両手に抱えきれないほどの花束は、後からきっと邪魔になる。置き場所に苦慮する品物は、ないにこしたことはない。
部屋中を満たす花絨毯を送るつもりなら、その前に床にまとめられた本やノートを片付ける必要に迫られるし、その後の掃除も面倒だろうからしない。
それでも何か、彼女に送るとするならば。

『モブリットの絵、いつ見てもいいよね』

いつか贈ってくれた言葉どおりに、モブリットは花屋の店先で見てきた花を描いた紙をファイルから抜いて机上に広げた。
それだけで退室するはずだったのに、夕暮れ時、官舎に来ていた出入りの花屋から、口車に乗せられて買ってしまった小さなバラを一輪乗せる。

今日はもう彼女と会う予定はない。

夜になり、本部での分隊長以上が会する議論から疲れて戻ったあの人が、寝室と真逆のここに気づくのは今日じゃなくても構わなかった。いつでもいい。一輪のバラはどんなに萎れても、描いた花は色褪せないでここにある。
気づいた時に、少し笑ってくれればそれでいい。
「なんだこれ」でも「覚えてたんだ」でもなんでもいいから、少しだけでも彼女の気が抜ければいい。
そう思いながら、モブリットはそっと彼女の部屋を後にした。



【菓子より先にチョコの後】




自分以外に人気のない執務室で、部屋全体に明かりをつける必要はない。
手元に灯した少し強めのランプで必要書類の転記を進め、息継ぎの合間にモブリットはふと顔を上げる。明かりに慣れた視界が薄暗闇に馴染むのを待って、壁に掛かった時計を見れば、深夜0時を少し回ったところだった。
視線を戻し、筆を進める。
数分前の昨日は、妙に隊内の雰囲気が浮き足立って感じられた。

(まあ、そういうものかもな)

年に行事は数あれど、年頃の男女が喜びそうなものといえば、昨日と十二月に行われる行事くらいだ。
新兵の頃、同室の仲間が出来たばかりの恋人の為に息まいて買っていた真紅のバラの花束を思い出して、モブリットは懐かしさに目を細めた。そのたった数日後、破局の知らせとともに戻されたバラよりも、しおしおと萎れてしまった友人の背中を酒で潤わせた思い出は、確かに青春の一ページだ。
そんな思い出を瞬きで見送り、残り十数ページになった紙面を確かめて、次を捲る。その時だった。

「やっぱりこっちにいたんだ。まだ戻らないの?」
「分隊長?」

ドアの開く音に被って掛けられた声に振り返り、差し込む明かりにモブリットは思わず眉を顰めた。気づいたハンジがするりと身体を滑り込ませ、パタンと後ろ手にドアを閉める。ようやく慣れた視線の先には、兵服姿の彼女がいた。ベルトも何もかもそのままで、一度も着替えていないとわかる。

「とっくにお休みになられていると思っていました。何かありました?」
「それはこっちの台詞だよ。就業時間はとっくに過ぎてる。急ぎの案件なんてなかったろう?」

言いながら机に回り込んだハンジが、モブリットの手元の視線をやって、困ったように眉を下げたのがわかった。
けれどそれよりも、本当に一度も自室に戻っていないとわかるあまりにいつもと変わらない様子に、モブリットは内心で息を吐いた。ハンジに声を掛けられた時、まさかアレに気づいて来たのかもなどと柄にもなく緊張してしまった自分がおかしくなる。

「少しのつもりがやり始めたら止まらなくなってしまって。けどもうすぐ終わります」

気づかれないように苦笑に乗せて答えながら、モブリットは残りの枚数を持ち上げて見せた。
どれも急ぎの案件ではなかった。けれど、次の会議で提案を控えた要望書にはどれも必要な資料だ。まとめるのが早くて困るということはない。そもそも近々班員で手分けをするつもりのものでもあったのだ。
ハンジ不在のまま終了した業務後はどうにも手持無沙汰でもあった。有効な時間活用の為にもわかりやすくまとめるだけと思って始めたが最後、ハンジにそう言った言葉通り。気が付いたらこうなっていた。
集中すると周りが見えなくなるきらいのあるハンジを前に、モブリットも人のことを言えない性質だという自覚は多分にある。
同じ穴の狢だとやはり自覚のあるハンジは、困った部下のそこには触れず、モブリットの示した資料に手を伸ばしてきた。

「手伝うよ」
「すぐ終わります。先に休まれてください」

その手を躱すと、ハンジは明らかに面白くなさげにモブリットをついと睨んだ。

「すぐ終わるなら待ってる」
「訂正します。少し掛かりますから先に休んでください」

普段から睡眠時間の短い彼女に、なるべく無理はしないでほしい。だからこその自分がいる。
それを本人に手伝わせるなんて、本末転倒もいいところだろう。
あの部屋の贈り物を見て戻ってきたわけではないのなら、やはり彼女はさっさとベッドに行くべきだ。
内心で自論を展開しつつ、素気無い言葉で言いきったモブリットに、ハンジはきょとんと眼を瞬く。

「可愛くない口だなあ!」

頑なな拒絶に、いっそ呆れたように小さく叫んだ。

「男の口が可愛いなんて、せいぜい十歳くらいまでですよ」
「そうだろうね」
「早く寝てください」
「はいはい。今夜の副長さんは何だかご機嫌斜めだから、言うこと聞いた方が良さそうだ」

そう言って、ハンズアップの形をとったハンジがドアへと向かう。
別に機嫌が悪いわけではないのだが、誤解でもなんでも、寝てくれるならそれでいい。
少しでも多くの疲れが取れますようにと心の中で願いながら振り向かないで業務に戻ったモブリットは、つかつかと足早に戻ってきたらしい足音を不思議に思った。

「その前に!」
「え――」

くん、と後ろからハンジの手が突然モブリットの顎を取る。
少し冷たい彼女の手が慣れた香りを鼻孔に運んで、上向かされた唇が勝手に開いてしまったところへ、口に何かが落とされた。反射で噛むと、久し振りの甘さと、ほろ苦く芳醇なアルコールの味が口に広がり、そのまま鼻へと抜けていく。

「可愛くない口に可愛いプレゼント」

ごくん、と咽喉を鳴らして瞬くモブリットに、ハンジがしてやったりという顔をした。

「今日何の日か知ってる?」
「……いえ?」

口に入れられたのはチョコレートだ。
質問の意図が分からず唇を舐めると、ハンジはぺちぺちとモブリットの頬を面白そうに叩いて笑った。

「日頃の愛と感謝を伝える日だよ! モブリット、ハッピー」
「バレンタインなら昨日ですよ」
「……細かい男だな」

一転、憮然としてしまった彼女がモブリットから手を離す。
首を戻して振り返ると、ハンジは片眉を上げて僅かに唇を尖らせているようだった。

「君の部屋に行ったらいなかったのがいけないんだろ」

いろよ、おとなしく、とそんな顔で憤然として見せるのは反則だ。
予定よりだいぶ時間が混んでの帰隊で、着替えもせずにいの一番に自分を探してくれたなんて。
しかも理由はまさかバレンタインの言葉を交わしたかったから?
思わずこみ上げてくるものを、モブリットはたまらず咳払いで誤魔化した。
疲れているのは違いないだろうハンジに、してはいけないことがしたくなってしまって困る。
そういうことに無頓着な彼女の誘惑に耐えるのが、ハンジの副官としての必須要件なんじゃないのかと思ってしまうのは今更だ。

「……ありがとうございます。ボンボンですか?」

気持ちを落ち着けようと、もらったチョコレートに話題を変える。
ハンジの表情がパッと明るくなった。

「そう! 先週の休みに市街に出たとき見つけたんだ。ねえ、バレンタインって私が子供の頃は恋人同士が花を贈るくらいの意味合いだったと思うんだけど、最近はリーブス商会が力を入れてるって知ってたかい」

話題の転換は、どうやら当たりだったらしい。
不機嫌を一新したハンジが、そう言って身を乗り出してきた。
チョコレートに限らず、嗜好品はおいそれと出回るものでもない。貴族の列する今日の会議に供されたものだとばかり思っていたが、わざわざ買ってきてくれたのだと知って、モブリットは少し驚いた。
バレンタインと花とチョコとリーブス商会?

「いいえ。リーブスが花屋に援助でもしているんですか?」
「違う違う。立派な一大イベントになってるんだよ!」

それでもまだハンジの話の意味が噛み合わなくて、モブリットは首を傾げた。

「花ではなく、菓子を贈るイベントに?」

そうだとしたら完全に乗り遅れたなと、ハンジの部屋に今すぐ片づけに行きたい気分になった。
モブリットの記憶の中でも、バレンタインは気持ちと花を捧げる日という認識のままだ。
そんなモブリットの内心には構わずに、ハンジは新しく得た知識を得意げに披露してくれる。

「それもあるけど、チョコレートと一緒に女性から愛の告白をする日に昇華したらしいよ」
「女性から専用の? それはちょっと片手落ちじゃないですか」
「そこは大丈夫。一月後に、男性から焼き菓子を送って答える義務の日も出来たらしいから」
「……抜け目ないですね」

何だそれは、というのがモブリットの正直な感想だ。
いっそ清々しいくらいの商業イベントだ。愛も告白もへったくれもない。
だがしかし、そういうイベントに乗じて年に数回の贅沢品を食べられるというお遊びは、こんな時代だ。気持ちの余裕として必要なことなのかも知れない。
そのお遊びに便乗してチョコレートを用意してくれたらしいハンジの意図は、つまり来月焼き菓子を返せという意味でいいのだろうか。
そう思っていたら、ハンジが何故だか急に難しい顔つきになった。

「商戦的にはね。でも告白されてひと月も考えるって、それってちょっと長過ぎやしないか? 男性側の熟考期間が異常だし、女性側もそんな優柔不断な相手、よく待てるなって思うけどね」

さもありなん。ハンジらしい考察だ。
単なる市井の商業イベントはそういうものだ、で終わらせてはくれないらしい。
モブリットもそれは抱いた疑問でもある。

「つまり?」

写し途中の資料をまとめて、トン、と机で端を揃える。
椅子を引くと、それに合わせて一歩下がったハンジが、薄暗いランプの明かりで濡らした瞳をモブリットに向ける。

「私ならあげたらすぐに答えが欲しい」
「……来月焼き菓子食べたくありません?」
「食べたいけど。今はいいから別なのちょうだい」
「例えば?」

一歩、モブリットが足を進める。
後ろの席に腰をつけて、ハンジがその到着を待つ。

「花、とか?」
「あげました」

じわりと温度をあげるように身体を寄せると、その胸に手を当てたハンジの頬へ、モブリットは右手を添える。
額をつけて視線だけで笑うと、ハンジはきょとんと目を瞬いた。

「え? うそ、だってもらってないよ」
「あなたの部屋に。バレンタインの当日に」
「え?」

もう一度、うそ、と言って、そのまま確認しに行きそうになったハンジの右手を左手で繋ぎ、引き留める。
人をその気にさせたくせに、さっさと自室に意識をやってしまうなんてそうはさせるか。
小憎たらしい恋人の唇にちゅっと小さく音を鳴らして口づけて、モブリットはハンジを解放した。

「え」
「答えです。ハッピーバレンタイン」
「え、これだけ?」
「今日は休んでください。チョコレートのお返しは来月なんでしょう?」
「え?」

席に戻りランプの火を吹き消して、後ろで呆然としているハンジの手を取った。
ドアを開けて、送りますと伝えて軽く引く。

「長い!」

夜に似つかわしくない非難の声が背中に降って、モブリットは指を絡めた手をそのままに、思わず吹き出したのだった。

【Fin】