モノクロショコラが融ける前G ぼんやりと瞼を上げた目に入ったのは、白いシーツと枕だった。 寝間着を羽織っているのだと気づいたのは、少し後だ。どうやら少し気を失っていたらしい。 (……モブリットはもう戻ったのかな) するつもりの話はちゃんと出来なかった。欲望を抑えきれなかった自分のずるさを卑屈に笑って、ハンジはふうと息をついた。 二人分の汗や溢れた体液で汚れたシーツは取り替えられて、簡単に始末をつけてくれたらしいハンジの身体は、まだ下腹部を中心に甘い痺れが残っている。この余韻を分け合ったことは、ついぞなかった。 「……気がつきました?」 「モブリット……?」 小さく鼻を啜った額に優しい手が触れて、ハンジは自分がとうとう幻覚を見たのかと思った。けれど頬におりてホッとしたような表情をするモブリットを認めて、ハンジは驚いて身体を起こした。 無理をしないで、と言いながら背中に手を添えてくれる彼を信じられない思いでまじまじと見つめる。いつもはすぐに戻ってしまうモブリットが、まだ部屋にいる。ハンジより格段に服を整えている彼は、目覚めるまで待っていてくれたということだろう。 「え、何でいるの!?」 「……話があると言っていたじゃないですか」 思わず聞いてしまったハンジに苦笑して、モブリットが水差しからコップに水を満たして渡してくれた。戸惑うままに流し込む。ガサつく咽喉が冷たすぎない水を染み渡らせて気持ち良かった。半分ほど飲んだコップを置こうとするハンジから抜き取ったモブリットが、残りを一息に煽る。 「ああそれで――」 終わらせる為に、待っていてくれたということか。 胃袋に落ちていく水と共に、急速に頭の芯まで冷えた気がした。 シーツの上で居住まいを正して、ハンジは肩で大きく息をつく。 やはりモブリットは察していたのだ。ならばきちんと伝えないと。最後にあれだけ優しい交わりをくれた彼の誠意にきちんと応えるべきだと思う。 ハンジは一度目を伏せて、それからモブリットに微笑を見せた。 「少し考えていたんだけれど」 「……分隊長?」 向かいの椅子ではなく、ベッドに並ぶモブリットの体温が近い。最後だからと箍を外して、気を失うほど乱れた自分を心配しているのだろう。本当にどこまでも残酷な程に優しい男だなと内心で苦笑して、ハンジはモブリットを見つめた。 「私ってちゃんとあなたの捌け口にもなれてた?」 「――はい?」 今にして思えば、いつも自分ばかり良かった気がする。もちろんモブリットも達してはいたようだけれど、そういうところだけじゃなく。一念発起して口でしようかと言った誘いは断られていたわけだから、つまりはそういうことなんだろう。 「……そうだったら良かったんだけど。何だか、あんまり巧く出来てた気はしないから、あなたに無理をさせてたんじゃないかって――」 「ちょっ――、ちょっと待ってください。何の話ですか」 言えば言うほど情けなくなるなと自嘲しながら続けるハンジの肩を、何故だか慌てたようにモブリットが掴んだ。 何ももなにも別れ話のつもりだったが、そもそも付き合っていたのかも怪しい関係だ。よろしくと言ったあの日の朝に握り返された手を、都合の良いように解釈してここまで来たのは、おそらく自分だけだろう。 別れよう、は何か違うなと考えながらモブリットの手を外させる。 「今まで無理矢理ヤらせてごめんねって話」 「ヤ……っ、はぁ!? 何を、意味が分からない!」 苦笑と共に謝るハンジに、モブリットは苛立ったように声を荒げた。 言い方の問題だろうか。 一応大人の男女のよくある酒の過ちを、一方的に断じたような言い方が平等の精神に反したのかもしれない。ならばと考え直して、ハンジは戻させたモブリットの手に視線を落とした。 「まあよく考えたら始まりもなし崩しだったし、ここらで一発元に戻すのもありかなって」 なるべく普段通りに言えた気がする。明日の朝、出会った彼におはようと声を掛ければきっと何もなかった日々に戻る。 けれど、あの朝失態に青褪めて見えたモブリットの顔が、今はむしろ蒼白に見えた。関係の終わりは嬉しいことのはずだろうに、これが進退に関わるとでも心配しているのかもしれない。 それをまさか自分からは言い出せないだろうと思い至って、ハンジはやはり視線を伏せたままで笑った。 「――話は、つまりそれだけのつもりだったんだけど、ごめんね」 最後の夜を無意識に誘っていたのだとしたら、本当にどうしようもないなと嗤うしかない。 だがこれでようやく話は済んだ。行っていいよというつもりで顔を上げたハンジは、真っ直ぐに自分を見ていたらしいモブリットの視線と合って、一瞬言葉を飲み込んでしまった。 蒼白な顔はそのままに、笑おうとして失敗したような奇妙に歪んだ表情で、モブリットはハンジを見つめていた。 「モブリット?」 泣き出す寸前のような、笑い出そうとするかのような、それでいてひどく傷ついているような――感情を綯い交ぜにしたモブリットのそんな顔は初めて見た。 戸惑いながら名前を呼ぶと、モブリットはハッとしたように目を見開いて、それから片手で口元を覆った。 「……意味が……つまり、俺は、そういう立場だったってことですか?」 「え?」 「あなたの性欲処理の相手だった?」 手の下から聞こえる声は、くぐもって少し聞き取りにくい。 この質問にはどう答えれば、モブリットの罪悪感はなくなるだろうか。そうだと言えば、最初からそれだけの為に使われたのだと気持ちが楽になるだろうか。だが、ハンジを見つめるヘーゼルの瞳が、何かを求めるように震えて見える。何が正解かわからない。わからないなら――どのみち傷つけてしまうなら、最後くらい彼に嘘を吐いてはいけない気がした。 一度大きく息を吐いて、ハンジは静かに首を振った。 「……そういうわけじゃないよ。まあ、してほしかったのは本当だし、あなたはそんな私に付き合ってくれただけだから、そう取られても仕方ない。そういう面が全くなかったとも言えないけど――」 「俺じゃ良くなかったですか」 「まさか! 良かった。今日も、すごく良かったよ。……わかるでしょう?」 思わず即答で否定して、ハンジは自分に惑いながら、仕方なしに本音で答えた。 良くないわけがないだろうが。あれだけ乱しておいて、今更そんなことを聞くモブリットが何を言いたいのかわからない。 そもそも良いも悪いもモブリットしかないというのに。全部君だろと恨みがましく思いながら、ハンジはモブリットを睨めつけた。 モブリットの眉が寄る。 何なんだその反応は。まるで意味がわからない。 (――ああ、もしかして) 自分の失態で上司の相手を外されたとでも思っているのかもしれないとハンジは気づいた。 男としてのプライドだとかそういいうことなのかもしれないし、せめても良くしてやれなかったという彼なりの後悔なのかもしれない。 全く面白い誤解もあったものだ。 全部良かった。最初こそ覚えていないけれど、二回目もその次も、モブリットはバカ丁寧にハンジを抱いた。知らなかった感覚が当たり前のようになるほどに、明日からの夜を幾つ過ごせば、知らなかった頃に戻れるのか不安なほどに、全部良くしてくれたのに。 「なら、どうして――」 「ふ、なんて顔してるの。せっかくの色男が台無しだ」 眉根を寄せたモブリットの口元が歪んでいる。奥歯を噛みしめているのだろうか。それが何故だか駄々を捏ねる子供がむずがっているように見えて、ハンジの頬がふいに緩んだ。こんな話の最中におかしいほど、目の前の男が可愛く思えた。 初めて見た表情に、ベッドの上でこんな顔もするんだなとやけに感慨深く思ってしまって、ハンジは無意識にモブリットの頬に手を滑らせた。 こんな距離はこれが最後だ。手のひらの下でぎゅっと強く噛んだらしい動きを感じて、宥めるように親指で擦る。 と、モブリットが堪えきれないといったようにハンジから視線を逸らした。そうしてハンジの手に手を重ねる。 身長はさほど変わらないのに、自分より確実に大きく厚い慣れた熱さを離せば、もう触れられることもなくなるのだ。明日からこの手は誰に触れるのだろう。 「……ひどい女ですね、あなたは」 「……自覚はあるよ。だから」 散々悩ませただろう彼の時間を返さなくては。 重ねられた手のぬくもりを感じながら、ハンジは薄く眉を寄せてモブリットから視線を落とす。 最後の触れ合いとなる繋がれた手を横目で見つめ、 「誰か、好きな相手でも出来たんですか」 「あなたの優しさに付け込むみたいな事をしてごめんって」 二人の言葉が重なった。 耳に馴染まないおかしな単語を理解するまで、二人の沈黙も短く被る。 「……は? 好きな相手? 何それ?」 「付け込んだのは俺でしょう……?」 結局理解の追いつかないまま口にした疑問も二人で被る。 それに思わず顔を上げたのも同時で、思い切り訝しげな顔が互いの瞳に移り込んだ。 訓練兵時代に難しい座学の問題に躓いた時だってこんな顔はしたことがないし、他なら発狂しそうな無理難題を打診した時のモブリットだって、もっとマシな顔をしていた。 「……」 「……」 言われた言葉を反芻して、ハンジの頭が未だかつてないほどに高速回転をし始める。 (ひどい女、好きな相手、付け込んだのは、…………なんだ、それ) 困った。珍しく何も浮かばない。 ――違う。自分に都合の良いことしか浮かばなくて、頭が処理を拒否してしまう。 もしかして彼は、この関係の終焉を望んでいるわけではないのかも、だなんて。 「ハンジさん」 伺うような声で呼ばれて、ハンジは思わずまたモブリットから視線を外した。 硬質に聞こえた声音に都合良すぎる解釈を打ち消して、重ねた手を抜こうと引き寄せる。 ははは、ごめん、さあ明日も早いからもう寝ようかな。 次の言葉を用意した行動は、けれど手首を取られて逃げきれなかった。 「ちょっと最初から話しませんか」 「……」 最初からっていったいどこから。 もしも。 ――もしも万が一、モブリットがこの関係を続けても良いと思っていたとして、身体だけが良いというなら、何だかもう結構無理だ。 もういいよ。終わりでいい。だから手を離してほしい。 「あー……いや、あのさ」 「逃げないでくださいよ。今逃げられたら泣きます」 「え」 苦笑いを浮かべて視線を外したままのハンジに、モブリットは口早にそう言った。 聞き間違いか。何だ今のは。 泣く? 何で――モブリットが? 硬質な声音はそのままに、手首を掴むモブリットの力が強まって少し痛い。 「泣いて縋りますよ。逃げないで」 「お、おう……すごい落とし方してくるなモブリット」 こんな場面でらしくない物言いだと顔を上げたハンジは、戸惑うように自分を見つめるヘーゼルの瞳と表情に息を飲んだ。 顔が赤い。色白のモブリットの頬が、いや、全体が、見たことのない赤さで染まっている。耳の縁まで赤い人間を見たのは初めてだった。ぎゅっと寄せられた眉はいっそ不機嫌に見えるほど、でも苛立っていないのだとわかる熱をはらんでハンジを捉えて離さない。 そうなのか、いや、違うのか。 ドッドッド、と胸の奥が早鐘を打って、妙な汗が噴き出しそうだ。 言葉を探して開いたモブリットの唇が、言い淀んで一度閉まる。 それでも食い入るように見つめてしまうハンジから、モブリットも目を反らしたりはしなかった。掴まれた手首が心臓の音で跳ね回りそうだ。 彼は何を言うつもりだろう。 何故だか唐突に、遠い昔に同期の間で仲間達と盗み見た青春のワンシーンが浮かんできた。 揶揄と応援で仲間から背中を押された友人が意中の相手を前にして、こんな目をしていなかったか。 まるで、――――まるで。 「形振り構っていたら逃げ出しそうなので。――俺の、恋人は」 「っえ!?」 いっそ聘猊に近い視線で射ぬかれたまま言われた単語に、ハンジの声が裏返った。ベッドの上に座った身体が膝ごと跳ねそうな衝撃だ。捕まれた手首が火傷をしそうで、咄嗟に振り解こうともがいたハンジを、更にモブリットが身体を寄せて許さない。 じとりと睨まれて、ハンジは思わず両目を瞑った。 だめだ、無理。真っ直ぐなんてとてもじゃないが見返せない。 と、モブリットの手が不意に緩んだ。沈黙におずおずと瞼を上げれば、俯いたモブリットの旋毛が見えた。 「え、あれ? モ、モブリット、あのさ」 「……よろしくって、言ってくれたじゃないですかあの時。忘れましたか」 「えっ、え、あ、いや、え!? そ、そういう意味――……」 言った。確かに言った。ハンジが忘れるわけがない。 曖昧に過ぎた言葉は、後になってどれだけ自分を殴りたいと思ったことか。 あの言葉を、返事の意味を、モブリットがどういうつもりで言ったのか聞くことは出来ていなかった。それでも答えは彼の態度にあると思った。だから、なのに――。 激しい動揺で体中の血液が全て頭に上ってくる。 そんなハンジの焦りも知らず、モブリットは溜息とともに言葉を溢した。 「俺は、そういう意味で受け取っていました。そうだったらいいと。……でもやっぱりあなたにとっては違ったんですね。つまりあなたは俺との関係を」 「え、いや、違うよ! そのものだけど! 付き合ってって意味だったけど! 今ものすごく照れてるだけで!」 顔を上げようとしないモブリットを遮るように、ハンジは大声で言い切った。 恋人だなんて、モブリットに認識されているとは思わなかった。 照れる。照れる――だなんて、こんな感情今思い出させるとか、何なんだよモブリットめ。 「……」 「……」 驚愕に目を瞬いたモブリットの顔と合って、言った台詞を思い出して更に血液が集まってくる。集まりすぎて頭が痛くなってくるくらいだ。そんなハンジの様子を窺うようにじっと見つめてくるモブリットは、瞳どころか顔中に何故だか怪訝な色を湛えていた。ハンジはぐっと唇を噛んだ。 何だよ。何なんだよ。さっきまで相当赤かったのはおまえだろうが。 いっそ泣きたい。視界が血圧に押されたせいでじわりと涙が滲んだ気がする。 モブリットが警戒するように顎を引いた。 「……弄んでます?」 「何でだよ!」 弄んでるのはそっちだろうがと叫びたいのに、口が上手く回らない。何かを思えば先に口から迸ることの多い自分が、何でこんなことになっているのか。噛みつくように言い募ったハンジに、モブリットがゆっくりと片手を伸ばしてきた。 右手首は掴まれたまま、指先が頬にかかる髪をよける。 「すごく顔が赤いです。……あの、もしかして本当に照れ――」 「モブリットそういうこと言ったことないじゃないか!」 「え」 モブリットがわからなかった。仕事のことならわかるのに、個人的なことになるとさっぱりだ。 そもそも彼には誰か他にいるんじゃないのか。なのに何でそんなことを。 羞恥とよくわからない感情で口走ったハンジに、モブリットが驚いたように声を漏らす。人の頬を撫でたまま固まったらしいモブリットの言葉を繰り返す。 「『え』?」 「……え?」 え、ってなんだ。 ハンジはす、と首を横に流して手から逃れる。 「弄んでるのはあなただろ。……この間、部屋に女の子いたんじゃないの」 「は? この間って――」 「前に、あなたの部屋の前で」 「ち、ちがっ、あれは――」 突然わたわたと両手を振って制止したモブリットをじとりと見る。やはりいたのか。そうも思ったが、浮気がバレてしまったというのとは少し違う気もする。そういう一般的な疚しさではなく、例えていうなら秘蔵の酒を隠そうとした瞬間ノックと同時に入ったハンジを見たゲルガーの態度に似ているような。 じっと見つめるハンジの視線に耐えかねたように、モブリットが下を向いた。 「モブリット?」 「……………………………………男の、生理現象の、個人による、迅速な、処理、です」 「ふうん?」 よくわからないが、先ほどより余程真っ赤に染まった顔は、あまり詮索しないであげた方が良さそうだ。ひとまず他に恋人がいるわけではないらしいと納得して、ハンジはそれ以上言うのはやめた。 黙ってしまったモブリットが、しばらくしてわざとらしい咳払いをした。まだ頬の赤さは引かないままに、ハンジの手にもう一度触れる。 「……ひどい、は俺の方ですね」 「何が――」 「ハンジさん」 きゅ、と手を取るモブリットが力を込めて、ハンジの名前を呼んだ。 顔を上げたモブリットの視線が、ハンジを見つめる。 忘れかけていた心臓がどくん、と跳ねた。 「好きです。あなたの事が、とても」 見慣れたはずのヘーゼルの瞳が、その中にハンジを映してはっきりとそう告げた。聞き間違えることはない。 信じられない思いで見つめるハンジから、モブリットは不意に視線を揺らした。 「……その、あなたは、俺を」 「好きだよ」 答えは反射だ。 もう曖昧でいたくない。 「……」 「……」 けれど見つめ返してきたモブリットは、何故だか無言で眉を顰めた。 好意に返した告白に、その態度は何なんだ。 しろりと覗き気味でモブリットが口を開け、 「……身体が?」 「か、身体もだけど!」 そうきたか。 咄嗟に肯定してから、ハンジはぐっと息を飲んで、モブリットをしっかりと見つめ直した。 きちんと。今度は空回らないように。正直に。 「じゃなくて。……そういうのも全部ひっくるめてあなたを――モブリットを好きだよ」 握られていた手に手を重ねて真っ正面から見据えて言う。 「それは、あの……男として?」 「他にどういう意味で言うっていうのさ!」 何でそんなに疑われなきゃならないんだ。 いっそ「好きです」が勘違いだったのかと記憶を疑いたくなったハンジに、モブリットが真剣な顔を向ける。 「ならどうしてさっきあんな事を」 「う」 誤魔化しを許さない雰囲気で言われた追求に、思わず咽喉を詰めてしまった。 終わらせようとしていたことか。わざとか。そんなの言わなくてもわかるんじゃないのとひとしきり頭の中で言い訳て睨んだハンジは、けれどもじっと見つめるモブリットの視線の中に不安を見つけて、クソッと盛大に舌打ちしたい気分になった。ずるい。あざとい。捨てられそうな犬みたいな顔で見るな。 「ハンジさん?」 「……から」 「はい?」 理由なんて決まっている。 「……だからっ、モブリットからしてくれないからっ!」 「え」 こうなったらぶちまけてやる。 あの朝から好きだったと言うくせに、そんな素振りを微塵も感じさせなかったモブリットも同罪だ。とことんまで糾弾してやる。 年上の矜持も余裕もどうせ最初からなかったのだ。今更取り繕って何になる。 開き直りに近い気持ちで、ハンジはギッとモブリットを睨んだ。 「言ったろ。あんな始まりだったし、私は君の上官なわけだし、こういう時しか君は私に触れてこないからっ! ……だから、無理させてるなとずっと思ってたし、だってそうだろ。普通こういうのって男の方がしたくなること多いんじゃないの。それならモブリットは別に私に欲情しなかったってことじゃないか。だから、結局よろしくって言ったのは、身体の関係だけなら、まあ生体的に出来なくもないし、上官命令は断りにくくてとりあえずいいかってしてくれてるんだろうなって思うだろうが!」 「え、あの、それは」 「それにだ!」 怒濤の見解にモブリットが口を挟むのを認めず、ハンジは続ける。 「好きだって言ったって、こういう関係になってからも、挨拶程度のキスもないのは――おはようやおやすみをゆっくり言える環境じゃないからいつもとは言わないけど、いや別にしてほしいわけじゃないけどっ!……あーまあ、それはそれでいいとして……ええと、何だ……? ああそうそう。誘った時以外でモブリットは絶対キスもしないし、口でされるの嫌だって言うし、そんなのでどうやって好かれてるかもなんて思えるよ。……あと、終わった後、すぐ離れるし……って、いやこれはみんなそうなのかも知れないし、そこは人それぞれかもしれないけど……っていうか男ってそういうもの? そういうところいまいちわかんないけどさ! でも、だから――」 だんだん何を言っているのか自分でもよくわからなくなってきた。後半はまるで自問自答のような妙な言い方になってしまった気がするが、頭の中がオーバーヒートしているらしい。 まとまらない見解をブツブツ呟いていると、呆気に取られていたモブリットが「ハンジさん」と名前を呼んだ。我に返る。顔を上げたハンジの前で、モブリットはピッと右手を小さく挙げた。 「説明と弁解の場を希望します。許可を」 「はい、バーナー君」 座学の講義でよく見る生真面目な新兵のようだ。 けれどモブリットは下ろした手を再びハンジの手に重ねると、真剣な面持ちで口を開いた。 「あんな始まりと言いますけど、俺はかなり記憶もあるくらいで、というか結構全部覚えています」 「嘘だ」 「すみません、本当です」 申し訳なさそうに眉を下げられて、ハンジはあの朝を記憶の中で反芻した。 「え……だってあの時」 覚えてないと笑ったハンジに、モブリットは否定しなかった。 ……だけで、覚えてないとは、そういえば彼からは言っていない。 「本当に何も覚えてないんですか?」 覚えていない。 あの日はやけに酒が進んで、リヴァイがやけに小さかった。 モブリットは――モブリットは飲み過ぎだといつものように自分を止めていたような気がする。 「……ええと、モブリットに絡んだなーって……」 「可愛かったですよ。甘えさせろって誘惑されました」 「ゆ――……う、嘘だ!」 告げられた答えに思わず身を乗り出すと、受け止めたモブリットが微苦笑を浮かべた。 「本当です。――でも、あなたはあの日酔っていたから」 そのまますっと視線が下がる。 「……モブリット?」 「そこまで望んでいなかったんじゃないかって」 「そんなこと――!」 覚えてはいない。 でも、望んでいた。それはわかる。 だからあの朝、やってしまったと思った反面、ハンジは確かに嬉しかった。そう感じた自分が酷く小狡く汚すぎて、なかったことにしてしまおうと立ち回ったのだから本当だ。 否定の言葉を言い掛けたハンジに再び視線を上げたモブリットが苦笑して続けた。 「なので、むしろ俺の方が酔ったあなたに付け込んだ引け目がずっとあった。俺を傷つけない為に、よろしくと言ってくれたんだろうなと。でも、それでもいいからあなたと繋がっていたかった……あの日、何度かやめてと言っていたのも覚えていません?」 何を。「やめて」? いつ。何で。 どう頑張って頭を捻っても、酒盛りの部屋から記憶は朝のベッドシーンだ。 窺うようなモブリットの視線に申し訳なくなりながら、ハンジは心なし首を竦めた。 「ご、ごめん、あんまり、ていうか何となく……なんとなーくくらいに必死だったかもってくらいしか……気づいたら朝で結構ビックリみたいな……」 「……」 本当だ。 彼の態度に散々悩まされたと思っていたら、自分の態度にモブリットもそんな最初から悩まされていただなんて今知った。本当に全く欠片も気づかなかった。 「……」 「……」 けれどあまりの沈黙の居たたまれなさに、ハンジはがばりと顔を上げた。モブリットの胸ぐらを鷲掴む。 「ていうか! それアレだろ!? いやよいやよもってやつじゃないの!? 最中のことだろ!? 今だって言うじゃん! 仕方ないじゃん! ガーッとそんなもん押してこいよ!」 「そ――」 勢いに飲まれたように見えたモブリットも、負け時とハンジの手を掴み返した。 「そんなこと言われても! 酒のせいにして好きな女の初めて強引に奪っておいて、そんな心境になれる男の方がまずいでしょうが!」 「酒の力で部下モノにした上官にずっと誘わせてるよりマシだろうが!」 「どっちもどっちだ!」 「まったくだ!」 噛みつかんばかりに怒鳴り合い、肩で息を吐きながら、二人は互いを睨みつけた。 ハアハアと荒い呼吸音が広くもない室内に響いて消える。 あまり騒いで、何事かと駆けつけられたら堪らない。 少し落ち着いて、お互い頭を冷やすべきだ。 そう判断したモブリットが掴んでいたハンジの手首から手を離した。ハンジも握りしめていた彼のシャツから手を離し、皺の寄らせてしまった部分を軽く引っ張る。 「……」 「……」 そうしてふと、モブリットに言われた言葉を思い出した。 シャツの皺を伸ばした手がピタリと止まる。 「……モブリット」 「はい?」 落ち着いてほとんどいつもの声音に戻ったらしいモブリットがすぐ傍で答えた。 「……あー……ていうか、初めてだってバレてたんだ?」 「……」 「うおおぉ、クッソ恥ずかしい……!」 覚えていないのをいい事に適当に小慣れた風を装って、二回目以降も緊張のきの字も見えないようにしたつもりだったというのに、なんってことだ。口でしようかと誘った自分が馬鹿みたいじゃないか。そりゃあ断る。自分でもどうすればいいのかまだよくわかっていないのに。 そういえば初めてした時も、彼は「もういいです」と慌てたようにハンジの顔を上げさせていた。よくなかったか。よくないよなそりゃ。痛かったかな。ごめん。ごめんって。ていうか言えよ。わかってたなら、何かこう……上手い具合に教えてくれるとか何かそういう――…… せっかく直し掛けたシャツを無意識にぎっちりと掴み込んで、ハンジ顔から火が出る思いだ。 (何だよ、それなのに思くそずっと誘ってんの私じゃん、なんだよお前、そこんとこツッコんでこいよ、気遣うとこ違うじゃん馬鹿め、モブリットの大馬鹿め、馬鹿、バーカ、バーーーカ!) 恥ずかしすぎて逆の方向に捻れかかったハンジを察してか、モブリットがシャツを掴む手にそっと触れた。ぴくりとした指先をゆっくり解いていきながら、「ええと」と言って、言葉を探すようにしばし黙する。 「……だから、そ、そういう経緯がありましてですね……俺から強引にという選択肢はかなりハードルが高くてですね……すみません。これは完全に言い訳です。聞かなかったし言わなかった。そのくせ誘われるのを待っていたのは俺が悪い」 すみません、ともう一度言って、モブリットは外させたハンジの指に許しを請うように唇を付けた。そんなところにされるのも、最中でもないモブリットからのキスも初めてで、僅かに驚く。 指先から顔を上げないモブリットの耳の先が赤かった。 「……最後にもうひとつ聞いてもいい?」 「はい」 俯くモブリットの頭にハンジは自然と手を伸ばした。 くすんだ金の髪に指を通す。 こうやって穏やかに触れるのも、そういえばこれが初めてだ。 「私が誘うと、毎回戸惑っていたのもそのせい?」 しようか、と直接的に誘うハンジをモブリットは拒まなかった。けれど必ず僅かに顎を引いて、逃げるような姿勢になっていたのを知っている。瞳に戸惑いが浮かぶ彼に、実は結構傷ついていた。 思った以上に細い口調になったハンジに、モブリットが唇をつけたままで視線を上げた。 「真意が知りたくて――あなたに気を遣わせているんじゃないかと――そう思いながらそうだよと言われるのが怖かったんです。そのくせ欲望に負けてあなたを抱くのはやめられなかった。あなたの一番近くにいられる権利を手放せなかった。狡い自分に戸惑っていたんです。あなたはずっと欲しかった」 明確にそうと告げられて、ずっと奥底に蟠っていたしこりが解れていく。 モブリットがハンジの手をゆっくりと離す。 代わりに額を合わせて、それから手のひらが頬を撫でた。 「本当は、もっとずっと誘いたかったです」 「……じゃあ誘って」 そうされたいと本当はずっと思っていた。 ハンジの言葉に頷いたモブリットが甘えるように鼻の先を合わせてくる。胸の奥がじわりと疼く。 「あと、終わった後、もっとぐずぐずしていていいですか」 「……時間にもよると思うけど、うん」 朝を一緒に過ごす日があっても別に悪くないと思っている。 頬をなぞるモブリットの親指が、ハンジの唇をそっと掠めた。 「あとキスも」 「ん」 言葉の続きのように自然に、モブリットの唇が触れる。 「してもいいですか」 「……モブリット、もうしてる」 「もっと」 「う――、……ん」 甘さだけを残して舌先が溶けてしまいそうだ。 頬から首筋までをモブリットの手で何度も撫でられ、けれどもそれだけで甘やかされていると感じる動きも初めてだった。 本当に好かれているんだなあと妙に実感させられてしまった。ああマズイ。こんな可愛らしいキスだけで、身体に力が入らなくなる。気持ちいい。 「モ、……リット」 「……はい?」 キスの合間に名前を呼べば、一寸でも離れるのを嫌うようにひたりと舌先を舐ってから、唇をつけたままでモブリットが答えた。 返事をしたくせに、次の言葉を飲み込むようにすかさず唇を塞がれて、首に回した腕の先で、ハンジはモブリットの後頭部をぐしゃりと甘く掻き乱す。 ああ可愛い。こんなに可愛い男だったのか。知らなかった。 「すきだよ」 キスに邪魔されないように指を間に挟んで言えば、モブリットの口撃が一瞬止んだ。 頬に鼻の当たる距離で瞬いたモブリットをじっと見つめ続けると、俄かに彼の頬が赤くなる。 「……あれ、何で照れるの。今更じゃ――」 「俺の方がっ、好きですよ絶対!」 「何だそれ――んむっ!」 子供のような言い方で赤い顔をしたモブリットにまた言葉を奪われる。 なんだこれ。なんだ君。 可愛くて愛しくて嬉しくて泣きそうになる。どうしてくれる。 乱暴なやり方で始められたキスは次第に甘さを増して、唇が甘い吐息に濡れていく。 もっと。もっと。欲して存分に欲されたい。 その想いを互いに告げてもいいのだと甘え合いながら、ハンジはモブリットの髪を優しく絡めて悪戯に引いた。 【END】 |