今夜、ファーストステップを。



調査兵団所有倉庫のひとつに古びたオルガンが発見されたのは数年前だったと、エルヴィンに聞いたことがある。
おそらくは懇意にしていた貴族の寄贈品だろう。いかにも食事と娯楽を重んじる貴族らしい気遣いだなあと、その時は可愛げもなくそう思ったものだった。
それから程なく。
ほとんど強制参加のようなその集いに呼ばれたのは、壁外を何度か生き残り、ギラギラしていた頃のことだ。
出来る者が出来る範囲で手直しし、調律し、それでも少し音の外れたオルガンの周りには、やけに晴れやかな顔をした仲間達が集っていた。

年に一度、3の月の最終日。

オルガンを囲んでこれから行われるのは、風変わりなダンスパーティなのだと教えられた。
おそらく同等の理由で寄贈された貴族の御令嬢のようなふわりと裾の広がったドレスと、どこの貴族のお坊ちゃまが着用するんだといいたくなる襟と袖口に華美なレースのあしらわれた男物のタキシードベストが一着ずつ。下はいつもの兵団支給のパンツだが、白さがまたいかにもな感じで滑稽だった。
これらを――やはりほぼ強制で――くじで引き当てた者が男女問わず着用し、ダンスホールに見立てた倉庫でオルガンの音色に合わせて数曲披露するのだという。『王子と姫のワルツ』とは悪趣味な名前をつけたものだ。こんな服装、よほど人気の美少女・美少年にでも当たらない限り、普段と趣向の違いすぎる姿形で笑いものにされるに過ぎない。

それでも新兵の時分ならもっと素直に楽しめただろうし、色々理不尽な現実をそこそこ踏み越えてきた今なら、その楽しみ方も仲間で集い笑い合う重要性もわかるつもりだ。が、その頃は単純にそんな余裕がまるでなかった。

楽しみなさい、と当時の団長から命令じみた誘いで渡されたくじ箱の中に手を突っ込み、内心辟易としながら掴んだ紙は真っ白で、その日の生贄に選ばれなくてホッとしたのを覚えている。
引き当てなかった私は、古参の兵士達から出た大仰な溜息に包まれて苦笑したのも今ではいい思い出になっている。

「――で、結局今年の生贄王子様は誰になったの?」

手慣らしだと言ってオルガンの前を陣取っているのは、中年に差し掛かった仲間の一人だ。いつも頭部をキラリと磨き上げているそこへ、どこから調達したのか綿を豪快に乗せている。けれど見た目に反して、調子の外れた鍵盤を軽快に弾き鳴らす彼の腕はなかなからしい。
奏でられるリズムに合わせて揺れながら、私は後ろを振り返った。
最後の調整とばかりに私の髪をいじくり倒していたナナバは、振り向いた頭を無理矢理前に向け直す。

「もうすぐ来るでしょ。こら、お姫様は足を組まない」
「いいじゃん、どうせブーツなんだし」
「そういう問題じゃないの」

控えの玉座で組もうとした足をぺしりと叩かれ、渋々外す。
玉座とは名ばかりの普段と何も変わらない木製のオンボロ椅子は、まるで統一性のない紙飾りが施されていた。
いつも中途半端にひっつめているだけの頭は、解いても楽しくアレンジ出来るほどの長さはない。適当でいいのにと言った私を許さずに、何度も綺麗に櫛を通し、纏めて結い上げ、花を差し込まれて飾られた私は、本日とうとう姫になった。ウエストを絞るコルセットはそう上等なものではもちろんないが、簡易とはいえ、後ろでぎゅうぎゅうと紐を締められているので楽じゃない。男性が選ばれていてもこれはしたのかと考えて、これまでの生贄姫の面々には頭が下がる。
去年までと違うのは、パニエを下に穿いているということくらいだ。裾にそこそこ広がりがあれば見栄えするという理由でナナバがどこからともなく調達してきたものだった。おかげでドレスの裾はふわりと広がり、下半身をいつもより多少は優雅に見せている、と思う。

この栄えあるお姫様役は、仮初のダンスパーティを仲間達と楽しめるようになった私が、姫と呼ばれるだけで笑いを提供できる性格だと周囲に認識されるようになるのを待っていたかのように巡ってきてくれた。昔の自分が今の格好を見たら、何を言い出しただろう。考えるだけで突っぱねていた過去を笑えるまで生きてこられた仲間と全てに恩返しだ。生贄姫は大いに着飾り、笑いの大盤振る舞いをするに限る。
そうして雪解けの季節を迎え、新たな世界に再び仲間と飛び出していく。

「はい、完成。よしよし可愛い。さすが私」
「そこはさすがハンジ、じゃないのそれ」

普段はしない化粧も薄く施してくれたナナバに笑って、後は王子様の到着を待つばかりの身の上になった。いっそ背凭れを前にして思い切り足を開きたい気分だったが、これから着飾ってやってくるもう一人の生贄王子様にダンスを申し込まれる生贄姫が、さすがにそれでは格好が付かない。
真面目ぶってなりきるというのが一種の笑いのセンテンスにもなり得るのだ。
せっかく服装がそれなりなのだから、身分不相応なくらいが丁度良い。

姫のドレスは、市井の若い女の子が可愛い綺麗と夢見るおとぎ話から飛び出したような形だ。胸元が大きく開いたデザインで、それなりの女性が着れば本来の魅力が発揮されるようになっている。だが如何せん、ここにいるのは基本筋骨隆々を良しとする兵士の集まりで、おそらくそこも笑いどころの一つだとわかる。
思った以上に強調するも良し、絶壁や筋肉に絶望してみせるも良し。
そんな中、私の選択は今回ちょっと趣向を変えていた。

「……ねえ、ソレ本当にするの? 今からでもそれなりにしてあげるから――」
「これは譲れない」
「……あ、そう」

ナナバの指摘に私は頑として首を横に振った。
開きすぎたデコルテラインには沼地で採れる貝粉をはたかれ、それは光の加減できらきらと煌めき、自分で言うのもなんだが目を惹くと思う。そのなだらかなラインを過ぎ、通常はふくよかな双丘を覗かせるべきところには、肌より白く胸よりふわりと柔らかいおろしたてのタオルを二つ詰め込んでいた。
谷間があるはずのそこにはタオル。
もしも悪戯に触れても揉める範囲は全てタオルで盛りに盛った。
我ながら非常に胸らしくないタオル胸は傑作だ。

「……可哀想な王子」

胸を張る私に、ナナバは苦笑しながらそう言った。
その言い方で、どうやら今年の王子は男性らしいと察しがつく。
この胸を見て、呆れるなり大仰に残念がってくれるなりしてくれる相手ならいい。それでこそ余興は上々の発進になる。

「ねえ、今年の王子のヒントは? それくらいいいでしょ。もう来るんだし」

くじは一週間も前に引かされて決まったというのに、相手役については誰も教えてくれないままに今に至っていた。相手が誰であれ断るつもりも嫌がるつもりもないことなど皆わかっているだろうに、何故だか理由も教えてくれない。王子と姫はいわば余興ダンスを披露するのが仕事だ。それなりに気心の知れた相手なら、口裏を合わせてサプライズの用意も出来たかもしれないのに。

「エルヴィン? じゃないよね。くじの日は王都に出向いてたし。あ、じゃあリヴァイ?」

それならこっそり姫と王子の衣装を交換した方が絶対面白かった。仏頂面の小さな姫をエスコートなんてなかなか出来るものじゃない。
それに、と私は自分の足元を見下ろして思った。
背が高くなりすぎるかもという懸念でナナバにヒール禁止をされた私は、足元だけはいつものブーツだ。もともと深層の御令嬢を目して作られたのだろうドレスは私には少し丈が短く、取り急ぎの対応で集めたレースの端切れをそれらしく縫いつけてくれたナナバの女子力には感謝している。
が、彼が姫ならむしろ裾上げが必要だったんじゃないだろうか。
失礼な想像をして噴き出してしまった私に、同じ想像をしたのだろうナナバもぶっと小さく噴き出した。それから妙な含み笑いで私を見る。

「あなたの王子様はダンス踊れるかな」
「え、踊れない人なの?」
「踊ってるのは見たことない」
「ええー、誰ー」

ここにきて、ナナバからの初めてのヒントが「ダンスの踊れないかもしれない人」だ。
それなら貴族の夜会に呼ばれてお相手を仰せ遣うこともある団長や兵士長の彼らは違う。新兵か、うちの班員だってダンスのレベルはそういえば知らない。他に、ゲルガー? ミケは踊れるし、それともそれとも。
とりあえず昔の私のように仏頂面の新兵君が相手なら、思い切り笑い者にしてあげようかと思いを巡らせていると、笑いの混じったざわめきが聞こえた。どうやら生贄王子様がご到着したらしい。
入り口の扉を見遣れば、ギ、と錆びた音がして――

「……何だ。普通に貴族の娘を気取ってんじゃねえか」
「見違えたな。美しくて驚いたと言っているのが伝わっているかなハンジ。今年の姫は当たりのようだ」
「リヴァイ、エルヴィン?」

入ってきたのは彼らだった。
王子の衣装ではないものの、珍しく兵服の上着を礼装にして、一瞬夜会に行く前なのかと思ってしまった。そんな予定はないはずだ。驚く私に適当な言葉を並べた彼らが、それからすっと扉の両脇に寄った。

「え? なに? どうしたの?」

向かい合わせになった二人が示し合わせたように胸に手を当て、一瞬視線を交差させてから頭を伏せる。それに気づいてか、いったい何のセレモニーだといわんばかりに突然オルガンが荘厳な音を奏でだした。

「うおっ!?」

微妙に音程の外れた鍵盤は変わらない。きょろきょろとしてしまった私を後ろのナナバが軽く小突く。前を見てろと目顔で促されリヴァイとエルヴィンの間を見ると、開く扉から、ようやく王子の君が姿を見せた。

「――――――モブリット?」

両脇に侍従を侍らせて登場した王子様は、ちらりと二人に視線をやって、ものすごく居心地悪そうな顔をしている。そうだろうとも。王子よりオーラのある侍従に囲まれるなんてただの厭味な威圧でしかない。
名前を呼んだ私に困ったように眉を下げた彼は、それでも格好は見間違うことなき王子だった。
濃紺の燕尾ベストは金の縁取り刺繍がされて、袖口と襟にあしらわれた姫より控えめで上等なレースが妙にしっくりと似合っている。糊のきいた皺一つないシャツはいったい誰の差し金だろう。首元のクラバットを見る限り、リヴァイあたりかもしれない。ブーツだけは姫の私と同じ兵団支給のそれで普段と変わらないはずなのに、けれど真っ白なパンツに合わせれば、それこそ王子の欲目か、いつもより華やかに見えてしまった。
堂々とギャラリーに手でも振って、王子然として振る舞えば、いろんな意味で拍手喝采でも起こりそうなくらいには似合っている。なんだよ格好良いじゃないか。そう思ったところで、侍従に圧倒されているらしい可哀想な生贄王子を助けなければと思いついた。

「……ダンスには誘ってもらえるのかな王子様?」

椅子から仰々しく立ち上がりすっと右手を差し出して笑う。
ドレスの裾をもう片方でそっと摘まんで持ち上げれば、モブリットが観念したように背筋を伸ばして私の側へと歩いてきた。
さてどう来るかと思っていると、あと一歩といったところで彼は徐に膝をついた。胸に拳を当ててから一度恭しく頭を垂れて、それからすっと真っ直ぐに私を見上げ左手を差し出す。一連の動作が驚くほど様になっていて、何か言葉を発する前に、周囲からどよめきが上がった。しまった。リアクションの先を越されてしまった。
もう取るしかない王子の手に、してやられた気分で指先をそっと重ねると、深緑の瞳が僅かにホッとしたように緩んで見えた。
くそ、かわいいな、王子様め。

「ダンス出来るんですかハン……ひ、姫君」

けれども台詞は噛み噛みだ。様になりきらないところが如何にも彼で、私が思わず笑ってしまう前にまたギャラリーから爆笑があがった。「噛むなー!」「しっかりしろ王子様」「せっかくだからヤッちまえ!」等と勢いのある揶揄が飛んで、モブリットが誤魔化すように咳払いをする。それにもゲラゲラと笑いが飛んだ。
まったく、口の早い観客達だ。私にもちゃんと言わせろよ。

「王子君」

周囲の揶揄に肩を竦めて呼び掛ける。苦笑した彼が私の指先にそっと唇を触れさせた。その行動に周りはやんやの喝采だ。ようやく立ち上がったモブリットにエスコートされて倉庫の真ん中に立つ。
オルガンがローテンポな曲調に変わった。

「リードはあなたの務めでしょ」
「……鋭意努力します」

王子らしからぬ台詞とともに、彼の手が私のウエストに添えられた。ナナバの心配もさもありなんだ。私も彼のダンスは見たことがない。そもそも必要がなければダンスなんて兵士の条件ではないのだから、踊れなくても当然だ。盛り上がった酒場で滅茶苦茶なステップを楽しめれば十分な人間が、しかつめらしくダンスに四苦八苦する様もこのイベントを盛り上げるのだから。
――と思っていたら、一拍後踏み出された彼のステップは滑らかに私を誘導して、周囲から妙な感嘆が聞こえた。

「え、ちょ、……あなた、踊れたんだ」

さすがに揶揄できる場所がない。
王子の装いを着こなして、ダンスステップも軽やかな金髪の青年なんてある意味ハマりすぎている。顔が少し地味だなんて、誠実そうというよく聞く三流の褒め言葉を使ってしまえば、むしろセールスポイントだ。
思わず失礼な問い掛けをした私に、けれどモブリットは気分を害した様子もなく笑顔を見せた。

「ネスさんにみっちりしごかれました」
「ネス!? 毎晩二人で踊ってたの?」
「……チークダンスはしてませんよ?」

妙なところを気にしたモブリットに、内緒話をするかのように声を潜められて私はぶっと噴き出した。そこは想像していなかった。そもそもネスが人に教えられるほどダンスが出来るなんて初耳だ。
どうやって周りを謀ろうかと思いを巡らせていたはずなのに、様になりすぎる王子といい、侍従に扮した彼らといい、謀られたのはどうやら私の方だったようだ。

「ところで」
「ん?」

上手すぎるダンスに違和感なく踊りすぎてぼうっとしていた私は、モブリットの声で現実に引き戻された。

「目のやり場に困るんですが」

軽やかに繋いだ右手を伸ばされては引き戻されて、モブリットの腕に収まりながら聞くと、彼は言いにくそうに口ごもった。何をと聞くまでもない。その目はチラチラと一点を見つめては、明後日の方と見比べていた。よし。ここだけはどうやら上手くいったようだ。してやったりな気分で口角を持ち上げる。

「とか言いつつガン見してるくせに」
「見ちゃいますって! 何でタオルを……せっかく……いえ、詰めすぎじゃありませんかそれ……」
「ガバガバだったんだよ。いっそ笑えた方がいいかなって。まさかモブリットがバッチリ決めてくるとは思わなかったから浮いちゃったじゃないか。空気読めよ」

肩に添えていた方の手で悪戯に耳朶をくすぐる。
少しくらい驚けばいいものを、モブリットは微苦笑して私の手を前に持ち変えると、悪戯を咎めるように唇を落とした。周りを囲む誰かから、ピューイと指笛が鳴らされた。

「俺のせいですか」

ちょうどメロディーが転調したのをいいことにそのままくるりと反転されて、後ろから抱えられるような格好になった。
だというのに、今度は周囲を囲む仲間達から、酒場のような揶揄や喧噪はもらえなかった。どうかしたのかと周囲に意識をむければ、やけに穏やかな表情で私達を見つめているらしい空気を感じてむず痒くなってしまった。
耳元で苦笑を囁くモブリットを苦々しい思いで一睨みして、私は再度向かい合うようにステップを変えた。
ふん、と息巻いて彼を見つめる。

「モブリットのせいだね。これはそんな格好良い王子様の出るパーティじゃなかったはずなのに」
「……格好良いですか?」
「いい男」
「………………」
「あ、照れた」

つい、と逸らされた視線をつけば、モブリットは僅かに引き結んだ唇を尖らせて、横目で私を見返してきた。図星をつかれて拗ねてるな。モブリットはニヤニヤとした笑いを抑えられない私の顔から胸へと視線を流し、

「……あなたも素敵なお姫様です。胸以外は――アダッ!」

言い終わる前に、私はその足を思い切り踏んずけてやった。ヒールじゃなくてよかったな。堅いブーツの上からだから、馬に踏まれるより良かったと思え。

「ごめーん、ステップ間違えた」
「今のは完全にわざとでしょう!」
「モブリットのせいだろう?」
「何でですか!」

喧嘩か離婚かと周囲から再び貰えた揶揄に手を振って、私はモブリットの首に腕を回した。
慌てて腰を抱き止めたモブリットと足下だけはステップを踏み続けながら、彼の耳元に唇を寄せる。

「言ったろ。ガバガバだったんだって」
「……はあ。それが何で俺のせいになるんですか」

眉を寄せているとわかる怪訝な声だ。

「大きくするのを怠ったせい」
「………………」

私達のダンスに合わせてか、オルガンがトン、と高い音を奏でて一度止んだ。が、終わりの合図ではなく、すぐにゆったりとした曲に移ると、チークダンスにもってこいの甘い旋律を奏で始める。
言葉のない王子に「足が止まってるぞー!」と曲に合わない揶揄が飛んで、私はぶはっと噴き出した。慌てたように身体を合わせて揺れる彼は動揺しているのか。それならやっと一矢報いた。

「ハンジさん」
「んー?」

そう思っていた私の耳に、モブリットがひそりと囁いた。

「……知っていますか。女性の胸の成長は十五でほぼ止まるそうです。なので俺がいくら貢献しようと、そ――アダッ!」
「失礼な王子様だなこのやろう!」

ムーディーな曲の満ちる室内にふさわしくない悲鳴が上がる。
何だ何だと注目されるのもかまわずに、私は全ステップでモブリットの足を踏むことにした。密着した身体のまま、首に腕を回した格好で、逃げようと下がる足も追いかけて乗り上げる。

「いだだだっ、ちょ、ハンジさん、待っ、全部踏んでますちょっと!?」
「一般論にかこつけて努力を怠る王子に制裁!」

それが統計的真実だとして、ここで言ったモブリットが悪い。
怠慢で不作法すぎる生贄王子には、これくらい当然の仕打ちだ。

足踏みダンスは何かの余興と思われたのだろう。周りが爆笑の渦に包まれる。ほら、本来はこういう雰囲気のパーティだ。妙に見守り視線だったさっきまでがおかしかったんだ。むずむずしたのも全部モブリットのせいだ。モブリットめ。
ぎゅうぎゅうと押しつけるように踏む私といつもの雰囲気に戻りつつある空気に合わせるように、オルガンがローテンポながらも周囲がダンスに興じやすそうな曲に転じた。今夜の奏者はずいぶん気が利いている。
空気を読んで足ばかり狙うのをやめると、モブリットはホッとしたように息を吐いた。
それから改めて右手を重ねて、腰を取る。最初のダンススタイルになった王子と姫に笑いながら、周囲がチラホラと中央に出て、それぞれ男女問わずのパートナーを見つけると手に手を取って踊り始める。

楽しいダンスパーティーは、これでようやく波に乗った。それでも彼の失言はまったく許し難い。
すみません、と言うモブリットに、私はむっと唇を尖らせた。
もうこれ以上の成長はないなんて誰が決めた。やってみないとわからないだろう。ハンジ班は既存の考えに固執しない人員しかいないはずなのに、副長自らそんなんじゃ困る。さあ、どうでるモブリット!

「統計は平均だ。個別事案で見るなら継続的な経過観察が必要じゃないの?」

睨むように見つめていると、私の言わんとすることに思い至ったモブリットが、ぎょっとしたように辺りを見回した。
が、二人きりで注目の中踊る時間を過ぎた今、私達にばかり注意を払う人間なんてそうはいない。
くつくつと意地悪く笑った私を半眼で見つめるモブリットの頬は、さっと朱が刷かれたようだった。

「バーナー王子の見解は?」

いい気分でつついてやると、観念したモブリットが小さく口を開けた。

「……実施のペースは現状維持で一週間くら」
「短いね。成長ホルモンを甘く見過ぎだ」

一週間で目に見えて変化があったら怖いだろうが。
それ大きくなったんじゃなくて、腫れてるんじゃないの。何するつもりだよモブリット。

「……なら一ヶげ」
「バカにするなよ」

そんなの大して変わらない。
成長期の身長じゃないんだ。ピークが十五だとして、それを過ぎた場合は成長の進度も遅延が見られると推測される。
そもそも雪がとけて春になる4月には、ひと月と置かず壁外調査が待っている。継続観察には日数が足りない。

「……ハンジさん」
「何、王子君」

穴だらけの提案を須く却下した私に、モブリットが急に真剣な口調になった。
私の右手に添えるだけだった彼の手がきゅっと捕んできたかと思ったら、腰を支える手にも熱が籠もった気がする。怒ったかな、と見上げると、モブリットはやけに真っ直ぐ私を見つめていた。
オルガンの音色に合わせて一度軽いターンを促し、戻った私をモブリットが腕の中に閉じこめる。

「長期的観察を要すると思われる事案なので、生涯のライフワークの許可をください」

そうして唇の触れた耳朶に、モブリットがはっきりとそう言った。
――生涯の、ライフワーク? つまり、つまり……………………え、今それ言うか?

身体に馴染んだはずの簡単なステップを踏み間違えて、私は今度こそ本当にモブリットの足を踏みそうになった。
わ、と慌ててバランスを崩した私を王子の腕が抱きとめる。

「疲れました? 休みましょうか」

違うとわかっているくせに、白々しく気遣いの言葉を掛けて壁の花へとエスコートするモブリットに、周囲で思い思いにダンスに興じていた仲間たちから労いの口笛が投げられた。中には「姫に見えるぞー!」と失礼なんだかありがたいんだか微妙な声援も聞こえてきて、けれどそれに笑顔で返す余裕はなくなってしまっていた。
足が痛むわけでもないのにモブリットに寄り掛かるようにヨロヨロと歩いて、壁際に移動されていた控えの玉座にどっかと座る。柔らかなパニエが少し臀部に抵抗を感じるがとりあえず無視だ。

「どうぞ」

オルガンの音色が楽しげに続く宴の中を縫うようにここへ来る途中、いつの間にかグラスを手にしていたモブリットが私にそれを差し出してくれた。受け取って一口。喉がカラカラだったから、潤いでやっと言葉を取り戻せそうだ。
豪奢で愛らしいドレススカートを着たまま両足を開いて座りながら、私は大きく息を吐いた。
それからモブリットにグラスを返す。

「ありがとう。ねえモブリット、鼻血出そう」
「……まさか、それ答えですか?」

そうだよ。驚いたか、ざまあみろ。まさかの場所で言ったあなたに言われる筋合いは微塵もない。
ついでにもっとストレートな言葉でも言ってあげるよ。

「今すぐヤりたい」
「プリンセス、落ち着いて」
「プリンス、コルセットが苦しいんだけど」
「……」

後ろのファスナーを下ろしてくれれば、ドレス自体はすぐだから。
ライフワークなら今からでもいいんじゃないのと目顔で問えば、モブリットが思わずといった風に私を見下ろした。
視線に素早く逡巡と葛藤があいまみえたのを見逃さず、私は踊る人だかりの中、一段とキメて見える従者その一に向かって、ぶんぶんと大きく手を振った。

「エルヴィーン! 休憩してきていいー?」
「ハン、ひめっ、あ、いや、ちょっと!?」

突然の大声にダンスをしている仲間達も何事かとこちらを見遣る。
慌てるモブリットがおかしな動きをしているのに笑っていると、従者その一が無愛想な従者その二を引き連れてこちらにやって来てくれた。今日の王子は格好良い。けれど、まあ一般的にはきっと彼らの方が王の貫録十分すぎて、私の王子が口をパクパクさせている。

「君の王子がきちんとエスコートしてくれるのかな?」
「たぶんね。してくれるんだろう王子様?」
「……どうぞ、姫君」

私達のさっきの会話が聞こえているわけはないエルヴィンが微笑んで、便乗した私にモブリットは悔しそうに右手を差し出してくれた。にっかりと笑った私はその手を取って立ち上がる。
従者のお許しを得た王子と連れ立って出ようとしたちょうどその時、

「おい、モブリット」

背後に突然従者その二の声が掛かった。
振り向くとリヴァイが背丈にきちんと誂えられた調査兵団の礼服を着て、両腕を組み、モブリットを剣呑とも思える目つきで見上げていた。珍しい。こういう時に、彼が何か言うことはいつもならほとんどない。妙に態度の大きな従者その二に威圧されて若干緊張の色を滲ませたモブリットが返事をするより僅かに早く、リヴァイは表情を変えずに忠告をくれた。

「おまえらの衣装は来年もここで別の奴らが使うものだ。きちんと皺にならねえようにしてからにしろよ」
「ぶっふぉ!」
「は――いえ、はいぃ!?」

噴き出してしまった。
皺を気にする辺りは本心だろうが、これはあれか、リヴァイなりのジョークのつもりか。
的を得すぎて回答に困る忠告に、モブリットからは素っ頓狂な声が出て、さらに私は笑いの渦だ。
流れるオルガンはそれを境にアップテンポな酒場のノリに変わりだし、皆が思い思いのダンスを披露し始めていた。

「大丈夫だよ。王子様は几帳面だから」

涙を拭いながら助け舟を出してみる。が、リヴァイはしろりと眉を上げた。

「王子も男だ。狼になることだってあるだろう。なあ、バーナー王子様よ」
「いいいいえあの、はいっ、いえっ!?」

再び標的にされてしまった哀れな王子が、しどろもどろになってしまった。
瞳に穏やかな色を湛えたエルヴィンが止めないところをみると、これは完全にからかっている。

「従者があんまり人の王子をいじめないでもらえるかな。さあ行こうか王子様?」

長居して、また難癖をつけられたら時間が延びる。
返事を待たずにモブリットの手を強引に引いて、私は二人の意地悪な従者から王子を助け出すことにした。
倉庫を抜けて、二人で駆け出す。
ブーツにしておいて正解だった。履きなれていないヒールなら、こんなに早くは走れない。従者の追従を逃れた王子と二人、私の部屋に飛び込むと、肩で息を吐きながら二人でしばらく呼吸を整えることに時間を費やす。

「勘弁してください……」

息を小さく詰まらせたモブリットが、仰ぐように天井を見上げた
繋いだ片手はそのままだが、もう片方で上向けた口元を覆って、そう呟いたモブリットを、下から見つめる。

「鼻血出そうなの?」
「押し倒しそうです」

揶揄するつもりで笑った私に、言うなりモブリットはがばりと抱きついてきた。
そうかと思えば膨らむドレスの上からあっという間に持ち上げられて、ドタバタとベッドに放り投げられる。
軽やかなステップを踏んでいた人物とは思えない、王子は案外乱暴者だ。
彼が上着を床に脱ぎ捨てる。
ここにきて、従者その二の忠告はまさかの完全無視を決められた。

「プリンセス、コルセットの外し方は?」
「……おう。プリンス落ち着いて!」

クラバットに指を掛けて引き抜く王子に見下ろされて、いつもは言われる側の台詞を、今夜は私が叫ぶことになったのだった。


【Fin.】