雷鳴にかくして



奇妙に暑い夜だった。
春と呼ぶにはまだ早すぎて、夕方ともなれば外套がなければ外はまだ寒い季節だというのに、おかしなこともあったものだ。
日中は厚く垂れ込めた雲の下に、時折小雨がちらついていた。地表に溜まった僅かばかりの熱も、今ではすっかり冷え切っている頃合だろうに。
ランプの心許ない明かりに揺れる琥珀色の液体が入った小瓶を眺めて、ハンジは外の風雨を受け、ガタガタと鳴った窓に視線を向ける。

――昼間、禁書の受け渡しに出た。

地下蔵へと続く湿った石造りの回廊を抜け、年季の入った帽子を目深に被る店主を無言で促すと、用意されていた紙袋を示された。足早に近寄り確認する。その紙袋の中に、見慣れない小瓶が入っていた。胸ポケットに忍ばせてしまえそうな大きさの中身は、一見すれば酒のようだ。元々謎掛けの好きな店主だ。いつの頃からか、取引の古書の間にオマケのような紙面が挟まれていたり、情報に繋がる詩の引用をしたためた包み紙をジョークのように使用してくれることがあった。そうかと思えば突然単なる飴玉をポケットに意味ありげに忍ばせられたこともある。地下に蔓延る良くない薬の類かとモブリットと成分や出所を調べ、出た結論がマリアの果物屋でオマケに配られる飴だったとわかった時には、してやられたと思ったものだ。
そんなふうだったから、小瓶の中身についてもハンジは敢えて店主に何も問わなかった。
今回も見張りを兼ねて待っていてくれたモブリットと合流し、市井の人波に紛れてから、貰ったそれを見せる。僅かに眉を顰めた彼の意見も「酒だとは思いますが」というもので、ひとまずの当たりは共通だった。

隊に帰投し、禁書をあるべき書庫の一室に厳重に保管し、数冊は研究室に持ち運ぶ。
急を要するものはないので、小瓶に意識がもっていかれたのは自然な流れだった。
コルクの栓を抜き、手で仰いで確認した香りは度数の強いアルコールそのもののようだ。が、瓶には何の銘柄もない。酒だと断じて一気に飲むのはさすがに躊躇われて、念の為、成分を調べてみようという話になったのは自然の流れだ。
そうして行った即席の成分検査では、構成成分におかしなものは含まれておらず、特に不審な点も見当たらない。次の手法に頭を巡らせているモブリットの横で、ハンジは瓶に鼻をつけるようにして嗅いでみたが、やはりアルコールにしか思えなかった。

「あ、でもちょっとクラッときたかも」
「直接嗅いだんですか。まだ止めてくださいよちょっと」
「甘い香りだった」
「聞いてます?」

胡乱げな視線を向けられて、わざとらしく大きく小瓶から顔を離す。まったくもうと言わんばかりに息を吐いたモブリットが、資料を漁り背を向けた隙に、舌先に少し垂らしてもみた。毒なら痺れるなり何なりあるはずだ。そう思ったが、特に毒性のものに感じる違和感はなかった。苦味よりも甘味を感じ、さらにそれよりも濃度の高い原酒に感じる噎せ返るような厚ぼったい香りが口中に広がる。鼻に抜ける瞬間ウッと思ったが、つい今しがた注意を喚起してきたモブリットの手前、ハンジは喉を鳴らして酒気を慌てて飲み込んだ。
一瞬、強い酒を流し込んだ後のように、喉が灼けたような気がする。

「……?」

けれどもそれは本当に一瞬のことで、モブリットが振り返る前に、ハンジは小瓶を顔の前から離すことに成功した。
資料を捲っていたモブリットは、しかし不穏な何かを察したらしい。小さい子供の悪戯から守るように、ハンジの手から小瓶を抜き取る。

「少しお借りしてもよろしいですか?」
「何か思い当たることでもあった?」
「確証はありませんが、気になることがあります」

何を、とは言わないモブリットを今突き詰めても、こういう時の彼が頑として口を割らないことを、長い付き合いからハンジは知っていた。
それに、きちんと結論が出れば、彼から某かの報告があることを疑ってはいない。

「いいよ。一人で飲むんじゃなければ」

おどけて言ったハンジに「飲みません」と生真面目に返すモブリットは、まったく笑っていなかった。
酒だったら後で飲もうと言って、小瓶がモブリットの胸ポケットに入れられるのをハンジは見た。

(――そうだ。その小瓶じゃないか。モブリット、いつの間に戻してくれたんだっけ)

湧いた疑問に答えを求めて視線を動かす。と、目の前にモブリットが佇んでいた。どうして気づかなかったんだろう。けれどそんな疑問より、滅多に見ない表情に、ハンジの意識が持っていかれる。
いつも基本はポーカーフェイスを貫く彼が、今は何故か苦悶を眉に刻んで見えた。一見して様子がおかしい。
ゆっくりと身体を起こしたハンジにモブリットが身を屈めた。苦しそうに熱い吐息が耳朶にかかるほど近くなる。

「モブリット……?」

問うハンジへ、凭れるような動きで、モブリットはソファへと身体を押しつけてきた。

「どうし」
「ハンジさん」
「――」

そうして耳に直接吹き込まれた自分の名前が、ハンジの背筋を泡立たせた。低い声音は常にない熱を孕んでいるとわかる。慌てて押し返そうとしたが、手に力が入らない。震えるようにモブリットのシャツを掴み、もう一度、出来るだけ平静を装って「どうしたの」と問いかければ、彼はハンジの首筋に、まるで請うように唇をつけた。

「ぁ、っン!」

それだけで自分でも驚くくらいあえかな声が出た。
戸惑うハンジからゆっくりと顔を上げたモブリットが、熱の篭もった視線で見つめる。

「モ、モブ――」
「ハンジさん」
「何――ぅ、あっ」

手が頬をなぞり、唇に触れ、鎖骨におりる。
普段は穏やかに自分を映すモブリットのヘーゼルの瞳は、はっきりと情欲に塗れていた。ただ触れているだけ。それに譫言のように名前を呼ばれているだけで、ハンジの身体の奥がずくりと痺れる。

「どうしたの……っ」
「ダメですか」
「え、いや、な、何が」
「手だけでいいですから――」

何を、と言い掛けたハンジの手をモブリットが奪う。そのまま下に触れさせられて、ハンジは思わず息を飲んだ。彼のものがハンジの手の下で驚くほどに脈打っている。彼のそんなところを知らない。
どうして、彼は何を、なに――。
疑問が膨れあがって、けれどもまた耳元で呼ばれて霧散する。
同時に手がびくりと跳ねた。その動きに呼応するかのように、モブリットが息を詰める。ハンジの手に自分の手を重ね、上から更に強く宛わせると、強請るように、モブリットの唇がハンジの首筋を甘く食んだ。

「ふ、ッ――、やっ」
「……ハンジさん」
「モ、モブリット、待って、どうしたの……ち、近いって――」
「ハンジさん」

声音に懇願の色が強くなった。
服の上からでもはっきりとわかるモブリットの昴りは、苦しそうに張りつめている。名前を呼ばれる度に吐息が直接ハンジの皮膚に染み込んで、そこから熱が身体の芯まで揺さぶり始める。

何か、おかしい。何か変だ。
でもいったい、どうして、何が――

「あなたもでしょう……?」
「え?」
「ほら、……ここです」
「あ――待っ、ふわっ!?」

思考を奪うように、モブリットの手がハンジの足の間を撫で上げた。思わず上擦った声が出る。身を捩っても強く押し返せない自分の手が、言葉とは裏腹に彼のシャツにしがみついた。
モブリットの指先が、強弱をつけながら執拗にハンジの付け根を擦る。縫い目の上から敏感な部分を強く押されて、ぎゅうと太腿に力が入った。

「ハンジさん」
「だ、だめだ、モブリット、そ、な――んうぅッ!」

服の上からだけだというのに、自分でもはっきりとわかるほど、ハンジのそこは濡れていた。

こんなことは初めてだ。たったこれだけの行為で中から溢れるほどだなんて。まだ直接触られてもいないのに。

(直接――あ、まずい……っ)

単なる疑問を浮かべたはずが、弄る指先に直接触れられる感覚を想像してしまった。一度浮かんだ妄想が、ハンジの頭から離れない。急激にもどかしさを覚えた下肢を、モブリットの手を挟み込んだまま、ハンジはもじもじと擦り合わせた。

自分はどうなってしまったんだろう。
モブリットは――モブリットも、何で、急にこんなことを――

「このままじゃつらいですよね……俺も――わかりますか?」
「わか……っ、ら、な」
「本当に?」
「ひぁっ!」

言いながら敏感な個所にカリと爪を立てられ身体が跳ねる。それを優しく一撫でしてから、モブリットはハンジの太腿に手のひらを這わせた。ゆっくりとベルトを外し始める。
慣れた拘束が解かれると同時に、再び付け根を刺激されて、ハンジもまたモブリットの手にしがみついた。モブリットの肩に額を押しつけて、どうにか堪えようにも意図せず呼吸は荒くなる。小刻みに与えられる指の動きが、そこから腹の奥をじゅくりじゅくりと暴きたてる。

「ん、あっ、んん、ふ……ぁっ、うぅっ」
「ハンジさん」
「だ、だめ、モブリット、や、ぁ」
「俺も――こう……」
「――」

指の動きを強くして、モブリットが自身をハンジの手に押し当てた。ず、と腰を揺らす動きで、手のひらに硬い物の熱さを感じる。

「……モ、ブリット」
「ハンジさん」

鼻先で耳朶にかかる髪を掻き上げ、脳を直接震わすようなモブリットの声音はひどく辛そうだった。苦しいような、切ないような、切羽詰まった男の吐息が、ハンジの耳元で吐き出されている。
自身へは間断なく与えてくれる刺激に突き動かされるように、ハンジの手がそろりと動いた。

「ふ……、うくっ」

たどたどしく布越しに撫でる動きがもどかしいのか、焦れたように溢すモブリットの吐息は艶を孕んで、それにすら頭が溶かされそうだ。身体が熱い。
モブリットの手が、ハンジのズボンのホックに掛けられた。
その手を止めることが出来ない。
緩んだ隙間に、モブリットの手が入り込む。

「――あ……っ」

骨太い指先が下着の上から腹部にするりと触れて、ハンジは期待に声を上げた。
けれども何故か、その下へはやってこない。

(もう少し……っ、もっ、と……んっ)

くるはずの感覚に焦がれて、視界がじわりと滲み始める。
もっと、なんで、と混乱し始めたハンジを、モブリットが見つめている。

「……ット、んで、……お、ねが、……っ」

このままはつらい。
そう言ったのはモブリットのくせに。身体の中から灼けきれそうなこの感情が止まらない。おかしい。何で。――そうだ。おかしい。目の前に見えるモブリットは、自分と同じ、狂おしい情動に支配されているように見える。それはどうして――なんでいきなり――
背筋を駆け上がり、身体の深いところでぎゅうっと求める本能に抗がって、ハンジはきつく目を閉じた。


*******


ガタガタと揺れる窓辺がぼんやりと視界に映る。
窓を叩いて流れる水は止むことなく、その向こうの景色をすっかりボカしてしまっている。雨風は寝入る前より格段に酷くなっているようだった。
ハンジは知らずきつく握りしめていたジャケットから手を離した。良く知った匂いがする。
目線だけを動かすと、自分のジャケットが椅子に掛けられているのがわかった。

(モブリット――)

それならこのジャケットは彼が掛けてくれたものに違いない。
ハンジは気怠く痺れる身体を持ち上げて、どうにかソファに座り直した。
窓辺に小瓶は見当たらない。

(……夢)

彼が持って行ったはずのそれを窓辺に見たのも、モブリットがここにいたのも。

(いや、違う)

でも全てではないとハンジは薄々感づいていた。
心当たりを探ってくると言って出たはずのモブリットは、一度ここへ戻ってきたのだ。そうして寝てるハンジを見つけ、ジャケットを掛けて、一度去った。胸と太腿のベルトは外され、椅子の背に一緒に掛けられているが、ハンジがそうした覚えはない。おそらく彼がしたのだろう。
それは休むハンジの身体を思ってのことか、それとも別の何かからか。

「――モブリット」

小さく声に出してみる。
途端に夢の中の彼の視線が頭の中に浮かび上がり、ハンジは太腿を閉じ合わせた。身体の奥がずくりと蠢く。

やっぱりだ。

自分に起きている身体の変化を感じ取り、ハンジは眉を顰めた。落ち着けようと息を吐くが、それすら震えて話にならない。
これはかなり、マズいことになっている。

その時、部屋のドアが遠慮がちにノックされた。
答えないでいると、暗がりの中、カチリと鍵の開く音がして、今まで閉められていたのだと今更気づく。そんな程度のことにも頭が回らなくなっている自分に驚いて、だからこそ鍵を掛けられていたんだろうなとも察しがついた。言うなればこれは彼なりの配慮か。
薄くドアが開け極力音を立てずに入り込んできたその人影は、また部屋の鍵を掛けたようだった。ドアノブを掴んだまま息を吐く背中は何かを堪えているように見える。
そうして振り向いた彼は、ソファに座るハンジを見つけ、ぎょっとした顔になった。

「やあ」
「……起きてらしたんですか」
「ついさっきね」

ジャケットを羽織っていないモブリットは、何かを探るような視線を向けて、それから二、三歩近づいて止まる。
その様子に、ああやっぱりな、と冷静な頭でハンジは思った。
暗いまま、明かりを点けようとしないモブリットも、それを咎めない自分も、おそらく今少しおかしいのだろう。
モブリットのジャケットを膝に掛けたままのハンジを、常より少し熱っぽい視線で彼が見遣る。

「遅くなってすみません。調査班から分析の結果が出ました」
「うん。それで?」

膝に置いたジャケットの胸ポケットに、小瓶は入っていなかった。
モブリットが持っている様子もない。
調査班預かりにしてきたのだろうと察して、ハンジは続きを促した。
これで、あれが単なるアルコールではなかったことが証明されたというものだろう。

「――高神経促進剤、摂取は主に経口ですが、原液に近いほど揮発性も高く吸入でも可となるそうです。効能は神経過敏、主に交感神経の超促進による一時的な興奮、幻覚。一種の強力な覚醒剤や自白剤と類似しますが、これのみによる常用習慣性も完全な意識混濁もありません。摂取後一定時間を経過すれば体内に蓄積もされない為、使用事後にこれが使用されたか否かの判断は非常に困難を極めるという報告がありました。ただし原液そのものでは濃度が高すぎる為、通常市井に出回る際は20倍以上での稀釈が認められます」

淡々と報告書を読み上げるように羅列された言葉に、ハンジは顎に手を当てて小さく唸った。一種の覚醒剤と反応は被る。けれども副作用や一部効能の観点から、そこに明確な違いがあった。

「聞いたことがあるな。少し前から地下を基盤に広がっているとかいう――」
「いわゆる催淫剤ですね」

これでもかというほど感情を排して告げられた結論に、ハンジも殊更真面目な顔で頷いてみせた。
出所どころか効能や存在自体が噂の域を出なかったものが手に入ったという状況は大きい。今後の操作は駐屯兵団が主体となるだろうが、成分がわかれば、それに使われる原材料から製造ルートを叩くのもそう遠くないことだろう。間違いなく、大きな前進に繋がる一歩だ。

「つまり、あれはほぼその原液というわけか。保管は?」
「調査班の危険物保管へ。団長への申請書は提出済みです。後日決済で良いとのことでしたので、分隊長のサインもお願いします。入手経路は三班主体で捜査をすべきかと思いますので、後程選抜し認可をいただけますか。調査中の駐屯兵団とも連携を図ります」
「わかった。その前に」
「はい?」

許可証の類を一切持たないモブリットをじっと見つめ、ハンジは震えそうになる咽喉を、そっと引き締めた。気づかれないように唇を噛み、ともすれば内側から迸りそうになる衝動をどうにか抑える。
まだ――まだ、もう少しなら。
僅かな矜持が理性的な口調を繕う。

「効果の消失までにかかる時間と摂取時の対応策は? 例えば拮抗薬の開発とか」

ハンジの知る限り――とは言っても門外漢甚だしいので聞きかじった市井の噂と大差はないが――明確な解決策は未だないはずだ。それでも今まさに最新の情報を仕入れてきただろうモブリットに、微かな期待を込めて聞く。
けれど、モブリットは否定の言葉を口にした。

「……稀釈の程度と摂取量にもよりますが、効果時間は通常使われる希釈率と量で1〜2時間程度という報告が上がっているようです。原液に近ければ近いほど即効性が高いとか。ただし一様に後遺症や記憶障害は見られません。それが幸か不幸かはそれぞれでしょう。尚、拮抗薬については医務班でそれなりに調整はしているようですが、現時点では効果的と呼べるものはありません。即効性と揮発性という特徴から調整が難しいようです。ですが摂取した薬剤は体液を通して薄まり、体外へ排出されるという実験結果がありますので、効果の消失まで耐えるか――」
「激しい運動でもして排出を促進する――つまり本来の目的を果たすしかない、と」

言葉を濁したモブリットを引継ぎ言ったハンジに、モブリットが息を飲む。それから不自然に視線を揺らして、ハンジの言葉を肯定した。

「……そういうことになります」

つまり、一度体内に取り込んでしまえば、催淫剤の効果に躍らされるしか手立てはないということだ。光は潰えた。
気力だけで僅かに残っていた理性が、急速に息を潜めていく。じんじんと痺れを強くしながらハンジを突き動かそうとしてくる衝動に、全て明け渡してしまいそうだ。

ハンジは長い溜息を吐いた。

――限界だ。
モブリットも、おそらくは。

けれどもハンジは、その比ではない。

「ところで。どうしてモブリットは一度ここに戻ってきたの?」
「え?」
「これ、掛けてくれたのあなたでしょう?」

分析結果からの話題転換に、モブリットが間の抜けた声を出した。
ハンジから膝掛けにしたままのジャケットを目線で示されて、ハッとした顔になる。それから明らかに様子を変えた。狼狽えたように視線を彷徨わせ、それから僅かに瞼を伏せる。

「――……お疲れだったようなので」
「転寝だと思った? それならいつもは起こして部屋に促すか、そのまま運んでくれるよね。ねえ、私に触れない理由でもあった?」
「……急ぎの、用が」
「分析は調査班の仕事だろう? モブリットが急いでも何も出来ない」

分かりやすい言い訳だ。
ハンジが鼻で笑うと、モブリットは先程よりも下を見つめ、両脇に下ろした手のひらをぐっと握ったようだった。
無言が静寂を支配して、二人の息遣いがやけに耳に届く気がした。
窓を叩く風雨の音すら、ハンジの情動を助ける効果音にしか聞こえなくなる。
ハンジは静かに目を閉じた。

「――……温かさと匂いのせいかな。夢を見たみたいなんだ」
「夢、ですか」
「幻覚かも」

どこまでが夢で、どこまでが現か。
目蓋の裏に映るモブリットは、切なさを湛え、けれども飢えた獣のような瞳でハンジを見つめていた。
――おそらくは、今の自分のように。

「モブリット」

触られた感覚が残るのは、ベルトが外されていたのは、きっと。
彼が本当に触れたから。
でも足りない。それだけじゃ全然、夢の中でも足りなかった。
ハンジはゆっくりと立ち上がる。

「あなたがいた。すごく近くに。あなたがいたんだ」

膝の上からジャケットが床へと滑り落ちた。
立ち上がり、モブリットの方へと足を進ませる。

「ハン――、分隊長」
「それって牽制? それともあなたなりの自制かな。さっきは名前で呼んでたくせに、なんでそう呼ばないの」
「お、起きてたんですかっ!?」
「やっぱりアレってあなただったんだ」
「な――」

夢の中でやたらに熱っぽく呼ばれたと思ったのは現実だったらしい。
くっと咽喉の奥で笑ったハンジに、モブリットが一歩後退る。
寝ているハンジのベルトを外して、それからどうするつもりだったのか。自制したのは彼の優しさに他ならないが、今のハンジには悪戯に刺激されたことにしかならない。
また一歩近づくと、モブリットが後ろに下がる。
けれども構わず、ハンジはどんどんと距離を詰めた。

「揮発性の高い原液――検証のセオリーとはいえ、私達は二人ともあれを嗅いだ。随分強いアルコールだなと思った。目眩がするほどに。でもそれはつまり、例の成分を体内に取り込んだ事実に他ならない。鼻腔粘液から毛細血管に入り込んで体内を巡り、……ああ、脳に近い分、ダイレクトに届く効果もあるのかもしれないね」
「あ、の」

トン、とモブリットの背中が壁についた。
その爪先に爪先がつくくらいに近づいて、ハンジはゆっくりとモブリットへ手を伸ばす。

「効果は? 変化はあった、よね?」

ハンジにはあった。もうどうしようもないほどに。
モブリットの頬に触れる。指先からチリチリと快感が跳ね上がり、ハンジはそのまま指の腹でモブリットの唇に触れた。

――続きを。
夢の中より明確な動きを欲している。

我慢はとうに振り切れて、心臓が痛い。
雨でけぶる空気の中で、モブリットの匂いがやけに艶めいて鼻腔からも刺激される。

「……モ、ブリット」

息が上がって耐えきれずに、ハンジは彼の名前を呼んだ。
耳に届く自分の声が聞いたこともない切なさを含んでいる。

もっと。
もっとそばに。
もっと中に。

ショーツの中に入ろうとして、入りきらないもどかしさはもう嫌だ。
今度はちゃんと最後まで――

「――ンジさん、ハンジさん! しっかりしてください!」
「んっ!」

モブリットに触れたまま、一瞬意識が飛んでいたらしい。
手を取られ、ハンジの頬に触れるモブリットはひどく心配げな顔をしていた。けれどもその瞳の奥に、思い描いていた欲望はないように見える。

(ああ、いや――)

違う。
ハンジのようにあからさまではないだけで、その奥には、熱が確かに揺らいで見えた。ハンジの咽喉が知らず鳴る。
意図せず小刻みな息は早くなり、そんなハンジを落ち着けようと、モブリットが殊更低い声で話し始めた。

「……確かに、俺達は微量を体内に取り込みました。原液な分、効果もそれなりかもしれません。けれど量でいえば本当に微量で――どちらにせよ先程報告した通りこれは一過性のものです。……落ち着いてください。こんなものに踊らされて、後悔するのは男の俺よりあなたです」

その声すら、刺激になる。

「俺は部屋に下がります。あなたは? 戻られますか? 安静が必要ならこのまま人払いをしておきます。あなたはここでしばらく――」
「踊らされてよ」

もう無理だ。足の付け根はじゅくじゅくと痺れて次の刺激を待っている。もう自分だけではどうしようもない。
ハッハッ、と荒くなる息を隠さずに、ハンジはモブリットの首に腕を回した。それを慌てて外させようとするモブリットの手を取り返す。

「……分隊長」
「手、貸して」
「……っ、ハンジさん!」

そのまま舌でなぶると、跳ねた声でモブリットが抗議した。同時に振り払われた手を、ハンジはおもむろに下へやった。
気づいていないとでも思っているのか。
さっきから主張してくるのは同じくせに。
指先でつ、と昴りをなぞる。

「っ!?」
「あなただって、これ、部屋に戻ってするんでしょう?」
「そっ、れは――」

ひくりと身体を揺らしたモブリットは否定をしない。
ハンジはすっとズボンのホックを外して、ジッパーを下げた。
夢の中ではモブリットがハンジにした行為を、今度はハンジから仕掛けている。

「手伝うよ」
「まっ、駄目です!」
「なんで!」

ハッとしたモブリットが、直に触れ掛けたハンジの動きを止めさせた。
猛然とされた抗議に負けじと、モブリットも声を荒げる。

「落ち着いてください! ……落ち着いて、本当に、こんなことはいけない。絶対後悔しますから。一過性のものです。深呼吸してください。大丈夫。今は少し混乱しているだけです」
「……う」
「とりあえずソファへ――」

そう言って、モブリットはハンジの肩に優しく触れた。ソファへと促すモブリットは誤解している。自分と同じ程度の欲求にハンジが翻弄されていると思っている。
ハンジはしがみつくようにして、もう一度彼を壁際へと押し留めた。

「ハン――」
「違う、違うんだ……。同じじゃない。ごめん、モブリットごめん」

下半身が疼くとか、そんな程度はとうに過ぎた。
小さく何度も謝罪の言葉を口にして、ふるふると首を降り続けるハンジの様子に、ようやく不穏な変化を感じたらしい。モブリットは戸惑うようにハンジの肩を撫で、覗き込もうと首を竦める。

「……ハンジさん?」

耳朶にかかる吐息にぶるりと震えがハンジを襲った。
膝が笑いそうになるほど感じる身体を抱きしめて、ハンジはモブリットの顔を見つめた。

「少し、経口摂取した、かも」
「――え」

短い驚きの声すら耳に響いて、きゅっと力が入ってしまう。
更に強く身体を抱いて、ハンジは短い吐息を吐き出し、続ける。

「毒物なら、舌先で判別できるものもあるかと、思って」
「なっ、何やってるんですか!」
「全面的に謝るよ、ごめん。でも今はやめて。声も刺激になるみたいなんだ」
「……っ」

いつものことと言えばそうかもしれない。
ただ今回は成分が予想を超えてまずかった。けれど当然に何かを言い掛けたモブリットは、ハンジの言葉を受けて、慌てて台詞を飲み込んだ。呆れより、不安と焦燥を強く見せているモブリットに、ハンジは泣きたい気持ちになった。
小瓶の中身を教えてくれたのはモブリットだ。成分が判明した時点で医務班から効能の注意は受けたはずだから、今のハンジの状態を――本当の意味での詳細ではないにしろ――モブリットは察しただろう。
どんどんと震えの増していく身体を擦り寄せれば、シャツ越しの体温にさえドクン、と中から溢れ出してきたのがわかる。

「ごめん、いくらでも怒っていい。全部謝る。だから――お願いだ、モブリット。助けて」

泣きそうだ。
いや、もう泣いているのかもしれない。
ハンジはもう一度モブリットの手を取った。今度は振り払われずに、モブリットは混乱したようにハンジを見つめる。

「手だけでいいから」
「そ、」
「もう、こんなで」
「ハンジさ――、っ!?」

その手を、ハンジは自分の股間に押し当てた。

「んんゥッ!」

自分のものじゃないもので当たったそこが、じゅわ、と布を通して水音を立てる。同時に挟み込むように太腿を合わせると、モブリットが驚いた表情でハンジを見た。
その視線にすら煽られる。

「んっんっ、手、離さない、で――っ、アッ!」
「ハ、ハンジさ」
「だ、め……っ!」

ズボンの上から割れ目に押しつけたモブリットの指は動かない。その上に自分の指を押し当てて、ハンジは何度も擦りつける。
雨の音と、遠くに聞こえる雷鳴に煽られるかのように、ハンジは一際強くモブリットの指で自身の敏感な部分を押さえ込んだ。

「ッ、ふ、ぁ――……ッ」

かくっと、一瞬膝の力が抜けて、慌てたようにモブリットがハンジの身体を支える。

「はっ、あ、……着替え、ないと、だよね」
「……」
「待って、ズボン、気持ちわるい……」

壁についたままのモブリットに寄り添うようにしたハンジは朦朧とそう言って、ホックに手を掛け、ジッパーを下ろす。ベルトの装着していない足から引き下げれば、濡れた箇所が敏感に擦れた。
あえかな息を吐きながら、ハンジはズボンを床に落とした。

「こっち、も」
「駄目です……」
「モブリット」

ショーツにも手を掛けようとしたハンジを、モブリットがか細い声で止めさせた。
けれども下着はもうその用をなしていない。しとどに濡れて、ズボンにまで染み込んだそれが何よりの証拠だ。
ハンジはまたモブリットの片手を取って、自分のそこへと誘導した。

「……言ったろ。夢を見たって。そこではモブリットが手伝ってくれって言ってたんだ。手だけでいいから。今だけだから、って」
「俺は、そんなことは」
「わかってる。あなたは言ってない。ただ私にジャケットを掛けてくれただけだろ? わかるよ。でも、ベルトも外したろ。だから、っていうのは言いがかりだってわかってるけど、触れられた感覚が妙にリアルで、これも薬のせいなんだろうけど――頭が、どうにかなりそうで――あなたにされることばっかり考えちゃって、我慢の、限界になっちゃって」
「……ンジ、さん、落ち着きましょう……っ」
「も、むり――わかるだろう……っ?」

モブリットの指を、ハンジは自分の手で上からぐっと押しつけた。
さっきよりも格段に薄い下着の布越しに、敏感な尖りが刺激される。押しつけた指ごとぬるりと滑って、ハンジは嬌声を上げ、モブリットの腕ごと強く抱き込んだ。我慢の利かない腰が勝手に揺れ始めるが、恥ずかしい動きだと止める気には毛頭なれない。

それよりももっと。
もっと。
直接。中に。モブリットが欲しくて欲しくてたまらない。
せめて、指が動いてくれればいいのに。

意地悪だ。モブリットは意地悪だ。

「自分じゃ、無理。一人で、なんて、ちゃんとしたことないんだ……だから、わからない。こん、な風に、なったこと、なく、っ、て、どうしたらいいの、モブリット……ッ」
「ひ、一人で、したことない、って」

波のように押し寄せては引いてくれない欲情には抗えない。
指に濡れた秘所を押し付け揺するハンジは、時折瞼を下ろして、感覚を手繰り寄せようと必死だった。
性欲がないわけではないが、今までそこに重点を置いたことはない。それこそ随分ご無沙汰過ぎて、感覚すら忘れかけていた。たまに少し快感を高めるくらいは出来ても、最後まで達することはなく、こんなものかと他で興味が削がれるか、そのまま寝てしまえば終わる程度のことだった。だから本当に、どうしていいかわからない。こんなに中が全てで求めている身体を、ハンジは知らない。
モブリットの指をぐっと押しつければ、自分のそこから溢れだしたものがショーツの中で後ろに流れていくのを感じた。

「だから……っ、ねが、い……してよ」
「い、いえ、あの」
「して」

途切れ途切れに息を吐きつつ懇願するハンジに、モブリットは喉の奥で低く呻いた。

「あなたの方が手も大きいし、指も長いし、太いし、きっと届くから――奥、ジンジンして、すごく辛くて――」

ぐり、と動かせば、慣れない指の感触がぷくりと腫れた割れ目に触れる。
もっと触って。動かして。中に挿れて。

「手、貸して」
「それは」

ぐちぐちと水音を立てるそこに押しつけ動かし、同時にもう片方の手を、下着の上からモブリットの膨らみに触れる。

「なっ」
「……手伝ってあげるから、手伝って」

胸板を合わせ、凭れた身体で睨むようにそう言って見上げる。
抵抗の声を出しながら、モブリットはハンジの手を退けさせなかった。
布の袷からゆっくりと中に差し入れて、ハンジは起立したものに触れた。薄い皮膚の下にある、もう随分覚えのない硬さを確かめるように、指で輪を作り上下に扱く。そのまま上まで少しきつめに持ち上げて、先端の窪みを指の腹でひたりと触れる。と、モブリットがびくりと反応を示した。
これで、よく理性的な物言いが出来るものだと感心するほど硬くなっているじゃないか。
下着の外へと優しく誘導すると、すっかり起立したそれは容易に下着を跳ね除けて宵闇の中にしっかりと姿を現した。

「ハンジ、さん」

自分を呼ぶモブリットの声音は上擦って聞こえる。
答える代わりに無言できゅっと指の輪に緩急をつけて揉み込んでやれば、ハンジの手の中で、彼がびくりと脈打った。

(モブリットだって、口で言うほど我慢の出来る状態じゃないだろ……)

ねえ、これ、するから、モブリットも。

「も、……んと、に」
「お願いだから、中にいれ――あッ!」

軽く上下に擦りながら見上げると、当てていただけのモブリットの指がぬるりとハンジの中に入り込んだ。
咄嗟に悲鳴のあがったハンジを無視して、予告もなしに第一関節までが埋め込まれる。クプ、と水泡を含んだ粘着質な水音が、皮膚を通して聞こえるようだ。ハンジの中が奥へと誘うようにきゅうっと窄まる。
モブリットが、もう片方の手を自身を掴むハンジの手の上からしっかりと掴んだ。同時に中に埋め込まれた中指が、くっと軽く曲げられる。

「ん、あ、あっ」
「手だけ、ですよ」
「ん、うん……っ、手、だけ……ッ」

ショーツの横からじゅぷりと出し入れを始めた指の動きに、腰の奥が更に疼く。快楽を享受するのに必死になってハンジも腰を捩らせる。モブリットが窘めるように彼に触れていたハンジの手の上をそっと撫でた。そうして陰茎を掴むだけのハンジを誘導するように上下にゆっくりと動かされ、ハンジは思い出したように硬い熱を擦り始めた。
そうすれば、モブリットの指が浅く、深く、中の壁を擦り上げる。
雷鳴の近づき始めた音に慣れた声が、ハンジの唇から迸り始めた。

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