冬の朝




目覚めたのは偶然だった。
本来の起床時間には数時間早い。
ひやりと冷える空気を喉の奥に吸い込んで、ふと空を見遣れば、薄暗い空からひらりひらりと白いものが揺れ落ちているのに気がついた。
どうりで冷えるはずだと思いながら、モブリットは手早く着替えて部屋を出た。
定期の見回りからも微妙にずれた時間のせいか、誰に出会うこともなく厩舎まで行き、異常の有無を確かめて、桶に薄く張りかけていた氷膜を割っての戻り道だ。
日の出の気配もまだ遠く、朝ぼらけと呼ぶには濃い闇の広がる視界の先に人影が見えた。
自分の吐く白い吐息が周りに溶けて消えるより早く、見知った影――ハンジが軽く両手を上げた。

「う〜、さっむいね!」
「分隊長」

小走りで駆け寄りおはようございますと挨拶をしたモブリットに、鼻の頭を赤くしたハンジは「おはよう」と笑顔を返す。そのままくるりと踵を返すと、隣に並んで歩き出した。特に何か用事があったというわけではないらしい。
早朝の散歩だろうか。
寒い寒いと楽しそうに肩を揺らすハンジが身に着けているロングコートは、兵団支給の防寒着ではなかった。ウェスト部分をベルトで止めてはいるが、肩幅も何もかもが一回り以上大きいようで、モブリットの初めて見る服だとわかる。「大きくないですか」と言い掛けて、

「早いね」

しかし先にハンジに問われ、モブリットは言葉を変えた。

「……目が覚めて。雪が降っていたので、馬の様子を見に行っていました。大丈夫そうでしたよ」
「そっか。あの子達は寒さにも強い品種だもんね。毛も密集してるし」
「そこですか?」

やたらと真面目な顔でされたおかしな指摘に思わず笑う。

「分隊長も早いですね」
「ああ、窓からモブリットが見えたから。厩舎かなって思って出てきたんだけど、会えて良かった」
「……」

見えたから、という理由で、とりあえず目に付いたそこらのコートを拝借してきたのだろうか。それならサイズの合わなさにも合点がいった。首元のファーがふわふわと暖かそうで、今頃、持ち主が気づいて慌てていなければいいと思うに止める。
雪はまだ積もるというほどではないが、後から後から舞い降りて、粉雪がハンジの髪に音もなく落ちては、結晶が煌めいて存在を主張し始めていた。見つめた先で雪の一カケが彼女の歩調に合わせて、するりと首筋に流れる。モブリットはふとそれに手を伸ばした。

「ん? 何?」
「雪が――、ってハンジさん、手袋は?」

後ろ髪に触れられたハンジが振り向いて、モブリットはその手が剥き出しなことに気がついた。両手を口元で合わせて息を吐き掛けながら首を傾げる彼女の、いつもは白いはずの指先が赤い。痛々しさにモブリットは慌ててハンジの両手を自分の手で包み込んだ。手袋を填めたままだと気づいたが、取る前に上から、はあ、と息を掛けてきつめに擦る。

「忘れた。急いで出てきたから、実は中もまだパジャマなんだよね」
「なん――ああもう、風邪引きますよ! こんなに冷たくなって!」

にへらと笑うハンジに、モブリットは思わず声を荒らげてしまった。
こんな寒い雪の舞う早朝に、コート以外の防寒対策がなっていなさすぎだろう。いくら咄嗟の行動といえ、モブリットは逃げもしないし、呼ばれれば例えどこにいようともハンジの傍に駆けつけるのに。
もう少し我が身を考えて行動してはくれないだろうか。
いつも呈する苦言のままに、外した手袋を脇に挟んで、モブリットはハンジの頬を外気から守るように包み上げた。しかし当のハンジはこちらの気持ちなど意に介さずといった風に、へらりと笑ったままモブリットの手に手を重ねた。

「モブリットはあったかいねー」
「手袋してましたからね!」

重ねられたハンジの手がとても冷たい。
まったく人の気も知らないで。
衣服の軽装はどいうしようもないところだが、今出来るのはこれくらいだ。モブリットが自身の手袋をハンジに渡そうと抱えた脇から取り出して――

「いいよ。モブリットのだ」

ひょいと避けたハンジに眉を顰める。

「俺はいいですからしてください。真っ赤じゃないですか」
「じゃあ半分」
「意味ないですよ。ちゃんと両手を」
「大丈夫大丈夫。こうして……」

何を思いついたのか、モブリットの差し出す手袋を右手だけ自分の手に填めると、残ったもう片方をモブリットにも填めるように目顔で促す。訝しみながらも希望通りに手を入れると、ハンジは空いた左手でモブリットの右手をするりと取った。
きゅ、と繋がれた手はやはりとても冷たくなっている。

「ね?」

そうして繋いだ手を目の高さまで持ち上げて、満足気な笑みを向けられた。
何が、ね、だ。
いきなりどんな可愛いことをしてくれるんだこの人は。ここが自室なら押し倒さなかった自信がない。

「……冷たいのに変わりないですけどね」
「ハンジさんは君の冷たさにビックリだよ」

なるたけ内心の動揺を消し去ろうとした結果、随分平坦な口調になってしまった。ハンジが寒さのせいで若干赤い頬を膨らませる。それもまた可愛いのだからどうしようもない。
緩みそうになる頬を、寒さにかこつけて引き締めると、ハンジに繋がれた手を、モブリットは自分のコートのポケットへとねじ込んだ。中で手を組み替えて、指を交互に絡め直して歩き出す。

「早く戻りましょう。戻ったら風呂を沸かしますから入ってください」
「いいよ別に。建物の中はそこそこ暖かいんだし」
「ダメです。そんな格好で出てきたあなたが悪い。入ってもらいます」
「大丈夫だってば。モブリットだって冷えてるじゃん」

繋いだ手をポケットの中で大人しく引かれながらも、その提案には頷いてくれないのはいつものハンジだ。先程の可愛らしさも今の小憎らしさも相変わらずで、モブリットは隣を軽く睨んだ。

「俺は寝間着じゃないので平気です」
「このコート、エルヴィンのだから良いやつなので平気ですー」
「……は?」
「ん?」

そうして言い返された言葉に、モブリットは一瞬耳を疑った。
歩調の緩んだ彼を、ハンジが不思議そうに見つめてくる。

「何で、団長のコートを着てるんです?」
「出ようとしたら風邪引くって貸してくれたから」
「……出ようとしたら――団長が?」
「そう」

何故、という疑問は至極真っ当なものだろう。
まだ四時にもなっていない早朝だ。自分と同じに何となく目覚めて、何となく窓辺に意識を向けたらたまたま姿が目に入ったから、と解釈していたのだが、どうやら推測を修正する必要が出てきたようだ。
出ようとしたら――どこを――団長の部屋を、こんな時間に、寝間着のままで?

「……さっさと戻ってさっさと脱いで、絶対風呂に入ってください」
「モブリット?」
「コートはお返ししておきますから」
「いいよ、後で自分で返すし」
「あと、それ、寝間着も。洗濯します。出しといてください」
「昨日替えたばっかりだよ」
「においが」
「ひっどいな!」
「……」

どうせ巨人に関する研究の成果や、新たな可能性や捕獲方法、無茶な生体実験の許可に関して白熱していたというのが真実だろう。もしかしたら突然のちん入で、多忙を極めるエルヴィンの貴重な睡眠時間が削られたかもしれない。兵団トップへの無礼な態度をこそ、まずは窘めるべきだろう。が、理性で理解するのとは違った部分で、思考が鈍るのはどうしようもない。
何かを突然閃いたのなら、その話は自分が真っ先に聞きたかった。
真夜中でも早朝でも、寝てても別の仕事をしていても、モブリットの事情などおかまいなしにいつもは飛び込んでくるくせに。
理不尽とはわかっている文句を飲み込んで押し黙ったモブリットに、ハンジは相変わらず首を傾げている。視界の端でそれを捉え、けれどもモブリットは目を合わせなかった。

「……どうかした?」
「わからないんでしょうね」
「何急に、感じ悪いなあ! ――ああ、わかった。やきもちだろ」
「当たり前でしょ」

揶揄の口調で嘯かれた言葉をあっさりと肯定して、ついでにポケットの中で繋ぐ手を少し強めると、ハンジが驚いたように目を見張った。
その回答は予想外だったのか、ぱくぱくと言葉を探したハンジの口が開閉を繰り返す。それから戸惑うように視線を下に向けて、モブリットの様子を伺うようにぼそりと言った。

「……マジですか」
「マジですね」
「……えー……だって、エルヴィンだよ?」
「聞きましたよ。暖かいコートで良かったですね」

大きさの理由がよくわかった。
自分のコートなら、ここまでダボつきはしていない――と考えて、つい乱暴に剥ぎ取りたくなってしまった自分を、自戒の為に息を吐き、切り替えようと努力はしてみる。
単なる厚意だとわかってはいるのだ。
それでもこれは鎌首を擡げるモブリットの男の部分で、本当にどうしようもないこともわかっている。
エルヴィンが団長になる前からの気の置けない付き合いだからこそ理解できないだろうハンジは、それでも考え込んでから、繋いだモブリットの手を引いた。

「パジャマで出てきた方が良かった?」

滅多にない上目遣いのとんだ提案に、視線を合わせないままで、モブリットは手を握り返した。
予想外すぎる。服を着込むとか先にそっちを是非とも熟考して欲しかった。

「なわけないでしょう。部屋で待っててくださいよ」
「やだよ」
「あんたね――」
「モブリットに会いたかったんだから」
「――」

けれどもまた予想外の台詞に、モブリットは思わず隣に視線を戻した。
見えたんだから仕方ないじゃん、唇を尖らせたハンジが、ポケットの中でモブリットの手の甲にぐっと爪を立てる仕草をする。けれども短く切り揃えられている指では鋭い痛みはまるでなく、圧迫された甘い痺れがモブリットの手から胸へと上るだけだ。

「ハンジさん」
「会えたからいい。……まだ早いし、戻ってから軽く寝る時間ありそうだよね」
「じゃあ風呂に入ってください」
「モブリットしつこい。今は必要ないって――」

もう、と文句を言うために上向いたハンジの顔に影を落とす。
いつの間にかだいぶ白んできた景色の中で、蒸気がくゆり、辺りに靄が立ちこめていた。コートの中で繋いだ手はそのままに、左手を添えたハンジの頬を、モブリットはゆっくりと撫でた。分厚い生地の手袋が邪魔だ。丁寧に輪郭をたどれないもどかしさの代わりに、せめて冷たい唇を温めようと、モブリットはもう一度ハンジのそこを柔く食んだ。
何度か漏れる吐息だけの交換をして、小さく声をこぼされたのを合図に、そっと唇に距離を作る。

「……入ってください。俺があなたをあたためた後で」

珍しく驚いて見えるハンジの瞼にも一つキスをして、モブリットは返事を待たずにコートの中の手を引いた。

「え――え、……ちょ、モブリット……え、マジで?」
「マジです。早く戻りましょう」
「あ、朝だよ?」
「二度寝の時間があるくらいの早朝で良かった」

戸惑いの言葉を口にしながら、絡めた指は離れない。
それが答えでいいのなら、とりあえずさっさと脱がせたい。
こんな本音はどうしようもないなと内心で自嘲しながら、モブリットは足早に朝靄の空気を肺いっぱいに吸い込んだのだった。


Fin.


実は意外と嫉妬深いとかいいなあ、と。

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