だからあなたに敵わない




ベッドマットへ投げ入れるように押し倒し、モブリットはハンジの手首をシーツの上に縫い止めた。起きあがれないように馬乗りになり、太腿の間で締め付けると、スプリングがぎしぎしと嫌な音を上げる。
これで叫ばれて人でも来たら、確実に言い逃れの出来ない格好だなと冷静に判断しながら、けれどまだ退いてやる気はないとばかりにモブリットは静かにハンジを睨み見下ろした。
下から睨めつけてくるハンジの顔に、怯えや艶めいたものは一切ない。

「……ここまできたらさ、後はキスの一つくらいするのがセオリーなんじゃないの」

だというのに台詞だけは一端の誘い文句が紡がれる。

「何のセオリーですか。いいから口閉じてください」

誰の為に自分がこうしていると思ってるんだ。
素気無く返し、手首を掴む指に僅かに力をこめてやる。
徹夜明け、仮眠も碌に取らないままでここまできたモブリットは、本来なら自室のベッドに身を潜らせている頃合いだった。
わかっているくせに、手を緩めれば途端に飛び起きてしまいそうなハンジに間近で息を吐くと、眇めた彼女が誘うように首を晒した。

「目は閉じるよ。でも唇は開けといた方がいいだろう?」
「鼻でも詰まってるんですか」
「キスしてって言わせたいの?」
「寝てくださいと言ってるんです」
「睡眠は不要だ」
「分隊ち、う――わっ」

即答したハンジが首だけを器用に持ち上げ、モブリットの顔に迫る。
そんな不意打ちで唇を奪われてなるものかと、咄嗟に両手の拘束を解いて逃れると、そのままの勢いでハンジは上半身を起こしてしまった。
ここまできて逃がしてたまるか。
崩された足場を何とか持ちこたえ、向かい合わせでハンジの身体を捕まえる。

「……ハンジさん」

ベッドの上、奇妙に崩れた正座のような格好で抱き留め低い声を出したモブリットに、ハンジは鋭い視線を向けた。シャツの襟元を締め上げるように掴み、一気に鼻を付き合わせるほどの距離になる。
それでも動じないモブリットに、ハンジが口を引き結んだ。

「――何だよ。勝手につけばするくせに!」
「本当に駄目な時にはしてません」
「言いがかりだ! 横暴だ! 性欲処理に使われた!」
「人聞きの悪いことを言わないでください」

わめき散らされた言いがかりは、誰かに聞かれたら本当にひどい。
今夜のようにイライラをぶつける為だけの行為を求めがちなのはハンジの方で、モブリットが求めるときは至って純粋な性欲が勝る時だというのに。
ぴしゃりと言い切るモブリットに、ハンジはシャツを握り締める拳に力を入れた。けれど怒らせた肩がしゅんと窄まる。思わず手を寄せれば、奥歯を噛みしめるような表情で、ハンジはモブリットの胸に額を当てて俯いた。

「……何でしてくれないの」

歯の間から小さな声でこぼされて、モブリットは仕方なしに宥めるようにその肩をさする。
ハンジが他の部下の前でこんな姿を見せないことはわかっている。言うなればモブリットにだからこそ言える我が儘で、それだけ心を許されていると知っている。だからこそ。――だからこそ、だ。
モブリットはその我が儘に流されるのは嫌だった。
こういう時のハンジが、本当の意味で自分を求めているわけじゃないことも知っている。

「むしゃくしゃしてるだけでしょう今は」

諭すための言葉は存外穏やかで柔らかい色を帯びてしまったが、それくらいは仕方ない。ハンジが弱っているのは確かなのだ。
思うとおりに進まない作業に得られない結果、伴う責任や重圧を含めた様々な労苦は、下に就く者の比ではない。
でもだからといって、ハンジがハンジ自身を疎かにしていい理由にはならない。
普段から健康生活を二の次にしがちな彼女がとことんまで根を詰めてしまう前に、モブリットは休憩を進めている。それなりに引き際を間違えないハンジがこうまでなったのには、理由があるということにもモブリットは気づいていた。

「それは」
「八つ当たりはいいです。殴りたいなら好きなだけ」
「するわけないだろそんなこと」
「でも八つ当たりでは抱けません」

何もわからず知ろうともしないスポンサーのお偉方に、いつもの如く盛大な嫌味を盛られ、援助と協力を断られた。まとめてしまえばそれだけだ。ただ、その為に費やした少なくない時間の中で、仲間が、どれだけ犠牲になったことか。大きな前進足り得る条件を掲げて見せて、実際にこなせば難癖をつけて取り消される。よくあることだが、どうせ違えられるだろからと最初から諦めてしまうことも出来ない。資金源と一定の理解はどうしたって必要で、僅かでも可能性があるのならそこを無視することは出来ないのだ。

しかしその代償のなんと大きいことだろう。

口先だけの彼らにはきっとわからない数の人生が、そうして何百と狂わされていく。
モブリットは肩を撫でていた片手で後頭部を優しく撫でた。ハンジの声にはっきりとした悔しさが滲む。

「………………そういうとき、してあげたことだってあるじゃないか」

彼女は理解している。
だからこそやり場のない憤りや理不尽な感情の矛先を赦すと信頼している自分にこそ向けているのだ。
悔し紛れのように向けられた緩い反撃に、モブリットはハンジの前髪を掬った。

「それは、あなたのことだけになれる時です」
「どういう意味――」

それから額に唇をつける。
ちゅ、と軽く音を鳴らせて、合わせるだけのキスは思いもよらなかったのか、ハンジがぱちくりと目を瞬いた。
その表情はまるで素直な子供のようだ。
モブリットは両手でハンジの頬を包んで、瞳をしっかりと覗き込んだ。

「俺と寝て、本当に落ち着けるならそれでもいいです。冷静になる為ならいくらでも。でもそれじゃあ今のあなたは収まらないでしょう? 無理矢理集中してくれても、後でキツくなるだけです」

心と感情は意外にダイレクトな関係だから。
忌々しい気分を一瞬行為で逸らせても、ハンジの性格上それで落ち着けるわけでないのなら、ただ疲弊を増すだけだ。余計に苛立つ思考で適当な提案が新たに出るわけがない。堂々巡りの悪循環を求められているとわかるのに、ハンジの為にも自分の為にも、単純な快感に身を任せるだけの行為はしたくなかった。食べられる時に食べて、寝られる時に寝てほしい。

ハンジがふるふると首を振った。

「……そんなことはない。だってちゃんと気持ちいいだろ。だから――」
「こんがらがって息詰まった情報は、睡眠時に脳が処理してくれるそうですから寝てください。あなたに必要なのは性的な快楽に逃げることではなく、質の良い睡眠だ」

言いながら、モブリットはゆっくりとハンジの身体に体重を掛けた。
ベッドマットに横たえたハンジの目蓋をおろすように掌で覆い、シーツを上に引き上げる。それでもまだ弱々しい抵抗を示して、ハンジはモブリットの腕を掴んだ。

「……した後だってちゃんと寝られる」

掌をどけると、ハンジがゆっくりと瞼をあげた。
怒りと焦燥で刺激され、張りつめてささくれだっていた神経が、先程よりは大分凪いできたように見える。代わりに眠気を乗せ始めた視線にホッとして、モブリットはハンジの髪をそっと撫でた。

「そうですね。でも」

更に宥めるようなリズムで上下に梳く。

「心ここに在らずが伝わってくるのは、男としては結構辛いので。やっぱりちゃんと寝てください。俺もものすごく眠いですし」
「それが本音か!」
「そう、本音です。あなたのモヤモヤを全て忘れさせられるほど激しく出来ません。せっかくなら最初から最後まであなたを味わいつくしたいのに」

また勢いづいてしまいそうなハンジの肩を押さえ、もう一度眠気を思い出すようにと、モブリットは目元に唇を当てた。「う」「わ」「やめ」と短い悲鳴を完全に無視して、ちゅ、ちゅ、と何度も啄んでいく。
そうしてしばらく、怒らせていた肩から観念したハンジがやっと力を抜いたのを確認して、モブリットは最後に触れるか触れないか程度のキスを唇に落とした。

「それに、そんな時くらい、あなたの頭の中も俺だけで埋め尽くしたいじゃないですか」
「うー……クッソ……上手いこと言いやがって……」

否定しないハンジは素直だ。今はその気分じゃないと言っている。
それに内心だけで苦笑して、モブリットは目を細めた。

「だから今は寝てください。俺の夢なら見てもいいですから」

本音をあざとさに混ぜたモブリットを、ハンジがげんなりといった表情で見つめてきた。
瞳を緩め「すみません」と言いながら、今度こそシーツを首元まで引き上げる。
最後に胸の上からポンポンと叩いて立ち上がろうとしたモブリットは、またぞろ伸ばされた腕に引き止められてしまった。振り向くと、ムッとした顔でハンジが自分を睨んでいた。

「ハンジさん?」
「解決したら絶対だからな!」

何を、とは言わずともわかる。
最後の悪足掻きとでもいうべき言質を取ろうとするハンジの、こういうところを知るのは自分だけでいい。
なかなか眠りに落ちてくれない我が儘な恋人の小指を返して指を絡め、モブリットは真面目な顔を取り繕った。

「約束します」
「モブリットの足腰立たなくさせてやる」
「本当ですか。ならお返しに俺もあなたが足腰立たなくなるほどしてあげますね」
「……っ、真顔で言うなっ」
「本気ですよ」

最後に伸び上がって、モブリットはハンジの額にかかる前髪を掻き上げた。
ギ、と体重を掛けた分だけスプリングが軋む。
睨みながら、それでも少し頬が赤く見えるハンジの額に、子供にするようなキスをひとつ。

「だから、今は寝てください」

前髪を戻し、頬を撫で、横のサイドランプの火を落とせば、締め切った部屋に差し込むのはカーテンのない窓から見える月明かりだけになった。慣れない視界で見下ろすハンジに触れた指先の感覚で、瞬きのないことを確かめて、モブリットはそっと腰を上げる。

「……モブリット」
「はい」

と、不意に名前が呼ばれて、上げかけた腰をもう一度戻す。
その声にはもうずいぶん眠気が感じられて、どうしました、と夜の静寂を邪魔しない音量で囁けば、ハンジが手探りでモブリットのシャツを掴んだのがわかった。

「寝るから――本当にちゃんと寝るからさ」
「はい?」
「一緒に寝てって言うのはあり?」

きゅ、と僅かに引かれる力が強められる。
何を言い出すかと思ったら。してよ、というより個人的に難しい提案に、モブリットが拒否しようと口を開けたその刹那――

「今は、一人でいたくない」

おねがい、と心許なく呟かれて、断るなんてできるわけがない。
無心で抱き枕に徹する覚悟を全身に行き渡らせる努力をする。その短くない時間に慣れた視界で、ハンジがベッドの中で身体の向きを変えたのがわかった。頭をおいていた枕に頬をつけ変え、もぞりもぞりと壁に寄る。返事を待たずに、モブリットの分のスペースを空けるつもりらしい。
いつもなら腕の中に抱きとめてしまいたいくらいだが、今日はその心意気に預かろうと心に決めて、モブリットは小さくない息を吐いた。それからベッドシーツを持ち上げる。

「……あんまりくっつかないでくださいね」

言いながら背中を向けてベッドへ入る。と、後ろにぴたりとハンジが張り付いてきた。

「それは無理」
「うわっ」

後ろから腕を回して抱きしめられて、モブリットの口から慌てた悲鳴が零れる。けれど暴れるわけにもいかない。最初の目論見通り、睡魔は訪れているらしいハンジの呼吸音は、規則正しく穏やかだ。次第に力の抜けてくる腕に安堵を愛しさがこみ上げて、

「ああもう……」

起こさないようゆっくりと身体を反転させると、モブリットはハンジを腕に閉じこめた。


【Fin.】


真保さん(@maho_key)の描かれる絵柄とかお話でイメージした二人で書かせてもらったモブハン!
ハンジさんはギリギリになるとモブリットにガーッと言いそうで、モブリットは結構力でも押さえそうだし(ハンジさんも負けないけど)、意識するわけではなく当然の顔してポロッと赤面台詞吐いてくれそうです。
可愛い顔して言うしやるし甘いけど甘くないし、え、モブハン面白いね!?(どういうイメージだww)