より眉間に皺が深いなんて大問題だろ。さすがに満面の笑みを浮かべろとは言わないけどさ。一つ、報いることが出来たのは事実だ。現実を見て、生きてる私達がちゃんと次に進むことこそ、彼らへの手向けにもな――」
「手向けても彼らは二度と戻りません」
「何?」

思わぬ返しだった。言葉を途中で遮られたよりはっきりとした困惑で、ハンジが聞き返す。
モブリットを見ると、やはり感情の読めない瞳が、ハンジの中まで見透かすようにじっとこちらに向けられていた。

「死んだんです。彼らは二度と戻ってこない。名誉の死でもなんでもない。殺されたんです。人間に。壁外ではなく、壁の中で」
「モブリット」
「巨人という脅威から人類の自由を勝ち取る日を信じて、その為に心臓を捧げていた彼らは、捧げた相手に殺されたんですね。一方的に」
「知っている。もういい」

ハンジの制止の言葉も軽々と無視して、モブリットは続ける。

「三人とも急所を一発だったそうですよ。ニファに至っては、下口蓋の一部以外全てが吹き飛んで、歯の照合も満足に出来なかったそうです。彼らには、巨人と相対した時のような恐怖と絶望もなかった代わりに、希望や後悔を託す想いすら、浮かぶ暇はなかったでしょうね」
「――いい加減にしろ!」

たまらず窓枠からモブリットへ間合いを詰め、口を塞ぐ代わりにシャツの胸元をぐっと絞めた。それでようやく言葉を止めたモブリットは、しかしハンジの行為にというより、一旦区切りがついただけのように、やはり静かにハンジを見つめている。
ハンジは口中で小さく舌打って、ともすれば逸らしたくなる視線をモブリットのそれに合わせた。

「……モブリット、君らしくもない。何が言いたいんだ。君の言ったとおり、彼らは死んだ。戻らない。だからどうした。全員が五体満足でいられるとでも思っていたのか? ……確かに、今回は、相手や場所がイレギュラーだった。でも作戦中の出来事だ。相手の戦力が上だった。それは壁外でも変わらない。そうだろう? 彼らは――君だって、それを覚悟して、この戦いに投じているはずだ」
「当然です。覚悟はしている。でも、理解と感情は違います」
「……どういう意味だ」
「味方の戦力、敵の動向、傾向の分析、予想と対策――それらは我々指揮官が作戦を指揮する上での常識です。イレギュラーへの対応も然り。……ここも読まれましたか。目撃者の話では、やり合った憲兵の主格とリヴァイ兵長は、おそらく旧知の間柄であったようだと。であるなら、その性格、思考回路をより――」
「――待て。ちょっと待て。……冗談だろう? それ以上言うなら軽蔑する」

モブリットの言わんとしていることを察し、ハンジはバッと手を挙げた。
ここにいる二人を残して、班員は死んでしまった。それは事実だ。エレン奪還作戦の犠牲になったことも知っている。直接会って子細を確かめるのはずっと後になるだろうが、それだけはねじ曲げられた真実の中で、疑いようのない事実だ。

「……」

顔の前に付き出した指の隙間から見るモブリットは、冗談を言っているようには見えなかった。
探るように自分の副官の顔を見つめ、揺れもしない瞳の中に、ハンジはただ訝る自分の顔だけを見る。
ハンジは信じられない思いで、無意識に首を横に振っていた。
モブリットの考えがわからない。それを言って、彼は何をするつもりだ。モブリットがこんな時に意味のない会話をするとは思えない。
確認作業を躊躇うのは久し振りだ。
はっきりと戸惑いながら、ハンジは口を開けた。

「本気か……? 本気で彼の――……せいだとでも?」
「責任の一端は彼にもあると考えています」
「モブリット!」

モブリットは簡単そうにそう言った。
思わず名を叫んだハンジを、しかしモブリットは静かな瞳で見つめ、顔の前にあるハンジの手を退けさせた。

「あなたは、欠片も考えたことはありませんか」
「当たり前だ! 今回のことで責任があるのは、むしろ私だ! 彼らを残すと決断した。預け先を決めたのも私だ」
「俺もそれに同意しました」
「なら――!」

モブリットが、表情を変えないまま、ハンジの手に視線を落とす。

「そして、選択を後悔しました。例え過去に戻れたとして、機動性と戦力分布を考えて、同じ選択しか出来ないとわかっていて、それでも――」
「――」
「兵長が側にいて、何故――と。考えてしまったんです」
「それは――……」

非難というより、懺悔のように聞こえる言い方だった。
表情は変わらないのに、こちらを見ないままのモブリットが、苦しそうに、悔しそうに唇を僅かに震わせたように見えて、ハンジは言うべき言葉を上手く口に乗せることが出来なかった。
おそらく他の誰が今の彼を見ても、冷淡な表情を浮かべた副長だと思うはずだ。けれどもそんな些細な違いに気づいてしまえる自分に、ハンジは確かに狼狽していた。
何よりも、モブリットのその言葉が、ハンジが深く何重にも鍵を掛けた心の深淵を覗き込んだように感じてしまったのだ。
――そんなはずはない。違う。悪い幻想だ。自分はそんなことは思っていない。
無意識に引き掛けたハンジの手を、掴んだままのモブリットは離さなかった。
けれどもまだこちらは見ずに、淡々と続ける。

「一瞬です。本当に、おそらく一瞬。失う側の辛さの重みを知っているはずの自分が、最低なことを考えました。あの人の背中の翼が、ここにいる誰よりもいろいろな物を背負って、背負わされて、重いことを知っているのに」

最低なことを考えました、ともう一度吐き出したモブリットが、ハンジの手をぐっと強く握り込んだ。

「モブリッ――……痛ッ」

引き抜き掛けたハンジの手をより強い力で引いて、モブリットは顔を上げた。憂う色はなく、また、真っ直ぐにハンジをその目に映している。ハンジの方が、逃げるように視線を逸らした。

「あなたは、大丈夫ですか」
「何を――痛い、離せモブリット……つッ!」

いつになく話を聞かないモブリットが、ハンジの命令を無視して、より手を掴む指に力を入れる。圧迫されて軋んだ骨が痛い。

「痛みで、思わぬことを口走るのは仕方ないと思います」
「なん――」
「先程の言葉、そっくりそのままお返しします」
「……何を」

やめろ、と睨んだ先でモブリットの瞳がほんの僅か、やはりハンジにしかわからないだろうくらい微かに苦しげに歪んだ。

「言葉と表情が違いますよ、分隊長」
「馬鹿言え――」
「人間なんです。後悔もする。考えてはいけない感情に支配されることだってある。それでも立ち止まることは出来ないから、きちんと向き合って――現実を見て、前に進まなければならないと思います」

そんなことは百も承知だ。分隊長という役職を得て、いったいどれだけ経っていると思っているんだ。リヴァイやエルヴィンほどではないにしろ、自分が背負う自由の翼の意味も重みも、ハンジは充分身を持って知っている。

「……わかっている。だから――モブリット、痛い」

気持ちを落ち着けようと吐き出すように言ったハンジの手を、モブリットは容赦なく力を込めた。
いつも必要以上にハンジを優先して優しく立ち回ろうとする部下の、珍しい強引さが何を示すか、ハンジはわかりかけていた。けれど、まだそれを見据えることが出来ない。
どうして――――――違う、わかっている。

「あなたはそんなに高潔でしたか。一人で全責任をいきなり負える度量があると? 誰かのせいにしたことなど、本当にただの一瞬もないんですか?」

けれど待ったなしに畳みかける質問は、そのままハンジの心を押しつぶして、そのくせ強く絡んで離れてはくれない。
無理矢理な包容を強制されているかのような錯覚に、ハンジは強く腕を引いた。それでも離れないモブリットの手に、怒号にも似た口調で怒鳴る。

「痛いっ、離せモブリット!」
「答えてくれたら離します」

モブリットの低い声が、ハンジの心の鍵を遠慮なくノックし続ける。
振動が頭の芯を揺さぶって、ハンジは顔を歪ませた。

「いっつ……ッ、この、いい加減に離せ、はな――モブリット!」
「ハンジさん」

ノックの音が煩くて、ハンジの心が悲鳴をあげる。
限界だ。わかってた。

「……っ、……る……ッ」

掠れた声が咽喉の奥に絡んで、その声を押し出させるかのように、モブリットが更に手に力を込めた。
痛みに、自分でも気づかないよう心の奥底に仕舞い込んでいたはずの本音が、ぼろりと口から押し出される。

「ッ……! そうだ、ある!」

認めたハンジを、それでもまだ強めてくるモブリットの力が、無言で足りないと言ってくる。
痛い。手が。それからもっと、ずっと、奥が。

「……あるさ!」

ぎり、と強められる痛さに奥歯を噛み締めて、ハンジは喘ぐようにモブリットを見た。

「今回の件はイレギュラー中のイレギュラーだ! ただでさえ闇雲で何もかも不足している。いくら彼でも完璧な対応なんて出来るわけはない! 町中でいきなり奇行種に襲撃されたようなものだろうさ! 全滅を免れた事実を賞賛して然るべきだ! ――それでも!」

ギリギリと万力のように強まる力に、ハンジは振り仰いで絶叫した。

「……っ、どうして、全員なんだっ! 思うよ! 思った!! 新生リヴァイ班は全員――奪われた二人はいるけど、無事で、そちらに設定した場所の判断は何をどうして――……! けど、だけど、私は部下を彼に託した! 決断したのは他の誰でもない私だ! 状況を推測するしかない私が、机上の空論でどうして彼を責められる!? それに――」
「……」

掴まれた手首が痺れたように痛む。ハンジは拳を握り締めた。

「ッ……、それに、知ってる。彼の、失う怖さを。守れない絶望を。自分を、誰より責めていることを」

それはモブリットと出会う前からリヴァイを知っている者として、計り知れない後悔を胸に進んでいる彼を見てきた事実でもある。彼の過去の深淵を全て知っているわけじゃない。けれど、その一端を、ハンジはモブリットより、班の誰より、今まで見て、知っている。

「……私と違って、彼はあの時も――、その選択で、直接仲間を失って――……」

そして、彼は再び背負い歩いている。
その声なき慟哭は、さすがのハンジでも何をすることもできないものだ。
過去に数えるには近すぎるあの日、おそらく涙の一筋さえ流していないだろうリヴァイの感情は、たとえ何であっても一生残るものだろう。
失った命に重さの軽重はないけれど、個人としての想いは別だと知っている。

「……多かれ少なかれ、誰もがそれを知っています。だから生き残っている」

過去に意識を向けていたハンジを、モブリットの声が無理なく今に誘い戻した。
手首の熱を再び感じ、ハンジは大きく息を吸い込んだ。吐き出す息が震えてしまうのがわかる。

「わかってる……わかってるんだ。なのに、私は、――っつ」

自分の汚い感情に眉を寄せたハンジを遮るように、再びモブリットが手首を強く握った。
痛みで呻くハンジに、モブリットは静かに言う。

「誰のせいでもないし、誰のせいでもあります」
「ああ……、ああっ」

慰めではなく、淡々と事実を述べる口調が、ハンジの心をノックし続ける。

「失った者は戻りません。だから、生きてる我々は、ちゃんと後悔しましょう。選択のミスはこれからだってきっとある。でも何がミスなのか、結果はどこで判断できるのか生きてないとわからない。わかったところでどうしようもないことが大半だ。でも、だからこそ、嘆いて、愚かさを呪って、彼らの犠牲を知りましょう。……自分の、心の現実を見ないふりで先を見ても、きっと、前に進めない――」
「……っ」

いつも聞くモブリットの声音が、低く、静かに二人きりの部屋に響いて、掴まれた腕から振動が伝わるかのようだった。視界が滲んでしまうのは、だからきっとそのせいだと、ハンジは奥歯を噛みしめる。

「今、俺のせいであなたは手が痛いので、泣いても仕方ないと思います」

俯いて見えないはずのハンジのつむじに、モブリットの声が落ちた。
くそ、と内心で毒づいて、ハンジは抵抗とばかりに腕を引く。

「……離せば、いいだろっ」
「イヤです」
「頑固者!」

当然のように離されない手首を、むしろ強く握り込んだモブリットの力は、おそらく痕になりそうなほどだ。
本当に痛みで泣けるかもしれない。

「……これ以上、静かに壊れるのを見ているなんて出来ません。あいつらにも怒られる」

痛みが、鼻の奥を通って、ヒリヒリと瞼の裏を熱くする。

「君も同じだ。今にも自分で自分に手を掛けそうな顔してたくせに……っ」
「あいつらにドヤされますね、似た者同士だと」
「本当だ。とんだ体たらくだ。なんってことだ!」

これからも生きている限り、何度だってこんな過ちを繰り返すだろう。
自分の小ささを突きつけられて、迷って、決めて、後悔して、自分の愚かさに愕然とする。

「……っ、ふ、く……っ」

全てを認めてしまえるほど、楽な道であるはずがない。
けれど、痛みに紛れて吐き出せるうちに、それを許す存在が傍にあるうちに、もう二度と出逢えない彼らに後悔と謝罪と感謝を込めて前に進む。己の卑小な感情を認めて前を向く。向かなければならないのだから。

「次は、君の番だからな……っ!」
「はい」

力を緩めず居てくれる存在をギッと強く睨み上げれば視界が揺れる。それを振り払うように、瞬きをしたハンジの頬を、あの日以来、初めて滴が伝って落ちた。


【END】


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なんというか、61話のハンジさんの表情は、何か自分の中に折り合いを見つけたというか、だからこそリヴァイに対して責めるでも慰めるでもなく、事実を受け入れた会話で進めたんじゃないのかなと悶々した故のモブハンターンでした。何故そこでハンジさんが一人でその折り合いをつけられたと解釈しなかったのかといえば、それは私がモブハン脳だからですww