モノクロショコラが融ける前E-2




疲れていた。当然だ。
走り続ける壁外調査時の兵馬のように、もう大分第四分隊は疾走していた。
ようやく人並みの時間に自室に解放されたのは本当に久し振りのことすぎて、モブリットは倒れ込むようにベッドの上に突っ伏した。ベルトを外しジャケットは脱いで、けれども寝間着に着替える前に少しだけとベッドを見たら、自然と身体が沈んでしまったのだ。それくらいに疲労は確かに溜まっていた。
シャツが皺になると頭の片隅で思ったが、枕に額をつけたまま、もぞもぞと身を捩るようにしてどうにか裾だけを引き抜いたら緩んだ腹周りにもういいかと満足してしまった。このまま目を開けなければ、睡魔が深く誘って、起床時間まで眠れそうだ。
たまにはこんなだらしない寝方もいいじゃないか。
瞼を下ろしたまま枕を抱きかかえるように身体を動かす――と、閉じた視界の中に、ギ、とベッドの軋む音が聞こえてしまった。何てことはないただの音だ。

「――」

それがどうして。
ああ、たぶん、今がとても疲れているからだ――
不意に浮かんでしまった残像が急速に下腹部に熱を集めてしまうのを感じて、モブリットはぶるりと頭を振るわせた。
ギ、と鳴る軋みが無遠慮にモブリットの五感を刺激する。何を、いったい何を考えているんだ馬鹿か、いいから早く寝ろよ、と自分を嘲りながらわざとらしく肩を揺らすと、更に近くでシーツが擦れて、聴覚がまざまざとありえない映像を浮かばせてきた。
疲れているから――もう、だいぶ、あの人に触れていないから――

「くそ……」

己を戒めるつもりで出した声が、悔しいほどに濡れていた。
だめだ。
どうしようもなく昴っている。
理性でどうしようもない本能は、自分に甘さを許すこの空間ではなにものも止める枷になり得ない。

一度だけ。一度だけだ。これは生理現象で、だから――

つらつらと浮かぶ言い訳が本能に浸食されていくのを苦々しく思いながらも、浮いてしまう腰に欲望のままシーツを強く押しつける。擦りつけるように緩く揺らすと、衣擦れの刺激がヒリリと直接そこを疼かせ、瞑ったままの瞼の裏に、日に焼けない白い太腿の柔らかさを思い出させた。想像が過去の五感までをも容赦なく刺激してくれる。汗ばむ肌の質感と、彼女の匂いが甦る。
ありえない。もうずっと、この部屋に彼女が入ったことはないのだから。
だというのに、いつかここで抱きしめたまま迎えた朝の光も、おはようと口中で呟きながら自分のシャツに顔を埋めて交わしてくれた甘い挨拶も、まるですぐそこにあるかのように再生されて、モブリットは戻らない愛しさを抱きしめるようにシーツの上で身体を丸めた。
物理的な繋がりがなくとも、奥底の感情を理性で厳重に蓋を出来ていたあの頃の方が、もっとずっと、彼女の息吹を近くに感じていたのだとわかる。探って、知って、奥で繋がった分だけ、離れる距離に頭がぐらりと殴られるようだ。
それでも「モブリット」と耳朶に囁かれるその声を、背中に回され甘い痛みを与えてくれるあの指を、どうしても自分から手放すことが出来ないでいる。
普段の快活で凛とした姿からは想像できない程の弱さで押し返そうと震える手を取り、強引に奪ったあの日の情景に、情けないほど情動を揺さぶられて、モブリットは右手をスラックスの袷に這わせた。

「……ぅ、……」

機会のないまま収まっていた自身がゆっくりと主張を始めている。
枕に強く額を押しつけ、視界の明度を更になくすと、より鮮明に浮かび上がる肢体を弄り、漏れ出る吐息に誘われるようにジッパーを下ろす。
いつか、たどたどしい所作で触れられた感触が思い出されて、モブリットはその動きをなぞるようにと下着の中へと手を差し入れて――

コン、コン、コン、と。

現実を知らせる乾いた音に、びくりと手を跳ねさせた。
こんな時間に――それほど遅い時間でもないが、急を要する何かだろうか――いや、そんな切迫した気配でもない。
冷めきらない欲情をしまい込み、持て余し気味の頭で考えながら惰性で出した誰何の声に、「私だけど」と遠慮がちな声が届いた瞬間、モブリットはベッドの上から転げるように飛び起きたのだった。

まだ何もしていないのだからどうということもないはずなのに、部屋の密度が増している気がして、滑り込むようにドアを背にして、今し方あらぬ想像をしていた相手と対峙する。とてつもない罰ゲームを受けている気分だ。
身勝手な欲望の対象にしてしまった罪悪感でまともに顔が見られない。何かを察したらしいハンジが「中に入れろとか言わないよ」と肩を竦めた。瞬間、背中越しにドアの奥で乱れたシーツが浅ましさの象徴のように思い出されて、羞恥と後悔が胸の内でとぐろを巻き、モブリットは今度こそはっきりと視線を逸らしてしまった。さすがにこの態度はない。子供じみた行為の自覚を持て余しながら、それでもどうにか謝罪の言葉を口にすると、ハンジは何事もなかったかのように事務連絡を伝えてくれた。追求されない後ろめたさにホッと胸を撫で下ろし、踵を返した背中に慌てて声を掛ける。

「いらない」

けれど、ぴしゃりとはねつける怜悧さで言われた言葉で、モブリットの足が止まった。
彼女に他意はないのかもしれない。わざわざ自室まで護衛じみた追従はいらないだとか、他に寄る用事があるのだとか、理由はいくらでも想像がつく。だがそのたった一言が――確かな拒絶が、二人のこれからを暗示しているかのようで、モブリットは身体の芯が冷え込む気がした。

「髪、寝乱れてる」
「――」

振り向いたハンジの笑みが胸を突き上げる。
ぴくりとも動かされない腕が、自分に触れるつもりはないのだと宣言しているようだ。

「早くベッドにいきなさい。ね?」

そうしてダメ押しのように言われた言葉に、冷えた芯が今度は急速に熱を帯びていくのがわかった。
違うかもしれない。でも、知れてしまったのかも知れない。
浅ましい想いを抱えて彼女と相対していた自分を。背中の奥にあるシーツの上で、自分が何をしようとしていたのかを。
上官としての労わりの中に含んでみえた艶に全てを見透かされたように感じて、モブリットは返事をすることが出来なかった。今度こそ行ってしまったハンジの背中が角を曲がり、足音が完全に耳に届かなくなってから、モブリットは急き込むようにドアを開けた。鍵を掛け、大股でベッドへ向かい、もどかしいくらいに興奮して震える手で自身に触れた。
情けない、抱き締めたい、縋りたい、愛したい、どうでもいいから彼女に触れたい。
自分の手の中で正体なく吐き出された白濁の温さに堪えきれず顔を歪めて、モブリットは、一人静かに奥歯をぎりりと噛みしめたのだった。