ノンシュガー




「モーブリットー」
「はい?」

書類整理に飽きたらしいハンジさんに呼ばれて振り向くと、向かい合わせの机越しに、彼女が頬杖をついてこちらを見ていた。
右手の人差し指を上向かせて、ちょいちょいと動かしているのは、ここまで来いという合図だ。ついでにコーヒーも淹れ直して来ようか。
そう考えて自分のマグカップを持って立ち上がると、ハンジさんが思い切り憮然とした表情になった。

「どうしました?」
「普通恋人に呼ばれて、ついでで来るか?」
「恋人を指で呼ぶんですかあんた」

近しい仲間への甘えは感じ取れる態度ではあったが、恋人に甘える態度じゃなかった。
ひょいと覗けば彼女のマグカップも中身はもうほとんどない。
念の為で、書類の不備か何かですかと聞いてみると、別にとそっぽを向かれてしまった。
この態度は少し困った上司だが、可愛い恋人の拗ね方にも見える。

「もしかして本当に傍に来て欲しかっただけですか?」
「うるさいよ」

否定しないのか。
驚きに軽く目を見張ると、他の部下達の前では見せることのないむくれ顔で、ここ、と書類の一角を指し示された。
目を通し、書類に自分のサインが必要な個所を確認する。何だ、これを言いたかったのか。
少し浮つきそうになっていた自分の内心に苦笑しながら、紙を受け取ろうと手を伸ばす。が、「ん」とペンを渡されて、失礼しますと屈み込むことにする。
名前を書き入れながら、これくらいなら座ったままで渡してくれても出来たのではと考えて、ああそうか、と納得した。本当に、少しだけ甘えてくれる気があったらしい。
腰を折り屈んだ姿勢で書き込んだ書類を渡して、ペンを返す。

「他にサインが必要なものはありませんでしたか」
「ないよ。今のところは」
「今日中には、どうにか終われそうですね」
「そうだけど、先に終わったらモブリットは戻っていい」

自分のマグを持ったまま、中腰のままで続ける俺に、ハンジさんは労いに見せ掛けた言葉をくれた。
完全にご機嫌を損ねてしまったらしい可愛いこの人を、さてどうやって振り向かせよう。

「いますよ。でもあなたが先に終わったら戻って下さいね」
「戻るよ。さすがに疲れてるし」
「ゆっくり眠れそうですか」
「大人しく寝る。バーナー副長のお手は煩わせないから安心しろよ」
「煩わせてくれないんですか?」

言いながら、机の奥から飲み掛けの彼女のマグカップを取り寄せる。
左手の親指と人差し指に引っ掛けると、陶器がぶつかってカツンと鈍い音がした。
相変わらず憮然としたままこちらを見てはくれない彼女だが、邪険にされないのを良いことに、普段なら絶対にしない執務室での距離を保ったまま、じっと横顔を見つめ続ける。
と、やっとでハンジさんが俺の方を見てくれた。

「……何。コーヒー淹れて来てくれるんじゃないの」
「その前に、サインをひとつ忘れてまして」
「サイン?」
「いただけますか?」
「どこ――」

その言葉で、マグカップ以外何も持たない俺の手に視線をやった隙をついて、唇を奪う。
左手にマグで右手は机についたまま、後ろに逃げられたらそれで終わりだ。けれど彼女は逃げなかった。
合わせただけの唇を、少し甘く食んでみる。二度三度と啄んでから離すと、一拍遅れで薄く開いた瞳が、すぐにぷいと逸らされる。
何するんだと文句を言いながら、目尻がほんのり赤くなっているのだからたまらない。
自分からの不意打ちは散々してくるくせに、されるのがとんと苦手な彼女らしいその反応は、犯罪級だと毎回思う。

「……サインじゃないじゃん!」
「サインですよ。ペンをお返ししてしまったので、直接ですみません」

本当は目に付くところ全てに書き込んでしまいたいくらいだが、そうもいかない。まだ仕事が残ってもいる。
ここ最近の多忙――本当に忙しかったし生体実験も重なっていたし、それを強行したのも彼女の指示だし――で、こんな程度の接触もそういえばしばらくなかったことに改めて気づいて、俺は半歩距離を縮めた。
公私の別が曖昧な夜に、傍に置く程度の甘えであなたは事足りるのかもしれないけれど、俺は足りませんよとサインは送った。

「俺にもください」
「なに――」
「サインを。あなたの」

目、瞑りましょうかと提案すると、ハンジさんは一瞬息を飲むように顎を引いて、それから書類仕事を再開させてしまった。
――しまった。少し押しすぎたらしい。
伏し目がちな瞼から落とされる長い睫毛の影が、ランプの明かりに照らされて、陰影を濃く映し出す。
疲れているのは事実だし、無理をさせたいわけじゃない。
それでもこれ以上この距離で見つめているのは、俺の理性の揺らぎ的にもあまりよくないことだとわかる。

「……すみません」

苦笑して立ち上がった俺に、うん、とハンジさんが返事をくれた。
少し震えて聞こえたのは、俺の都合が生んだ幻聴だろう。
淹れてきますね、マグカップを両手に一つずつ持ち替えて背を向ける。

「――終わったらね。今日中に」

と、その背に極々小さな声が掛けられて、俺は思わず足を止めた。
えと聞き返す間もなく、そんなに顔を近づけて、書面の文字が読めますかと突っ込みたくなるほど、ハンジさんの姿勢が前傾する。
遠目に見える横顔が、引き結んで見える唇が、聞こえた言葉の真意だと思う。
戻りたい。今すぐ戻って本当ですかと直接訊きたい。でも彼女から言い出した条件は絶対だと知ってもいる。

「絶対ですよ。終わらせますから」

だからそれだけを淡々と言って、俺はそのまま部屋を出た。
まだ少しマグカップに残っている琥珀色の液体が、揺れて零れないようにと集中もする。
ここに新しく淹れ直したコーヒーがなくなるまでに、机の書類を全て終える。出来る。大丈夫。問題はない。
彼女のサインは、いったいどこに、どんなふうに、もらえるだろう。
パタン、とドアの閉まる音を背後に聞きながら、次第に小走りで給湯室に向かう足を、俺に止める術はなかった。


【FIN】


6/12は恋人の日だそうなので、突発的に浮かんだショートでした。
喜び過ぎだよ。何やってんのモブリットww