思考に惑う女と女




(あ、兵長)

隊舎の長い廊下の途中で、ペトラは不意に窓の外に見えるリヴァイに気がついて足を止めた。
チラホラと見たことのある顔が、畏れと尊敬の念を全身で示しながら彼を取り囲んでいる。
眉間の皺と相変わらずな表情筋は決して朗らかと言えないが、彼らを邪険にするでもなく応対している様子は、ペトラには随分打ち解けて見えた。
ああ見えて、リヴァイは優しい。
何か的確な助言でも貰えたのだろう、仲間の一人が喜色満面な表情になってリヴァイに敬礼をしたのが見えた。対するリヴァイは些か瞠目しているようだったが、おそらくその僅かな変化はペトラくらいしかわからないだろう。
最近そういうことが増えた、と、思う。
少なくともペトラはそうだと思っていた。
リヴァイとの距離は物理的にも精神的にも、今そこに見える誰よりも近い場所にいるのだと。

(……っは〜ぁぁぁ……)

窓枠に両手をついて、ペトラは内心で巨大なため息を吐いた。
本当は声に出して言いたいくらいだが、今は昼日向。しかも隊舎の廊下のど真ん中だ。さすがにそれははばかられる。
変わりについた両手で窓枠をギリギリと閉め上げながら、ペトラはあの日のことを思い出していた。

あの日――リヴァイがモブリットと酒を飲んでいたらしいあの夜。

リヴァイはすぐにペトラを追ってきてくれた。
心底くだらないと全身から漲る面倒臭さを出しながら、それでも誤解だと教えてくれた。それは疑いようのないリヴァイの誠意だ。
けれどペトラはそれ以来、つい彼らが二人でいると目で追ってしまう癖がついてしまっていた。

元々巨人の生体実験を行うことの多いハンジ班とリヴァイ班の連携は深い。
そうなれば班員同士の仲もそれなりに近くもなるし、そもそも紅一点という共通点のあるニファとは、以前から非番の日に一緒に買い物を楽しむことだってあるほど仲が良かった。
いつも暴走し出すと止まらないハンジ分隊長がどんなに素晴らしい人物かという話は、彼女から耳にタコが出来るくらい聞かされたし、リヴァイ兵長がどれほど優しく格好良く出来た上官なのかという話なら、おそらくニファの耳にタコが出来るほどペトラも話していた気がする。
リヴァイとハンジの二人が、性別の分なく親しげな様子もわかっていたし、それが欠片も羨ましくないかと言われれば正直そんなこともなかったが、それが気にならない程度には、リヴァイはペトラを優先してくれていた。
それは事実で疑ったことなど一度もないと言い切れる。
ハンジからペトラに対する親しみだって感じる。彼女のそこにも嘘は絶対にない。それもわかる。

――何より。

何より、ハンジは自身の副長でもあるモブリットの恋人だ。
おいそれと触れ回ることではないが公然の噂で、リヴァイとの仲に気づかれた頃からは、ペトラも何くれと相談に乗ってもらったことだってあるくらいだ。ついでにそのつもりは全くないだろうハンジから、どう聞いたってのろけとしか取れない話を聞かされることも多かった。
そんな時は夜も遅いと迎えに来たモブリットに連れられて帰ることが常で、そんな時の彼は「まったくあなたは」と小言を言いながら、顰めた眉の下に恋人を許容する甘さを滲ませていた。
ペトラがハンジに「モブリットさんと仲が良いですよね」等とからかおうものなら「……あげないよ?」と言うのだから、ハンジとはなんて可愛い人だろうと思ってもいる。
恋人の前ではないところで見せる姿の一端でもこれなのだから、モブリットさんはたまらないだろうなと思ってもいたのだ。

ペトラより近い分だけ長くそういう面に当てられてきたらしいニファはいつも「分隊長は可愛いカッコイイ綺麗すごい」と連呼し「副長羨ましいずるい腹立つもげればいいのに」と絶叫している。
だから余計に彼らと自分たちの間に何かがあるだなんて、想像したことすらなかったのに。
それがまさか。しかも相手は――。

「ペトラ?」
「――ハンジさん」

悶々としていたペトラは、いつの間にか近くまで来ていたハンジに呼ばれて顔を上げた。慌てて上官への敬礼をするペトラを片手で制して、ハンジは軽快な足取りですぐ側に立つと窓の外を見遣る。

「難しい顔してどうしたの――ああ、愛しのダーリンを見ていたのか」

兵士に囲まれたリヴァイの姿を見つけ、ふはっと笑うハンジは可愛い。
こんなに可愛いひとを放って、モブリットはいったいどうしてあんなことを――いや、それを言うならリヴァイもだ……むしろ彼から先に手を伸ばしていたはずで――……
揶揄するように振り向いたハンジに、ペトラはぼそりと反芻した。

「ダーリン……」

で、いいのだろうか。本当に。
あの日からつい考えてしまう答えの見えない迷路を前に、ペトラは途方に暮れた表情をしていたのかもしれない。

「お? あれ、リヴァイと喧嘩でもした? 相談乗ろうか?」

慌てたように覗き込んできたハンジにいつもと変わったところは見られない。モブリットから何も聞いていないのだろうか。当然か。もし仮にそうだとしたら、彼から言うわけがない。
それはリヴァイにしたって同じことだ。

「……ハンジさんのダーリンさんは変わりありませんか」
「うん? 彼は別に――……モブリットがどうかしたの?」

ペトラの読めない質問にあっさりと首肯しかけたハンジが、さすがに訝しげに眉を寄せた。
ああもう、もしこれが誤解じゃなくて本当だったらどうしよう。
自分だけでなく、まさかハンジまで同じ苦しさを味わうことになるかもしれない。モブリットはハンジを大切に思っていると信じていたのに。それがまさか、いやでもハンジは知っているのかもしれない。それでもモブリットを受け入れて――いや、こんなに純粋な目をしているひとはきっと何も疑っていない――……

「ペトラ?」
「兵長は誤解だって言ってくださったんです。でも、なんだかちょっと……その……っ」
「ペトラ、大丈夫。落ち着いて。ね?」

思わず両手で口元を覆ってしまった口調はどんどん尻すぼみになっていく。
小さくなってしまったペトラの肩を、ハンジが宥めるように優しく抱いた。その温もりに視界がじわりと滲みそうになる。
落ち着こうと深呼吸をすれば、動きに合わせてハンジが背中をさすってくれた。その動きで勇気をもらって押し出すように、ペトラは意を決して顔を上げた。

「私、見ちゃって」
「何を?」
「兵長のお部屋で、その、お二人が」
「二人って……ああ、リヴァイとモブリット?」
「はい。あの、――……何というか、ソファで、こう……」

どう言えばいいのか。
別に決定的な瞬間を見たわけではない。
ただ二人がソファの上で抱き合っているのを見ただけで――いや、それで十分なのかもしれないが――介抱とそれ以上との違いを明確に指摘しろと言われると少し困る。
言葉が続かず、わきわきと所在なさげに動かした両手を合わせて、横に倒してみる。動きを模倣しただけの子供だましの説明に、しかし聡いハンジは察したらしい。
カッと目を見開いたかと思えば、ペトラは勢いよく肩を掴まれた。

「裸で!?」
「いえ、服は! 服は着てましたけど!」
「けど!?」

さすがにそこまで決定的なら、弁明も何もない。
ハンジの勢いに飲まれ、つい大声になったペトラは、それに気づくと小さく咳払いをして、サッと周囲に目を配った。
幸い辺りに人の気配はなく、二人の会話に気を留める者はいない。
ホッとして、それでもペトラは心なしハンジの側へ寄って、そっと声を潜めた。

「……その、兵長がモブリットさんにお前が欲しいって囁いて、モブリットさんも、その……」
「ペトラ、言って」
「とろんとした顔で兵長の首に腕を回していたように見えまして……!」
「!!」

言い淀むペトラをを許さず急かしたハンジが、あからさまに衝撃を受けた表情になった。背景に雷が見えた気すらする。
ふらりとよろめいたハンジの手がペトラの肩から外され、廊下に面した窓枠に凭れる。それから腕を組み、頭に置かれた手の下で、ハンジの眉間が深く刻まれた。その明晰な頭脳が今、巨人以外のことで目まぐるしく活動していることだろう。

「……」
「……」

ふっと、表情を緩めたハンジが窓枠に凭れたまま外を見つめた。
何となくすぐ横に立つペトラも、窓枠に頭をこつりとつけながら下に見えるリヴァイを見つめる。

「……え、つまり、私はリヴァイに恋人を寝取られた的な?」
「そして私はモブリットさんに兵長を寝取られた的な」

改めて可能性を口にすれば、じわじわと実感が沸いてきてしまった。
二人同時に目を瞑り、いやいやと小さく首を振ってみる。

「……でもあの、私が見た時は未遂でしたし、兵長は違うと仰ってましたけど、…………ただ、その、よく考えたらお二人仲が良いな、と……」
「いやいやペトラ、でもさすがにそれはないって。あいつらすごく酒飲みだろう? そういうところでウマが合うっていうかさ。昨夜だってモブリット、私に――」
「ハンジさん?」

ペトラの懸念をどうにか理論的に否定しようとしていたハンジが、何故だか言葉途中で止めた。
訝しんでハンジを見ると、彼女は口を片手で覆って、何やら難しい顔をして考え込んでいるようだった。
それは巨人についての考察で、新しいことを思いついた時に見る顔に近い。
ペトラが名前を呼んだことにも気づいていないようで、何やらブツブツと口中で呟き始める。

「……そうだよ。昨日そういえば腰が痛いって――だから私が上でしたんだった……大人しいモブリットとか久し振りだし何か可愛かったから気にしてなかったけどアレか? アレもソレでコレか? クッソ……何で私は流したんだ? いやでも普通そんなところ疑わないだろ……?」
「上、……って、いえ、それよりも腰、ですか?」

何だか聞いてはいけない二人の事情を垣間見てしまった気がするが、そこにはサッと蓋をして、ペトラは気になった単語に耳を留めた。
昨夜、モブリットがハンジといたしたとして、腰が痛かったというのはどういうことだ。懸念事項が事項なだけに、嫌な邪推ばかりが頭をよぎる。
ようやくペトラに意識を戻したハンジも、眉間の皺を深くしたまま、鷹揚に頷いて見せた。

「午後が新たな兵士を交えた初の合同演習だったんだよ。で、新兵庇って捻ったからそのせいかもなんて言ってて、私も疑ってなかったんだけどさ。たけど、昨夜はリヴァイと飲んだはずなんだよね。で、結局朝方まで話し込んでしまいましたとか言って戻ってきてて――でも、うん、そうだよね。モブリットとリヴァイか……そう言われればよく二人で飲んでそのまま部屋で――……」
「ハンジさん……」
「それに、そうだ。この間なんてモブリット探してたら、リヴァイがアイツは酒の臭い落とす為に風呂に行ったって教えてくれて、リヴァイも先に入ったみたいで濡れてて……そんな、まさか、酒の臭いってリヴァイのことだったのかか……!?」

それはいつの話だろう。
風呂のことには鈍いハンジに堂々と関係を匂わせるなんて、もし本当ならそれはひどいあてつけだ。
二人で過ごしてきた穏やかな時間や、激しさや甘さが、頭の中を走馬燈のように駆け巡り、ペトラはきゅっと唇を噛んだ。

「……」
「……」

互いの間に妙な沈黙が落ちる。
ややもして、ハンジががばりと頭を抱え込むようにして大声をあげた。

「なんってことだ! 二股かけられていたなんて!」
「ほ、本命がそっちで私達がカモフラージュってこともあるんじゃ……」
「え? いやそれはないだろ? モブリットすごい時はすごいし。リヴァイもペトラにそうなんじゃないの?」
「そ、それは――……」

リヴァイとモブリット――二人の関係がいつからなのかはわからない。
けれども少なくとも、そちら専任ではないと自信たっぷりに言い切るハンジに当然とばかりの質問で返されて、ペトラはもごもごと口ごもってしまった。

あの夜、リヴァイは誤解だとペトラに言った。大丈夫ですすみませんと口早に言って立ち去ろうとしたペトラを捕まえ、舌打ちと同時に言葉も何もかもを塞ぐように口づけられた。
膝が笑い、立っているのがやっとになった頃、再度耳元に届いた舌打ちは、そのまま耳朶に吹き入れられてペトラの身体を震わせた。

『くだらない誤解をしてんじゃねえぞ』

夜の闇が支配する廊下の隅で言われた声が甘く響いて、頷く前にペトラは自室に連れ込まれたのだ。

「っ、ぅえ、ええと!」
「ね? ほらね? だから可能性があるとすれば両刀なんだよチクショウが」

思い出せばあらゆることが羞恥で赤面してしまいそうな夜にどもってしまったペトラに柔らかく微笑んでみせたハンジが、一変してギリギリと親指の爪を噛む。それから思案げに腕を組み替え、意を決したようにペトラを正面からしっかりと見つめた。

「とにかくはっきりさせるべきだな。わかった。情報ありがとうね、ペトラ。私もそれとなくモブリットに探りを入れてみるよ」
「ハ、ハンジさん!」
「うん?」

なんて心強い味方だろう。
ペトラはハンジの強い眼差しに負けじと、瞳にキッと力を込めた。

「……頑張りましょうね!」
「ああ……!」

もしそうだったら――それはそのとき考えよう。
今はまず真実を。真実の先は、そこから全てが始まるのだから。
廊下の真ん中でがしりと強く結んだ手にも力を込めて、ペトラはハンジと静かな決意を胸に、しっかりと頷き合ったのだった。


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