雲の切れ間から降り注ぐ





夕食に振り当てられた時間はとうに過ぎ、自室で書類を読み終えたリヴァイは時計に目を向けた。
あと数時間で今日も終わる。
今頃班員たちは、食堂でリヴァイの供した酒と少しばかりの肉や菓子で楽しく騒いでいることだろう。
曇りなく笑う、晴れた青空のような彼女の笑顔を脳裏に浮かべて、リヴァイはふと知らず息を吐いた。

今夜のささやかな宴を辞して、一人自室に戻ったのは正しい判断だったと思う。

「一緒に騒ぎませんか」と声を掛けてくれたのはエルドだ。
実は班員の一人の誕生日だということを教えてくれたのはグンタで、迷惑をかけないようにするので少しだけ部屋を使う許可が欲しいと舌を噛みながら申請してきたのはオルオ。
当の主役はといえば、まさか男所帯の班で自分の誕生会が計画されているなど露ほども思わず、同期の友人と訓練後に誕生会に行ってしまった。サプライズはもう少し広範囲に用意周到さを発揮せねばならないと嘆いていた男共に、ペトラの外出申請から、帰隊するのは21時だと教えてやったのはリヴァイだった。
戻ったら改めて祝ってやればいいだろうが、と言ったリヴァイに一瞬ぽかんとした顔を向けて、それから一斉に破顔した彼らが、どれだけ彼女の存在を大切に想っているのかがわかる。そうと決まれば、素早い優秀さで簡素だが温かみのある飾りつけを食堂の一角に作り上げる様は、随分楽しそうだった。

彼ら自体、元々ギリギリまでああでもないこうでもないと祝い方を考えあぐねていたせいで、リヴァイに話が来たのは訓練明けの夕方。そこからでは、さすがに何か特別なものを用意できるわけもない。
エルヴィンの私室にあった酒の中からとびきりの物を一本拝借して、あとは間に合えば好きそうな菓子を買ってきてやれと、オルオに金を渡した程度だ。
それでもペトラの帰隊後、それとなく近くに足を向けたリヴァイは、中から聞こえる気の置けない会話に満足して踵を返していた。

いくら同じ釜の飯を食う間とはいえ、私的なものの入り乱れた空間に、上官がいれば本心から心休まらないのは当然だ。
ペトラのことだ。明日にでも顔を合わせればいの一番で礼を言ってくるだろう。照れくさそうにはにかむ表情を思い浮かべて、リヴァイの視線は知らず凪いだ。
――祝いの言葉くらいかけてやるべきだったか。
そう思った時だった。
トントントン、と自室のドアが叩かれた。

「誰だ」
「ペトラです。……兵長、まだ起きてらっしゃいましたか」

誰何の声に控えめな声音で答えたのは、明日聞くとばかり思っていたその声だった。
僅かに目を瞠ってリヴァイは席を立つとドアを開けた。
仄暗い廊下に、ランプの明かりを携えたペトラがいる。ほんのり頬を染め上げて見えるのは、リヴァイが供した酒のせいだろう。目が合うと、ふにゃりという音が聞こえてきそうな笑顔を向けられて、リヴァイは更に内心だけで目を瞠った。

「どうした。飲み食いは終わったのか」
「いえ、まだもう少し皆で楽しませてもらっています」
「なら主役がこんなところで何してやがる。早くあつらの所へ戻ってやれ」
「はい。ただ、その……」

お開きの報告か、はたまた就寝の挨拶かと思ったが違うようだ。
ふわりとした口調で言い淀むペトラにリヴァイは眉を寄せて続きを待つ。

「もしよろしければ、兵長もご一緒に」
「俺はいい」

ペトラらしい気遣いだ。
即答で答えると、ペトラは見た目にもはっきりとしょげた顔で伏せてしまった。

「…………そう、ですよね」

臍の下で組んだ両手の指先が、所在なさげにもじもじと動かされる。すみません、と小さな声で呟くように言われて、リヴァイは違うと首を振った。

「俺が一緒だとお前もあいつらも気が抜けねえだろうが」
「そんなことありません!」

仕方なしに理由を告げると、ペトラはガバッと顔を上げた。大きな瞳がリヴァイの部屋から零れる明かりを受けて、飴色に輝いて見える。僅かに目を細めたリヴァイに構わず、ペトラは握り拳を作って、リヴァイへ一歩踏み込んできた。

「私、ずっと兵長がいらっしゃるんだと思って待ってましたし、皆も兵長はこういう集まりは嫌いなのかなってしょんぼりしてたんですよ!それで、エルドが、もう一度俺が誘ったくらいじゃダメかなって言ってて、だから私がお願いしたくて――」

なるほど。エルドの策略か。
ペトラの必死の説明を聞いて、リヴァイは合点がいった。
宴会の始まりにあれだけ和気藹々と盛り上がっていた彼らが、しょぼくれていたはずはない。自分を慕ってくれている彼らの心を疑っているわけではないが、尊敬と気の置けなさがイコールにはならないと知っている。
それでも適度に酒の入ったペトラが、いつものように「あれ、兵長は?」とでも聞いたのだろう。自分たちは一度断られている。だからここは主役のペトラで、といったところか。
まさか自分がほいほい宴会の場にやってくるとは思っていないだろうから、ここは少しペトラの話を聞いて、戻るように諭してやればいいのだろう。

「それで、あの、あのですね」
「何だ」

それなら部屋に入れてやった方がいいかもしれない。
考えていると、ペトラがまた少し言いにくそうに口ごもった。促すと意を決したようにペトラが顔を上げる。

「すごく私的な事で恐縮なんですが、実はその、私、今日誕生日でして……!」
「……知ってる」
「そうなんですよ――……って、知ってる!? 何で!?」

これのどこに、そんなに言いにくいことがあっただろうか。毒気を抜かれた気分で答えるリヴァイを、ペトラは驚いた顔で聞き返した。

「何でも何も、お前の誕生会を開きたいから時間と部屋の調整をさせてくれと言ってきたのはあいつらで、許可を出したのは俺だ。知らないわけねえだろ」
「――は、ほ、ほう……っ!」

ぽん、と目の前で手を打ったペトラは、それから妙に眉間に皺を寄せてみせた。リヴァイはしばらく無言でその様子を見つめ、それが、ペトラがリヴァイ自身にはバレていないと思って陰でやる自分の真似をしているらしいと気づく。ギャラリーのいない本人の前でそれをやる意味がわからない。

「……お前、酔ってんのか」
「いえっ、え? よ、酔ってますか?」
「知らねえよ」
「ですよね!」

少なからず素面には思えない。
頬の赤さはそれほどには見えなかったが、酔い方は人それぞれだ。

「……とりあえず、少し落ち着け」
「す、すみません」

両頬を抑えてまたぞろ俯き掛けたペトラにわかるようにドアを引く。
おずおずと見上げてきた彼女に目顔で示すと、きょとんと目を瞬き、それから慌てたようにリヴァイの後ろについて、ペトラは部屋に入ってきた。
ソファに座らせ、水差しからグラスに水を注いで渡す。
どうせこれからまた宴会に戻るのだから、ここで少し酔いを醒まさせてやるのも上官としての努めだろう。もしかしたら意外と酔いの回っていたペトラの熱を冷まさせるつもりで、エルド達も追い出したのかもしれない。だとしたら随分無責任で自由なものだな、と重くはない苦々しさでリヴァイはペトラの隣に腰を下ろした。

「俺は、何も用意してねえぞ」
「はい?」

ギ、と二人掛けのソファが鳴って、ペトラが不思議そうな顔を向けた。
一息に飲んでしまったらしいグラスをテーブルの上へ置いて、もう一度首を傾げたペトラの胸ポケットからは、白いレース生地が覗いて見える。

「あいつらから貰ったんだろう?」

この誕生会をしたいと打診してきた彼らは、随分前からそれぞれプレゼントを考えていたような口振りだった。渡す場所が欲しいと言うのがオルオの提案だったことも納得がいく。あの様子では一人では到底彼女に渡せなかったのだろう。

「ああ――、エルドの彼女さんに作ってもらったそうで、レース飾りのハンカチを貰いました。綺麗なんです!」

胸ポケットから取り出して嬉しそうに広げて見せたそれは、小さいが上品な生地で、その縁を細やかなレースで飾られていた。まるでどこかの花嫁衣装のような細工だと思う。ペトラの嬉しそうな笑顔にいつか大きなベールとなってかけられるだろう想像を起こさせるには十分で、リヴァイはふと誰も気づかない程度に目元を伏せた。

「似合っている」
「えへへ、ありがとうございます。グンタは……これです。どんぐりで作った馬なんですって。器用ですよね。あ、これ動くんですよ!」

そう言ってペトラがポケットから取り出したのは、ドングリを器用に加工して作られた小さな玩具のようだった。足の部分が蹄鉄を半分に切ったような形にしならせてあり、前後に揺れるようになっている。
ハンカチを四つに畳み机へ置くと、その上へどんぐりの馬を乗せたペトラが人差し指でつついて見せた。

「ね? 可愛いですよね」

得意満面な顔で振り返ったペトラにどうぞとばかりに手を取られ、つつく。バランス良くゆらゆらと揺れるどんぐりの馬はシンプルで滑稽で、その素朴な愛らしさは、持ち主に通じるものがある。

「悪くない」
「ふふ。あ、オルオからは栞をもらいました。シロツメクサの押し花を挟んだそうで……あいつも気が利いたことしますよね」
「そうだな」

胸ポケットの手帳に挟んでいた栞を手渡されて、それが随分丁寧に作られたものであることに気がついた。水分も完全に抜けている。薄く漉いた紙の間に挟んでいるらしいそれは、シロツメクサの素朴な色合いを絶妙なバランスで閉じ込めていた。大切に大切に、この小さな花が出来るだけ長く彼女の傍に在るようにと願いが込められているかのようだ。

「全部宝物です」

部屋の明かりに透かして栞を眺めていたリヴァイに、ペトラが柔らかい声で言った。視界の端で追うと、グンタから贈られたどんぐりの馬をつついてペトラは嬉しそうに微笑んでいた。
長くない時間そうして、ペトラはリヴァイの視線に気づいたようだ。
きょとんとした瞳を向けてくるペトラの手に栞を返し、リヴァイは逡巡した。

「……俺が」
「兵長?」

良かったな、とだけ言えばいい。
そろそろあいつらの元に戻ってやれと背中を押せば、それでペトラはここを去る。
わかっているのに、何故か、リヴァイは栞を乗せたペトラの手をじっと見つめたままで言葉を続けてしまった。

「俺が、今日がその日だと知ったのは夕方だ。何も――」

ペトラに何かをせがまれたわけじゃない。そんなことを気にする彼女ではないことなど百も承知だ。
けれどこんな言い訳めいた言葉を口にしてしまった自分は、どこかで何かをしてやりたいと思っていたと認めざるを得ない。
酔っ払いを相手に吐露してしまった見せる気のなかった欲の一端に、リヴァイの眉間が深まっていく。
と、そんなリヴァイを、ペトラは真っ直ぐ見つめ返して言い切った。

「いただきました」
「あ?」

思わず地下のゴロツキ張りに低い声音で返したリヴァイは、伏せていた顔で下からペトラを睨み上げてしまった。
けれどペトラは驚きも怯えの色さえ滲ませずに、居住まいを正してリヴァイに向き直った。それからぺこりと頭を下げる。

「お菓子もお酒も、ありがとうございます。私、すごく嬉しかったです!」

気負いのないその言葉は本心だろう。
ランプの明かりの下で輝く蜂蜜色のつむじを見つめて、リヴァイはふいっと視線を逸らした。

「……俺は金を渡しただけだ。好きな菓子があったなら、買いに行ったオルオに礼を言え。酒はエルヴィンの部屋にあったものだ。俺のじゃない」
「だ、団長の!?……後で、怒られたりしません?」
「俺が飲んだと言えばいい」

今までに前科がないわけでもない。
酒は嗜むが強い拘りがあるわけでないエルヴィンが、部下の誕生日に供したからといって、何を言うとも思えない。が、憂いはなくしてやるべきだろう。

「兵長のせいになっちゃいますよ」

ペトラの小さく笑う声が聞こえた。
ちらりと視線を向けると、いつの間にか頭を戻し、右手を口元に当ててくすくすと笑っているところだった。
栞は手帳に挟まれて、胸ポケットにしまったらしい。
机の上のレースとどんぐりの馬が、リヴァイの部屋に場違いな可愛さを運んでいる。
これが似合うのは、やはりペトラだ。そう思った。
彼らは大切な仲間を良く見ている。何が似合い、何が不要で、何をペトラが喜ぶか。
綺麗なレースに愛らしいどんぐりの馬、実用的で思いの篭められた栞――
贈った彼らの人柄が移ったそれらは全て、ペトラの為だけに誂えられたものだとわかる。
けれど自分は。

「お前に、何が合うか考えはした」

零れてしまった、と言うのがぴったりな言葉が、するりとリヴァイの口をついた。
肩を揺らす笑いを引っ込めたペトラが、その真意を探るようにじっとリヴァイを見つめてくる。
言うべきではなかったかもしれない、と思ったが後の祭りだ。
答えないという選択肢を用意していたリヴァイに、ペトラがおずおずと聞いた。

「何が、合うと思ってくれたんですか?」

大きな瞳が不安気に揺れて、遠慮がちに問う口調に負ける。
一度ペトラから視線を流してため息を吐けば、ペトラの緊張が伝わってくるようだった。
何が合うか、ペトラにどんなものを感じているか。
ゆっくりと視線を戻し、緊張の面持ちでごくりと喉を鳴らすペトラを見つめる。

「……花。色は何でもいい。白や黄色や、とりあえず花は似合う。だが花を飾るような生活をしてるわけじゃない。だから、オルオの選択は丁度良い。よく見てるな、アイツは」
「……」

花屋に飾られた派手なものじゃなくていい。野の花の自然な美しさや逞しさ、それはペトラ自身の強かな美しさと通じるものがあるのだと思う。
花が似合うと言えば、ペトラは僅かに照れくさそうに目を伏せて、胸ポケットの上から手帳に触れる仕草をした。
それに僅かに目を細めて、リヴァイは続ける。

「女らしい服も、まあ、お前くらいの歳なら喜ぶんじゃねえのかと思った。が、何が特別に合うかはっきり言って俺にはわからない。お前は、何を着ていても悪くない」
「……ほ、ほう!」

一瞬言葉を失ったペトラの口から、またリヴァイの物真似が出た。
俺はそんなに目つき悪く相槌を打っていたかと半眼になってしまったが、ペトラの顔が思いのほか真っ赤に染まっているのを認めて、リヴァイは小さく首を傾げた。
す、と頬に手を滑らせる。赤い素肌は思った以上に熱く、ひたりとリヴァイの掌に馴染んだ気がした。

「酔いはまだ醒めねえのか」
「むしろ心臓が瞬間心拍数を更新したかもしれません……!」
「何でだ。……まあいい。あとは、そうだな」
「……はい」

冷たい掌が心地良いのか、ペトラは特に嫌がる素振りを見せるではなく、酒のせいで少し潤んだ瞳でリヴァイを見る。
その目を見つめて、リヴァイは無意識に親指の腹でそっとペトラの頬を撫でた。

「青空。抜けるような、雲一つない晴天。お前は、そんな場所がとりわけ似合う奴だ。そう思う」

笑顔と花と晴れた空が似合う女だと、リヴァイは何度思ったかしれない。
地下にいたあの頃から、何度となく隙間から覗く空を見上げ、思い描いた理想の風景。
調査兵団員として同様の訓練にあけくれ、泥にまみれ、それでも失われないペトラの持つひたむきな美しさは、それ自体が素晴らしく惹きつけられるのだと素直に認める。
手を伸ばせば届く距離だと思ったことがないわけではない。けれど、自分に向けられる真っ直ぐな想いに気づいてからは、むしろリヴァイはそこから目を背けてきた。そこにある曇りなき思いを、尊敬を、思慕を、――ペトラの持つリヴァイが欲する全ては、リヴァイ自身が触れた途端に、汚してしまうような気がしてしまう。

「あいつらは、そういうお前とよく合う」

それぞれが真っ直ぐに前を見据えて進む眩しい強さを持っている。
ペトラの帰りを待っているだろう食堂の顔ぶれを思い出して言って、リヴァイはペトラの頬から手を離した。

「兵長も――」
「俺は、そこに分厚い雲を作る。クソメガネのような強風でも吹きゃあ、それなりに薄く流れてお前らも多少は息をしやすくなるだろうが、せっかくの青空をこんな日くらい曇らせる必要はねえだろう。お前に曇天は似合わない。だからペトラ、わかったらそろそろあいつらの所に戻ってや――」
「私、曇り空大好きです!」
「……あ?」

突然の宣言と共に、完全に離れかけたリヴァイの手をペトラが取った。掴んだ指先が微かに震えているようだ。取り返すつもりで引いたリヴァイを、しかしペトラは両手で掴み直すと、存外強く握り込んだ。まだ酔いは醒めていないのか、その手の先まで熱い。
ペトラがひたりとリヴァイに視線を合わせた。

「花も服も青空も、似合うものだと言ってくださったのは嬉しいです。すごく嬉しいです。でも、似合わないって、兵長が勝手に決めないでください」

瞳はやはり潤んで見える。けれど酒に酔ったふわふわとしたものではなく、奥に秘めた意思を感じさせた。

「晴天も好きですけど、分厚い今にも降り出しそうな空の色や雨の日って、私すごく好きなんです」
「……そうか」

それは、単に天候の好悪を言ってるのか、それとも。
ペトラの真意はわからない。

「訓練兵時代、雨でぬかるんだ道を騎馬走行してて、バランスを崩さないで一位で駆け抜けたことがあったんです。兵士としてものすごく成長したって思えたし、雨で土埃も抑えられるし、それに、あの重たい雲から今にも零れ落ちそうな雨の匂いって、ちょっと特別で、ああ雨があそこにあるんだって思えるのも好きで」

雨はじっとりと嫌な空気を蔓延させ、閉じこめる。リヴァイにとってのイメージは、しかしペトラとは違うのだろうか。

「ただ晴れただけの空って、脳天気なイメージもありませんか……?」
「穿った見方だな。清々しくていいじゃねえか。洗濯物もよく乾く」
「なら、雨は恵みをもたらします。曇りは日差しを和らげて長距離走行時の体力を温存させてくれるから好きです」
「……変わってるな。濡れるのは嫌じゃねえのか」

曇天も雨雲も、晴天のような笑顔を持つ彼女には似つかわしくないように思う。けれど、ペトラ自身は別の思いを抱いているのだと主張して、リヴァイの言葉に首を振った。

「びしょびしょだー!って慌てるのも楽しいですし、お湯の温かさも身に沁みますし、悪くないと思います」

そういえばいつだったか、訓練の最中通り雨に降られた事があった。ブーツの中がぐちゃぐちゃだと辟易した声を上げる兵士達の中で、ペトラは上がった虹に歓声を上げていたような気がする。その時は能天気なものだと思ったような気もするが、なるほど、ペトラの笑顔はそんな時ですら曇ることはなかったのか。

「分厚い雲、大好きなんです。だから」
「……」
「似合わないって言わないでください」

ペトラの手が、きゅっと強められる。見つめる先で、潤んだ瞳が熱く、それから何故か泣きそうに見えた。
そんな顔をさせたかったわけじゃない。何が似合うかを考えて、思ったことを言ったまでだ。
けれど、リヴァイがペトラに不釣り合いだと思うものが、ペトラにとって違うなら――

「……悪かった」

ペトラの手を握り返す。と、ペトラが驚いたように大きな目を瞬いた。
ランプの明かりを反射して煌めく琥珀色の瞳から、切なさが振り払われたようでホッとする。

「お前の好きなものを否定するつもりはない」

安心させるように小さなその手を撫でていると、ペトラが「あの」と遠慮がちに言った。

「兵長は、晴れた空は嫌いですか?」
「……嫌いじゃねえ。ただ、眩しい、と思う」
「眩しい?」

見上げるだけだった空の青さは、リヴァイがずっと焦がれてきたものの象徴でもある。

「ずっと届かない光だったからな。……時折見上げた屋根の切れ間から差し込む空の光は、眩しくて、目が眩みそうになる。だが、嫌いなわけじゃねえ」

陽の当たる場所へ来て、自由の翼を背中に背負い、それは当たり前のように自分も享受できたものだと思っていた。
けれど。

「好きですか……?」

最初からその恩恵を当然のように与ってきたものと、自分では決定的に違いがある。笑い方ひとつ、考え方ひとつ。それは些細なものだ。けれど、距離を踏み越えるにはあまりにも大きな壁に思えることがある。

「……空は高い」
「はい」
「届かない」

今ここで手に触れている以上の事を、眩しく高い青空にしても良いのだろうか。考えても答えは今も出ないままだ。
ペトラの質問に正面から答えずに、リヴァイはその手を今度こそ離した。
代わりにソファを立ち、ドアへと向かう。
察したペトラが何か言いたげな視線を向けて、それからソファを立つ音がした。
ドアノブに手をやったところで、背中に言葉を投げられる。

「届くとしたら。……届くなら、好きですか」

少し震えるような口調は、やはり泣きそうにも聞こえて、リヴァイは内心で舌打ちをした。
仮定の話に意味はない。適当に誤魔化すつもりで振り向いて、しかし、リヴァイは自分を見つめるその瞳に小さく息を飲んだ。
手にしたランプの明かりが弱々しく揺れている。
僅かになった光源を受けてよく見えなくなっているペトラの頬はおそらく赤い。
けれどその瞳は真っ直ぐにリヴァイを捉え離すまいとしているかのようだった。リヴァイからのどんな答えも聞き漏らすまいとするかのような。
これに、嘘で答えるなんて出来るはずもない。
少し離れた位置で立ち止まったままのペトラへ、一歩近づく。

「――届くなら」

晴天の下を大手を振って歩きたいと、あの頃いつも思っていた。
だが実際に歩く陽の下は、想像以上に明るく華やかで、薄闇に慣れたリヴァイの目には眩しく映った。
けれど今、この瞬間の光源で目を慣らしてからでもいいのなら――

「手を伸ばしてみたい、と思うことはある」

日の光を浴びれば透けるように煌めく金の髪は、リヴァイの部屋で、夜の帳とオイルランプの明かりの中で、リヴァイの色に少しだけ寄っていると錯覚する。すい、と伸ばした指先に、柔らかなペトラの毛先が触れる。
そのまま横顔にかかる髪を軽く梳き、離した指先を確かめるように合わせていると、ペトラがまた小さく言った。

「……私も、雨の空も、厚い雲も、全部欲しくなることがあるんです」
「そうか」

望むなら。
ペトラがそう望むなら、曇天はいつでも抜けるような青空を周囲から遠去けることができてしまうと、ペトラは知っているのだろうか。
一歩距離を詰めたリヴァイに、ペトラがすっと顔を伏せた。

「……で、ですね」
「何だ」
「今日は、その、私の誕生日ですので」

声がすぐ間近に迫る。

「少しだけ欲しいんです」

何を、と聞くのは野暮だろうか。答える代わりに頬へ伸ばしたリヴァイの手を、ペトラの手が上からそっと触れた。
決意を込めた琥珀の瞳が、リヴァイを見つめる。

「兵長の今日のお時間を少しだけ、私にください」
「ペト――」
「私――皆も、兵長と一緒にテーブルを囲みたいんです。お願いします!」
「――――あ?」

頬に添えるリヴァイの手を、諾というまで離すまいとするかのように、ペトラがぎゅっと力をこめる。その瞳は真剣で、心許なくなってきたランプの明かりが消えそうに揺れる度、琥珀色に深みが増して見えた。

「こういう騒がしいの、兵長はあまりお好きじゃないと思いますが、あの、少しでいいんです。だから、その、一緒に――」

思わず深くなってしまった眉間の皺を物ともせず、むしろペトラの方から距離を詰めて懇願されて、リヴァイはふうと息を吐いた。

「……嫌いじゃねえ」
「え?」

抜けるような晴天は、曇天の中にあっても自身の明度は失わないということを失念していた。下から見上げるちっぽけな人間の主観など、そもそも空に関係はないのだ。

「……わかった。行く」
「ありがとうございます!!」

どれだけ覆い隠そうとも、雲の内側でこうも明るく照らされ続ければ、頑なな厚みにその内温もりが染み込んでくるものかもしれない。
雲の隙間から差し込み降り注ぐ日差しのような笑顔で言ったペトラの頬から伝わる熱が、冷たい自分の指先を、じわりと温め始めているように。


*****


「良かったな、ペトラ」
「えへへ。嬉しい」

向かいの席でぐんにゃりと揺れるように笑うペトラは、グンタの言葉に頷いてグラスを両手で傾けた。リヴァイの部屋にやって来た時の比ではない酔い方だ。
エルドがさりげなくグラスを水の入ったものとすり替えながら、リヴァイの隣に腰を下ろした。

「兵長、こいつずっと兵長が来ないって管を巻いてたんですよ」
「あ、エルド! 余計な事言わないで!」
「リヴァイ兵長に無理をさせるなんて、お前は歳を食ってもまだまだガk――ひぶぅっ!」
「クッキーに血飛ばしたら、血達磨にするからねオルオ!」

隣を陣取っていたオルオが盛大に舌を噛み、ペトラが酔っぱらいとは思えぬ早業で、テーブルの上からクッキーの乗った皿を退かす。いつもと変わらない彼らの気の置けないやり取りに、リヴァイは自分のグラスを傾けた。

「賑やかだな」

やはり日溜まりのような奴らだと思う。
ふと呟いたリヴァイは、オルオの血飛沫からクッキーを守りきったペトラと目が合った。途端、ちょこんと頭を下げられる。

「兵長、私の我儘に付き合ってくださって本当にありがとうございます。最高の誕生日プレゼントになりました」
「なら良かった」

本心からそう言ってやると、ペトラはやはり晴天の似合う笑顔で顔を上げた。それからまたふわりふわりと揺れながら、水の入ったグラスを飲む。

「兵長の誕生日は何が欲しいですか?」
「別に何もいらねえ」

ペトラやオルオ達とは違い、こういうパーティーは性に合わない。けれど彼らが喜ぶのなら、今日と同じように、少しの食べ物と時間をやる理由には良いかもしれない。そんなことを思ったリヴァイの前で、ペトラがダンッとテーブルを拳で叩いた。

「そんな! 私ばっかりしていただいて、それはないです! 何か……あっ!」

何か思いついたらしい。ポンと手を打ったペトラが、見る見る間に喜色満面の顔になる。

「じゃあ、兵長の誕生日には私をあげます!」

次いで言われたペトラの言葉に、リヴァイ含め、四人は耳を疑った。

「あ?」
「は?」
「おい、ペトラ……」
「ペ、ぶふぉおおっ!!!!」

無意識にグラスを滑らせたリヴァイの隣で、エルドが反射で底をおさえて事なきを得る。が、そのエルド自身も、次の言葉を上手く見つけられないでいるようだ。グンタは額に手をやって、オルオは傷の癒えない舌を再び噛みきってしまったようだ。
掴み損ねたグラスを受け取りテーブルに戻し、リヴァイは剣呑な声を出した。

「何言ってやがる……危うくグラスを割るかと思ったじゃねえか……」
「だって今日は兵長のお時間をいただいてしまったので、お返しに、私も兵長に私の時間をと思いまして。あっでも同じ時間だとか思ってませんよ!? 何でも聞きます。何かしてほしいことがあれば言ってください。肩でも腰でも揉みますし、紅茶も飲み放題です!」

なるほど、自分をやるとはそういう意味で使ったのか。
ペトラは自分の名案を誇らしげに、ドン、と胸を叩いて崩れた敬礼のような仕草をする。
ペトラらしい発言だ。意味を解した班員達が次々と苦笑に頬を緩めていく中で、リヴァイは一人、先程のペトラの言葉を思い出していた。

ただ晴れただけの空が脳天気ではないかと心配をしていたペトラ。
それは一理あるようだ。眩しすぎる提案は、曇天を無邪気に刺し貫こうとしてくるのだから。
けれど雲の分厚さを、ペトラはそろそろ少し知ってもいいかもしれない。誕生日を迎え、ひとつ年を経たのは、悪くないタイミングと思うことにする。
花のような笑顔で辺りに日溜まりを作る彼女は、びしょびしょに濡れる楽しさを知っていると言ったのだから。

「何でも、聞くのか?」
「はいっ、何でも!」
「……」
「……」
「……」

リヴァイの発した言葉に気持ちよく二つ返事で返すペトラと、無言の面々。
口元を抑えながらおどおどとリヴァイとペトラを見るオルオを後目に、グンタとエルドは我関せずを決め込むことにしたらしい。グラスに酒を継ぎ足す音を聞きながら、リヴァイは喉元のクラバットを指で緩めた。

「兵長? ……私の時間くらいじゃダメでした?」

日溜まりに似合うと思っていた男共は、存外曇った部分も理解しているようだ。それでも晴天に合わせてここにいるというのなら、リヴァイが少しばかり雲で覆っても良いのかもしれない。

「いや」

飲み干してしまったペトラのグラスに、手ずから本物の酒を継ぐと、晴天の日差しが花を伴って綻ぶような笑顔で返されて、リヴァイはそっと目を細めた。
やはり眩しい。けれど、曇天でいくら覆っても、伸びやかなこの青が消えることはないのなら。

「悪くない」

注いだグラスにグラスを合わせ、リヴァイはそれを飲み干した。


【Fin】

ペトラ誕生日おめでとう!!