潜在意識の誘い方




「ねえ、ペトラ」
「はい?」
「この間淹れてくれた紅茶すごく美味しかったよ。ありがとう」

廊下の途中で行き合ったペトラは、今日の訓練を終えたのだと言う。
こちらも今日の実験は済んで、部屋まで戻る途中だった。
数日前の会議で供された紅茶の礼を伝えると、少し目を瞬いて、それから思い至ったのだろう。パアッ、という擬音が見えるほどの笑顔で、私に向き直ると、ペトラは両手を胸の前で嬉しそうに合わせた。

「本当ですか!わー、嬉しいです。最近おいしい紅茶の淹れ方を教わって、練習してたんですよ」

その場で小さく飛び上がってしまいそうな喜び方が微笑ましい。
本当に、こんな男女の別もないような兵士という任に就いて、どうしてこんな無邪気な感情を持てるのだろう。
彼女の芯の強さを知っているから、単純な庇護欲というのとは違うが、この笑顔は確かに守ってあげたくなる。
あの仏頂面が傍らに留めて置く気持ちもわからないでもないな、などと心中を察しながら、私はペトラに微笑みかけた。

「へえ。じゃあもうすっかり免許皆伝だ」
「いいえ、まだまだなんです。兵長からはなかなか及第点いただけなくて」

残念というより、血気盛んにリベンジを誓うような握り拳を見せられて、私はぶはっと吹き出してしまった。いいな。こういういかにもじゃないところが、すごくいい。

「あの小さいおっさんは無視していいよ。十分美味しい。紅茶はずっとペトラに淹れてもらいたいくらいだよ」
「ふふ、ハンジさんたら。はい、是非また飲んでくださいね!」

一応本気のお誘いは、軽くあしらわれてしまった。碌に照れてもくれないのはいつものことで、それを少し残念に思いながら、私は「ペトラ」と呼びかけた。低めた声のせいか、ペトラが不思議そうに私を見上げる。
廊下に面した窓硝子から入る陽射しが、ペトラの蜂蜜色の髪をきらきらと優しく見せていた。

「ハンジさん?」

黙していると、戸惑ったようなペトラの頬に、私はゆっくりと手を伸ばす。

「今から部屋で、君の淹れた紅茶が飲みた――」
「ペトラ」

が、頬に触れる寸前、呼ばれたペトラが弾かれたようにそちらを向いて、私の指先が空回った。

「兵長!どうかされましたか?」

驚きに、隠し切れていないあからさまな喜色を滲ませたペトラの様子に、私は彼女を呼んだ男を半眼で睨んだ。
ちらりと私を一瞥したリヴァイは、呆れにほんの少しの警戒を滲ませて無言のまま歩み寄ると、自然な動きで私とペトラの間に陣取った。残念ながら身長の関係で、ペトラを視界から隠す役割は担えていないが、空気感をぶった斬るには素晴らしい仏頂面が大活躍だ。

「……茶が飲みたい」

私に背中を向けたリヴァイが、本当に飲みたいのか?と思わず聞きたくなるような声でペトラに言う。

「はい! すぐお持ちしますね!」
「……茶くらい自分でやれよ」
「あ?」

どこから聞いていたんだと思う台詞で邪魔をしてくれたリヴァイの絶妙なタイミングにボソリと呟く。と、ただ聞き返すにしては剣呑な表情で――というより完全に喧嘩を売る猫のような表情で――睨まれて、私は腕を組んで見下ろしてやった。
圧倒的な身長差はこういう時に便利だが、それで彼が打撃を受けたかというと話は別だ。

「ハンジさんも、お部屋までお持ちしましょうか?」
「あ〜……」

私達の水面下と言い切れない攻防を、無邪気に遮って聞いてくれるペトラは相変わらず天然ボケているのか、これはリヴァイも気が気じゃないなと同情する。
頼めば本当に持ってきてくれるだろうが、ついでに彼まで後ろについてきそうで、せっかくの夜に男の顔を見て終わらせたくもない。
でも紅茶は飲みたいな。ペトラを見てるとその欲求が強くなる。

「……じゃあ頼ん」
「大丈夫だよ、ペトラ。分隊長には私が後で持って行くから」
「モブリットさん」
「リヴァイ兵長、すみません」
「いや」

と、後ろから聞き馴染んだ声が聞こえて振り向くと、別の金髪がにこりと人好きのする笑みを浮かべて立っていた。
モブリット――私の副官。
かわいいけど、まあ、うん、かわいいけど、少しアレだ。その笑顔、今完全に上辺に張り付けてるだろう君。怖い。目が笑ってない。だからその笑顔怖いって。

「ではよろしいですか?」

モブリットの登場で、一人和んだ雰囲気を強くしたペトラに伺われて、横に立つ彼女の気配を感じつつ、私は笑顔で頷いて見せた。

「うん、ありがとうペトラ。また今度二人っきりの時に淹れて欲しいな」
「はい、わかりました。それまでにもっと上手に淹れられるように練習しますね!」
「……俺が練習台か、ペトラよ」
「ちっ、違いますよ!?」

二人っきり、は完全にスルーされたらしい。
軽く眉を上げたリヴァイに、瞬時に頬を染めて弁解を試みるペトラは、私には全く見せなかった恥じらいを見せている。
まったく、これはどういうことだ。

「……ねえ、モブリット」
「はい?」

ぺこりと頭を下げたペトラにひらひらと手を振って見送って、私はもう既に鉄面皮になっている隣の副官に声を掛けた。
君、少し変わり身早すぎだからね。

「私とあのおっさんとどっちが格好良いと思う?」

角を曲がってしまった背中にため息をついて歩みを再開させると、半歩後ろの定位置につけたモブリットから冷たい空気を感じた。

「外見は好みによると思うので、私の口からは何とも。内面で言わせていただけるなら、だらしなさを身近で見ているわけでない分、兵長に軍配が。たぶん一部女性にも非常に人気が出るタイプだと思います」
「さりげなく私をディスったなこのやろう」
「だらしない自覚はちゃんとあったんですね。びっくりです」

ズケズケと普通上官に言わないだろう指摘を受けて、歩みを遅め、モブリットの隣につける。少しだけ何かを言いたげに私を見たモブリットが、僅かに苦笑して肩を竦めた。

「何を比較されたいんですか」
「身長も高いし実力もあるし優しいし朗らかで人当たり良いし、女性の扱いにも慣れてる私の何が不満なのかなペトラは!っていう話だろうが!」
「……だから好みによるって言ってるじゃないですか。男をそんな上辺で見ないペトラの人間性が、あなたみたいな人を受け付けないだけじゃないですか。特に一番最後のやつ。内面です内面」

本当にまったく容赦がない。
がくりと肩を落としてみせても、同情の欠片もくれない優秀な副長は、両手に抱えている資料を抱え直す仕草をくれただけだった。

「どんなに迫っても緊張すらしてくれないのは、何でだ……」
「普段が普段なので、本気にされないんですよ。誰にでも同じことしてるでしょうあなたは」
「してないよ。少なくとも君にはしてないだろ」

歯の浮くような台詞も、過度な女性扱いも、最初の頃ふざけただけで、思い切り蔑んだ目と共に「やめてください」と一刀両断されてから、私は一度もしていない。
モブリットはチラリと私を見上げて、すぐ視線を逸らした。

「知っています」

こういう時のモブリットは、いつも何か含みを感じさせる。
踏み込んでこないくせに、簡単に踏み込ませそうな柔らかさを見せ、踏み込もうとすると両手を突っ張られるのにもだいぶ慣れた。
――いや、嘘だ。
それなりに傷ついてはいることを、気づかない振りをするのが上手くなっただけだ。そうでもしないと、この副官は、私からすぐに距離を置こうとするから気が抜けない。

「何だ。妬いてるの?」

代わりに軽くからかってみる。
と、思った通り呆れたような息をついて、抱えた資料を持ち直しながら、モブリットは片眉を上げてみせた。


「馬鹿言ってないで仕事に戻ってください。ペトラから教えてもらった淹れ方で、紅茶を淹れて持っていきますから」
「……ペトラに聞いたの? わざわざ?」

モブリットの言葉に、私は少なからず驚いた。
一緒に市街に行く時も、道行く可愛らしい女の子を褒めそやす私を完璧な副官の冷たさで追い立てるし、ペトラの紅茶を褒めた時だって「はいはい」「よかったですね」「じゃあ仕事してください」といつも素っ気なくカップを片づけてしまうあのモブリットが。
班も違うから訓練時間も当然違って、合わせでもしない限り、一緒の休憩時間を取ることもほとんどないペトラにわざわざ。

「私の為に?」

またちらりとこちらを見上げようとして、けれども今度は合う前に、モブリットはすっと視線を逃がした。

「……あなたが、美味しかったと言っていたので」

ぷいと逸らしたモブリットの視線は、ひたすら床を見つめている。
ちょっと待って。私の為に、モブリットが?

「……」
「……」

紅茶が美味しかったのは事実だけれど、それがペトラに迫る口実だと、モブリットは知っていたはずだ。
それなのに、彼女から紅茶の淹れ方を聞いて、私に飲ませたいと思ったのは、モブリット曰く女性の扱いに慣れたこの頭で考えると、都合良いことしか思いつかない。
毎度毎度暴走する私を、その小さな身体で必死に引き留めてくれる一生懸命さと、一見突拍子なく聞こえる見解を真正面から引き受けてくれる回転の良さからは想像もつかない沈黙が、じわじわと私の頭を沸騰させる。

「それで仕事が進むならと思っただけです。分隊長、仕事に戻っ」
「コーヒーがいい」

沈黙を破って踵を返したモブリットの腕を咄嗟に引いた。

「……は?」

簡単に私の腕の中に寄せられてしまう柔らかい身体を抱き止めると、警戒心も露わに眉を寄せて見上げられてしまった。けれど、優しく笑ってあげられないまま、もう一度よく聞こえるように、モブリットの短い髪を耳の後ろに流し、そっと囁く。

「コーヒーがいいよ。持ってきてくれる?」

後ろから抱きすくめられた格好で、モブリットが私から身を捩る。
完全には離してやらないまま少しだけ力を緩めると、身を返してこちらを見上げた。私の手から髪を奪って耳に掛け直したモブリットは、何故か悔しそうにも見える表情を一瞬浮かべ、それから、きゅっと唇を噛んだ。

「……ペトラほど上手くは淹れられませんけど、私も、練習し」
「モブリットのコーヒーが一番好きだから、コーヒーがいい」

言い切ると、モブリットは一瞬驚いたように大きな目を瞬かせて、それから右に左に視線を泳がせる。返事をくれないまま、私の腕から逃げてしまいそうな素振りを見過ごせるわけはない。
身を守るには脆弱な資料を胸の前に抱きしめるモブリットの頬に触れる。
いつも、ちょっとやそっとの接触じゃ欠片も反応してくれない彼女が、びくりと顎を引いて、それでもおずおずとその淡いグリーンの瞳の中に私を映す。
柄にもなく真面目な自分の表情が見えて、モブリットが怯えとも期待ともつかない感情で私を見ているのがわかる。

「持ってきて。部屋にいるから」
「……は」
「二人きりでコーヒーを飲もう」
「い?」
「この意味わかる――……」

あまたの女性が陥落してきた微笑みを乗せて言った私に、モブリットがすっと半眼になった。……おかしいな。そこは真っ赤になるべきじゃないの? モブリット、君、ちょっと感性おかしくないか?

「モブリット? 目が半分になってるよ? 眠い? どうする? 一緒に寝る?」

コーヒーは別に後でもいいし。
そう思っての申し出は、どうもお気に召さなかったらしい。
笑えば春風のように柔らかい暖かさを胸の奥に届けてくれるモブリットが、今は真冬の雪山訓練より零下を感じさせる瞳で私を見上げ、ふ、とブリザードのような息を吐いた。

「……だからペトラに相手にされないんですよ。私も兵長の方が断然格好良いと思います」
「えっ、モブリットもリヴァイ派!? 何で? どこが?」

聞き捨てならない。
ペトラがリヴァイを好きなのは仕方がないとして、彼の人類最強の照合に憧れるようなモブリットではないくせに。
こちらを向かせようと頬を挟んだ私の手を乱暴に外したモブリットが、冷たく顔を逸らして言う。

「胸に手を当てて聞いてみたらいいんじゃないですか」
「胸に――」

資料に押されて横にたゆんでいた目の前の柔らかそうな膨らみに触れる――

「ごごごご自分の!です!」
「ンゴッ!」

――と、思い切り横面を資料で力一杯殴り飛ばされた。

「セクハラも大概にしてください! そのうち査問委員会にかけられても知りませんからね!?」

勢いで廊下に頭を打ちつけた私に捨て台詞をくれながら、モブリットは肩を怒らせて行ってしまった。
いくらなんでも――例えばペトラにだって――急に身体に触れたりしないよ。わかってないなあ、と痛む頭を押さえながら、私はモブリットの後ろ姿を苦笑で眺める。
割り切れない面倒な関係を持ち込むほど、私は人間が出来ていない。広く軽く、限りなく浅く。兵士として生きていくには、それで十分で、それが一番居心地が良い。確かにペトラは思い切り可愛いとは思うけど、それはリヴァイに向けるあの純粋なひたむきさに中てられて、というのが正しいとわかってやっていることだ。
リヴァイにしか向かないベクトルの安全牌。
だから、こんな、どこまでも生真面目で副官として失いたくない異性に、咄嗟に手を伸ばすなんて危ない真似は――

「モブリットにしかしないのになあ……」

言ってもどうせ信じてくれずに、呆れたため息を吐くだろうモブリットの態度が容易に想像できる。でもまあ今は、それでいい。
ストッパーの彼女の箍が外れたら、たぶんもう戻れないと知っているから。

「悪い女だなあ、本当」

しばらくは軽く触れた柔らかさを思い出してしまいそうだと思いながら、私はコーヒーを持ってきてくれるはずの警戒したモブリットを想像して、くつくつと肩を揺らすのだった。


【FIN】


もしもモブリットがゆるふわ巨乳の女の子で副長で、ハンジさんがハイスペック男子で女好き(というかペトラ好き)だったらのオスハンモブ子な超色物。