モノクロショコラが融ける前F-1




「モブリット、今夜付き合ってほしいんだけど」
「――は、い?」

午前の馬術訓練を終え、予定通り、午後の書類整理と実験の進捗確認で集った第四分隊第一班の研究室で、モブリットは唐突にハンジからの誘いを受けた。とはいえ、色気のある話では無論ない。
どちらかといえば硬質な声音でされた提案に、そこここで仕事に打ち込んでいた班員達も、ちろりと視線だけを上げている。

「時間ない?」
「あ、いえ――何時からですか」
「何時でもいい。ああ、無茶な実験に付き合わせるつもりじゃないから安心して。食事をして着替えてからでいい。少し話がしたいだけだ。すぐ終わらせる。私の部屋でいいかな。でも用があるなら断ってくれてもいいよ」

事情を問わず、ハンジがモブリットを部屋に誘うこと自体、何も初めてというわけではない。
それこそ明け方まで話しこむこともざらなハンジに頻繁に付き合えるのは、兵団広しといえど副長のモブリットくらいのものだ。有無を言わせぬ言い方とは少し違うから、優先度はそう高くないなとわかる程度で、モブリットが断ることはないだろう。そう判断した面々の意識が逸れていくのが手に取るようにわかる。
モブリットは念の為、今夜の予定を頭の中で浚ってから、いいえと首を横に振った。

「大丈夫です。伺います」
「うん。ああ、別にとって食うわけじゃないから安心して」
「――、分隊長」

一瞬だけ、ハンジの視線が伏せられた気がする。
思わず腰を浮かせかけてしまったのは、あの奇妙な夜の別れがあるからだろうか。自分でもそれ以上何を言うつもりかわからずに呼んだモブリットへ、ハンジはふっと口角を上げた。

「冗談だ。じゃあ今夜。よろしく」
「……はい」
「あとこれ、来週の申請の直し。とりあえず一稿は夕方迄に」
「はい」
「会議に行ってくる」
「はい――え」

会議、は予定にあっただろうか。
渡されたチェックの入った申請用紙を抱えたモブリットが、慌てて胸ポケットから手帳を取り出すのを待たず、ハンジは「いってくるね」と朗らかに笑って研究室を出て行った。
巨人を前に突進しているわけではないのだから、ついて来いと言われたわけでもないモブリットが追いかける場面ではない。ハンジの出て行ってしまったドアを半ば呆然と見やり、それからすっと視線を落としたモブリットは、資料の束を机に置き直した。手帳と班内で共有している壁掛けのカレンダーに目を向けて、予定が書き込まれていないことを確認する。
それなら分隊長以上職だけの何かが突発的に入ったのかもしれない。
必要があれば必ず言われるはずだから、必要がなかったのだろうと判断して、それでも自然と溜息が零れた。

(――今夜の話は、それに付随する何かなのかもしれないな)

あの夜から一週間が過ぎようとしていた。
モブリットは一度もハンジの部屋に行っていない。
ハンジからも誘いがかかることはなかった。

(あれから、初めてだ)

どんな意味でも、夜を部屋で二人で過ごすことが。
思いながら、モブリットは夕方までの資料を捲る。
この一週間の間に、何も二人きりにならなかったわけじゃない。考察が弾んで終業が深夜にまたがることは何度かあった。徹夜になることがなかったのは偶然だ。ただその何れも、モブリットがハンジを部屋まで送ることがなかったのは、たぶん偶然ではないと思っている。

(避けられていた――)

会話の途切れたふとした瞬間、いつもと変わらない口調で切り上げを宣言するハンジはモブリットを見なかった。明確に逸らすわけではなく、ただ、最初から合わなかったかのように、モブリットの目から視線の照準は僅かにずらされていた。
身に覚えは一つしかない。
あの夜。ハンジと交わした最後の会話。
寝乱れてるよ、と指摘されて離されて追いかけられず、どうしようもなく頭の中だけで蹂躙して吐き出してしまった邪な想い。

「副長、何したんですか」

上滑りする思考で集中できず、資料を万年筆の後ろでトントンと叩いていると、不意に声がかけられて、モブリットは意識を急浮上させた。顔を上げれば、冷めきってしまったカップをケイジが交換してくれているところだった。ティーポットから新しい紅茶が注がれて、上がった湯気が空気に滲んで消えていく。

「……何って何が」
「めちゃくちゃ難しい顔してますけど。眉間でペン挟めそうな」
「そんなに!? いや、別に何もしてない……」

自分の眉間をしかつめらしく寄せて見せるケイジに驚いて、モブリットは慌てて眉間に手をやった。揉み解しながらハッとする。

「ちょっと待て。何で俺が何かしたことになってるんだ」
「だってさっきの分隊長、変に真面目だったじゃないですか」

ハンジが真面目だったから――。それがどうして自分のせいになってしまうのか。
よくわからない言いがかりに反論し掛けたモブリットの肩に、ゴーグルがぽんと手を乗せた。

「ありゃ今夜は徹夜コースだな。何して怒らせたのか知らんが、まあ、ご愁傷様」
「いや、だからただの打ち合わせだって――」
「夜食用意しましょうか?」

何かしたのは決定事項か。
呆れるモブリットに、少し離れた端の席から、ニファがちょこんと手を挙げた。彼らの中では徹夜も決定事項なのか。どうしてそうなる。
言われてみれば、確かにさっきのハンジはどこか真面目だった気はする。けれど彼女がいつも奇行に走っているかと言われれば、そんなことは決してない。それはここにいる誰もが知っていることだ。だから彼女が真面目だった理由は他に何か、――気に病む事案でもあるからだろうか。それに今まで気づけなかったのはモブリットが自身にかまけていたせいか、ハンジが悟らせなかったせいかはわからない。だが――

「……いや、いいよ。ありがとうニファ。どれくらいかかるかわからないし、必要があれば俺が用意するから大丈夫だ」

まずは今夜。
部下からの気遣いを微笑で辞退すると、ニファは少し考えるようにじっとモブリットを見つめ、それからもう一度、ちょこんと手を挙げた。

「副長」
「うん?」

出来るだけ穏やかな表情で促したモブリットに、

「「「早く謝った方がいい」」」
「ですよ」
「ぞ」
「っすよ」

「なんでだ!」

三者三様の声が、語尾だけ違えて重なった。