モノクロショコラが融ける前F-2



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どこも同じ造りになっている兵団宿舎の上階、角部屋にあるハンジの部屋の前で、モブリットは無意識に背筋を伸ばすと息を吐いた。自分の部屋と大差ない簡素な木造ドアは、ただ静かにそこにあった。
ハンジに指示された業務は滞りなく終了し、言われたとおり夕食を終え、ベルトを外し、ジーンズにシャツを羽織っただけの格好で、モブリットはドアをノックする為の拳を握る。
少し、ラフ過ぎただろうか。仮にも上官の自室に向かうのだから、せめてジャケットくらいは羽織ってくるべきだったかもしれない。今更ながらそんなことをちらりと頭の隅で思って、モブリットは自分が緊張しているのだと気がついた。

(……話)

あれきり、ハンジは内容について触れなかった。
業務の終わりも特に変わった態度はなく、じゃあ後で、の一言もない。
来いと言われたのが間違いだった気にすらなる態度に、伺う時間の打診すら出来ないまま、訪れた今は夜間の最初の哨戒も交代していないくらいの時間だった。

(いるかな)

何時でもいいとハンジは言っていたが、何時にいないとは言っていなかった。
遅くてもいいと言うのは、もしかするとあまり早い時間は予定があるという意味だったのかもしれない。
無駄に頭の中で考えながら、モブリットはドアに拳を当てた。
いなければ、また後で出直そう。
コンコンコン、と三度軽い音を響かせて名前を告げる。
少しの間を置いた後、中から「どうぞー」と間延びした声が聞こえてきた。

「失礼します――……今、大丈夫でしたか」

意を決してドアを開けたモブリットは、出迎えてくれたハンジの姿に思わずそう言ってしまった。
装備は全て外し、髪も解き、着替えた彼女がそこにいた。
ガウンを羽織った肩へ無造作に掛けられたバスタオルに、乾ききっていな髪から水滴が滴り吸い込まれているのが、色の変わった様子でわかる。どうやら早く来すぎたようだ。
夕食を済ませ着替える時間はある程度考慮して出たつもりだったが、まさか風呂の時間は考えてもいなかった。

「うん? 何が――……ああうん大丈夫! ごめん、思ったより早かったから、散らかってる」

モブリットの指摘に自室を振り返ったハンジが、思い至ったように足元の資料が詰まった箱を足でそっと退かす。
一応分別されているらしい小箱がいくつか乱雑に置かれているようだった。
手前に置かれた椅子の上には、誰かが座ることを予想されておらず積読の本が鎮座して、机には水差しと飲みかけのコップ、それに書き掛けの用紙とインク壺。奥に置かれたベッドこそ無事だが、シェードランプの乗ったチェストの上にも栞の挟まれた資料がいくつか乗っている。
久し振りに来た彼女の部屋は、安心と落胆を覚えさせるに十分なほど、何も変わっていなかった。

「……それはいつものことなので別に」
「え、じゃあ何?」

態度も同じだ。
モブリットを訝しむように片眉を上げつつ、ハンジは反対側の木箱もそっと退かしながらそう言った。
本当に何も考えていないのだとわかって、モブリットは開けられたドアからハンジへゆっくりと手を伸ばした。そうしてバスタオルを指摘する。と、ようやくモブリットの言いたいことに気づいたハンジが、思い出したように頭をガシガシと拭き出した。

「出直した方がよければ後で――」
「いやいい。本当に話だけでそんなに時間を取らせるつもりはないから」

眼鏡の奥の瞳がモブリットを捉えた。
もしかすると、今日初めてハンジの視線と合ったかもしれない。
けれどそれは一瞬のことで、すぐにくるりと背を向けたハンジに促され、モブリットは後に続いて部屋に入った。後ろ手でドアを閉める。
ハンジは椅子の上に置かれた本を退かそうとして、面倒臭そうに息を吐いた。三列に詰まれた本の量はそれなりで、他の資料が上に乗った机のどこかに置くとしても、会話を出来る小奇麗な環境になるとは思えない。
腰に手を当て片手で頭を拭きながら、ハンジはモブリットを振り返った。

「――ちょっと待って――ああ、そこら辺に適当に座ってて」

そこら辺にはベッドしかないが。
わかっているのか、わざとなのか。ハンジの言動からは話の意図がつかめない。
半歩距離を詰めると、モブリットはハンジの肩からバスタオルを引き抜いた。そのままやや乱暴に頭に掛ける。
うわっと驚いた声を出しながら身を捩るハンジの頭を両手でしっかりと捕まえて、モブリットはわしわしと水気を拭ってやった。
これはまだ、世話焼きの副長の範囲内だ。

「髪、濡れたままじゃないですか。ちゃんと拭かないと」
「いいよ、これくらい」
「紙に落ちます」
「じゃあ纏めるから」

タオルと自分の髪で前の見えないハンジが言いながら後退るのを追いかける。
とん、と机にぶつかった彼女がバスタオルを奪おうと手を前へ出してきたのに構わず、モブリットは殊更豪快に髪を乱して拭いてやった。

「わっぷ!」
「風邪を引きます」
「引かないって――、モブリット、わかった、いいよ自分でやれる――」
「させてください」

これは、少しの独占欲。
指先に力を強めれば、視界の朧な状態でハンジは気づいたようだった。
抵抗が止み、モブリットの腕を掴もうとしていた手が下に落とされた。
明かりのついた部屋の中、ゆっくりとした動きに変えて濡れた髪を拭っていくモブリットに、ハンジは俯いたままじっとしていた。
モブリットがこの部屋に来るまで、おざなりな拭き方で濡れっぱなしだったはずのハンジの肩は、バスタオルのお蔭だろう、それほどびしょ濡れになはなっていないようだった。
ふと見ると、最初の乱暴な拭い方のせいか、頬に滴が飛んでいる。頭に掛けたバスタオルの端でそっと拭うと、目を閉じてそれを受けたハンジが、小さく言った。

「……君は優しすぎると思う」
「……あなたにだけです」
「ふ、そういうところさ。……ね、もういいよ」

薄く笑ったハンジの手が、モブリットに触れた。
それから今度は本当にモブリットから距離を取ろうとするかのように、横に足先を向ける。俯き加減のまま背けられた首筋に、拭い切れていない水滴がひとつ流れて寝間着のシャツに染み込んだ。

「まだ濡れて――」
「無理しないでいい」

咄嗟に言い掛けたモブリットの言葉を、ハンジがぴしゃりと遮った。
あの日モブリットの部屋の前で「いらない」と拒絶された情景が重なる。
――ドクン、と心臓が鳴った気がした。

「してません」
「モブリット――」

――話は、これか。

直感的に感じたモブリットの手が勝手に動いた。
苦笑を乗せてやり過ごそうとしたらしいハンジの唇に親指で触れ、その先を言わせないとばかりに押しつける。驚いたように後退ったハンジを追って、モブリットは一歩前に踏み出した。

始まりはいつもハンジからだった。
こういう関係になった切欠も、その後は特に。
モブリットはハンジからの直接的な言葉を受けて、それからようやく彼女を抱いた。疑いようもなく、ハンジが自分を求めていると確認してからそれでも真意を伺うように彼女を求める。情欲の熱で激しくなることはあったけれど、最後までどこかギリギリで岸辺の裾にしがみつき、流されないように凪を待った。それがいつものスタイルだった。
やめて、と言われても止められないほど求めてしまう自分をわかっていたから。だから、言われないよう丁寧に、反応の全てを敏感に察して、せめて快楽の間だけでもで離れたいと思われないようにしていたのかもしれない。
あの夜の涙に濡れたハンジの声が耳から離れなかったから。
よろしくと差し出された手を取ることはハンジの本意ではなかったのかもしれないと思ってしまったあの朝から、いつか告げられる終わりの言葉を、モブリットはおそらくずっと予感していた。

「無理じゃない」
「ん――……ぅ、待、」

モブリットはあの日以来、初めて確認のないハンジの唇を強引に奪った。
驚いて頭を振る頬を挟んで唇を割る。逃げる動きを許さずに、口腔を舐り、拒絶の言葉を咽喉の奥に押し込んでいく。

無理をしているのはあなただ。
終わりを告げるだけなのに、そんなに辛そうな顔をして。付け込んでいるに過ぎない俺を、それでも傷つけないようにと言葉を探す。
そう簡単に振り払えはしないだろうが、あなたが本気で抵抗すれば、それこそ互いに痣がつくほどの大乱闘にもなるはずだ。酒のせいで力が入らないわけでもない。だから、歯を食いしばり、眦を濡らして、望まない蹂躙に足を開くことはもうないのに。しないのは、部下に咎がいかないようにしてくれているからなんだろう。

呼吸を奪う激しいキスに、ハンジが苦しげに声を上げて、モブリットのシャツをくしゃりと掴んだ。その手を自分の頬まで誘導する。引っ掻かれることを覚悟してそうさせた指先は、けれど僅かに震えながら重ねた唇におずおずと触れた。まるで僅かな息継ぎを請うかのような動きに、胸が疼いて、頭が痺れる。

――終わりの最後の優しさか――

モブリットは痛みに耐えるように、ゆっくりと差し入れていた舌を口腔から引き抜いた。小さく声をこぼしたハンジの舌先から二人の絡んだ唾液が糸を引いて顎に伝う。
それを指でそっと拭って、モブリットはふっと口の端に嗤いを乗せた。

「あなたの方が優しすぎる」
「なに――」

肩で息を整わせかけていたハンジの唇を、モブリットはもう一度強引に舌で割った。


*****


僅かな抵抗を全て封じて、もつれるようにベッドに倒し、モブリットはキスの雨をやめないままハンジのガウンを引き抜いた。寝間着のボタンに手を掛けて、一つ二つと外したところで、おもむろに下から引っ張りあげるように頭から脱がせる。
こんなに乱暴な乱し方はなかったなと頭のどこか冷静な部分で思いながら、モブリットは馬乗りになったハンジの上でまるめた上着を床に落とした。それから見せつけるように自分のシャツも引き抜いて、落とす。
怯えの色が見える前にとハンジの唇に再び自分のそれを合わせると、ハッとしたようにハンジがモブリットの顔を押した。

「ま、……んぅ、モブリット、まって」
「待てません」

その手を取って指をかじり言い切ると、ハンジの身体がモブリットの下で小さく揺れる。取り返そうと引かれる力より強く手を握りしめて、モブリットはハンジの手をねとりと舐った。
そうすると、堪えきれないように息を詰めたハンジが、もう一方の手を弱々しくモブリットの肩に置いた。

「そん、……いいの? 今日は、部屋にいなくて」
「どなたかとこの後約束でも?」

話がしたいと言ったのはあなたのくせに。
ほとんど無意識に、モブリットはひやりとハンジを睨めつけた。ベッドの上で似つかわしくない視線だと知ったのは、驚いたように自分を見つめるハンジの瞳にその表情を見たからだ。思わず眉根を寄せてしまったモブリットの頬を、ハンジがまるで宥めるように、つ、と撫でた。

「ないよ。そうじゃない。私じゃなくてあなたに――」

こんな時まで。
自分を押し倒している無体な男を気遣おうとするハンジの態度にはっきりとした苛立ちを感じて、モブリットはハンジの手を強く引いた。ベッドシーツに押しつけて、ぎちりと手首を拘束する。

「なら、もう黙って」
「モ――」

もう話はわかったから。
明日から何事もなかった二人にあなたがなりたいというのなら。

最後なら。最後だからもう一度だけ。

ハンジの優しさにつけ込んで、せめて少しの間くらいは消えないように、跡をつけてしまいたい。
モブリットはずきりずきりと痛む音に耳を塞いで、ハンジの唇を強く甘く食みながら、言葉の全てを飲み込んだ。