「――いつか、壁のない大地の上で、何の心配もなく立っていられる日が来たらさ」 下を見れば、茫洋とした目がこちらを見上げている姿が、否が応にも目に入る。 けれど空を見上げれば、地平の彼方から望む光に照らされた中を、鳥たちが羽ばたく姿が眩しく映る。 それはまさしく自由を謳歌する翼そのもので。 「君と並んで、地平線から昇る太陽を見られたらいいな――」 二人きりの壁上で「そうですね」と応じた彼を盗み見る。 真面目な横顔をまっすぐ地平線に向けながら、その頬が照らされたせいだけではなく確かに赤くなっていた。 そのことに気づいたのは、おそらく私だけだろう。 【Welcome to my Sunrise.】夜明け前、太陽が地平線から姿を見せる瞬間が好きだ。 新しい目覚めのようで、光の裾野が差し込み、広がる壮大さに圧倒される。光の届く範囲には到底及びもしない範囲でしか生きていないのだとわかるのが好きだった。自分がちっぽけな存在であることを実感すると同時に、些細なことに拘る必要はないのだと新しい視界が開けるようでもある。 だから、日常のふとした瞬間、この景色が見たくなる。 別に今、ものすごく不満があるわけじゃない。 人生は概ね良好で、突然巨人に食い荒らされる恐怖に怯えることはないし、あの頃と比べてしまえば何もかもが取るに足りない程度の波でしかない。生き残る、という観点に絞って言えば、順風満帆を絵に描いたような人生だ。 そんな世界で、私は新しく彼と出会った。 少しずつ互いを見せて、知って、そうして時間を積み上げていくのは新鮮だったし、記憶の中の彼と同じような癖を見つけてはくすぐったさを感じたりもした。 今と昔は違うと本心ではわかっている。高層ビルが立ち並び、遠くの誰かとも電波一つですぐ繋がれる。 田舎の牧歌的風景でも、さすがにあの世界の農地のような荒廃は世界的に少数派だ。 だから、彼は彼だ。 あの頃四六時中傍にいて、同じ目標を掲げ、走り回っていた彼じゃない。――そんなことはわかっている。 だけど私だけが記憶の中から、つい彼にあの頃を重ねて見ているようで、次第に妙な居心地の悪さを感じるようにもなっていた。 いっそ言ってしまえばスッキリするかと考えたこともある。 『実は私には前世の記憶があるんだよね!』 けれどそこから始まる説明の手順を考えて、その先が上手く運べずに、あっさり計画は頓挫していた。 現代に照らして荒唐無稽にすぎるあの世界のあれこれを、何も知らない彼は、けれども頭ごなしに否定しない自信はある。だけど「そうなんですね」なんて穏やかに肯定されるだろう場面を想像すると、まだ少し切なくなるのは明白で、私は二の足を踏んでしまった。そのまま、結局はその秘密を彼に告白出来ないでいる。 中途半端にどっちつかずの想いを抱えているから、胸の内がもやもやと重い。 そもそも突然前世の話を始めたとして、あの頃の彼との関係は、今の彼にどう説明すればいい? ほらもう、まずはそこから詰んでいるのだ。 (いやだって別に明確に付き合っていたかって聞かれたらそういうわけでも結婚していたわけでもないじゃん? 好きとか嫌いとかそういう言葉で括ったこともなくて、それでやることはやってる関係――って、今にしたらそれって何か……何か、………………セフレ? セフレか? いや違うけどね?! そういうつもりじゃなかったけどね?!) 赤裸々に前世の記憶を語ったとして、今に当てはめることの出来ない感情や関係はどうしようもない。 そもそも今の彼と当時のモブリットを比べるというのでもないし、思い出を懐かしんでいるというわけでもない。 あの世界と記憶があまりに鮮烈すぎて、少し不思議な前世体験と笑い話で語るには、辛いことが多すぎるだけだ。 それでも、ふとした瞬間思い出してしまう記憶には彼と共有できない約束や昔語りがたくさんあって、まるで浮気でもしているような後ろめたさがある。 今が十分幸せなのに。過去を覚えすぎているのも考えものだと溜息が出る。 「……くっそ」 私は今の彼を、本当にちゃんと好きなのに。 前髪をぐしゃりと乱暴にかき上げる。 こんなのくだらない堂々巡りだ。わかっている。考えたって仕方のないことだ。彼は彼だ。モブリットはモブリットだった。 今この世界で偶然出会い、気持ちを育んで、そうしてあの頃の私達にはなりえなかった次のステップへと、今の彼が手を差し伸べてくれている。 どうしようもない考えは、だから今日で終わらせるべきだ。 私は意を決して顔を上げた。 まだ地平線の裾野を揺らす程度の日光では、辺りは薄く灰色の空気を纏ったままだった。 「――ハンジさん」 仄かに白み始めた空気の中、公園の丘に設置されたベンチに座りながら、これから広がる朝焼けの光景をぼんやり待ちわびていた私は、呼ばれた方へとゆっくり視線を向けた。 「お。早いね。早朝散歩?」 案の定、見慣れた彼がこちらに向かってくるところだった。 Pコートの首元に巻いたブルーのマフラーは、私が選んで買ったものだ。派手すぎませんかと心配していた彼に、髪と目の色に映えて格好良いよと太鼓判を押したら珍しく照れていたのを思い出す。あれは可愛い表情だった。 「健康的だなあ」 にひひと笑って挨拶の代わりに片手を上げる。 呆れたような、でも少しだけ緊張したような表情をした彼が、真っ直ぐ私の側まで歩いてきた。そんな顔をさせているのは、多分朝のこの冷たい空気のせいだけじゃない。 ベンチの隣に腰を下ろした彼は膝の上に肘をついて、前屈みで地平線を見つめた。 「……そんなところです。あなたは?」 「目が覚めちゃってね」 「そもそも寝てないでしょう」 あ、バレてたか。 へらりと笑って答えた私は、こちらを見ないままで指摘する彼に、罰の悪い気持ちでそっと視線を地平線に移した。 ほとんど半同棲のような生活をしている彼は私の恋人だ。付き合っている。 出会ったのは今から2……いや3年、……正確な年月は忘れてしまったけど、それくらい前で、この公園で出会った。 今と同じようにベンチに座ってぼんやり朝焼けを見ていたら、一匹のコーギーが勢い良くじゃれついてきて、どこの子だろうと思っていたら慌てた彼が飛んで来たのだ。友人の飼い犬との散歩中にリードが離れてしまったそうで、酷く慌てた彼に謝り倒され、そのままお詫びにとモーニングに誘われて。 その後何度かデートをして、告白されて、清いお付き合いから清くないお付き合いへと、それなりに手順を踏んでここまできた。 誠実で勤勉、物腰柔らかな好青年を絵に描いたような男だと思っていたら、意外と積極的で性急なところがあったりして、見た目よりずっと男らしいなという場面は嫌いじゃない。というよりそこはとてもいい。 私のズボラで、それでいてちょっとばかりのめりこみやすい性格とも上手く折り合いをつけてくれるから居心地が良くて――……ため息を吐きながら「まったくあなたは」と言われる小言が案外私は好きだったりしている。 だけどそんな時、ちらりと脳裏をよぎる横顔を彼にダブらせてしまっていたのも本当で、彼と付き合ってからというもの、昔の想いを断ち切れない自分の女々しさに改めて驚いたりもしたものだった。 「……すみません」 「え、何? 何であなたが謝るの?」 ぼんやりと太陽の出現を待っていた私は、突然ぽつりと謝罪されて、隣の彼を見つめた。 肘をつき、両手で口元を覆うようにしながら、明るくなっていく裾野を見つめる彼は私を見ない。 「眠れなかったのは、俺があんなことを言ったからですよね」 「あ――いや、そういうわけじゃ……」 昨日彼からプロポーズされた。 いや、プロポーズは言い過ぎかな。正式に一緒に住まないかと誘われたのだ。今だってほとんど一緒のようなものじゃないかと笑った私に、「帰る場所を一つにしたいし、して欲しいんです。できればずっと」と言った彼は真剣だった。 ティーンじゃないし、そういうことだってしているし、そうなってもおかしくないことはわかっている。全く望んでいないといえば嘘にもなる。それに、彼が私との関係を真面目に考えているんだということも痛いくらいに伝わって、だけど、――だから、私がどうしても言えないでいる事がつい引っ掛かってしまったのだ。 思わず言葉を失った私を責めるでも急かすでもなく、彼は少し寂しそうに笑いながら「考えてみてくださいね」と言ってくれた。 その後の夕食は当番の彼が私のリクエストに応えて白身魚のカルパッチョを作ってくれた。 タマネギのスライスが尋常じゃなくプロ級で、真似て切った私の分厚いタマネギと味の染み方が歴然過ぎて二人で笑いながらワインを開けた。 それからベッドに入ってお休みを言って。 過去・現在・未来について、ぐるぐると答えの出ない迷路に入り込んでしまった私は、明け方そっと彼を起こさないようにベッドを抜けて、いつものベンチに休息を求めにやってきたというわけだった。 どうせ朝日を見たらすぐ戻るつもりだったし、何かあれば私がここに来ることを彼は既に知っている。 早朝一人でこの公園に来るのは別に初めてじゃないし。 ただ、背を向けて寝ていたとばかり思っていた彼が私に気づいていたのなら、君も寝ていなかったんじゃないの? 「断ってくれていいですよ」 「え?」 「困らせたかったわけじゃないんです。すみません。タイミングを間違えましたね」 寂しそうな笑顔で言う彼の鼻の頭が赤くて、とても寒そうだった。 私からの答えを聞かずに打ち切ろうとしているらしい気配を察して、咄嗟に彼の膝に手を乗せる。 「……ハンジさん?」 「違う。困ってない。タイミングも――間違ってないよ」 まだ付き合っていなかった頃に、彼から日の出が好きなのかと聞かれたことがあった。私は好きだと答えたと思う。 あの頃――壁の外へ連なる自由の象徴は空で、大地で、太陽だった。 中でも壁ではない大地から昇る朝日は別格で、壁上に立ち、よく二人でその遙か遠くの大地から顔を見せる荘厳な景色を眺めたものだ。 その場でああでもないこうでもないと巨人の脅威を駆逐するアイディアを話し合ったし、触れ合っただけの指先の熱を感じながらいつか大地に並んでこの景色を見つめたいな、などと静かに未来を語ったりもした。 ――あの頃夢に描いていた風景が、今は簡単に目の前にある。 なのに、その約束だけが宙ぶらりんで、だから柄にもなくセンチメンタルになってしまう。 こんなこと彼のせいじゃ全くない。 「嬉しかった。本当だよ。ただ、その、ちょっとね――」 「ここはあなたの思い出の場所ですか?」 「え」 不意に、彼が私を見た。 朝日の昇りきらない不安定な明るさの中で、ヘーゼルの瞳は真っ直ぐに私を射抜いている。 その目から咄嗟に視線を反らして、私はしまったと思った。 一言で思い出と言っても、それには色々あるだろうが。何で目を逸らしたよ私。 これじゃあまるで疚しい思い出がありますと白状しているようなものじゃないか。 聡い彼がこんなあからさまな態度に気づかないわけがない。 「どんな人だったんですか。……素敵な人だったんでしょうね」 「ええと……」 「さすがに、気にならないと言えば嘘になります」 案の定、微妙に的を得た質問をしてきた彼に口ごもる。 一緒に住もうと言ってくれた相手に、そんな話をしてもいいのか。いや駄目だろ。普通ないだろ。ていうかこれはそのままいわゆる別れ話になっていくやつなんじゃないの? 「――あのっ、さ!」 「はい?」 そう思った瞬間、私はぐいっと彼に身を乗り出していた。 僅かに驚いたような瞳に迫る。 これこそタイミングを見謝ったら駄目だと思った。 忘れられない思い出があって、言えなくて、それでもその手を離したくないなんて勝手かもしれない。 だけど私は今の彼が大切だから―― 「わ、別れたくないんだけど!」 「は? 別れるつもりなんてありませんけど」 「おうっ! ……お、おう?」 私の一大告白に、けれど彼は心底呆れ口調で当然のようにそう言った。意気込んでいた分だけ拍子抜けもいいところだ。だって――だってなんか、そういう流れだっただろうが。 くっそ。じゃあ一体どんなつもりであんなこと言い出したんだよ。 彼の思考回路がいまいちよくわからない。 どこか達観した表情で地平線に顔を戻した彼は、はあっと白い息を吐いた。 「別れるつもりがないくらい俺を好きでいてくれている自惚れくらいありますよ。あと俺は一緒に住むのに躊躇されたくらいで簡単に別れるほど、繊細な性格でも潔い男でもありません」 「……知ってるけど」 そうだ。彼は意外なところで強引で折れない。 普段は基本的に私が先陣切って突っ走っていくけれど、ここぞという場面では私が折れることも多いのだ。 外見に騙されて彼が私に振り回されてばかりいると心配する奴が多いが、真に心配されるべきは私だ。 「でしょう?」 私の答えに頬を緩めた彼が、「でも」と続けた。 「でも、あなたの心を占めているのは俺だけじゃないことに気づかないほど鈍くもないつもりです」 彼とあの頃のモブリットを比べたことなんてない。 だけど、不意に思い出していた。 彼が知らない――知ることのない遠い記憶を思うことは、おそらく同じことだろう。 「気づいても知らないフリを続けられるほどの度量がなくてすみません。呆れましたか」 「そんなことない」 むしろ逆だ。 気づいていたのに今まで何も言わなかった彼はどれだけ忍耐強いんだ。 同じ状況だったら、違和感を感じた瞬間きっと私は口にしているだろうと思う。 だから即答で否定すると、彼がふと表情を緩めた。 「ごめ――」 「なら聞かせてください。この際だし、今後タイミングを計る要素にも取り入れたいので出来れば詳細に」 「詳細って」 次第に強まってくる地平線からの眩しさを受けて、彼の瞳が細められる。 「そんなにいい男だったんですか? どの辺りが? 身長が高かったとか、甘いマスクだとか、料理が上手いとか、高給取りだったとか」 「えっ、いや、ちょ、ちょっと待っ」 「違うんですか」 矢継ぎ早の質問に慌てても、そんな私を見もせずに、彼はじっと地平線を見据えたままでそう言った。 「ええ〜……」 そんなことを言われても困る。 ステータスなんかで彼を見たことはあの頃も、今だって一度もないのだから。 いい男……いい男? 何基準だそれ。それに身長? エルヴィンやミケほどずば抜けて高くもない彼だけど、私より高いし、見栄えもするし、そ、そこそこ? そこそこ、か……? 美醜はそれこそ人それぞれだから答えにくいこと甚だしいが、あー……まあ、かわいい、んじゃないかな。格好良い、とも思う。私は。………………けど、別にそれで選んだわけじゃないし! 別にもっと太ってても足が短くてもそれはそれでいいと思うし! ……いやだからそうじゃなくて。 それから、ええと、なんだっけ。料理? あの頃は悠長に腕を振るう機会も食材もお互いになかったからよく覚えていないけれど、今なら断然彼に軍配が上がる。そもそもオムライスにケチャップで絵を描くセンスは、「eat me」くらいしか書けない私には真似できない類のものだ。 後は給料か。それでいえば当時は役職が上だったから当然私の方があったけど、今は――ああ、これは今もかな。聞いたことないからはっきりとはわからないけど。 一緒に住むなら、こういうところも明るくしていくことになるんだろう。そういう作業は面倒臭いようで未知の世界で、興味はある。 「ハンジさん?」 「あー……、ちが……う、ような、そうでもないような……?」 腕を組んで必死にあれこれ考えてみても、出てくるのはそんなぼんやりとした回答ばかり。 改めて考えてみれば、本当に些細なことしか思い浮かばなくて、その全てが目の前の彼で上書きされてしまう。 結局彼への感想にしかなっていない事実には、自分でも呆れるばかりだった。 曖昧に首を傾げると、ちらりと横目で私を見た彼が、盛大な白いため息を吐き出した。 「……っは〜……」 「お、ど、どうした!?」 そのまま頭を抱えるように上半身を折り曲げた彼のつむじに、ようやく地平線から少しずつ差し込み始めた光が反射して、金髪を柔らかく染めていく。 「……大誤算です」 「え?」 ぼそっと呟いた声は不機嫌だ。 両肘をついて体勢を持ち直した彼が、感情のこもらない視線をまた前に向ける。その瞳からは細かい機微は読みとれない。けれどもどこか拗ねたような響きの乗る声音のまま、彼はまた細く息を吐いた。 「初めてを装ってとんとん拍子に進んだと思っていたのに、まさかもうあなたにそんな相手がいたなんて」 ――え? ……ん? 何だ? ぼそっと低音で溢された台詞はよく聞こえなかった。 けれど凝視する私をちらりと見た彼は、柔らかく苦笑して、私の頬にそっと触れた。その指が冷たい。私の頬も十分冷たくなっていたはずなのに、それ以上に彼の手は冷たかった。私を探してこんな時間にここまで来てくれたんだと改めて思う。それから緊張しているのだとも分かった。 どんなに平静を装っていても、緊張を強いられる場面で、彼の指先が冷たくなることを知っている。 ここで初めて私に告白してくれた時も、繋いだ手が冷たくて思わず笑ったことを思い出した。 そういえば逃げたコーギーのリードを渡した時も、真夏だというのに彼の手はやっぱりとても冷たかった。 「……まだ夜明け前ですね。寝惚けているとでも思ってください」 「え?」 「ここであなたを見つけた時、息が止まるかと思いました。どうにかして話す切欠が欲しくて、友人の犬をけしかけて逃げたせいにしてみたのに、あなたは平然と「彼女の?」とか聞くし。友人だって言ったじゃないですか。何で平気なんですか。俺に恋人がいてもあなたは良かったんですか。俺は平気じゃなかった。気になってばかりいました。何気ない会話で休日の予定がいないかと探りを入れたり。……俺ばかりずっとあなたを探していたなんて不公平だ。しかも忘れられない相手がいるって何なんですか」 「えっ、ね、ねえ、」 「大体」 知らなかった出会いの種明かしよりも何よりも、その他の発言に心臓が大きな音を立てた。 まさか――だって、そんなこと。 だけど彼は私の言葉を遮った。頬を撫でていた手を両手に変えて、ぐいっと睨むように顔を近づける。 「その彼が大したことなかったと今思うなら、もう俺でいいじゃないですか。その彼より優しくないですか。それならもう少しくらい優しく出来ます。何日も徹夜した後の髪だけじゃなく、身体も洗いますよ。眠るまで側にいるし、あなたの話なら何時間だって聞いてます。というかそんなこともうずっと前から俺には当たり前で――あなたが覚えていないだけで、俺はずっと」 「ま、待った! 待って、モ――」 「そもそも」 まただ。私の言葉は最後まで言わせてもらえない。 コツンと額を合わせた彼が、ひどく苦しそうな表情で堪えきれないというように目蓋を閉じた。 「そもそもどうしていつもここへ一人で来るんです。何で覚えていないんですか。一緒に見ようと約束したじゃないですか。いつか壁のない世界になったら、朝焼けを並んで一緒に見ようと。そう言ったのはあなたのくせに――」 「モブリット!」 たまらず私は彼の――モブリットの顔を掴んだ。 勢い良くやりすぎて、両手でバチンと音をさせてしまったけれど仕方ない。 「……は、い?」 さすがに驚いたらしいモブリットの勢いが止んで、目を瞬かせる彼を私はこれでもかというほど覗き込んだ。 まさか、まさか―― 「モブリット、も、もしかして、覚えてるの?」 「……あなたも、覚えているんです、か?」 お互い何をと明確なことは言わない。 探るように相手の瞳の奥を見つめて、ぼそりと単語を溢してみる。 「……心臓を」 「捧げよ……」 ……クソが。クソ。クッソ! そんな単語を間違いなく繋げる奴なんて他にいるか。 モブリットだ。彼はモブリット・バーナーだ。一目見た時に彼だとわかったし、間違いないとは思っていたけど、まさか記憶まであるなんて考えてもみなかった。だってそうだ。もう出会って何年だよ。その間、ただの一度もそんな素振り見せなかったくせに。そもそもここで初めて出会った時、驚きすぎて声の出なかった私に、モブリットは自分の名前を告げた後「あなたのお名前を聞いても?」と言った。忘れるもんか。心臓が飛び出そうなくらい驚いてどう切り出そうかと思っていたのに、犬の話と謝罪しかしないから、ああ、彼はそうなんだ、覚えていないんだと目頭を襲う痛みを堪えるのに必死だった。それなのにこの野郎。 私は思わずモブリットの頬を掴む両手に力を入れた。 口がタコみたいに窄まった彼にずいっと迫る。 「言えよ! 無駄に気を遣っちゃったじゃないか!」 「はあ!? あなたこそ! 覚えていたならどうして――! なんで――……」 私の両手を頬から引き離した彼が、急速に勢いをなくしていく。 そのままゆるゆると頭を下げて表情が前髪で見えなくなった。 「え、モ、モブリット?」 「……何で、他に忘れられない人とか、いるんですか………………ちょっと、待ってください……」 すみませんと呟くように言った彼は、片手で口元を覆ってしまった。 余計に表情が見えなくなって、私は急激に地団太を踏みたい気分になる。 寸でのところで理性が抑え、代わりに鼻の奥がツンと痛みを訴えてくる。 「馬鹿か」 「………………は?」 色んな感情がごちゃまぜになって溢れた言葉は、必要以上に震えてしまった。だけどもう止まれない。 モブリットに記憶があるなんて思わなかった。彼にはないと思っていて、だから私だけが覚えている彼とのことを思い出して、後ろめたさを感じていたのに。そんなこと、今のモブリットに悪いと思った。だって彼は覚えてないから。それでもやっぱりモブリット・バーナーを私は好きで、この世界でもどうしても彼をなくしたくなかった。傍にいて欲しいと思ったし、居たいと思った。だから―― 怪訝な表情で口元を覆ったままこちらを見上げた彼を、私はギッと睨みつけた。 寒さのせいだけじゃなく鼻が痛い。すごく痛い。 「馬鹿か! モブリット・バーナーだよ。第四分隊副長モブリット・バーナーだよ! あの頃した君との会話や約束や、そういうことを思い出して、でも今のあなたは覚えていないのに私だけ覚えてるから! でも、それって何か――何ていうか、記憶がなければ他人と同じで、だから、だから失礼かなって思ったんだろうが! だから今日ちゃんと忘れようって! モブリットとちゃんと新しく……っ、……ッソ……、馬鹿か! バーカバーカ!」 こんなに怒鳴ったのは初めてかもしれない。昔の私はそれこそこんなこともあったけど、モブリットの記憶にそんな私がいなければ、随分ビックリするだろうな。でも仕方ない。これも私だ。ハンジ・ゾエだ。私の一部だ。 睨みつけている彼の顔がじわりと二重に見えてきた。呼吸が苦しくなって息を吸い込めば、鼻がじゅっと音を鳴らした。格好悪い。興奮してしまったせいで上気した体温に反応した眼鏡が白く曇る。見えずらくて瞬きをすると、余計に視界が滲んできた。勢いに任せて指で眼鏡の表面をぐるぐると擦る―― 「……バカですか!」 「はぁ!? ――ぅ、わっ」 その手を取られて怒鳴られて、思わず言い返し掛けた私は、そのままモブリットの胸に頬をつけていた。 ぎゅうぎゅうと押しつけられる彼の胸に眼鏡が当たってずれる。 「バカですか! 俺だって! あなたが覚えていないと思ったから、――そのくせあの頃の約束を別の男としているのかとっ! 冗談じゃない。冗談じゃありません。どうやって知らないフリをしたまま、上書き出来るかをずっと……ずっと……っ」 だんだん尻すぼみになっていく声とは逆に、私を抱くモブリットの腕は強まるばかりだ。眼鏡のフレームが痛い。バカ。抱くならもっとちゃんと抱け。気遣うくせに肝心なところで気が回らないなんて、私達はお互い何てバカなんだろう。 「分隊長」 「……」 その呼び方を知っている。 す、と記憶の奥の奥に染み込んで、私はモブリットの胸にずれた眼鏡を押しつけてふるふると首を横に振った。 それでようやくフレームが当たっていることに気づいたのか、私を抱く腕が緩んだ。 それでも身体は可能な限り密着したまま、互いの熱を分け合うように、確かめるように、モブリットが私の額に額を当てる。 「ハンジさん」 「……うん」 両手が私の頬を包む。手のひらで、指先で、しっかりと私の輪郭を何度もなぞって、モブリットの呼吸も私の呼吸もほとんど隙間のなくなった間に白く混ざって消えていく。 「朝日、見ましょう。一緒に。壁のない世界です。あなたとずっと見たかった」 「……ん。うん――……うん」 私だって見たかった。ずっとそう思っていた。 再会する前から、再会してからもずっと。 モブリットと。君と一緒にこの景色を。 合わせた額から感じる熱が鼓動を早めて、私の全身を滾らせていく。 頬を包む手の上から手を乗せて頷きながら、私は目の前のモブリットから、なかなか目を離せなかった。 だって視界がもうずっと滲んだままなんだ。 きちんと顔を認めてそれから景色を堪能したいのに、ずるいな、モブリットの目も潤んで見えるじゃないかバカ。 「見ないんですか?」 「モブリットこそ」 穏やかに微笑みながら私の頬を撫でる彼の横顔が、丘陵へと届く朝の光でだいぶ明るくなっている。 間近にあるヘーゼルの瞳も、反射してキラキラと色めいて見えた。 そこに映り込んでいるのは朝日と、それから情けなく甘えてぐずぐずになった私の顔か。 もう一度思い切り鼻を啜れば、モブリットが親指の腹で眼鏡の隙間から私の目尻に滲む滴を拭った。 「あなたの目に映っています」 「……モブリットのほっぺたにも映ってるからいいよ」 「ちょっと。そんなわけないでしょうが」 「……ぶふっ」 優しいだけだった両手に仕返しとばかりに頬を挟まれ、窄まった唇から吹き出してしまう。笑う私に次第にモブリットも肩を震わし、額をつけたまま密やかに二人で笑い合って、ふと、モブリットが私の手を包んだ。 「冷たくなってますね」 モブリットの方が冷たいと思っていたはずなのに、いつの間にか私の手を取る両手は大分温かくなっていた。ハアッと息を吹きかけられて、指先がじんわりと白いぬくもりに包まれる。朝焼けに何度も吐き出される白が、滲んで、溶けて、空気の中に馴染み出した。 同時に、今と昔の境界線も淡く溶けて、彼の吐息と一緒に私の中にポカポカと日溜まりを作っていく。 それからようやく丘陵から二人で地平線へ向き直った頃には、もうだいぶいつもの軌道に太陽はその姿を乗せ始めていた。 それでもいい。 太陽の光に照らし出された大地は徐々にその範囲を広げ、もうすぐ私達にも届くはずだ。 日の暖かさに包まれた胸の内が眩しく沁みて、あの世界に捧げた心臓が漸く少しずつ戻り始める。 今度は隣で生きる彼と分かち合うために。 「ねえモブリット」 「はい?」 並んで地平線を見つめる彼の、触れ合った指先をつんと絡める。と、すかさず優しく繋がれた。 交差した彼の指と私の指は、もう同じ温度になっている。 「一緒に住む部屋、窓から朝日が見えるといいなあ」 返事とばかりにモブリットが繋いだ手に力を込めた。 盗み見た横顔が太陽に照らされただけでなく赤く見える。 そういえばあの時も、生真面目に頷きながら仄かに染まっていた頬に彼は気づいていなかった。 これは私だけの秘密の記憶だ。うん。可愛い。私だけのモブリットは、一つくらいあっても良い。 早朝の澄んだ空気が優しく暖めてくれる気配に身を委ねながら、私はようやく迎えた朝をじっくりとかみしめたのだった。 【Fin.】 フォロワーさんの絵で想起した文章をつけさせていただいたお話です。 甘いけど少し切ないような、でも求め合っているような、そんなイメージを感じたんですが、まるで違っていたら申し訳ないです…gkblgkbl |