DEAR MY CAMPANELLA ページを捲る音だけが、夜の静寂に時折混じり、人いきれを感じさせる。通常の就業時間を終えた後、そうして数時間が過ぎた頃だっただろうか。 眼鏡の奥で読み進めていたはずの文字が、随分ぐんにゃり踊っているなと、ふと思った。 資料が歪んでいるのかと思ったけれど違うらしい。同時に一瞬視界が揺れて、自分が船を漕いだのだと気づく。 後少しだけのつもりで、執務室のソファに腰掛け目を通していたはずなのに、今夜はとうとう眠気が先にきてしまったようだ。 連日連夜の作業は慣れたものだったが、今日はとにかく暑かった。 その昼日向に、平地と森を想定した騎馬からの立体機動訓練があり、他班との連携向上を目的としてなされた陣頭指揮で、意外と気を張ったせいもあるのかもしれない。 思った以上の疲労を自覚した途端、睡魔ににこやかに意識を奪われ、私はまた大きく頭を前に傾がせた。 「――うおっ! ヤバイ、寝そう!」 「いや、寝ましょうよ」 最後の悪足掻きで自分へ叫んだ私に、横手からモブリットがそう言った。 眉間の皺を揉みこみながら考えていると、困ったような微笑をくれる。 「急ぎの案件はありませんし、今日はもう部屋で休まれた方が良いですよ」 「うーん」 モブリットの言葉に、私は目をショボショボさせながらで唸り声を上げた。 限界は近い。 わかってはいる。 けど、あとこれだけ――……ああでもやっぱり無理かも。 これでもかと意識して重たい瞼を持ち上げては見たものの、文字の識別がだいぶ難しくなってきている。 「ただでさえ、他班の人員把握で、ご自分で思っている以上に疲れがあったんだと思いますよ。加えてこの暑さです。身体が休息を訴えているのかと」 「うんー……」 「明日は午後から一〜三班合同の対人格闘の指導もありますし、体力回復に努めませんか」 「あー……そうだよね」 モブリットの言うとおりだ。 本当はもう少しやっておきたいところだけど、スケジュールまで持ち出されては、私も同意せざるを得ない。 睡眠不足は怪我の元。 それに寒暖を問わず、体力維持と向上はいわずもがな兵士の義務だ。頭脳戦に比重を置かれた第四分隊といえど、それは何も変わらない。むしろ頭脳を生かしきる為にも生き残らなくてはいけないのだから、重点を置いて然るべきだ。 頷くついでにまた大きく前傾してしまった私の手から、モブリットが資料を抜き取った。 周りに出しっ放しになっていた他の書類も、素早く纏めてファイルに仕舞う。 それから「分隊長」と促されて、ようやく私は重くなった身体をソファからのろりと引っ張り上げた。 「モブリットは? まだやってく?」 眼鏡を上げて目を擦りながら歩けば、私の足取りが覚束無く見えたのだろう。 苦笑したモブリットが横へきて、そっと背中を支えてくれた。 「俺も今日はこのまま上がります」 うん、そうだな。その方が良い。 君もずっと傍にいたから、私と条件は同じはずだし。 眠い瞼を半分にして、私はモブリットの肩に軽く頭をつけた。そのままぐりっと擦り付ける。 「じゃあ一緒に出ようか」 「はい」 そのまま上目で彼を見遣ると、頷いたモブリットは優しい色を湛えたヘーゼルに私を映していた。 (お、久し振り……) この目で見つめられていると感じるのは、そういえば随分久し振りだと思い出す。 今日まで二人の間にまるで何もなかったというわけでは勿論ないが、そういう甘い雰囲気をゆっくり楽しめる時間はそう取れていなかった。 バタバタと忙しなく駆け回って、倒れるように眠ってしまういつもの私を、モブリットが陰に日向にと献身的に支えてくれるのはいつものことで。 そんな隙間に、カーテンの陰や書庫の端で、ちょっとした親愛をこめた挨拶のキスを仕掛けるだけでは、なかなか瞳まで確かめる余裕は持てていない。 「分隊長?」 眠いせいか、ついそんな事を考えてぼけっとしてしまった私を、モブリットが気遣わしげに呼んだ。 「ん? いや、何でもない」 もう少し見ていたいなと思う気持ちは押しこめて、私はドアへと顔を戻した。 折角の夜にこのまま眠るだけというのも、ちょっと物足りない気がしないでもないけど、この眠気で最後まで出来る自信もないし。 モブリットも疲れている。兵舎のベッドは一人用だ。 明日の為に疲労回復を目的とするなら、各々ここは自室のベッドで悠々熟睡するに限る。 「部屋まで歩けます?」 「さすがに途中で寝たりしないよ」 笑うつもりが、言った端から言葉につられたように欠伸をかみ殺してしまった私に、モブリットが苦笑する気配がした。 背に回されている手のひらが労りをこめて二、三度優しく動かされる。 ああこれは、部屋まで送ってくれるつもりかな。 その動きに確信して、私は少しだけ気を引き締めた。 ベッドの脇でおやすみなさいと言われたら、眠るまで傍にいてよくらいは言ってしまいそうだから、部屋の前で別れないと。 彼の睡眠時間を上官の我が儘で削ってはいけない。 「本当ですか」 「大丈夫だって。どうしても寝そうになったら、なるべく端で転がるように努力するから」 「ちょっと」 「冗談だよ」 距離の近さと背中に感じる彼の体温が睡魔を刺激して、声が甘えを含んだ色になる。 そんな私に、モブリットは更に労りを深めた優しげな視線になった。 「本当にそうなりそうなら、寄り掛かってくださいね」 「お? なになに、抱き上げて運んでくれるの?」 「背負うか引きずるか、熟考します」 「ぶっは、ヒドイ!」 噴き出して言えば彼もおかしそうに目を細める。 そうしてドアの前まで来ると、開ける為に、私の背から手を離し、モブリットが半歩先に出た。 私を横切る彼の匂いが鼻孔をついて、ふと、ジャケットに描かれた両翼が目に留まる。 「あの……?」 その途端、私は彼の背中に、とん、と抱きついた。 「なんとなく。背中があるなって。隙だらけだよバーナー副長」 眠いから、ちょっとだけ人肌のぬくもりが欲しくなったのかもしれない。それだけだ。他意はない。 何となく――何となくだ。 私は彼にこうしてもいい相手なんだと身体で認識したくなったのは、眠かったからに違いない。 抱き付きたいなんてそんな衝動に、うっかり廊下で襲われるより、今がタイミングとしては最良だと思う。 ジャケット越しのモブリットの体温や、実は結構しっかりついている筋肉の動きを、睡魔で過敏になっているらしい私の神経はしっかりと感じ取っている。 「……ハンジさん?」 「ちょっとだけ」 やっぱりいいな。君にこう出来るのは、すごくいい。 前に回した私の手に、引き離すつもりではないモブリットの手が重ねられて、その温かい重さにもホッとした。 彼の手の下でシャツをしっかりと握り締め、離す前に大きく息を吸いこんでみる。モブリットの匂いがした。 (うーん……) あまり意識したこともないけれど、意識してみると嫌いじゃない。割と好きだ。 昼間の訓練から洗い流していない汗の少し混じった彼の匂いは、ふと、夜の気配がした。 思わず過った過ぎった考えを記憶の奥にそっと押しやり、私は前に回した手で、ペタペタとモブリットの身体を確かめるように動かしてみる。 (本当、意外といい身体してるんだよなあ) 着痩せするタイプだとは、ニファの言だ。女性からしたら羨ましい限りですよね、と言っていたのを思い出す。 筋肉質というのではないが、引き締まった身体はやはり兵士然としているし、汗の張り付く様は躍動的でさえある。 ジャケットを脱ぎ、シャツを落とした生身の身体を思い出そうと、私はそっと目を閉じた。 綺麗な肉づきをしていると思う。 兵士としては少しだけ悔しくもあり、男女差を考えれば納得もして、それに部下としては誇らしい。 大人しくされるがままでいてくれる彼を、ここしばらくあまり好きに出来る時間の取れなかった分だけ懐かしい厚みを堪能して、それからようやく解放した。 「さて、行こうか」 疲れた身体に良い具合に温もりがしみて、これでゆっくり寝られそうだ。 「……そうですね」 「モブリット?」 ほんの僅かに眉を下げたモブリットは、何故だか少し困ったような表情をしているように見えた。 けれどもそれは一瞬で、すぐにドアを開け私を振り返る。 「どうぞ」 「うん」 入り口近くの明かりを消して私に前を譲ってくれるモブリットは、見慣れたいつもの彼だった。視線が物欲しそうに見えたなんて、明かりが消える寸前のあやふやな境界に、私の眠気が見せた願望だろう。 後ろで執務室のドアが閉まる音がした。 二人並んで部屋に向かって歩き出す。 「明日、午後からの幹部会議に対巨人用の試作ロープはお持ちしますか?」 「ああうん、実物があるに越したことはないしね。間に合いそうなら欲しい」 「了解しました。従来の物と、考案中の三通りのタイプを用意しておきます」 「よろしく」 「はい」 予定を確認しながら歩いていれば、あっという間に彼の部屋は過ぎてしまった。足を止めないモブリットは、やはり当然のように更に奥にある私の部屋まで送ってくれるつもりらしい。話のついでを装って、そんな彼を盗み見る。 (――……っと) 私はぱちくりと目を瞬いた。 てっきり前方だけを向いていると思っていた彼が、こちらを見ていた。普段仕事中には見ることのない柔らかすぎる視線と合って、言葉に詰まる。 普段のモブリットなら、こうして歩いている時は、私と私の周囲に気を配っているはずで、呼び掛けでもしない限り目が合うなんてことはない。 だからつい、彼の横顔を見られるものだと油断していた。 「ハンジさん?」 モブリットが不思議そうな顔になる。 「どうかしました?」 「……あー……ちょっと見惚れた?」 「はは、今ですか?」 私の正直さは冗談に取られたようだ。 おかしそうに笑ったモブリットは、わざとらしく肩を竦めて驚いてみせた。全く本気にされていない。 そう、今だよ。君が急に、そんな恋人の顔を見せるから。 周りを気にせず、警戒という意味でもなく、単純に私を見つめるなんて、そんな甘いことをしてみせるからだ。 想いを交わし合ってからそれなりの月日は経っているし、こういう彼の雰囲気には随分慣れたものだと思う。 でもこんなふうに不意打ちをされると、私ばかりがまだお手上げなようで、ものすごく悔しい気持ちにさせられる。 (クッソ……) 彼を男だと忘れたことはないけれど、だからといって、男だと意識させられるのは全く別物だと思う。 もう何年も前から私を好きだったなんて言っていたモブリットは、私を相手にそんな意識をして戸惑ったことがあるんだろうか。 少なくとも今はないかな。見ている限りなさそうだ。 (……モブリットめ……ここで思いっきり抱きついてやろうか) 最後まで出来ないのをわかっていて、不完全燃焼は絶対良くないとわかっているのにしたくなる。 それもこれもモブリットのせいだ。 モブリットが、そんな目で私を見ていたから。 そんな甘やかし全開の顔を見せるな。 夜だぞ今。眠いのに。眠った方が良いと言ったのはモブリットじゃないか。それなのに。眠いけど、ちょっとくらいなら――なんて、魔がさしそうになるじゃないか。 私の内心の葛藤を知る由もないモブリットは、変わらず笑んだ瞳で私を穏やかに見つめている。きっと彼に、そんなつもりはさらさらない。だから余計に悔しくもなる。 まったく。モブリットめ。人の気も知らないで。 「私の恋人は可愛くないなあ!」 部屋の前で思わず毒づき、私はドアに鍵を差し入れた。カチリと簡素な音が鳴ってドアノブが回る。 最後に「おやすみ」と言うつもりで振り向くと、モブリットは何故かまた、微苦笑を浮かべた表情で私を見ていた。 ついさっき執務室で見間違えたかと思ったあの表情に似ている気がする。 何かしたかな。ああ、可愛くないというのがまずかったのか。女に言われたい台詞じゃなかったのかもしれない。 「……まったく」 うん? 何て? 彼が小さく何かを言ったが、私の耳には届かなかった。 「モブリット?」 聞き直そうと名前を呼ぶが、けれどモブリットは答えないまま。すっと半歩距離を詰める。 まだ部屋のドアノブを回しただけで、室内には一歩も入っていない私の足は、完全にモブリットを向いていた。廊下の明かりがモブリットの背中に隠れて、苦笑を乗せている彼の表情を少し隠すように影を落とす。 ヘーゼルの瞳が、揺れたような気がした。 見つめる先のモブリットが近い。 「何? どうかし――」 私の顔に彼の影がふっと重なる。 それを疑問に思う間もなく、小さく首を傾げた彼の唇が、不意に私のそれに触れた。 瞬きほどの間に与えられた柔らかい感触と頬に当たる彼の鼻、それに吐息――。 ちゅ、と微かな音が聞こえて、それがキスだと遅れて気づいた。 「――」 「……俺の恋人は可愛くて困ります」 思わずぽかんと口を開けてしまった私を、モブリットが至近距離のまま、甘く柔く見つめてくる。 唇だけだ。それ以上はない。 ついさっき、執務室で背中に抱きついた私なんかよりずっとささやかで、だけども甘い触れ合いだった。 待った。――待った。廊下だけどここ。 あれ、え、キス? した? かわいい……んん!? 「そういう顔、あんまり不意打ちでしないでください」 「……え?」 どういう顔をしているんだろう。 困ったように眉を下げ、それから少しだけはにかんだように私を見つめるモブリットは、部下の顔をしていない。彼の瞳に映る自分を確かめる前に、モブリットはゆっくりと私から離れた。 二人の間にあった熱が、夜の気配に溶けて消える。 「おやすみなさい。今夜はちゃんとベッドでゆっくり休んでくださいね」 「あ、うん――……」 君も、という言葉を言ったかどうか覚えていない。 気づいたら私は、彼の言うとおりベッドの上で、枕に思い切り顔を突っ伏して俯せていた。 また明日という言葉を最後に背を向けたモブリットの表情が勝手に甦ってきて、耳の先まで焼け切れそうだ。 「うおぉぉぉ……」 目が、言い方が、指先が、完全に頭から離れない。 瞼の裏でぐるぐると回る。 久し振りだっただろうが。 わかってないのか。わかっててそれか。 もしそうなら、簡単に人の心を弄ぶような真似をよくもしたなコノヤロウ。 そのくせさっさと踵を返すし。 文句なのかよくわからない言葉がどんどん湧き上がり、ここにいないモブリットへと、頭が勝手に叫び続ける。 なんなんだ。 何が「ゆっくり休んでくださいね」だ。 「ゆっくり休ませたかったらするなよ、バーカ……!!」 そういう顔を不意打ちでするな、は丸々全部私の台詞だ。 だからずるいんだってモブリットは。ダメだ。まったく。 寝ろと言った口で火を灯して帰るなバカ。 何考えてるんだ。ムッツリか。 今日はすこぶる疲れていて、明日は対人格闘で、だから今夜は休むんだからな。熟睡するんだ。 くそ。くっっっそ! モブリットめ! 「あああ、もおおお……っ! 腹の立つ……!」 飄々と立ち去る背中を思い出して、私は枕をボンと叩いた。 モブリットも自室に着いているだろう。 今頃彼もベッドの上で、私の唇の感触くらいは思い出して、身悶えるくらいは―― (絶対してない!) 今に見てろよと固く誓う。 私は枕を抱き締めながら眉を寄せ、瞼をぎゅっと下ろしたのだった。 【Fin.】 壁博7で出した新刊「背中合わせのカンパネラ」の後日談的SSになります。読んでなくても大丈夫。 新刊がR18だったので、18歳未満の方にも読んでいただけるように、会場無配でした。表紙はスウコウライさんが!絵はpixivで表紙にさせて頂いています。 めちゃんこモブハンです!うれしかったー!!!わーい! |