溺れる魚は瞳で息継ぐ




ハンジ・ゾエは目が悪い。
かと言って、眼鏡がないと即座に何もかもが見えなくなるというわけではないそうだ。
巨人と交戦する、といった特殊な状況下でもない限り――もしくは微生物や組織構成図を顕微鏡で見比べるような時でもない限り――外した途端、
日常生活にものすごい支障をきたすわけではないらしい。

「そんなに不思議? ああ、モブリットは視力がいいから感覚的にわからないのか」

真夜中の書類整理でも、時折眼鏡のブリッジを持ち上げて目頭を揉み込んだハンジがそのままサインにかかる姿を何度も見ているモブリットが、
「見えるんですか」とつい口にした疑問が事の発端だった。
調査兵団庁舎の三階、南北にまっすぐ伸びた廊下は、向かって背面が主に会議室や作戦室に宛われる部屋が並び、前面に資料室や書庫、
その奥に数室、小さなプレートを模した黒板が下がり、使用者の名前を記載するようになっている仮眠室が配置されている。

「なんて言えばいいのかな」

そのほぼ真ん中に陣取り歩みを止めたハンジが、非常時用のバンドではない眼鏡の下からモブリットを見上げ、可笑しそうに首を傾げた。

「そりゃあ掛けてる方が断然視力は上がるよ。その為の眼鏡だし。でもずっと付けっ放しなのも肩が凝るというか」
「眼鏡をしてると肩が凝るんですか」
「真面目か! 比喩だよ比喩」

目と眼鏡と肩の筋肉にかかる負荷を真面目に検討する口振りで言ってしまったモブリットの背中を、ハンジが叩く。
不意の衝撃に前へ二、三歩たたらを踏むと、ごめんごめんと笑いながら、叩いた背中をさすってくれた。

「そもそも本来の視界にはないものだからね。フレームとか耳にかかる蔓の負荷とか。もう随分長いこと一緒だしある意味顔の一部といえばそうだけど、
不要物をなくしたくなることだってある」
「視力が下がっても?」
「全く見えないわけじゃないんだって。そうだな――」

モブリットは視力がいい。
だから目が悪いという感覚を置き換えるとき、「見えにくい」という範囲をつい「見えない」と誤認してしまうきらいがある。それは自覚しているのだが、
戦闘中、汗や飛んだ巨人の血を拭う為とはいえ、躊躇いなくゴーグルを外すハンジを、内心気にしないではいられなかった。
この際だ、疑問はここで解決してしまうに限る。
生真面目に確認を重ねるモブリットに、少しだけ肩を揺らしたハンジは楽しそうだ。が、笑い事で聞いているのではないのだという意図で眉を寄せると、
はっきりとわざとらしく真剣な表情を作ったハンジが、前方に伸びる廊下に視線をやった。
至って不本意な態度ではあるが、どうやら答えてくれる気はあるらしい。
すぐ手前の部屋を指で示す。

「モブリット、そこの部屋のプレートは読める?」
「第三書庫、ですよね」

木製のドアに埋め込まれたプレートの文字を読みあげれば、ハンジは満足そうに頷いた。

「うんうん。じゃあその奥」
「乾燥室」
「じゃあ一番奥は?」
「一番――……ええと、現在の使用者は、M……マーベリック、いえ、モービック、でしょうか……」

一番奥は、さすがにかなり見えにくい。
ぐっと目を細めて読んでみたが、自信はなかった。
大文字で書かれているらしい所だけ、ぼんやりとした視界の中でどうにか読み取ったモブリットが振り向くと、いつの間にか眼鏡を上に押し上げた視線で
同じように奥を見つめていたハンジが、軽く肩を竦めてみせた。

「私は全然見えないからわからないけど。――まあそんな感覚なんだよね」
「はい?」

正解がないものを読んでみろと言われたわけか。
真意が掴めず聞き返したモブリットに、ハンジはプレートを顎でしゃくるように示しながら微苦笑した。

「あなたにとっての一番奥が私にとっての三つ目のプレート。はっきりと読めないけど、見えないわけじゃない。別に見えなくても困らないだろう? 
見やすいために眼鏡を掛けるし、戦闘時に精度を高めるためには絶対必要不可欠だけど、この距離ならなくても顔の識別には困らない」
「近いです……!」

この距離、と言いながら眼鏡を上げたままのハンジがモブリットにずいっと迫る。思わず後退った彼に構わず、そのまま眼鏡を取ると、至近距離で
少し見上げる榛色の視界にモブリットを映しこんだハンジが、面白そうに目を細めた。

「私の世界を覗いてみるかい?」
「え――わ、ちょ」

言うなりおもむろに外した眼鏡をモブリットに掛ける。
耳慣れないフレームの鳴る音と顔にかかる硬質な感触に一瞬目を閉じて、それからおそるおそるといった風に瞼を上げたモブリットは、
距離の近いハンジに――ではなく、見える視界の不安定さに眉を寄せた。

「どう?」

おそらくものすごく得意満面といった表情で自分を覗き込んでいるだろうその口調に、モブリットは敢えて向かず、ハンジの顔越しに三つ奥のプレートを
読もうと視線を凝らした。
つい先程まで難なく読めていた文字がぼやけて、読めなくはないが最初の文字すら心許なく変わっている。
知らず眇めるようにして辺りを見回し、モブリットは頭を振った。

「すごく……クラクラします」
「ははは、私も結構周りがぼんやり!」

モブリットの肩に手を置き、顔越しの反対奥を見たらしいハンジが、楽しそうにバシバシと叩く。
痛いです、と抗議をしながらモブリットは嘆息をした。
眼鏡を取った彼女が、思っていたより見えるものだということはわかった。何も暗転しているわけじゃない。
けれどやはり、焦点の合いにくいこの視界不良は、外では大きな問題には違いない。
モブリットは自分に掛けられた眼鏡のフレームに手を伸ばし、

「笑いごとですか。返します――」
「いいから、もう少し」
「分隊長?」

両手で頬を挟むようにして手ごと押さえ込んできたハンジを、モブリットは眼鏡のままで思わず見下ろした。

「言ったろ? この距離なら見えるんだって」
「……俺はあまり見えませんが?」

嘘だ。――いや、嘘ではないが本当でもない。
声が近い。そこにいるのは体温でわかる。
けれども明瞭とは言えない視界で見えるハンジは、全体的に靄がかかっているようで、曖昧な輪郭を持って見えた。
はっきり見ようとすればするほど、モブリットの眉間に皺が寄る。それを面白そうに見つめるハンジは、傍目に距離だけを近くして、してやったりと
ニヤリと笑んでいるのがわかった。

「いつもと逆だな」
「何のメリットも感じませんが」

ニヤニヤとしたまま頬を軽く叩くハンジの手を取ってやめさせる。
眼鏡を外した彼女は近づけばよく見えるのかもしれないが、眼鏡を掛けられた自分は、近づいても視界不良は増すばかりだ。
眉を寄せたモブリットに取られた手を外しながら、ハンジが宥めるように「まあまあ」と笑った。
誰のせいだと更に険しく眉を寄せると、その眉間をぐりぐりと人差し指で揉み込まれてしまった。

「でもアレだね。モブリット、眼鏡を掛けると頭の良さそうな学生みたい」
「……その言い方、眼鏡を外すと頭が悪そうとかそういう意味ですか」
「ううん。眼鏡がなかったら私の副官」

そう言ったハンジが微笑しているらしいのはわかる。
が、やはり薄くブレた視界のせいで、目を細めているモブリットには、いつものように明瞭な姿で見えることはない。
それが少し惜しいと思う。
やはり視界の確保は重要だと確信して、モブリットは再度眼鏡に手を掛けた。

「ならそろそろあなたの副官に戻らせてください」
「待った。その前に私は? 眼鏡を外すとどんな風に見えてるの?」

が、やはりギリギリのところで阻んだハンジが、ずいとモブリットの顔に近づいた。
――何を言い出すのかと思ったら。
眼鏡を取らせてもらえないせいで、随分厚ぼったく見える視界の中のハンジを見つめ、それから一度目を伏せる。
答えなど、最初から一つしかないではないか。
じっと覗き込んでくる視線を感じながら、モブリットは今度こそ眼鏡に手を掛けた。
鼻上のブリッジを少し押し下げ開けた視界は、いつもより色彩が華やかに見えた。
その中にようやく輪郭を取り戻した姿が見える。
もう細める必要のない視線を無意識に狭めてしまったのは、元に戻った見えすぎる視界のせいで、眩しさに当てられたからだろう。

「あってもなくても、あなたはハンジ・ゾエですよ」
「つっまんない答えだなあ!」
「何ですか。綺麗なお姉さんとでも言ってほしかったんですか」
「うっわ! 可愛くない!」

唖然と口を開けるハンジの抗議に息をこぼしつつ、モブリットは押し上げた眼鏡を今度こそ完全に外した。
そう重さを感じていたわけではないフレームが消えた視界は良好だ。やはり視力確保は必須だと改めて実感する。
目の前で拗ねたように唇を尖らせているハンジに苦笑しながら、モブリットは外した眼鏡を反転させた。

「どうぞ」
「ん」

そうして、顔に当たらないように注意しつつ、耳に差し込んだテンプルの位置をカチャリと調整する。
少しつれてしまった髪を耳の後ろに流し終えると、目を伏せていたハンジがゆっくりと視線をモブリットに戻した。

「……あの?」

外す為ではなくブリッジをぐいと押しつけたハンジが、眼鏡の奥の視線をぱちくりと瞬かせ、じっとモブリットを見上げてくる。
眼鏡があってもなくても変わらないだろうと思ってしまうほどの近い距離だ。

「ぶ、分隊長?」

顎を引きつつそう呼ぶと、ハンジはモブリットの目を覗き込むようにして、それからふっと視線を細めた。

「急に視界がクリアになったせいだね。ちょっと眩しい。でも――」

ひたりと頬に触れた手が、確かめるように輪郭をたどる。

「私の副官がよく見える」

眼鏡の奥のハンジの明るい榛色の瞳の中に、自分の顔が映り込む。
柔らかく眦を下げるハンジも、今ならおそらくモブリットの瞳に映る自分の顔がはっきりと見えているのだろう。

「……俺も、あなたがよく見えています」
「うん、わかる」

やはり視界確保は重要だ。
互いの顔と瞳に映る自分の顔を覗くように見つめ合いながら、二人はどちらからともなく表情を緩めた。


【FIN】


【最重要ポイント】→廊下の真ん中、真ん中!
neoさんのお誕生日に捧ぐ…モブゥ、ハァン…