夢見るフラスコは忘れない




壁外調査後、兵士には休暇が与えられる。
一兵士はその直後から、役職者はその役割を終え次第。数週間を目途に順を追って与えられるそれは、その消化をほぼ強制といっていい。自分で気づけないうちに抱え込んでいる肉体的、精神的疲労は、そうでもしなければ解消することが出来ない場合もあるからだ。

(わかってはいるんだけどね……)

ぶらりと当て処なく街のざわめきに目を凝らしながら、ハンジは内心でそう一人ごちた。
必要なものとわかってはいても、何度も繰り返されてしまえば、平時の任務をこなす作業と何ら変わらなくなってしまう場合もある。多分今がそれだ。そもそも自分のどこをどう労ってやれば良いのか、ハンジにはもう大分わからなくなってきている。
それを自覚しているからこそ、兵舎に留まることなく、一応の規定に則してこうして私服に着替え、街へ繰り出しているわけだ。

(疲れてはいるけど、疲労困憊ってわけでもないしなあ)

兵士として適度な運動、適度な食事。睡眠が乱れがちなのはハンジの担う職務柄ある程度は仕方ないし、優秀な部下が、ハンジが限界に堕ちる寸前でいつも寝る時間をくれる。だから体力的に休む必要は感じていない。なら、精神か。
ハンジは肩から腰へと横掛けにした大きめの鞄に施された刺繍を見ながら、ぼんやりとそんなことを考えた。

長い間使い、ところどころ綻びが激しくなっていた一つ前の鞄を見かねて、かつての部下が、前の休暇で一緒に選んでくれたものだった。シンプルで物が入れば何でもいいんだと言ったハンジに、この刺繍が可愛いですと彼女は頑として譲らなかった。自分には本当は少し可愛すぎると思ったものだが、絶対に似合いますと真剣な顔で強調されて、笑いながら買ってしまったのはつい半年ほど前のことで。
別動部隊ではあったけれども、巨人の研究に理解を示し、共に歩んできた仲間だった。
戻った宿舎で買ったばかりの鞄を見た別の部下に「可愛いのを見つけましたね」と笑顔を向けられ、何となく痒いような気持ちになった。
隣で何故かニヤニヤした笑みを浮かべながら自分達のやり取りを見ていたその彼女は、先日の壁外調査で戻らなかった。

(足の腱で動きが止まるのは人間と同じ、回復は12M級で約40秒、か)

最期を見たという彼女と同じ班の兵士が、手足をもぎ取られた状態でハンジにそれを伝え、ほどなく息を引き取った。
多分そうだろうと推測はあったが確証に足りなかったパーツがこれでまた一つ揃った。
本当はそれについて、もっと深く広く考えたいことは山ほどある。けれどその為の時間が足りない。
だけど兵舎を出て休めと言われてしまえば、兵士であるハンジは従うより他にない。

(……本屋にでも行くかな)

平時でも休日にそうそう意図もなく外出することのないハンジは、完全に暇を持て余していた。
多くの兵士がそうであるように、壁外後に与えられる外出の申請は、帰隊予定を夕飯後に設定している。おおよその時間枠にそって簡易的に立てた予定表を提出するよう義務づけられているが、予定を繰り上げて帰ることを全く許されていないわけでもない。ただその場合、上官に理由の如何を告げなければいけなくなる。それがとても煩わしかった。

「エルヴィンうるさいからなあ」

声をげて怒るでもなし、淡々と問い質す様を思いだして辟易とする。
巨人研究という他からあまり歓迎されないハンジの方向に賛同を示してくれる好人物ではあるけれど、その点はやはり困りものだ。最近では自分の部下と組んでハンジの生活スタイルを改善させようとしているらしい気配まであって、ハンジは少し警戒すべきだと判断していた。
彼の柔らかで鋭い追及を逃れる為にも、今日は時間いっぱい街で過ごさなくてはならない。

ハンジはさして興味のそそられるもののない一般書籍を数冊物色し、兵舎裏でも育てられそうな菜園の雑誌を一冊買った。それからまた街並みを歩く。壁の外をまるで感じさせない閉塞した自由が、両手を振って賑やかに走り回っている。前に来た時よりも人出が多いと感じるのは、今日が祝日の午後ということが関係しているのかもしれない。
夜には何やら公園で夜酒の場が設けられるそうで、そこかしこに宣伝の紙が貼られているのを見た。それが終わる少し前に馬車を拾って戻れば丁度良い頃合いだろう。終演の混雑に巻き込まれることもない。我ながら良策だと思いながら、ハンジは店舗の並ぶ道の小脇にふと目を留めた。

「こんなところにも本屋があったのか……」

奥まり、薄暗く見える路地の少し奥。
一歩足を踏み入れると、同じ陽の届く場所だというのに温度が少し下がった気がする。
喧噪が路地の細さに阻まれたように遠くなったからだろうか。その横手に小じんまりとした本屋があった。
古ぼけた様子と、煤けた窓におざなりにおかれている雑誌のバックナンバーが数年前のものだとわかり、古書店だと察しがついた。
ドアベルも何もない入り口を開けると、正面にカウンターがある。そこに店主と思われる老人がいた。白い口髭を豊かにたくわえ、丸縁の眼鏡の奥からハンジをちらりと見て、意外にも人の良い笑顔を見せてくれる。

「やあ、お嬢さんいらっしゃい」

その言葉に呼応するように足下からニャアという猫の鳴き声がして、思わずキョロキョロと見回してしまう。
見つけられず顔を戻すと、いつの間にやら音もなく茶トラの猫がカウンターの上に飛び乗ってこちらを見ていた。

「……お邪魔します」
「ご自由にね」

それきり一人と一匹はハンジに何を言うでもなく、古い書店特有の少し湿った黴臭い空間に、ハンジを自由にさせてくれた。読めそうなものもそうでないものも、雑多に積み上げられているといった感じの店は、存外居心地が悪くない。
かなり長い時間立っては読み、座っては読みを繰り返していたハンジは、ふと、書棚の奥に無造作に突っ込まれた背表紙の文字に目を瞬いた。

(これ……)

おそるおそる前の本を引き出して、それを抜き取る。
それは巨大樹の森が巨人に占拠される前に書かれたとされる、そこに棲息する生態についての図解だった。あると話には聞いていたが、もうほとんど諦めていた代物だ。本来生物と植物で二冊一セットになっていたという話も聞くが、辺りを目敏く探ってみても植物の方を見つけることは出来なかった。
でもこれは。この本だけでも。

「これ!」
「ふむ?」

老店主がハンジの声に、数十分振りの声を出してこちらを見る。
その前に飛び上がるようにして駆け出して、ハンジはバンッとカウンターに本を置いた。

「これ! 絶版の! この値段で良いんですか!? あ、いや、そもそも売り物として間違いない!? もし間違いで置かれていたものだというのなら、毎日通うのでどうか書き移させて欲しい! あ、毎日は無理か……いやでもほとんど毎日! どうにかして通うのでどうか!!」

静かな古書店に似つかわしくない大声が空気を揺らし、老店主と猫はけれどもそれに驚くではなく、静かに目を丸くしてハンジを見ていた。
ハアハアと興奮気味に迫っていた自分の姿が丸眼鏡に反射して映り、慌ててカウンターから距離を置く。

「あ……っと、すみません。思わず興奮してしまいました――」
「いやいや、かまわんよ。若いお嬢さんに興奮していただけるなんて、ワシもまだまだ捨てたもんじゃない」
「はあ……」

目を細めて笑われて、さすがに罰が悪くなる。
本を胸に抱えて口ごもれば、更に笑みを深められて、ハンジは老店主の手元に目線をそっと逃がした。
ややもして、その手がすっと差し出される。

「あの……?」
「どれ、見せてもらえませんかね。……ああ、これは随分奥の物を見つけなさった。大丈夫、売り物じゃよ。お嬢さんはこういうものに興味があるのかな」
「はい。色々――知識を深めたいことが多くて」
「ほっほ」

老店主はハンジの答えに何やら楽しげな声を出した。
それから、羊皮紙にインクの染みた本の表紙を乾いた布巾で丁寧に拭い、紙袋に入れ、棚に貼ってあったままの値段を告げる。戸惑いながらその金額を渡すと、本はあっさりとハンジの物になった。

「あの、本当に良いんですか。こんなことを言うのはアレですが、場所に寄っては倍どころか、数十倍でも買う人間はいるかと思います」
「ほっほ。かまわんよ。もう数年でくたばるしかない老人の楽しみに、金はありすぎてもどうもならん。欲しい物は必要としている者の元へ。お嬢さんの欲しい物が見つかって良かった」

楽しそうに口髭を揺らす老店主はそう言って、またハンジに手を差し出す。
疑問に思いながらも手を出すと、ころん、と手のひらに飴玉が落ちた。

「楽しませてくれたお礼じゃよ。今日は千客万来だ」
「忙しかったんですか?」

白い包み紙の中に、真っ赤なキャンディが入っていた。
礼を言うと目顔で促されて口に入れる。甘酸っぱい不思議な香りが広がった。

「お嬢さんで二人目じゃな」

二人で千客。
そうだろうな、と店内の様子を改めて感じて苦笑する。だがそれに気分を害すでもなく、老店主は更に楽しそうに目を細めた。

「一時間ほど前に来た人はきっとお嬢さんと気が合うタイプだ」
「本好きな感じだったんですか?」

この書店を見つけて入ったというのなら、きっとそうに違いない。だがそれだけで気が合うと断じられるのも不思議なものだ。そう思ったハンジに、老店主はいやいやと首を横に振った。

「ほっほ。これのもう一冊に、お嬢さんと全く同じことを言って買っていきよったんじゃ」
「え!? これの!?」
「巨大樹に興味があるんだとか」

老店主の言葉に、ハンジは再び身を乗り出す勢いになった。
やはり本はあったのか。しかも奇跡的に二冊とも、ここに。
自分が街をふらつき、余計な思考に捕らわれていた間に、その人物はここを見つけ、本を手に入れてしまったのか。
そう思うと途端に自分の行動が悔しくなって、ハンジは顔を歪ませた。
もしかしたら二冊揃ったかもしれないのに。そう思うとただただ悔しい。

その人物を見つけることは可能だろうか。ふと思い、けれどもこれが流通の外に流れた古書ということ、路地裏にひっそり佇むこの店の風貌から、追うのはほぼ不可能だと常識的な判断を下すのに時間はかからなかった。打ちひしがれたハンジの様子に、更に「ほっほ」と笑った老店主は、もしかしたらとても人が悪いのかもしれない。
この本が二冊セットだと知っていて、先に来た人物へ教えてはやらなかったのだから。
が、そうだとしても万一足掛かりが得られるのなら、どうにかしてその一冊を読んでみたい。

「……その人、兵士とか学者さんだったんでしょうか」

だから最期の悪足掻きでそう聞いてみたが、老店主はあっさりと首を横に振った。

「いやいや。絵筆を何本も買い込んでいてなあ。絵描きかと聞いたら店員に勧められて断れなかったと言っておったわ。ありゃあ世間知らずの商家の次男坊じゃな」

口髭を撫でながらしたり顔で頷かれて、そんなところかと思いつつ、ハンジはがっくりと肩を落とした。まかり間違って同業だったら、と抱いた淡い期待があっという間に塵と消える。今度こそ仕方ないと諦めるしかなくなった。
ハンジと同様、市井の適正価格を伝えたというのなら、悪い人物ということではなさそうだ。
そこに感情の落とし所をみるしかない。

「まあそう気を落とさずに。ほれ、お嬢さんには特別にもう一つあげようか」

よほど落ち込んで見えたのだろう。老店主はそう言って、ハンジの手のひらに赤い包みの飴玉をくれた。
兵団の中では短くない年月を過ごし、それなりに多くの部下を持つ身でも、彼から見ればまだまだヒヨッコということだ。
和らいだ視線にくすぐったい温かさを感じながら、本と一緒に鞄にしまう。
礼を言って、店内をまた少し物色し、それから店を出ることにする。

一歩外へ出ると、忘れていた陽射しが目を射してハンジは手を翳して目を細めた。
何か結界でも張られていたのかと邪推してしまいそうな祝日の喧噪を思い出す。

さてこれからどうするか。

思考がまた振り出しに戻る。
本当は今すぐにでも兵舎に戻ってこの本を読み耽りたい。けれどもまだ戻るには太陽が高過ぎる。どこかカフェで読もうにも、壁の外を書いたものであることから禁書への分類が懸念される。そんなリスクは犯せない。
逸る気持ちを抑えて、ハンジは公園通りへと足を向けた。

道すがら画材屋の看板が目に留まり、何とはなしに先程の老店主の言葉を思い出す。
いつも何くれとなく世話を焼く部下の顔がふと浮かんだ。
絵筆の種類はよくわからないが、木炭と鉛筆くらいならあっても困らないだろう。そういえば最近筆の減りが早い、と仲間内で話していたのを小耳に挟んだ。
ここにはいない彼を思い出して、ハンジは店のドアを開けた。

細かい種類などはよくはわからないままに店内を見て回り、適当そうなものをいくつか選ぶ。
会計が済むまでのつもりで、すぐ横のラックにあったスケッチブックを見ていたら、目敏い店主に見つかって「お姉さんお姉さん、その鞄にピッタリ入るよ!」とイイ笑顔を向けられてしまった。使うのは別の人になるんだけど、と思いつつ、気軽に持ち運べそうなその大きさは確かに悪くないように思える。いらないと言われたら、ちょっと高いメモ用紙だと思うしかないな。そんなことを考えながら、ハンジはそれも追加した。

「画材屋ってやっぱりニオイが違うんだな」

店を出て、ぽつりと呟く。
紙類を扱うという点では同じだが、書店とはまるで雰囲気が違う。絵の具や筆や、色々なニオイは、たまに部下から感じるそれに少し似ていた。ハンジ自身は自分でスケッチブックを買ったのも初めてなくらいだが、彼はきっとこういう店に慣れたものなのだろう。

本と雑誌と鉛筆、木炭、スケッチブック――

中身を見れば、そこそこ休日を楽しめているように見えなくもない。
店を出て、鞄の中に収まった物達を刺繍の上から指でなぞって街を歩く。公園に入れば思い思いに写生を楽しんでいる人が幾人か見えて、ハンジがスケッチブックを取り出しさえすれば、混じってしまうような錯覚になった。
歩道に面した片側には、そこらでよく見る植え込みが丸や四角に切り揃えられた道が続いている。自然と人工の融合のようで少し面白い光景だ。
道なりに点在していたベンチに空きを見つけて、ハンジはそこへ腰を下ろした。
鞄の中から先に買った雑誌を取り出す。
手持ち無沙汰を紛らわせるように捲っていると、しばらくして、少し風が強まってきたようだった。祭りはこれからだろうにあまり強風にならなければいい。
無造作に流れる髪を片手で押さえながら時計を見ると、帰隊予定まで、時間はまだ大分あった。

(時間が経つのってこんなに遅かったんだっけ)

いつもはあれもしたいこれもしたいと時間に追われて寝食を忘れ、部下に引きずられるようにベッドへ連れ込まれるものだったが、こうして何もすることがなく無為に過ごす一日とは、驚くほど時間の流れが違うようだ。思わずハンジの口からため息が溢れる。
こんなに時間があるのなら、提案書を幾つ書けたかしれない。資料を漁り、考え、捻り、新しい構想の許可に繋がる有益な情報を見つけることが出来たかもしれない。そうして得た成果が繋がれば、彼は、彼女は、死ななくて良かったかもしれないのに――

「……っあ〜……、結局どこにいても変わらないじゃないか!」

研究室から離されても、頭の中にあるのは巨人についてのあれこれで、特に何が変わるということもない。
これに何の意味があるのか。
そんなことさえ思ってしまって、ハンジがガシガシと頭を掻き回した。
こんなことなら隊舎の裏倉庫にでも隠れて資料に目を通していれば良かったか。
いやでもそうしていたら、あの古書店で絶版の本にお目にかかることは出来なかった。

「……一長一短」

だから仕方なかったんだ。そんな思いで自分を鼓舞したちょうどその時。
ふと辺りが賑やかになって、ハンジは顔を上げた。声のする方を振り返ると、移動式の屋台が笛を鳴らしながらやってくるのが見える。風向きのせいか、さっきまでは何も感じなかったそこかしこに、肉の焼ける香ばしい香りも漂っていた。それに刺激されたのか、ハンジの腹がグルルと唸り声を上げる。

「……おお! そういえば今日はまだ何も食べてなかったんだっけ」

いつもなら注意を促してくれるはずの部下もいない全く一人の休日は本当に久し振りで、空腹をすっかり忘れていた。
あっという間に結構な人だかりが出来た様子を見ると、マリアの中でもそこそこ味の保証はありそうだ。
空っぽを思い出した腹が催促するように鳴り響く。
ハンジは雑誌を鞄に戻して立ち上がった。回転率も早そうだからあれにするか。注文を待つ人の列を何となく眺めながら最後尾に足を向け、

「分た――、ハンジさん!」

不意に名前を呼ばれて立ち止まる。
振り向くと、次の注文を待つ客が良く見知った人物がいた。

「モブリット?」

別々の時間に兵舎を出たはずの彼と、まさかこんなところでバッタリ会うなんて思ってもいなかった。
互いに驚きを表情に乗せ、次の言葉を発そうとした瞬間、屋台の男がモブリットに注文を促した。慌ててハンジと前とを交互に見る彼に笑って、ハンジは軽く手を振った。目顔で並ぶことを示す。

「二つ」

と、モブリットは素早くそう注文した。財布をズボンの尻ポケットにねじ込んで、持っていた小説と紙袋を小脇に抱える。そうして出来上がった商品を両手で受け取るやいなや、彼はハンジの元へとやってきた。片方を当然のように差し出してくる。

「どうぞ。並ぶつもりだったんですよね?」
「そうだけど――え、いいの? あ、今お金出すね」
「これくらい奢らせてください」

鞄を開けかけたハンジを笑顔で押し止め、モブリットは商品を手渡した。
素直に礼を言って受け取ったそれは、薄い包み紙では熱く感じるほどだった。『ジューシー!』『焼き立て!』と煽り文句の書かれた宣伝の紙が屋台に張り付けられていたが、熱さに偽りはなさそうだ。薄いパンのような生地の中に、細切りの野菜と鶏肉が、いかにも旨そうな匂いと湯気を上げるソースと絡められていっぱいに詰められている。サンドイッチの変形版といったところか。『ジューシー!』と言いながら、どう贔屓目に見ても、野菜の割合が尋常じゃないというのは屋台料理の定番で、むしろ懐かしさに頬が緩む。

「これ熱いうちに食べるのが良いそうですよ。歩きながら食べま――……あっ、すみません。どなたかと一緒に食べるつもりでしたか!?」

包み紙を食べやすいように折りながら言ったモブリットは、途中でその可能性に気づいたのか、慌ててハンジの来た方角を振り返った。
何くれとなくハンジの身の安全の為に先回りをするモブリットにしては珍しい態度だ。
思わず噴き出して、ハンジはモブリットの隣に並んだ。

「一人だよ。朝からずっと食べてなくて、匂いにつられちゃったんだ。これありがとう。遠慮なくいただくね。モブリットは? 小腹が空いたとか?」

彼に買い食いのイメージがない。
そう聞くと、モブリットはホッとしたように表情を和らげ、首を振った。

「俺も似たようなものです。さっきまで公園のベンチでうっかり持ってきた小説を読み始めたらこんな時間になってまして」
「へえ、珍しいね」
「そうですか? 一人だと割とこんなものですよ」

生活リズムはきっちりしているタイプだと思っていた。
疎かになりがちなハンジの食事や入浴、睡眠に関して、副長という業務の範疇を飛び越えてまで、口煩いほど気のつくモブリットも休日だと緩むのだろうか。案外ズボラ仲間だったんじゃないかと思っていると、モブリットは苦笑した。

「いつもはあなたがいるのでつい」
「ん? ああ、気を遣わせてごめんね?」
「そういうことではなく、単純に心配なので。煩くしてしまってすみませんが、気になりますので諦めてください」
「お、おう」

それは、これからも食事を口に運んでくれるとかそういうことか。
言うだけ言って食べ始めたモブリットが「美味い」と漏らす。彼に倣ってハンジも包み紙を折り曲げパクリと噛みついた。

「……お、これ美味しいね。ソースが絶妙」
「ですよね。野菜サンドに名前を改めるべきだとは思いますけど」
「それは思った」

不思議な弾力のあるパン生地自体に味はないようだが、シャキシャキの野菜に絡むソースの味が肉の少なさを補って余りある。歯ごたえも良く、人気が出るのもわかる気がした。ただし、そのソースが景気良くかけられ過ぎていて、溢してしまわないかが難点だ。
いつもよりゆったりとしたシャツとロングスカートは、兵団支給のジャケットやマントと違い色味が薄い。垂れたら目立つし、兵舎に戻る前に染みになってしまうかもしれない。それに鞄だ。服よりもこっちに溢れてしまわないように、と気にしながら、包み紙を折り曲げていく。けれど途中で中身が出しずらくなってしまった。前歯で噛みついて引っ張り上げようにも中身が詰まっている為上手くいかない。仕方なしに包み紙を破こうとして、ソースが指先を伝った。慌てて舐め取る。

「意外と不器用ですね……?」

同じように食べる方に集中しているとばかり思っていたモブリットからそう言われ、ハンジはジト目を隣に向けた。
意外そうなヘーゼルの瞳がハンジの手元を見つめている。

「野戦食料をどこかに落とす心配をしながら食べる練習なんてしないじゃないか」
「確かに」

落ちたって、食べカスくらいで染みになるわけじゃない。
ハンジの言葉に微笑つきで肯定したモブリットは、もうほとんどがその胃袋に収まっているようだった。
手も口元も、もちろん服も汚していない。

「……あなたは意外と器用だね」

荷物を小脇に抱えたままで、包み紙を切っては畳みをしていたのだろう。綺麗な包装紙のままなのもすごいところだ。ハンジの持っている包み紙は、折った部分にもソースがしっかり絡んでいる。
最後のパン生地を平らげたモブリットが、包み紙を小さな四角に折りながら言った。

「それなりにヤンチャな少年時代を過ごしていたので、食べ歩きは基本でしたし」
「へえ! 本の虫少年だと思ってた!」

意外な少年時代に声を上げる。線の細い大人しい文学少年だと思っていたら、木登り少年の方が近かったのか。
そう言われてみれば、廊下や食堂でよく仲間内から声を掛けられている姿を目にしていたと思い出した。酒好きで強いようだし、意外とアクティブな性質らしい。
と、モブリットが片眉を上げた。

「……俺に友達がいないとか思っていませんよね?」
「え、いるの?」
「ヒドイ!」
「はは、冗談だよ――っと」

また、ポトリとソースが落ちて、慌てて身体ごと捻って回避する。刺繍に染み込んだら綺麗に落とせる自信がない。
悪戦苦闘するハンジの手からモブリットがすっとパンを取った。

「鞄ください。食べ終わるまで持っています」
「え、いいよいいよ」
「せっかくだから熱い内に食べた方が美味いですし、その鞄やっぱり可愛いですよ。汚れたらもったいないでしょう?」

気づいていたのか。
服を汚す可能性に言及しないというのは、つまりそういうことだろう。それなら拒む理由もない。

「……ありがとう」

ハンジはもそもそと鞄を外し、モブリットが受け取った。簡単に肩に掛ける。色合いは麻と綿の混合の生成だが、大の男が肩にすれば刺繍が急にメルヘンに見える。ああ、確かに可愛い鞄だ。改めてそう思っているとパンが戻され、ハンジはおおと目を瞠った。食べやすいところまで綺麗に包み紙が折り畳まれている。

「本当に器用だな!」
「……そんなに驚かれることでは……本当に意外と不器用ですね?」
「まあね!」
「そこ胸を張るところです?」

それからも何度かソースは指を伝い、地面に落としたが、染みを作ることなく熱い内に食べ終えた。
植え込みとベンチの道も終わり、公園の敷地からまた別の店通りに面した道に出る。
彼はこれからどうする予定なんだろう。
モブリットのように上手くは畳めなかった包み紙を途中でぐしゃりと丸めながら考えていると、モブリットがハンジの手からそれを取った。
自分の分とまとめて店横に設置されたゴミ箱に捨てて戻ってくる。本当に気の利く男だ。

「ありがとう」
「いえ。無事に食べられて良かったですね」
「嫌味か!」

持たせたままだった鞄を受け取り、また肩から斜めに掛け直す。
笑ったモブリットが「ところで」とハンジを呼んだ。

「うん?」
「この後、何か用事はありますか?」
「いや。帰隊時間まで何しようか途方にくれていたところ。君は? デートの約束でも?」
「そういう相手がいたら心躍る休暇でしたよね……」

そういえばモブリットも渋々休暇の強制消化組だったと思い出す。
今回の壁外調査では被害もそう多くなく、上官がすべき後処理という観点からはそれなりに軽作業に分類される。多い休暇は必要ないと部下達の消化を優先させていたばかりに、通常業務に戻り始めるギリギリに二人揃って放り投げられる羽目になったのだ。そうでもなければ、会議や出張といった任務でもないただの休暇で、分隊長と副長が同時に朝から隊を離れることなど滅多にない。
だから休日のモブリットと私服で街をぶらついたことなどなかった。
屋台の料理を食べるのが上手いとか、平時よりゆっくり歩いても不思議に思う様子もなく歩調を合わせてくれるとか、女物の鞄を躊躇なく持っても割と違和感がないだとか、そういうことは初めて知った。

残念そうに肩を竦めた彼に笑うと、モブリットも笑って、それから少しだけ真剣な口調になった。

「予定がないのでしたら、是非一緒に行っていただきたい店があるんですが」
「いいよ。どこ?」
「それが――」

何度か言い淀んだモブリットを、人の混雑し始めた十字路で待つ。
その口からようやく出された店名は、ハンジですら知る女性の間で話題沸騰中の雑貨店だった。


******


店内はところせましとレースやリボン、それにフリルで飾られた色とりどりの花が置かれ、若い女の子や恋人達で賑わっていた。
ハンジの持つ鞄の刺繍は縁を彩る程度の物だが、それを全面にあしらったものですらここではささやかに見える気がする。この鞄を選んでくれた、もうここへ来ることは二度と叶わない彼女のようなタイプこそ似合いそうな場所だ。
客層に圧倒されたのか、居心地悪そうに視線を泳がすモブリットは、さっきまでのスマートさが嘘のように、ハンジの傍に寄っていた。

「借りてきた猫みたいだよ、モブリット。いや、違うな。震える子犬みたい」
「……もう何とでも言ってください」

男には縁のない場所なので、とこの店の名前を口にした時のモブリットは、本当に言いにくそうだった。
女性物しか取り扱いがないことは有名な雑貨店の名前を彼の口から聞いたことも驚きだったが、おそらく恋人へのプレゼントなのだろう。そうと気づいて、そういうことならとハンジは最初断った。恋人への贈り物にアドバイスなら問題ないが、一緒に買いに行ったなどと知れれば良い顔はされない。火種になるつもりはない。
けれど踵を返したハンジに慌てて手を取ったモブリットは、賭けの代償なんです、と情けない声で弁明した。

曰く、壁外調査に入る大分前、仲間内との酒の席でカードゲームの賭けに負け、次の休日ここで女物の何かを買ってこなければならなくなってしまったのだ、と。なかなか街まで行ける時間が取れないのを言い訳に延ばし延ばしにしていたのだが、今日外出することを仲間に知られて、念を押されてしまったということだった。

「それこそ恋人に頼めば良かったのに。どんなのが好きそう?」

丸テーブルに飾られた可愛らしい柄のポーチを手に取ってみる。レースはないが小さなリボンがあしらわれていて、白いソックスをはいたような柄の黒猫が刺繍されている。いかにも女の子が喜びそうだ。どうせ品物は恋人のものになるのだろうし、選別はモブリットがすればいい。はい、と渡すと何やら感心したようにためつ眇めつしながら、モブリットは言った。

「いませんし。何かこう――この店のものだとわかれば何でもいいんです。良い歳をした男達の度胸試しのようなものですから。これ、それっぽいですか?」

ものすごくおざなりな感想は、驚くくらい本当にどうでも良さそうだった。
それなら仲間内の誰かの恋人の物にでもなるのか、それとも捨ててしまうのか。賭けの代償にされる品物の行方は少し気になるが、彼にそういう悪ふざけを出来る友人がいるという事実にハンジは何だかホッとした。
壁外前だけでなく、壁外後も変わらずくだらない約束を追求することの出来る存在は重要だ。

「えー、それならこっちかなあ」

別の棚に飾られたレース編みと布製の花があしらわれた髪飾りに目を移す。
店のマークが裏に刻印されたバレッタなら間違いないだろう。そこを示してそういえば、なるほどとやけに真面目に頷かれて、思わず噴き出してしまった。あれだけ気の利いたことをさらりと出来るくせに、女性関係に強いわけではなさそうだ。
笑うハンジに拗ねたような視線を向けて、モブリットはハッとした表情になった。

「分隊長は? 今更ですが、俺とここに来たと知れて誤解を与えるような方がいらしたらすみません。全力で謝罪させていただきます」

意外に女の扱いが上手い男なのかと驚いていたが、ただの気の利く男だったようだ。
自分へ向けられた見当違いの気遣いに、堪えきれず盛大に吹き出す。困惑しているモブリットに、涙を拭いながらハンジは言った。

「ぶっははは! いないいない。そういう心配されたの初めてだよ」

ここに来て、初めて衒いなく笑った。
少しだけ揶揄したような口調で言ったにも関わらず、モブリットがやけにホッとして見えて何だかくすぐったいような気分になった。よくわからない心境を、モブリットの腕を絡めて引くことでなしにする。

「よし、モブリット。全力で可愛いやつ選ぼう!」

奥に広い店内の棚から棚へ、ハンジのエスコートに従うモブリットは、本当にこういう店に疎いようだった。ハンジもそう明るいわけではないのだが、一応は彼よりわかるものが多い。聞かれた品物に「たぶん」「きっと」で答えても関心したように真剣な顔をする時は、彼曰く「やんちゃな少年」のようで、時折噴き出しながら、ハンジも久し振りに可愛らしい雑貨を楽しむことが出来た。
途中、何の刻印も施されていないのでこの店らしいとは言えないが、水泡や草花が中に閉じこめられたガラスの文鎮にふと目を留めたり、可愛らしすぎるマスコットのついたピンをモブリットの髪に留めてふざけたりしながら、ゆうに三十分はいただろうか。
結局最初に見たバレッタの横にあった、同形列のブローチを選んだモブリットが会計に並んでいる間、ハンジは出口近くのガラスの文鎮を見ながら過ごしていた。

(これ自分用にひとつ――いや、うーん……)

窓を通して射し込む光が、硝子の中で思い思いに屈折して煌めいている。綺麗だと思う。心は惹かれた。
ただ、いつどうなるとも知れない身で、必要最低限の物以外そう持たない生活が長くなっているせいか踏ん切りがつかない。散々迷い、とりあえずもう一度と文鎮に手を伸ばし掛けたところで、「お待たせしました」と声が掛けられた。紙袋を持ったモブリットがハンジの側を覗こうと動く。

「じゃあ行こうか」
「あ、はい」

それを遮って、ハンジはさっと店のドアを開けた。モブリットもそれ以上、何かを聞いてくることはなかった。
文鎮は綺麗だった。でも、手に取るタイミングはズレてしまった。ハンジがこの店に一人で来ることはないだろうし、誰かに頼むこともない。もう二度と手に入れることはないのだと思うと微妙な寂寥と共におかしな後悔を感じてしまう。
それは手のひらをすり抜けていく壁外での可能性や、目の前で失われた命であるようで、自分の不甲斐無さを突きつけられているのと錯覚してしまいそうになる。

(……ただの物だっての)

一度手に乗せた文鎮の静かな重みを思い出し、無意識に握り締めた拳を見つめていたハンジへ、モブリットが言った。

「ありがとうございました」

悪友とのミッションをクリア出来た彼は満足げ――というよりも安堵しているようだった。
普段兵団の中で見ることのない表情が、私服姿も相俟って、歳相応の青年に見せる。
隣を歩く自分の姿が店先のガラス窓に映って、こうしていれば頭の中が巨人にまみれているとは思われないだろうなとくだらない考えが一瞬過ぎった。

「こちらこそ。良い時間潰しが出来たよ」
「分隊長は何か買われなくて良かったんですか?」
「……別に欲しい物もなかったし」
「そうですか」

いいのが見つかって良かったね、と笑い掛けると、モブリットも頷いて、それから軽い調子でハンジを誘った。

「この後ですが、もし他の予定もなければ、時間潰しついでに夕食も一緒にいかがです?」
「お? お誘い?」
「そんなところです」

照れるでもなく頷かれて、ハンジはふむと首を傾げた。
それは悪くない考えだ。
どのみちここで別れれば、公園にでも戻って本を読むより他にない。
すぐに読めない資料や壁外や進まない研究に、堂々巡りの思考を持って行かれてしまうのは目に見えている。
反して、モブリットと一緒に店を回るのは想像以上に楽しかった。

「いいね。デートしようか」
「はい。よろしくお願いします」

律儀にそう言って笑うモブリットは、何故だか照れたように見える。自分で誘ってきたくせに、デートという言葉がいけなかったのかもしれない。妙に小慣れていると思ったら変なところで緊張する彼の知らない表情はそう悪くないとハンジは思った。

「じゃあそれらしく手でも繋ぐ?」
「えー……いえ、それはちょっと」
「失礼な奴だな!」

しかもこういうところは歯に衣着せない。
ぶっと笑って抗議しながら、モブリットといれば時間はあっという間に過ぎるような気がした。


***************


ハンジが考えていた以上に、時間が過ぎるのは早かった。

意外と目移りの早いモブリットの興味が向くまま、商店街の店を冷やかし、入った書店では互いに無言で目ぼしい本がないかをゆうに一時間以上はかけて見て回った。香草を扱う露天を見つけ、声を掛けられるまま差し出された即席のスープを試飲していたら、口上の上手い店主に夫婦と間違われるというハプニングもあった。調子に乗ったハンジがするりと腕を絡め「だってさ、ハニー?」と言ったのに、照れるかと思ったモブリットが「欲しいですか、ハニー?」と返すものだから、思わぬ返しにむしろハンジが戸惑って、一袋買わないわけにはいかなくなってしまったのにはしてやられたが。
予想外の出費ではあったが味は確かで、その上二人のやり取りに何故か気を良くした店主がおまけをしてくれたおかげで、そう悪くない買い物になった。それにこれなら、研究が追い込みを迎えて死屍累々になった時の班員達の胃袋を満たす土産にもなる。

「今日は助かったよ」

そうしてすっかり陽も落ちて、ざわめく大衆食堂で夕食をとりながら、ハンジはモブリットにそう言った。
祝日の夜に意外な人出がある店内は賑やいで活気がある。
やはり祭りのフィナーレを楽しもうと繰り出す人が多いのだろう。
目の前でパンをちぎるモブリットが、不思議そうに目を瞬いた。

「はい?」
「どう過ごせばいいかわからなかったんだ。モブリットに会えて良かった」

ベンチで一人座って思考の坩堝に陥る予定しかなかった休日を思い出せないほどに、楽しく過ごすことが出来たのは彼のお陰だ。
もう一度「ありがとう」と礼を言ったハンジに、モブリットは少し間をおいて、それからそっと目蓋を伏せた。

「……それは、俺も同じです。本当にありがとうございました。あの店の件もそうですが、それ以外にこれといった用もありませんでしたし、早く戻れば理由を問われますからね」
「……」

もしかして、モブリットも同じことを考えていたのか。その言い方でふとそんな思いが頭をよぎる。
自分よりずっと器用に時間の過ごし方を知っているとばかり思っていたが、似たもの同士だったのかもしれない。
モブリットと調査兵団で過ごした月日は短くない。けれど、仕事以外で、兵団外で、二人で話すことはあまりなかったと今日の終わりの今になって、改めて気づいた。似ているのかもしれない――なんて、ハンジが思ったと知れれば、嫌そうな顔をされそうだから、胸の内に止めておく。

「あー……そうなんだよね。休暇取得の意義もわかるんだけど。融通きかないからなあ、エルヴィンめ」
「はは、ですよね」

わざと砕けた口調でスープ皿をスプーンで鳴らしたハンジに、モブリットが笑いながら同意してくれた。
一見大人しそうに見えて、考察や意見の交わし合いでは意外と強固な意見を披露してくれる彼の本意を見た気分だ。悪くない。こういうところが居心地が良い。

野菜の腸詰めをパンに挟み豪快にかじりついていたモブリットを真似してみる。
横からボロリと溢れてしまい、また「不器用ですよね」と笑ったモブリットが綺麗に包み直したパンを渡してくれた。
悔しさ半分、今度は慎重に食べきったハンジが顔を上げると、一足先に食べ終えたモブリットは蒸留酒の入ったグラスを傾けているところだった。それももう残りは僅かだ。そういえば酒好きだったと思い出す。ハンジは皿を片付けに来た店員へ、追加の酒を注文した。

「あ、すみません。ありがとうございます」

礼を言って新しいグラスに変えたモブリットは嬉しそうだ。本当に酒が好きらしい。
けれども顔色の全く変わらない彼に感心しながら、ハンジはグラスをカチリと合わせた。
美味そうに喉を鳴らして、モブリットがぽそりと呟く。

「本当は、時間もありますし絵でも描こうと思ってはいたんです。こんな機会でもなければ、のんびり写生を楽しめるような時間なんてありませんし。けど、途中で画材を一式忘れてしまっていたことに気がついて」
「え、全部?」
「はい、財布と本しか持ってませんでしたね」

それはなんというか――間が抜けすぎだろう。
本当に何の用事もなかったハンジと違い、一応の目的を考えながらそのアプローチを丸々忘れてきたと言ったモブリットに呆れてしまう。任務中に抜けたところなど見せない彼の、思いもよらない失敗に目を丸くしていると、モブリットが照れたように頬を掻いた。

「それで、どうせ使うから買ってもいいかと思って画材屋には行ったんです」
「いいのあった?」
「それが……」

揺らしたグラスを口につけながら聞いたハンジに、モブリットは横の椅子に置いていた紙袋から中を取り出して見せた。

「何となく店主の口に乗せられて絵筆ばかり買ってしまったので、結局描けませんでした」
「え、これだけ?」

絵筆が三本。それに向日葵のような鮮やかな黄色と、今日の夜空を深くしたような藍色の絵の具だろうか。
けれどもまさか、肝心の用紙も鉛筆も、ペンすらないのか。
それらをまた紙袋に戻していきながら、モブリットがこくりと頷く。
思わずハンジは噴き出してしまった。

「ぶっははは! 本格的な写生用にはいい買い物だね!」
「笑われると思いました……」

むくれたようなモブリットを前に滲んだ涙を指の先で拭いながら、ハンジは自分の買い物を思い出した。

「あ」
「え?」
「そうだ。君に買ったんだった」

スケッチブックを見ていたハンジを目敏く見つけた店主の商魂逞しい呼び掛けを思い出しながら、鞄を開ける。
もしかすると自分とモブリットは同じ店に立ち寄っていたのかもしれない。
明らかに絵に無頓着そうなハンジには、絵筆や絵の具の売り付けはしてこなかった店主の抜け目のなさは、まったくどうして商売人だ。

「帰ったら渡そうと思ってたんだけど、これ」
「これ、って」
「いつもすごくお世話になってるからね。仕事用のじゃなくて、君の好きなものを描く個人用にどうかなと思って」

モブリットの紙袋にもすっぽり収まってしまいそうな大きさのそれは、いつも彼が実験時に手にしているものの半分もない。使い捨てる習作には悪くない。ハンジに手渡されたスケッチブックを驚いたように見つめながら、モブリットは表紙を開いた。

「……良いんですか?」
「貰ってくれないと私じゃ宝の持ち腐れになっちゃうよ」
「……ありがとうございます」

そう言ったモブリットは満更でもなさそうだった。
もう少し早い時間にモブリットと出会って、更にハンジが思い出していたら、彼はあの公園でスケッチをして過ごしたのかもしれない。そう思えば申し訳ないような気もしたが、となるとハンジの午後が退屈な過ごし方になっていたはずだ。結果として、ハンジには良かった。
内心でお詫びも兼ねて、「あと木炭とー」と言いながら画材屋で買った品物を取り出し始めたハンジに、モブリットが驚いた声を上げた。

「えっ。こんなに!?」
「すぐなくなるんだろう? 消耗品だし、あっても困らないかなって。あ、何か拘りあった? それならごめん」
「いえ、いいえ! そうじゃなくて!」

テーブルに置かれたどこにでもありそうな木炭を、まるで大切な宝物でも扱うかのような手つきで取ったモブリットは、それを見つめ、またテーブルに戻すと、片手で口元を覆ってしまった。

「モブリット?」
「……あの、すごく嬉しいです。ありがとうございます」

そう言ったモブリットの耳の先が赤い。逸らされた目元も朱を刷いたようになっていて、ハンジはぱちくりと目を瞬いた。
酒でも変わらなかった顔色の変化は、もしかして照れているのか。
まさかそんなに喜んでもらえるなんて思わなかった。
こんなことなら、もう少し真面目に色々モブリットの好きそうなものを買ってくれば良かった。
木炭ばかりあっても困るかと思ったけれど、倍くらい買ってもどうということもなかったのに。

「ハンジさん」
「え、あ、うん?」

自分の行動を省みていたハンジは、呼ばれてハッと意識を戻した。
モブリットが、また紙袋に手を入れて、それからハンジの前に小さな包みを置く。
包装紙には見覚えのあるロゴとマークが印刷されていた。

「これを。さっき、店に付き合っていただいたお礼です」
「あれ、でもそれ友達との賭けにって」
「別の物です」

ぞんざいな手つきでもう一度紙袋から取り出したのは、包装のされていないバレッタだった。
これとは別にいつの間に他を買っていたのだろう。ハンジは全く気づかなかった。

「――いいの?」
「はい。それこそあなたに貰っていただけないと、俺が可哀想な感じになります」

消耗品でない贈り物を受け取られないというのは、確かに少し格好がつかない。
眉を下げるモブリットの言葉に笑って、ハンジは包みを受け取った。モブリットの表情からホッとしたように力が抜ける。

「開けてもいい?」
「もちろん」

包みの上からでは大きさくらいしかわからない。
手のひらに収まるそれは、しっかりとした重さがあった。置き物だろうか。
あの店で見た品物を順に思い浮かべながら、ハンジは包み開け、思わず小さく息を飲んだ。

「――」
「本当か嘘かわかりませんけど、壁外の花びらを閉じこめているそうですよ」

それは丸みを帯びたガラスの文鎮だった。
あの時決断をしそびれて、もう二度と手に入れることは出来ないと思っていたそれが、今ここにある。
ハンジが勝手に諦めて、知らぬ間にモブリットが手繰り寄せていてくれた。
しっとりと手に馴染む重さに、静かに胸が締め付けられる。

ハンジは、つ、と指先でその形を確かめた。
見たことのない薄桃色と黄色の小さな花びらが、ガラスを精製する時に込められたのだろう水泡と共に煌めいていた。鮮やかな細長い緑色はおそらく色を付けたものだ。それが淡い花々の中にアクセントを加えて、あたかも水中で踊っているかのように見える。

「……可愛い」

感想が思わず口をついて出た。
酒場を満たす明かりを反射するガラスはとても美しく、けれどもフォルムといい、色遣いといい、全体的に愛らしい。

「ありがとう、モブリット。」

手のひらに乗せて何度も明かりに透かして反射を楽しんでから顔を上げれば、モブリットは何故だかまた片手で口元を覆っているところだった。訝しむハンジに「良かったです」と言いながら、木炭をさっさと包み紙にくるみ直して紙袋に入れる。裸で入っていたバレッタへの配慮はないらしい。
ふと、ハンジはモブリットの顔が所々黒くなっていることに気がついた。

「ねえ、炭ついてるよ」
「えっ」

散々木炭に触れた手で口を覆っていたせいだろう。指摘したハンジにばつが悪そうに袖で拭ったモブリットは、誤魔化すように咳払いを一つして、それからぐいっとグラスを空けた。あまり笑っても可哀想だ。喉の奥に閉じ込めた笑いをハンジも酒で流し込む。
料理と酒と。これもまたあっという間に過ぎていく。一人でいた時が嘘のようだ。
テーブルで先に会計を済ませ、それでもつい班員や兵団の話に花が咲いてしまう。ふと時計に気づいたモブリットがハンジに時間を示してくれなければ、今度は予定の帰隊時間に間に合わなくなるところだった。
長居に気を悪くするでもなく送り出してくれた店員に手を振って店を出る。

兵団隊舎へ向かう最終の馬車は確かまだ数本はあるはずだ。
商店街と酒場を抜け、宿場街を通り抜けた先にある乗り場へ向かう。
祭りの賑わいから逆行しているだけに、辺りは普段の夜の静けさを取り戻していた。
意外と宿に満室の札が掲げられている所が多いのは、おそらく祭りを堪能する為なのだろう。

「意外とギリギリになりましたね」
「うん。びっくりだ――って、あれ、雨?」

早足で行きながら、ハンジは頭上に感じた違和感にふと顔を上げた。
隣で同じように上を見上げたモブリットが、確認するように手のひらを上にして様子を窺い――
――その途端、まるでタイミングを図ったかのように、雨が音を立てて零れ落ちてきた。

「うっわ!」

バケツをひっくり返したような、とはまさにこの事だといわんばかりの襲来だった。
ついさっきまで月明かりが見えていたはずなのに、もう辺りはちらほらと零れる店の明かりくらいしかなくなっている。
地面を打つ雨脚は強くなり、ひっきりなしに水飛沫を跳ね上げていく。

「モブリット、雨具は!?」
「ありません! あ、本!」
「え? あ、私もだ! 濡らさないように言われてたんだった!」

手で形ばかりの庇を作っても、どうにもならない。
すぐ隣だというのに雨音に負けじと大声で怒鳴るように会話を交わして、ハンジは鞄の中に入れた稀少本の存在を思い出した。
これはまずい。まさかインクが滲んで解読できないなんてことになったら目も当てられない。
咄嗟に鞄ごと胸に抱え込んだハンジの肩に、モブリットがぐいっと強く腕を回した。
雨に濡れ、一気に冷え込んでしまった身体に、そこだけがじわりと温かい。

「どこかで一旦雨宿りを!」
「そうしよう!」

モブリットの提案に一も二もなく頷いて駆け出す。軒のある店先を思い出しながら、二人は来た道を戻リ始めたのだった。


******


それからどのくらい経っただろう。
夕立のように適当なところで収まるとばかり思っていた大雨は止むことなく。雨避けに庇のある店先で待っていても、むしろ状況は悪くなるばかりだ。土埃も立たなくなった地面は水がひっきりなしに流れこみ、強まってきた風のおかげで庇の甲斐もなく雨が当たる。それに寒い。

「……さっきさあ、川が決壊しそうだとか言ってたよね」
「空耳だといいなと思ったんですが、あなたにも聞こえましたか」
「馬車出ないだろ」
「この状況ですし、兵団の方でもおおよそ把握していると思いますけど――」

雨脚が今より僅かにマシな頃、祭り客だろう何人かが、濡れ鼠になりながらハンジ達の前を過ぎていった。
滅多にない豪雨と酒と祭りの熱気に興奮していたのか、むしろはしゃいでいるかのように、仕入れた情報を怒鳴るように話していた者もあった。
そこから察するに、状況はこうだ。

河川の決壊を鑑み、駐屯兵団が整備に当たっている。
各所の治安維持と一部避難の必要もあり、その上あまりの大雨でかなり大忙しらしい。駐屯兵の友人から聞いたという男の話では、この天気では、よほどの緊急時でもない限り馬車は出せず、それこそ緊急時に備えて、例え兵士仲間であっても個別に馬を貸すことは出来ないということだった。

この天気だ。さもありなんか。
近くに友人知人の家があれば、そこで過ごすのが適切だ。けれどモブリットにもハンジにも、この辺りの適当な友人はいなかった。
そもそも酒場は元より、民家然り、駐屯兵団の宿舎や隊舎からも離れている。
乗り合い場の近くにあるのは宿場だけだ。それも見てきた限り、祭り客の先見の明で埋まっている。

「どうしようか……」
「どうしましょうか……」
「いやまいったね……」

今夜中の帰隊はほぼ絶望的だ。
少し前にモブリットが見える範囲の宿屋を当たってみたのだが、やはり結果は申し訳なさそうに首を横に振られるばかりだった。唯一好意で渡されたタオルも、今ではすっかり濡れそぼって、ただ体温を奪っていく。
と、モブリットがハンジに紙袋を差し出した。反射的に受け取ると、「少し待っていてください」と言って出ていこうとしたモブリットのシャツを咄嗟に引く。

「なに? どこ行くの?」
「一つ心当たりを思い出したんです。前に偶然店主が倒れた所に居合わせてそれで――ここからそう遠くないですし、事情を説明して、一泊が無理でも出来れば傘と新しいタオルを借りてきますので――」

ざっと手短に説明して、雨でけぶる方向を指さしたモブリットは、今にも駆けて行きそうだ。
ハンジはわかったと頷いて、それからモブリットの前に出た。

「一緒に行く」
「はあ!? いや、ダメかもしれませんし!」
「二人仲良く濡れ鼠になっていた方が、哀れさ滅茶苦茶出るだろう!?」
「あなたまで余計に濡れる必要ありません! ここで待っていてください!」
「良くても結局モブリットはここまで戻ってこなきゃいけないじゃないか! 手間だし、君が風邪を引く!」
「そんな――」

カッと辺りが目映く光り、それから何秒と間を置かず、辺りに雷鳴が轟いた。雨はどんどん酷くなる。ここで待つのも、一緒に行くのも、これだけ濡れれば同じことだ。それに、モブリットにばかり損な役回りはさせられない。ハンジは自分の鞄の中に、モブリットの紙袋を突っ込んだ。それを胸に抱えこむ。
そのまま勇んで庇から飛び出したハンジに、モブリットは慌てて後を追った。

「いや……ちょ、もう! こっちです!」

細かい場所など聞かないままにズンズン進むハンジの手を取る。それからまたぐいっと肩に腕を回して、自分を雨避けにするかのようにハンジの身体を抱き込んだ。
こういう時のハンジは、押し問答でやりこめるのは困難だ。それに彼女のいう理屈も一理ある。
店主を助けることになったのは行きがかり上で、もうかなり昔のことになる。モブリットを覚えていないかもしれない。けれど店主も、その妻も、悪い人物には思えなかった。ここまで土砂降りに当てられた人間が二人も同時に飛び込んでくれば、そのまま放り出すようなことにはならないだろう。
もしも駄目なら彼女だけでも。
おそらく気づいていないのだろう小刻みに震えるハンジの肩を強く抱きながら、モブリットは目指す店に足を急がせた。


***************


夜半の急な来訪にも関わらず、店主はすぐに二人を中へと迎えてくれた。
事情の説明もそこそこに真新しいタオルをくれて、部屋を用意してくれた彼は、モブリットを覚えていたらしい。物置代わりにしていた部屋で申し訳ないと恐縮する彼の妻に、無理なお願いをしているのは自分達だと頭を下げるハンジは、確かに哀れみを誘うには十分な濡れ鼠になっていた。
外より断然暖かい室内の空気で白く曇った眼鏡を外すと、上気した頬と潤んだ瞳がより印象的になる。

「大丈夫ですか」
「うん、平気。ちょっと見えずらいだけだよ」

拭いてもすぐに薄く曇ってしまう眼鏡の下で目を瞬かせるハンジを気遣えば、他に何を言ったわけでもないのに、店主は何を思ったのか目顔でモブリットに頷いてみせた。それから二人を二階の奥部屋へと案内してくれる。

「この部屋です。着替えは息子と妻のものになりやすが、そのままよりかは良いはずですんで」
「ゆっくりされてくださいねえ」

気の良さそうな笑顔で声を掛けてくれた店主の妻が、二人分の着替えを木机の上に置く。

「突然押し掛けてすみません。大変助かりました」
「本当にありがとうございます」

にこやかに出ていく二人に揃って声を掛け、ドアが閉まるとどちらからともなく息を吐いた。やっと人心地つけた気分だ。
ハンジは鞄を下ろし椅子に置いた。それから滴る髪をタオルでがしがしと拭きながら、改めて部屋を見渡してみる。
狭い室内にベッドは一つ。ソファはなし。木製の椅子と机が一つずつ。
物置代わりと言っていたが、部屋の隅に箱がいくつか置かれているだけで、煩雑な印象も受けない。ここより隊舎にある自分の研究室の方が、現在進行形で毎日使っている部屋だというのに余程雑然として見えるくらいだ。元々綺麗好きな夫婦なのか、自分達の為に慌てて片づけてくれたのか。
どちらにせよ、まだ窓を揺らして打ちつける大雨の中から救われた。

「ベッド、分隊長が使ってください」

眼鏡を外し、首元に流れる滴を拭っていたハンジは、モブリットの言葉にはっきりと眉を潜めた。

「何言ってるの。屋根のある部屋を借りられたのは君のおかげだ。モブリットが使うべきだよ」
「それを言うならあなたの作戦勝ちだったかもしれないじゃないですか」
「作戦?」
「濡れ鼠作戦」
「はぁ!?」

誰が聞いても理由にならない言い掛かりに、ハンジは思わず声を荒げた。
あの夫婦の様子なら、例えモブリットが一人であっても快く部屋を貸してくれただろうことは容易に想像がつくというものだ。
けれどもそう簡単に頷く気配の見せないモブリットの頑固さに、ハンジはため息をついた。

「とりあえず濡れた服を着替えようか。せっかく寝間着を貸してくれたんだし」
「……そうですね……って、さすがに豪快に脱ぎすぎです分隊長!」

言いながら豪快に前を肌蹴たシャツを脱ぎ、下着に手を掛けたハンジを、モブリットが慌てたように制止した。自分はあっさりシャツを脱ぎ捨てているくせに、今更何がどうしたと言うのか。下着姿を見せたのは初めてだったような、そうでもないような。
兵士として過ごした時間は長いから、そこに意識をおいたことはなかったのだが。

「だって寒いし。ほら、ちゃっちゃと脱げばすぐだって」

まあいいか、と途中で考えるのを止めにして、ハンジはスカートに手を掛ける。下ろしかけて、口をパクパクとさせているモブリットに気がついた。仕方なしに背中を向ければ、息を飲んで後退ったモブリットも、ぐるりと勢いよく後ろを向いた。

「ぐっ、ぜ、絶対にこっちを見ないでくださいよ!」
「女子か。見ないから君も早く着替えなよ」
「あなたはもう少し見られる可能性を考慮してください!」

怒鳴ったモブリットに、ハンジは揶揄するように口角を上げた。

「お? なに、モブリット見るの?」
「見ませんよ! それでも見えたら意識してしまうでしょうが!」
「あーそっかそっか。性別不詳のハンジさんだもんね」

それは新兵達の間で出回ることのあるハンジの噂だ。
兵士としてある程度過ごせば、いくら貧相な胸回りだろうが、括れが筋肉で覆われようが、人間のあるべき骨格から男女の別はつくものだ。が、年若い兵士達にそんな判断能力まで誰も求めたりしていない。
だからハンジ然り、ナナバ然り、そういう言は例年少なからず聞こえてくる。
けれどもそれはモブリットにも原因があるのに、とハンジは思わないでもなかった。
ハンジよりよほど短く切り揃えた髪のナナバが早々に女性と認識されるのは、ミケが彼女をそう扱っているからで、二人の空気を感じ取り、納得したという兵士は実は多い。
それに比べてモブリットは。
何くれとまるで母親のようにハンジの身の回りの世話をして、食べさせ、寝かせ、挙げ句風呂の算段までする。後ろから思い切り腕を回してハンジの暴走を止めるなんてのは日常だ。明らかに男性然としているモブリットが、距離を取らず接する上司――異性より同性懸念が色濃く根付くのも無理からない。

「どっちか気になって見ちゃうってもんかー」

そんなハンジの脱衣の現場に居合わせれば、気になる兵士もいるだろう。
はは、と笑いながら水気を拭い、寝間着に袖を通したハンジへ、背中を向けたままガシガシと髪の毛を乱暴に拭っていたモブリットが心底呆れたように息を吐いた。

「何言ってるんですか。どこからどう見ても女性でしょうあなたは」
「――え?」
「だから余計に身体をひやさないようにベッドを使ってくださいと言っているんです」

思わず振り返ったハンジは、ランプの明かりの下、シャツを羽織る寸前のモブリットのまだ少し濡れた背中を見た。
服の上からではあまり感じない整った筋肉は、壁外を数年生き抜いてきた兵士のそれだ。ハンジはそれを知っている。
知っているのに、自分とはやはり違う厚みから思わず顔を背けてしまった。
そうしてしまったのは、掛けられた言葉のせいか。

「……意識させるなよ」
「はい?」
「何でもない」

ぼそりと呟いた言葉はモブリットには聞こえなかったようだ。ホッとして、ハンジも素早く寝間着に着替えると、椅子に置いたままになっていた鞄の存在を思い出した。慌てて駆け寄る。気配で察したのか、モブリットもシャツの寝間着のボタンを掛けながらでこちらを向いた。

「本! 濡れてないかな。水気に注意って言われたんだよね」
「俺もそう言われていました。大丈夫だといいんですが……」
「モブリットも?」

あの読みかけの小説は私物ではなかったのか。
疑問に思いながら鞄を引っくり返すように本を取り出す。横手からモブリットも紙袋を取り、小説とは別の一冊を取り出した。
薄明りの中でも、その装丁には既視感がある。
ハンジは自分の持つ本とそれを見比べた。とても似ている。
鞄に入れるまでモブリットが手に持っていたせいか、ハンジの本より濡れてしまっているようだが、パラパラと捲りながらモブリットはホッとしたような表情になった。どうやら中は無事だったらしい。

「その本――」
「裏路地の古書店で見つけたんです。ほら、前に話していた二冊で一セットになっているという挿し絵付きの――ですがこちらしか見つけられなくて」
「あああ! 商家の世間知らずの次男坊! ……って君か!」
「はい?」

古書店での老店主の言葉がまざまざと甦って、ハンジは思わず大声を上げた。
店員を断り切れず絵筆を買い込み、巨大樹に興味のある、ハンジと気の合いそうな男。
彼の観察眼は悪くなかったばかりに騙された。職業だけが大いに違う。
きょとんと目を丸くしてハンジを見遣るモブリットは、確かに商家の次男坊でも通りそうな無垢さを充分装えそうだ。
けれど彼が意外と融通の利かない狸でもあると、ハンジは身をもって知っている。

「いやいや、こっちの話」
「はあ……?」

人が良さそうに見えるのは、穏やかなヘーゼルの瞳のせいに違いない。
これがたまに眦を吊り上げ、時には思い切り眉を寄せてハンジを映すことを知る者は、まだあまりいないのだ。人を食ったような感のある、あの老店主でも見抜けなかったのは当然だ。クツクツと笑いがこみ上げてくる。ますます訝しげな表情で首を傾げるモブリットの視線を感じながら、ハンジは自分の買った本を見せた。

「実は私がそのもう一冊を見つけたんだ」
「本当ですか!」
「まさかこんな偶然があるだなんてね」

勢い込んだモブリットに笑いながら頷いて、ハンジは本の中が濡れていないか確かめてみる。
表紙こそ少し濡れて、中に湿った感じがあるものの、こちらも問題はなさそうだ。

「良かった。どっちもそんなに被害ないみたいだよ。明日までにきっと乾くから、戻ったら一緒に読もうね」
「楽しみですね」

インクの滲む個所は見られない。それよりもモブリットの紙袋は、完全に所々が撚れて破けてしまっていた。
明日はハンジの鞄に全部詰めてしまえばいい。
たくさん入るものを、というリクエストに応えて部下が見つけてくれた鞄には、ハンジとモブリット二人分の荷を入れて尚余裕があるくらいだ。
机の上に二冊の本を少し間を空けて並べたモブリットが、スケッチブックに手を伸ばした。
麻色の表紙に雨色が染み込んでいるようだが、これも問題はなかったらしい。心なし、資料本の無事を確認した時より眦を緩めたモブリットが息を溢すようにハンジに言った。

「スケッチブックも無事でした」

微笑まれて、何とはなしに目を逸らし、ハンジも文鎮に手を伸ばした。
同じ鞄に入れていたのに、おそらく場所のせいだろう。ロゴとマークのインクがすっかり滲んでしまった包装紙は、使い物になりそうにない。あっさりと破いて取り出せば、文鎮はハンジの手のひらにすっぽりと収まった。

「こっちは――光って綺麗だ」

窓辺から差し込む月でもあればもっと綺麗に見えただろう。
残念ながら雨の叩きつける窓ではそれを期待できそうにないが、濡れたガラスの表面がランプの橙が揺らめく度に反射して、ハンジの目を楽しませてくれる。
モブリットがこれをくれて良かった。
自分でも意外なほど、ハンジはこれが欲しかったようだ。見ていると温かくなる胸の内を感じながら知らずハンジの頬が緩む。

「……良かったです」
「うん。本当にありがとうモブリット。すごく嬉しい」
「――」

いつか壁外にガラスの中の花と同じものを探せる日がくればいい。
今はまだ夢想のように想いを馳せるに過ぎないが、遠くないいつか。モブリットと、これはどうだ、花弁の形が、などと言い合えれば随分楽しくなるような気がする。
無意識にそっと唇をつけて、ハンジは文鎮を机に置いた。
他に筆や鉛筆や木炭や、買った物を並べておけば、明日までには湿気もだいぶ飛ぶだろう。
それからモブリットを振り返れば、何も描かれていないスケッチブックを開いて無心に見つめる彼は、こちらを向いていなかった。何だろう。そんなに気になる紙でも使われていたのだろうか。
その辺りはハンジの門外漢だ。
鞄を逆さに開いて椅子の背に掛け、ハンジはさっさと踵を返した。

「さて、じゃあもう寝ようか。モブリット、奥がいい?」
「――いやいや! ですから分隊長が使ってくださいと」

壁際に寄せて置かれたベッドシーツを捲ると、モブリットの慌てた声が追いかける。それを無視してハンジはモブリットの腕を引き、ベッドの上に座らせた。腰を浮かせようとする彼を許さず、肩を押さえる。

「断る。ここで一緒に寝よう。二人ともずぶ濡れだったんだから、どっちか椅子でなんか寝たら風邪を引く」
「で、ですが!」
「どうしても私と一緒が我慢できないって言うなら、ここを見つけてくれたのは君だ。私が椅子で寝るよ」

尚も反論し掛けるモブリットにわざとらしくため息を吐いて、ハンジはくるりと後ろを向いた。
鞄を掛けた椅子へと足を踏み出す。

「ちょっ、待――ハンジさん!」

モブリットが、ハンジの手首を捕まえた。

「どうする?」

ハンジの問いに、モブリットが渋面になる。
こうなったらハンジは梃子でも引かないことを、モブリットは知っている。
これ以上言い合いをして家主に迷惑を掛けることも避けたい。それにここで更にモブリットが譲らなければ、頑固な自分達のことだ。最悪、二人共にベッドを使わず、椅子と床に転がることにもなりかねない。

「大丈夫、襲ったりしないよ」
「――……は?」

無言のまま最善策を考えているのだろうモブリットに、ハンジは安心材料のつもりで言葉を投げた。
数秒遅れて、モブリットが間の抜けた声で答える。襲う、というのは考えもしていなかったらしい。男女を意識させるような発言をしたのはモブリットなのに、おかしなものだ。少しだけ不思議に思い、ああ、とハンジは手を打った。

「君が私を襲ってしまうかもってことなら」
「そっ、そんなこと――」
「いいよ」

それならそれで仕方ない。
冬場の雪山遭難などとは状況が違うが、そういうこともあるだろう。

「ハ、――ア!?」

ハンジの提案に、モブリットは充分な間を空けて、殊更驚愕に目を見開いた。
その様子に薄く笑ってハンジは僅かに目を伏せる。

「いいよ。まあ今はちょっと特殊な状況下だし、私たちは一応男女だ。君がいいなら別にいい。仕方ないと思う。男性はそういう気分になることだってあるだろうし、別に後で査問に掛けたりしないよ。……それに、壁外調査前後はただでさえそういうことになりやす――」
「ハンジさん」
「え――わっ」

言葉の途中で、モブリットが手首を引いた。思わず前につんのめったハンジの身体を支えながら、それでも少し乱暴な動作でモブリットがベッドに押し倒す。圧し掛かってくる気配を感じて思わず目を閉じたハンジは、ギ、というベッドの軋む音を聞いた。
それから自分の首元を埋めるように差し込まれたシーツの感触と、壁際のマットが沈む感覚――。

「この線から入らないでください」
「……モブリット?」

おそるおそる目を開ける。
顔だけ横を向けると、ベッドに寝かされた自分を、モブリットがひどく無表情で見下ろしていた。トトン、と指先で示された頭の横を慌てて見れば、モブリットがピッとシーツに横一直線の線を引いた。
ハンジがそれを見たのを確認し、シーツの中に入ったモブリットは、そのまま背中を向けてしまった。

「こっちも見ないでください」

モブリットのこんな声音は、あまり聞くことがない。けれど、怒っているのだとはっきりとわかる。

「……ごめん」
「寝てください」

もぞもぞと身体を反転させ、言われるままにハンジもモブリットに背中を向けた。こっちを見るなという言葉には従える。けれど、狭いベッドの中だ。入るなと示された線の境界線上に、縮こまっても互いの背中が触れ合ってしまう。
ベッドサイドのぎりぎりにまで寄ってもいいが、そうすればモブリットを余計に怒らせてしまいそうで、ハンジは「モブリット」と小さく呼んだ。

「ごめん、あのさ……背中当たっちゃうのはいい?」
「仕方ないじゃないですか。一人用なんですから」
「うん、……ごめん」

仕方ない。
ついさっき同じ言葉をモブリットに使ったのは自分なのに、ひどく突き放された気分になった。
ぎゅっと胸の辺りのシャツを握って、情けないような泣きたいような気持ちになる。
すぐ傍に感じるモブリットの背中はとても温かいのに、また一人で公園のベンチに座っている時のような気分だ。ごめん、と呟いたハンジの後ろで、モブリットが息を溢すのがわかる。思わず唇を噛んだところで、モブリットが静かに口を開いた。

「謝らないでください。俺が、必要以上に意識したのもいけませんでした。あなたの言うとおりです。さっさと寝れば良かったんです。申し訳ありませんでした」
「違う。モブリットは悪くないよ。私が――」
「ハンジさん」

モブリットの声は静かだ。ともすれば外の雷雨にかき消されてしまうような。
それでも重なる背中越しにはっきりと響いて、ハンジは口を噤んだ。
こちらを見ないモブリットは身動ぎもせず、言葉を続ける。

「特殊な状況下なので言ってしまいますけど、本当にそういうどうしようもない情動をと言うのであれば多分しますよ。俺はあなたが好きなので。でも、それは今じゃない。あなたを尊敬しています。大切な人です。だから、俺のことであなたに後悔させたくない」

まるで言葉に抱きしめられているかのようだ。モブリットが自分に向ける心からの気遣いを感じる。
訥々と紡がれる低い声は、真摯で、それでいて少し厚ぼったい甘さがある。酷いことを言ったのに、それよりもハンジの気持ちを優先してくれる優しさに目蓋がじわりと熱くなってくる。

「……焦っていたんだ」
「……」

ぽそり、と溢せば、モブリットの背中が僅かに動いた。
今日――いや、もう長いことずっとため込んでいた想いを吐き出すように、ハア、と深く長い息を吐く。
それからしばらく落とした無言にも、モブリットはただ黙って待っていてくれた。
街中を行きながら、公園のベンチで、何かを見る度にぐるぐると過ぎっては答えの出ない自問自答を背中越しに打ち明ける。

「恐怖も怒りも憎しみも、――後悔も、そういったものを全て一度フラットにして、研究に邁進すると決めた。けど、実際前進は微々たるもので、思索の方向に自信はあるけど、それには資金も規則も何もかもが足りなくて、常に雁字搦めだと感じてしまう。今回の犠牲者にしたってそうだ。我々が巨人の急所をもっと複数箇所見つけられていれば――……それには壁内拘束の実験許可が必要だ。なのに議会はなかなか首を縦に振らない。堂々巡りで、私は――私が見ている光は、もしかして――」

幻なのかもしれない、などと一瞬でも思わないとは言い切れない。
それが悪だと言う気はないし、そうでないこともわかっている。
けれど、その後暗い想いが過ぎり出すと、まるで自分のせいで幾人もの部下の命を失わせてしまったような、驕った感情に陥りそうになる。

「あなた一人の力で出来ることには限界があります」

モブリットは、非難でも励ますでもなく、淡々と言った。

「あなたの発想は無限の可能性を持っている。でもその可能性を信じるのも疑うのも、従うかそうでないかも、それぞれが全て自身で選んだ道です。あなたに決められたことでも決められることでもない」
「……うん」
「それとは別に、後悔するのは普通でしょう。現状を嘆くのも。あなたも俺も、どこにでもいる普通の人間なんですから。それくらい、いつでもいくらでもすればいい」
「うん」

清々しい事実だ。
独り善がりの後悔と懺悔を正しく切り捨ててくれたモブリットは、ハッとしたように言葉を止めた。
それからもうこれ以上丸めようもない背中を縮こませる。

「……すみません」
「いいんだ。そのとおりだよ。わかってるのに、それを認めるのもきっと怖くて、抱え込んで――今日も、君に会うまで、ずっとどうしようもないのにこんなことばっかり考えて、出口が見えなくなっていたんだ」

モブリットといるのは楽だと思った。
まるでいつもと変わらないやり取りをして、少しいつもと違う彼を知ったりもして。
そうすることで見たくないものから目を逸らし、見えてる事実に気づいていないふりをしていた。

「さっきさ」

そうして優しいモブリットのせいにして、無意識に彼まで引きずり込もうとしていた自分の狡さを、モブリットが止めてくれた。

「モブリットに甘えてごめん」
「……いいえ」

変な誘い方を怒ってくれた彼に心の底から謝罪する。
背中を少しだけ押しつけてそう言うと、モブリットはもごもごと口篭もるような口調になった。
つい今しがた、ハンジの浅はかな言動をきっぱりはっきり断罪してくれた本人と同一人物とは思えない。
ちらりと視線だけで背中の様子を伺って、ハンジは表情を和らげた。

「それからありがとう」
「はい?」
「特殊な状況下だから言うけど、私もモブリットが好きだよ。だから、そういうどうしようもない状況で君が望むなら、その時は本当にいいと思う。……でも、今じゃないよね。君が言ってくれて良かった。本当に。私も、モブリットに私のことで後悔させたくないよ。明日の朝は、ちゃんとおはようって笑って言いたい」

だからおかしなことにならなくて良かった。
彼の穏やかなヘーゼルの瞳に、もう二度と映らないようなことにならなくて本当に良かった。
おかげで明日もまた彼の目を真っ直ぐに見ることが出来る。
怒りも嘆きも後悔も全てを抱えて、見つけだした可能性に素直に縋って、脇目だらけでも走って行ける。

「モブリットがいてくれて良かった」

言葉にすると少しだけ照れくさいような気もするが、言ってしまった本音は雨脚の強まる夜半でもモブリットに届いたようだった。背中がピンと面白いくらいに反応して、彼も照れたのかもしれない。
しばらく雷鳴と風雨に叩かれる窓の音だけを聞いていたハンジは、その騒音に紛れるように呟かれた言葉を聞き漏らさなかった。

「……どうしてもならこっち向いてもいいですよ」
「ぶっふぉ! いいよいいよ。意識させちゃったら悪いから」
「ぐっ! もう遅いですけどね!」

思い切り噴き出したハンジの笑い方は、背中を通してモブリットにしっかり伝わってしまっている。
クックッと細かく振動するハンジを、モブリットが背中でぐいっと押してきた。

「ごめんって。モブリットはこっち向きたくなったら向いてもいいよ」
「結構です。意識したと思われたら癪ですから」
「ぶっくくく……ねえ、モブリット」

笑いすぎて目尻に滲んだ涙を拭う。
名前を呼ぶと、また揶揄されるとでも思ったのか、モブリットの身体が警戒するように固まった。
その様子に内心で苦笑して、ハンジはもぞりとモブリットの背に少しだけ凭れるように寄った。

「本当にありがとうね」
「……いいえ」

背中が少し柔らかくなる。
手を回して確かめたいような気にもなったが、今夜は彼との約束を守らなければ。
ハンジは代わりに自分の手のひらを二、三度握っては開きを繰り返して諦めた。

「ついでに言うと、本当はモブリットがしてきたらどうしようってちょっとビクビクしてたんだよね」
「自分で言い出したくせにですか」
「そう。そういうことしたことないから」
「……」
「……」

丸まった背がまた少し固まって、それからモブリットの身動ぐ気配がした。
起き上がるのかと思ったが、どうやら踏み止まったらしい。
また元の位置に戻った背中から、モブリットが戸惑うような声を出した。

「……はい? え、あ、特殊な状況下で、ということですか?」
「さあ」
「……」
「……」

飄々と嘯いたハンジに、モブリットは無言になった。
特殊な状況下で――そもそもこんな状況に陥ることは、人生そうあるものじゃない。
休暇が重なることも、街でバッタリ出会うことも、突然の雨に襲われて、ほとんど見知らぬ人の家で同じベッドで眠ることも。
よくよく思い返せばあり得ない連続だ。
声にはせずに、けれども咽喉の奥だけで笑いを逃がすと、背中でそれを感じたらしいモブリットが、何故だか少しムッとしたのがわかった。

「モブリット?」

揶揄するつもりではなかったのだが。
後ろの気配に呼びかける。

「ついでだから言いますけど、俺はありますよ」
「え」

と、モブリットのやや憮然とした口調が聞こえて、ハンジは思わず口を開けた。
それは――つまり、

「……特殊な状況下の話?」
「さあ」
「……」
「……」

同じ返しをされただけだ。
が、感情が篭もらないで聞こえる声が、やけに背後のモブリットを意識させて、ハンジは意味を考えてしまった。
俺はあります――え、何をだ。
そういう行為を? それとも特殊な状況下で、昴る感情の捌け口として? 壁外調査の前、いや、後で? 
そんな状況になったことなんてあっただろうか。

(相手いたのか……あれでも恋人はいないってさっき……ん? じゃあやっぱり特殊な状況下――……あったか?)

壁外に出るようになって、共に行動をするようになって短くない。
いつの話だと記憶を遡っていると、繋いだ背中が小刻みに揺れだしたのに気づいた。
ぶっと堪えきれないように吐き出された息が続く。

「……」

してやられたようだ。
昼間の店先でもそうだったが、案外こういう切り替えしも早い男だったのか。
厚顔は嫌いじゃない。が、今のは少し面白くない。
半眼で後ろの気配を睨んで、ハンジはシーツを強めに引いて丸まった。そうすれば、モブリットもシーツを引いてすかさず二人で取り合いになる。

「……やっぱりモブリットはこっち向くの禁止だな!」
「ハンジさんこそ。明日の朝まで背中以外触らないでくださいよ」
「いつも触ってるみたいいな言い方するな。後ろからしてくるのモブリットだろ」
「言い方に気をつけてください、特殊な状況下なんですから!」

お互い引き合いながら言い争って、同時に噴き出す。
つけた背中から震える呼吸のタイミングが合うのがわかって、くすぐったいような温かさが胸にまで広がった。

「また意識させちゃった?」
「してるのはあなたもでしょうが」
「ぶっは、違いないね。緊張するなー。気が気じゃないなー」
「……そんな眠たげに言われても」

緊張感が感じられないと言うモブリットも声音はひどく柔らかだ。
発音の度に少しだけ振動を感じる背中の温かさもちょうど良くて、ハンジはゆっくりと目蓋を下ろした。

「だってモブリット気持ち良いから」
「……」

最初から頼りきるつもりは毛頭ないが、こうして濡れて冷えた身体を預けることの出来る彼がいてくれて良かった。もう一度強くそう思う。
背中合わせでも聞こえる心音のリズムが、自分も同じなのだと実感出来る。シャツ越しの体温が、ハンジの中に染み渡るようだ。

「ねえ、モブリット」

下ろした目蓋の裏に今日までに通り過ぎた様々な過去を映して、ハンジはモブリットを小さく呼んだ。
刺繍の鞄も、選んだ部下も、彼女との会話も。研究も、挫折も、憤りも。初めて蹴った巨人の頭部、最後の力を振り絞り仲間が食われた最後から腱の回復見込み時間を伝えて事切れた部下の顔も。何もかも。
情けなさも、情けなくてもそれがあなただと指摘してくれたモブリットがいる。

「私さ、今夜のことを忘れない。君との会話も。私の足掻きも。全部、忘れない」
「俺も忘れません」
「――」

寝ていてもかまわないと思った告白にすかさず同意で返されて、ハンジは思わず目を開けた。
背中以外は触れていないのに、言葉が空気を震わせて、重なった背中からもじわりと染み込んでくるようだ。
この温もりもきっと一生覚えている。

「……うん。おやすみ」
「おやすみなさい、ハンジさん」

背中がとても温かい。
あれだけ冷えていた身体と心が溶かされて、やっと動き出せそうな気がした。
再びゆっくりと目蓋を下ろして、ハンジは少しだけモブリットの背中に自分の背中を擦り寄せた。


【FIN.】


モブリットとハンジが壁外調査後の休暇中にばったり会って、話をしたり、御飯を食べたり、買い物をしたりする話。
気持ちのベクトルとして男女の想いはまだないモブハン。ウォール・マリア崩壊前の悩めるハンジさん捏造です。本当は班長の方が階級的には良さそうなんですが、「分隊長」の響きが好きなのでそこはライトに!ライトに!軽率にモブハン!!