醒めないヒツジ




「――とか、どう思う!?」

興奮を抑え切れないといったように大きく身を乗り出してきたハンジへ、モブリットはふむと唸って顎を引いた。
彼女の発想は突飛に過ぎると言われがちだが、可能性を突き詰めれば過ぎるということはない。
自分ではそこまで至らなかっただろう実験の手順を頭の中に浮かべながら首肯する。

「ああ、確かに。その推測はさっきのアプローチで証明できるかもしれませんね……」
「でしょう!? じゃあ早速エルヴィンの許可取ってくる――」
「――え、あ、分隊長!」

我が意を得たりと飛び出して行きそうなハンジの腕を、しかしモブリットは咄嗟に掴んだ。
前しか見ていなかったらしいハンジは、バランスを崩して引かれるままに後ろに倒れる。それを自身の胸で受け止めながら、モブリットは上から覗き込むようにして顔を顰めた。

「今何時だと思ってるんですかっ。明日にしましょう」
「ええー」

時計の針はとうに深夜二時を回っている。
兵団規則の就寝時間はとっくに過ぎているのだから、こればかりはいくら不満を言われても譲ってはいけない常識の範囲だ。

「エルヴィンの事だから起きてるよきっと」
「そういう問題じゃありません」

起きているなら起きているで、それは事情があるからだ。決してこの実験の許可を出す為ではないとわかる。
そもそも口答で進言して許可が下りるような内容ではない。打診の必要は理解できるが、予算の兼ね合いもあるのだから、上層部の会議に掛ける必要もある。それならせめて出来る限りの準備はしたい。
今この自室でハンジがメモ書き程度に殴り書いたものから、きちんと読めるものにまとめる必要があるだろう。
滔々と正論を告げるモブリットに、ハンジはジト目を向けて口を尖らせた。

「……モブリットは細かい」
「分隊長が大雑把すぎるんです」

机上のメモ書きを後で読み返しやすいようにまとめながら、端をとんと叩いて揃える。
喉から手が出るほど許可が欲しいのはモブリットも同じだが、それ以前に人として守らなければいけないことがあるのだということを、ハンジは突き抜ける傾向にある。

「大体緊急事態でもないのに訪ねる時間じゃないですよ」
「緊急事態だよ! すっげえ画期的な実験じゃんコレ!」
「わかりますけど、団長にとってどうかは多分別の話です」

自分だからこそわかる内容と許される時間だ。
そろそろ就寝を、と準備をしていたところに、ノックもおざなりに部屋のドアが開かれた時はさすがのモブリットも驚いたものだ。
ベルトも全て外し終えて、シャツのボタンに手を掛けたまま止まってしまったモブリットに掴みかからん勢いのハンジは珍しく――モブリットがここ一週間ばかり口煩く何度も言っていたからか――湯上りだったらしく、ショートパンツにタンクトップ、その上から引っ掛けただけのシャツはボタンも掛け違っていて、髪から滴る水滴で肩回りが濡れていた。

「またそんな格好でここまで来たんですかっ」
「すごいこと思いついたんだけど!」

思わず素っ頓狂な声を上げたモブリットを華麗にスルーしたハンジの頭を、部屋にあったタオルでどうにか拭いて、濡れたシャツの代わりに自分のものを羽織らせる。
言葉通りの勢いで飛び込んできたのはよくわかるし、これが初めての突撃でもない。が、同じ事をいくら付き合いが長いとはいえ、例えばリヴァイなら確実に蹴り倒されてしまうだろうし、団長にやってはマズイとわかる。
大抵のことには細やかな気遣いのある人なのに、こと研究と自身の事になれば、周囲が見えなくなるのが困ったところだ。
睡眠も作業効率を考えれば立派な仕事なのだと何度言ってもわかってくれない上司にどうにか寝てもらおうと、モブリットはハンジに向き直った。

「とりあえず今日はもう寝て、明日この内容で一度団長に話を通してから会議用に資料を作り直して――」
「今から作るのは」
「ダメです。俺が眠くて死にます」
「じゃあいいよ。私が作っ」
「あなたが寝てくれないと、心配でやっぱり俺が死にます」
「器用に死ねるなモブリット!」
「……少しは心配するフリしましょうよ」

手元のメモに伸ばされた手からさっと避けると、ちっと舌打ちが返ってきた。
念の為、文机の引き出しに片付けて鍵を掛けるモブリットの後ろで、あわよくばと狙っていたハンジはようやく諦めてくれたらしい。背中越しに「今日はもうおしまいです」と宣言すれば、まだ不服そうではあったが反論もない。
仕方ないとでも言うようなこれ見よがしな息を吐いて、ハンジはようやく肩を竦めた。

「はいはい、わかったよ。でもこれ明日絶対朝一ね!」
「わかってます。じゃあ部屋まで送りま――」

笑顔で振り向いたモブリットが固まる。
当然のように靴を脱いだハンジが、よっこらせと言いながらモブリットのベッドシーツを捲っているところだった。
おやすみ、と背中を向けられて、モブリットは一足飛びでシーツを剥いだ。うおっと色気のない悲鳴を上げたハンジが、うつ伏せた枕から恨めしそうな視線を上げる。

「何やってるんですかあんたは」
「何って、寝ろって言ったのモブリットじゃん」
「――何で、俺の、ベッドに、入ってるんですか」
「そこにベッドがあったから」
「自分のベッドで寝て下さい」

どこの一流の登山家だ。
まったく油断も隙もない。
出て行く気配どころか、つい先程まで意気揚々と団長の部屋を突撃するつもりだったのが嘘のように、欠伸をかみ殺すのも心底ずるい。うっかり日々の疲れを労いたくなってしまう部下の習性を利用されてなるものかと、モブリットはベッドの端に腰掛けて、ハンジを起こそうと試みた。が、何度辛抱強く呼びかけても、もぞりと丸まったハンジは重そうに瞼を上げてモブリットをじとりと睨んだ。

「今から戻るの面倒だし、ここでいい」
「送りますから! ちょ……っ、俺の寝る場所がないでしょうが!」

団長室でも執務室でもない一兵士の部屋だ。仮眠を取れるソファはない。
よくある研究室での朝のように、気づけば机が枕というのは、自室でやりたいことではなかった。

「あー……私のベッド使っていいよ?」
「あんな腐海――じゃなく、わかりました。俺が今から寝られる程度に片付けますから」
「えー、いいよ別に。いい具合に眠くなってきてるし。今ここから出たら目が冴えそう」
「ぐっ……」

今度は脅しか。
徹夜か団長への直談判か、もしくはその両方を眠たげな口調で呟かれて、モブリットはぎりりと歯噛みしたい気分になる。
不規則極まりない徹夜続きが常のハンジを、宥め眇めつ寝かしつけられるのは副長くらいだと、いくら兵団内で賞賛されても実際はこれだ。

「モブリット、さーむーいー」

そりゃそうでしょうよ、とベッドマットから引き剥がしてやりたい衝動をどうにか抑えて、モブリットは自分の為に大きく長い息を吐いた。まだ半乾きの髪で、とっくに湯冷めしている体に、ほとんどシャツ一枚で丸まっているのだ。おまけにシーツを引っ剥がされて、このままでいれば風邪を引く。

「……」

本来引き摺ってでも自室へ帰すべきだということくらいわかっている。
だが、もう完全に寝入る態勢になってしまっている彼女を抱え起こせば、本気で団長室に殴り込みでもしかねない。よしんば引き摺りに成功したとして――万が一にもこんな姿の上官を引き摺る自分を見られたら、どんな言い訳をしたとしても色々終わる。
彼の悩みなど素知らぬ顔で、抱えたシーツの端を手繰り寄せようとしているハンジを見下ろして、モブリットは寄ってしまった眉間を右の人差し指で揉み解した。

自分のシャツなど貸さなければ良かったと今更ながらに後悔する。
肩幅や体格が違うから当然といえば当然なのだが、ぶかつくモブリットのシャツに着られた感のありありとした姿も、万が一を考えると絶対誰にも見せられない。
彼女にどうこう言いながら、深夜の画期的な実験方法に浮かれていたのは自分もらしい。
こういうことが常過ぎて、時折常識を忘れている自分に気づくと残念になる。
だからといって、まだ乾ききっていないシャツを着せ替えてまで、疲れているのは事実でようやく寝る気になっているこの人を無碍に追い出せないモブリットには、観念するより他に道は残されていない。
そう思い知らされる度、本当に、非常に、残念だ。

出した結論に大きく息を吐き出して、モブリットは腰を上げた。
ちらりとハンジの様子を窺ってみれば、彼女の方もモブリットを見ていたらしい。じっと逸らされない視線にもう一度小さな息を鼻から逃がして、モブリットはランプの明かりを落とした。
ベッドに戻り、腰を下ろす。ギッと木枠の鳴る音がしたが、構わずハンジの肩に触れた。

「……もっと端に寄って下さい。もっとずっと。そのまま壁にめり込んで下さい」
「無茶言うな」
「無茶言ってるのはあなたですからね!」

部屋の壁側に付けたベッドの端へぐいぐいとハンジを押しやって、シーツをしっかりと掛けてやる。やや乱暴に体の下にも敷きこんでから、モブリットは残り少ないシーツを捲り、出来るだけ反対の端へ背を向けて素早く潜り込んだ。
これがモブリットに出来る精一杯の苦肉の策で、妥協案だ。
以前、同じように潜り込まれ、仕方なしに床で寝るを選択したモブリットは、シーツごとハンジに転がり落ちてこられてから、安全上こうするのが一番妥当で仕方がないのだと血の涙を流して学習していた。

「ちゃんと掛けないと風邪引くよ」

しかし、何故かこんなところで本来の気遣いを思い出したらしいハンジが、そう言って背後でもぞりと体を起こした。
自分へと多めに掛けられたシーツをモブリットにも均等に寄越す。

「そう思うなら自分のベッドで寝て下さいよ」
「だってこの方があったかいじゃん」

冬場は特に、と悪びれなく言いながら、掛け直したシーツ越しに睨んだモブリットの頭にぽんと手を置く。
くるりと一撫でしてからまた潜り込むと、「おやすみ」と今度こそとろりとした声音が、モブリットの背中に小さく掛けられた。折角壁際に押しやったというのに、髪に吐息が触れる距離で言ったハンジの体温が近い。
程なくして、規則正しい呼吸音が聞こえてきた。

まったく――人の気も知らないで。

その寝息を聞きながら、モブリットは内心でそっと一人ごちる。
今度内地へ行くことがあれば、厚手で大判のストールでも買ってきてぐるぐる巻きにしてやろうかと、半ば本気で考えてみる。
温かさだけを求めているなら、そんな格好でフラフラうろつかなければ良いだけの話だ。
風呂から出たら湯冷めする前に服を着ろ、は何歳までに入る一般常識だったんだろう。
何度言っても聞き入れてくれない年齢まで成長してしまった人にはどうすればいい。

そもそも、だ。
ハンジにとっては温かい程度のことなのだろうが、自分にとっては違うのだと、爪の先程も考えてくれるつもりはないのだろうか。

(……熱いんですよ)

肉体的には完全に眠たいはずなのに、眠れる気が全然しない。
いっそこのままハンジの代わりに団長へ直談判も悪くないとさえ思い始めた自分の思考に気づいて、モブリットはぶるぶると頭を振った。顔の前に置いた自分の掌を、握っては開くを繰り返してみたが、まったく考えが落ち着かない。

(あーもう)

後ろで張り付いて眠るハンジの体温を、ものすごく不本意ながら背中に感じ、モブリットは泣きたい気持ちでぐっと下ろす瞼に力を込めた。眠れない夜には、そうだ、ヒツジを数えればいいと、昔誰かに聞いた気がする。
そうしてこのまま夜明けまで、一体何匹が頭に満つだろうと考えながら、モブリットは静かに羊を数え始めたのだった。


【END】


とか言いつつ、朝しっかり向かい合った状態でおはようございます言うモブリットとか、抱き枕よろしくぎゅっされてることに気づいて「ああああヤバイやばいヤバイってこれはさすがにヤバイ朝はヤバイ」ってぐるぐるしてるモブリットとか、色々妄想してました。モブハンいい。
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