その声はあなたの耳にだけ05


「後で良くないか?」

ひとまとめにしたシーツを抱えたモブリットの横で、ハンジがざっくりと纏めた頭を掻きながら、面倒臭そうにそう言った。
つい数十分前まで紅潮していた頬は普段の色を取り戻し、隙あらばとモブリットを狙っていた瞳の鋭さも落ち着いて、いつもの少し困った分隊長の口振りになっている。モブリットも副長然として、しっかりと首を横に振った。

「駄目です。そう言って絶対に入らないでしょう。今入ってきてください」
「ええー」

それでも唇を尖らせるハンジの不満声に、モブリットは困ったように眉を寄せた。

「……さすがにまずいですって。俺も後で入りますし」

既に火照りの引いたハンジは本気で面倒だと思ったのかもしれないが、今回ばかりはやはり駄目だ。
部屋の空気とは違う。換気の出来ない身体はきちんと汗を流すべきだ。
いくらタオルで拭おうと、交換した互いの匂いはこれでもかと混じり合って、こうして近くにいても違和感が無さ過ぎるのだから問題だ。
後悔はないが、反省はある自身の行為を振り返って、つい溜息が口を吐く。と、ハンジが口角を持ち上げた。

「何笑ってるんですか」
「いや、そうだよねと思って」

他人事のような顔をして。シーツに包まれた中にあるシャツは、ハンジの着ていたものだというのに。
そうさせたのは紛れもなくモブリットだが、止められなかったのはハンジのせいだ。
憮然として見つめた先で、ハンジが視線を和らげた。

「――ねえ、モブリット」
「はい?」
「まだ痛い?」

並んだ距離は変えずに、ハンジがモブリットの後頭部に触れた。上官としてではない指の動きに、思わず視線を逸らす。
資料室で打ち付けた部分を気遣うように優しく撫でられて、忘れていた箇所が痛みとは違う熱を思い出してしまいそうになる。
シーツを片手に持ち直して、モブリットはハンジの背中を押した。

「……着替えは後で置いておきますから、早く行ってください」
「はいはい――、って、あ、ミケ」
「え?」

くすくすと肩を揺らすハンジが、前を歩いていたミケに気づいた。同時にミケも二人に気づき、振り返る。
肩越しにひょいと前方を覗き込んでその姿を認めたモブリットは、さり気無くハンジの背中から手を離した。彼女の少し後ろ――いつもの位置について歩きながら、「お疲れ様です」と声を掛ける。

「……」

だが無言のまま二人を交互に見遣ったミケが、何故だかモブリットに一歩近づくと鼻を鳴らした。
――何だか嫌な予感がする。
微妙に眉を上げ始めたミケが、「ミケ、サボり?」と声を掛けるハンジを無視して、軽く彼女に向けても鼻を鳴らす。

「何? どうかした?」
「――スン」

それから、またモブリットに向き直ると、至近距離から何度も何度も。
まるで初めて会った人間に対する時のようにスンスンと鼻を鳴らされて、モブリットは助けを求めるようにハンジを見た。
これはもしかしてもしかするのか。いやしかし、いくら鼻が利くとはいえ、それはさすがに考えすぎか――

「獣どものご帰還か」

しかし揶揄するでもなく、淡々と言ったミケにじっと見つめられて、モブリットは二の句が繋げなくなる。
――前言撤回。色々バレている気しかしない。

ケダモノども――確かに少し、その気がなかったとは言い切れない。
言葉の前に実行に移したハンジと二人、最後の睦み合いまでは、本能でマウントを取り合ったのだから。
冷静になった今だからこそ、その表現は何とも身につまされる思いだった。
しかしハンジはミケの言葉に一瞬きょとんと眼を瞬かせ、それからポンと手を打った。
何故この場面で、と聞きたくなるほど自然な口調であっけらかんと言い放つ。

「いやだって何だかクッソ昴ぶってさ、久し振りに上にの――もがっ!」
「ななななに言ってるんですか分隊長!」

起爆寸前の地雷を足元に埋められるところだった。
慌てて口を塞ぐモブリットを見下ろしていたミケが、そこで僅かに眉間を寄せた。
また何か変な臭いでもしたのだろうか。内心でビクついているモブリットへ、ミケの大きな手が伸ばされる。そうしてクイと顎を上に向かされた。

「あ、あの……?」
「久し振りはいいが、ハンジ……顔に傷をつけるまではやり過ぎじゃないのか」

資料室での格闘のようなキスの最中、紙面できったらしい頬の傷を目敏く見つけたミケが、傷には直接触れないように、けれども程度を気に掛けているとわかる力で、モブリットの傷の近くを優しくなぞる。
それからモブリットの頭をポンポンと叩いた。

「消毒しておけよ」
「ミケさん……」

何て真っ当な心配を!

思わず高鳴ってしまった胸の音を誤魔化さずに、ハンジとは違う尊敬とときめきを込めてミケを見上げる。シーツの中からシャツが零れないようにと両手で抱え直しながら、いっそ抱きつきたいくらいの心持ちだ。
と、見つめ合う二人の間に、ハンジが頭をねじ込ませてきた。

「おおおおーい! そこー! キラキラやめろー!! モブリットも何赤くなってるの!」
「あ、赤くなんか――」
「あとミケ。その言い方には語弊を感じる。私だけのせいじゃないっての!」

ぐいぐいとモブリットの胸板を自分の背中で隠すように押しながら、ハンジは敢然と胸を張った。

「私だって、見えない所にめちゃくちゃ跡付けられもごぐーっ!!」
「だから何言い出すんですかあんたはー!!!」

僅かに同情の色が加わってしまったミケの視線とハンジの暴露行為に翻弄されて、モブリットは、廊下のすぐ隅で班員の一人がこちらの様子を窺っていることに、まったく気づかなかったのだった。

***

第四分隊第一斑、研究室のドアが開いた。
ハッとして顔を上げたゴーグルとケイジは、心なし覇気のないように見えるニファの姿に、一瞬どう声を掛けるべきかでお互い視線を見合わせる。

「ただいまー」

それだけ言って自席についたニファに、隣のケイジがおそるおそる声を掛ける役目を担った。

「……どうだった? 会えたか?」

第四分隊のトップ二人が話し合いの為といって、ゴーグルに班訓練の指揮が移って数時間。
ハンジの指示と動向と伝えてくれた兵士からは、非常に険悪な様子だった、という話を聞いていた。気持ち悪い穏やかさよりは随分進展したようで何よりだ。内心、良かったな、と心で呟いた男二人とは別に、ニファは二人の仲違いを本気で心配してしまったらしい。そろそろ本当に殴り合いが終盤を迎えているのでは、と言う彼女に、別の意味で終盤だろうと思いつつ、様子を見てくると席を立ったニファを、二人の手が止めようとして空を切ったのはつい数分前の出来事だった。
ケイジの言葉に、ニファは「うん」と首肯して、それから考え込むように腕を組んだ。

「いたけど、何か副長が洗濯物抱え込んでて、分隊長がお風呂入るとかなんとか、ミケ分隊長と話してた」
「洗濯物……っ」

笑いを堪えるように単語を反芻したゴーグルが、ニファに怪訝な顔を向けられて、咳払いをして背中を向ける。

「ミケ分隊長と?」

素知らぬ顔でコーヒーを飲み始めてしまった彼に代わって、ケイジが名前を確認する。
何故そこでミケが。
洗濯物を抱えたモブリット、という時点で場所が廊下だという察しはつくが、ミケの立ち位置がよくわからない。

「うん。それで、副長がミケ分隊長にほっぺたとか頭とか撫でられて赤面してた」
((モブリット―!!?))

何がどうしてそうなった。
思わず顔を上げてこちらを見たゴーグルと無言で名前を叫び合う。
においを嗅ぐ癖がある以外、ミケは確かな立体機動技術と、実は深い愛情と信念のある性格とで兵士達から人気があるし、その人間性に惚れるのはわかる。
だが、どうして。
廊下で事後の恋人と並んでいるのだろうその状況で、頬を撫でられるんだモブリット。
お前、実はカモフラージュか。本命はそっちか。まさかケンカの発端はそれか。

「あと――そうだ。ねえ、ケイジ」

見つめ合って頬を撫でられ喜んでいたらしいモブリットを想像して、二人があらぬ方向へと頭を悩ませているとは露知らず、ニファが難しそうな顔をして、ケイジを呼んだ。

「ケダモノども、って言われてたんだけど、何でだかわかる?」
「ケダ……ッ!?」
「ぶふぉぉっ!」

口を付けていたコーヒーを顔の前で盛大に噴き出したゴーグルが、涙を流して咳き込んでいる。そのうち壊れたゼンマイ人形のように奇妙な動きで笑い声を交え、前のめりに震え始めたゴーグルを、気持ちの悪いものでも見るかのように目を細めたニファが見つめ、それから「ケイジ」と答えを促した。

「あー……、あ? ええと、それは……だな」
「うん」

くそ、ゴーグルてめえ。
コーヒーの染みで一生まだらになったシャツでも着てろと胸中で毒づきつつも、真剣な表情で自分を見つめてくるニファに、ケイジは頭を抱えたくなった。

「ど――動物は風呂入らないだろ? だから、ほら、分隊長最近たぶん入ってなくて、それで……」
「でも副長も言われてたのに?」
「ぶはっ! うわはははっ! ケダ、ケダモノども……! ケダモノ……!!」

笑いの沸点に達したらしいゴーグルが、限界とばかりに爆笑した。頭から沸騰したコーヒーをぶちまけてやりたい気分だ。
彼の声の大きさに驚いて目を丸くしたニファが、ねえねえとケイジの肘を引っ張る。

「ケダモノドモってにおいの強い動植物か何かなの?」
「――はなしあいをっ、今まで二人でしてたから、だな! においが、移ったとかじゃねえのか、とな!?」

一緒に笑い転げるにはニファの視線が真っ直ぐ過ぎる。
狭いベッドで獣のように交わったんだろ、といえれば本当にどれだけ楽なことか。
これ以上は上手い例えが浮かばずに、泣きたい気持ちを抑えてそう言ったケイジは、ゴーグルが涙を拭いながらビッと親指を立てたのが見えた。

(コロス)

親指を下に向けて答えると、また波がきたらしい。机に突っ伏して震え始める。

「ああ、なるほどー。それで臭いからお風呂入るって話に」
「そ、そうそう!」
「臭い移るほどって、やっぱり取っ組み合いとか……してないよね?」
「して――、し、し……て、さあな!?」

ケイジ自身も別の意味で限界が近い。
してるともしてないとも言えない回答が、ニファを前に、頭の中でぐるぐる回り始めてしまった。

「あとね、分隊長着替えてたんだけど何でだと思う?」
「汗をおかきになられたんじゃねえ!?」

そのうちモブリットも着替えるだろうよと心の中で付け足すと、納得したのかよくわからない顔で、ニファが「ふうん」と首を捻った。

「……でも何でシーツ洗濯に出すんだろ?」

そうか。シーツか。副長はシーツを抱えて歩いてたのか。
新たな事実を告げられて、ゴーグルがそろそろ虫の息のように、ピクピクと痙攣を始めている。けれどもニファの疑問は、ケイジにも限界を突きつける。

「ねえ、ケイジ――」

「知らねえしー!」
事切れたゴーグルを後目に、ケイジはゴンッと勢いよく机に頭を打ちつけたのだった。


【Fin.】

フォロワーさんと兵団服のベルトを外す、というキーワードで妄想が進んだ結果、微妙な喧嘩をしながらお互い押し倒して殴り愛的に仲直りするモブハンの雰囲気SSです。ベッターに制限公開でUPしていたものをまとめました。


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