モノクロショコラが融ける前E-1




敢えてと偶然が重なって、もうかれこれひと月近く肌を合わせていない日が続いている。勢いで身体を繋げてから、これ程長く日を空けたのは初めてのことだった。
最初の一週間はハンジから敢えて距離を置いた。モブリットから何かしらのサインがあるだろうかという思い半分、生来の研究心が疼いての観察半分といった体で、誘うことをしなかった。
次の一週間は偶然だ。試作機の改案や再考証、それに時期を計ったかのようにやってきた書類整理が山となり、何度も寝ろと副官らしい小言をやいのと言われながらも、二人で無茶な夜を乗り越えた。
そうして他の班員達が死屍累々と朽ち果て、執務室に二人きりとなった夜も、迎えた朝も、それらしい空気をチリと感じることすら僅かもなかった。ほとんど無理矢理部屋へと連行されたことも、面倒臭いと床に倒れ込んだハンジを抱きかかえて引きずるようにソファへ移動させる程度の密着があったにも関わらず、だ。
確かに状況と疲弊具合、それに互いの性格から言って、このタイミングでどうこうなる可能性は低い。それはもちろんわかっている。それでもふとした瞬間に――この関係は何だと思うのは仕方がない。
仮眠を勧めてソファに沈めたハンジの身体にシーツをかける優しさがあって、はらりと落ちた髪は掬って耳にかけるのに、どうして唇に触れずに離れる。
ベッドに突っ込まれて呻けば、「おやすみなさい」と掛ける声は甘いくせに、「もうここで眠れば」と枕に突っ伏したまま伝えた言葉は聞こえない振りで出ていってしまう。
公私を分けるというのではない。踏み込ませてくれない関係を、どうして恋人と言えるだろう。

そうして日常業務が一通り落ち着きを取り戻した五週間目。
翌日の業務に変更が生じ、会議の後、帰り道だと軽い気持ちでハンジがモブリットの部屋を訪れた時のことだ。
大分前に自室へ戻ったはずの彼のドアを軽快に三度ノックする。まだそう遅い時間ではなかった。
誰何の声に答えると、慌てたようにバタバタと慌てる音が聞こえ、ほとんど飛び出すようにして出てきたモブリットは、そのまま乱暴にドアを閉めた。背にしたまま「ど、どうしました」と言う彼は、ひどく狼狽してみえた。寝ていたわけではないらしいとは、はっきりとした口調と表情で窺える。ただ寝間着でもないのに珍しくスラックスの上に出したシャツと、少し崩れた前髪にハンジは一瞬面食らったように瞬いて、それから何故だか二人の間に落ち掛けた妙な沈黙を破ろうと口を開いた。

「入れろとか言わないよ」

砕けた口調で言って、けれどその台詞の選択は誤ったのだとすぐに知れた。
照れるなり怒るなりするだろうと予想していたハンジに、モブリットは息を飲むと、そのまますっと視線を逸らしてしまったのだ。まるで図星を指された子供のように。
モブリットがハンジを自室に入れたがならいのは知っている。というより、あの日から明確に、ハンジを入れまいとしていることを知っている。そうなる前は何度も二人で過ごしたことのある勝手知ったるモブリットの部屋は、だからもう随分長いこと、ハンジは足を踏み入れていなかった。
最初は自分への配慮なのかと考えもした。部下の部屋からそう何度も出てくる上官は、確かに外聞が良いとは言えない。けれどもそれだけで言うなら今更だ。それならこのモブリットの態度は、他に何か理由があるのかと考えて、ハンジは可能性に思い当たった。
部屋の中に知られたくないこと――または、見られたくない人が、今、――
もしかしたらと思うことがなかったわけじゃない。この関係はモブリットが望んだものではないのだ。だから、彼にそういう相手がいるということはあり得ることだ。それをきちんと聞いたことがなかったのは、その結論はこの関係の終焉だと、無意識に理解していたからで――

「モブリット」

名前を呼んだのに他意はない。ただそれしか言葉が出なかっただけだ。けれど恥じ入るように俯き気味のまま「すみません」と告げられて、その謝罪は確かな拒絶だとハンジは理解した。
入れろというつもりはなかった。本当に、そんなつもりで来たわけじゃない。けれども、そんな表情を見せられてしまえば、もう認めるしかないではないか。

あの朝からわかっていてことだった。
よろしくといった自分に戸惑うキスを送った日から、モブリットはずっと何かを堪えるように傍にいた。誘いを断ることはなく、けれども少し困ったように抱き寄せる腕を知っている。行為の前に、行為の後で、欲望の醒めただろう彼が気遣うように触れてくれる優しさに胸の奥が軋むような音を立てていたことを気づかないふりはもういいだろう。
それでも彼は自分を尊重する。ハンジが望めば、たいていの無茶はどんな苦言を呈したとしても叶えてくれようと奔走する――それで、モブリット自身が傷つくことになったとしても。

「……潮時だな」
「え?」
「何でもない。これが明日の変更事項だ。目を通しておいてくれ。急で申し訳ないんだけどさ」
「ああ――はい、了解しました」

じゃあ、と踵を返したハンジにあからさまにホッと肩の力を抜いたらしいモブリットから視線を伏せて、ハンジはひらりと手を振った。いちいち反応が素直すぎる。それだけ追い詰めていたということだ。それがわかるから、ここから早々に立ち去りたかった。彼の相手にもタイミングが悪すぎて、申し訳ないなと苦い笑いが込み上げてくる。
けれどまさか気づかれているとは思わないのだろうモブリットが、半拍遅れて足を踏み出す。

「分隊長、送りま――」
「いらない」

存外鋭くなってしまった口調に、モブリットが何かを口にするより早く、ハンジはくるりと振り向いた。
取り繕ったように見えなければいいと思いながら、口元をいつものように上げて見せる。

「髪、寝乱れてる。早くベッドにいきなさい。ね?」
「あの――」
「おやすみ、モブリット」

たった数歩だ。その距離を詰めることが出来なかった。
その髪は誰の手が差し入れ乱したのだろうという予感を肯定する部屋の気配を感じる前にと、ハンジは素早く背中を向けた。
自分が角を曲がりきるまで閉まる音の聞こえなかった部屋の前で、モブリットは罰の悪い表情で見送っていたに違いない。
もう聞こえるはずのない場所まで来ているハンジの耳に、ドアの閉まる音が聞こえた気がした。その部屋で、息を潜めて様子を伺っていただろう誰かに申し訳ないとすら思う。
モブリットにも――本当に。

だから、アルコールを入れた身体で二人になんてなるべきじゃなかったんだ。迷惑をかけるとわかっていたのに。あの日どうしてあんなことに。モブリットは、自分をいったい誰と重ねて――いや、それは自然現象で男女間にはよくあることで仕方がなかったのかもしれないがそれでも。それを盾に試すようなことをしたのは自分だ。責任感の強い彼が、そうそう無碍に出来ないことを知っていて――
いつの間にか戻った自室で、ハンジはベッドに仰向けに倒れ込んだ。

「……バカが。バカ。バーーーカ」

一人自室で嘯いてみた言葉は、やけに濡れて反響して、ハンジは瞼を閉じた。薄く感じる光がうるさい。今は何も見たくないのだ。遮るように両腕を顔の上で交差させ、ハンジはきつく目を瞑った。