道なき道の、その先に 憧れの人―― その言葉の持つ、青臭く、それでいて爽快感のない重だるい感覚にどこか胸の奥を引っ張られるような気がして、ハンジは僅かに唇を尖らせた。 別に今更どうということもない。 出掛けに揶揄された台詞にだって、本気で怒ったわけではなかった。第一どれだけ昔の話だと思っているんだ。 そもそも新旧問わず自分の属する兵団長へ抱く感情など、今も昔も、誰であれそう大差などないはずだ。 示される行動や信念を受け入れるか入れないか、共鳴出来るか出来ないか――根底にあるのはそんなものだ。 (だって) いくら無能と叩かれようと、現状を何も知らない市民から出る非難はいつだって似たり寄ったりだ。 巨人の爪の先ほども見たことのない人間に何を言われようと、何度でも壁外へ向かい、どれだけ数を減らそうと絶望の表情を浮かべる兵士達の中にあって必ず顔を上げ、前を向き、生きて戻る先人というのは、確かに多くの指標であったはずだ。 兵士として自分が参加を許されるまでは、彼はきっと生き残る為の戦い方を身につけた勇者だとすら思ったし、実際に兵となり壁外に身を置くようになってからは、猪突猛進と揶揄されるその背中こそが生き残る希望の翼と追いかけた。 「――時も、みんな、あっただろうがっ!」 思わず壁に拳を打ちつけて、ハンジは声を荒げた。もやもやとした感情が胸の内に蟠って仕方ない。 ダンッと鳴った音が静かな室内に響いて、ハンジは舌打ちをした。拳が痛い。けれど胸は痛まない。当然だ。恋の始まりだったわけでも何でもないのだ。ただ純粋にすごいと思い、信じて――そう、確かにハンジは、ずっとシャーディスに憧れていた。漠然と、自分の知らない未来が見えているのだとある種盲信していたのは若さ故の感情だが、一線を退いてからも、その志は常に高く、人類の傍にあるのだと思っていた。尊敬と憧憬は、だからまだそこにあった。 それなのに―― 「分隊長?」 「んおおっ!? ――……あ、ああ、モブリットか。何?」 「どうかされましたか」 「……いや、別に?」 不意に部屋へやって来たのはモブリットだった。不作法者ではないから、ノックはしたのかもしれない。気づかなかった。 壁に拳をつけたままで素っ頓狂な声を出し振り返ったハンジを、モブリットは僅かに目を瞠って見つめる。けれどその様子から急を要するものではないと判断したらしい。「そうですか」と言いながら、手にしていた書類を差し出されて、ハンジは居住まいを正して受け取った。 巨人への新たな対策として急ピッチで研究開発が成されている試作機の結果が綴られていた。試行錯誤を経て、調整は最終段階に入ろうとしているところだった。こうなる前から第四分隊第一班として少しずつ出ていた案を、残った二人で連日まとめ上げたものだ。その成果が形になっていくのが見えて、資料に目を通したハンジは満足げに頷いた。 「いいね。断頭台の応用は我が班の愛の結晶だな」 「断頭というより潰し首ですけどね」 「断頭台の方がメジャーでいいだろ。国民にも伝わりやすく、ブン屋さんも書きやすい」 あれ以降公平性を主張しつつ、兵団のプロパガンダに寄るといえなくもない相手やその矛先を口に出して、そんな自分に苦虫を噛み潰した気分になる。否定はしないものの同じく顔を歪めたように頷くモブリットも同士だ。 いや、むしろ共犯者といったところか。 「『人類の栄光へ躍進の光。巨人駆逐の最終兵器、断頭台開発に成功』とかですか」 「長いな。『祝・巨人断頭台!』でいいんじゃない?」 「祝……? 短すぎません?」 「そうか? センスだよセンス」 「ロイさん達のですけどね」 「センスいいよなあ」 今までの紙面に書かれた表題を思い浮かべて、ハンジは素直にそう言った。 どれも簡潔でわかりやすく、且つ心に残り刺激される。キャッチコピーとは良く言ったものだ。 そんなセンス光る彼らは、この最新兵器をどう捉え、書いていくことになるのだろう。 互いに確固たる信念がある身で、その道は違えど共感の出来る彼らの嗅覚を信じている。だからこそ、その信念がどう動くか見誤ることは命取りだ。ギリギリの警戒と敬意を込めて嘯けば、モブリットもまた頷いた。 新聞を読むことはこれまでだって勿論少なくなくあったが、まさか記者とこんな関係になるとは思ってもみなかったことだ。 巨人の新たな兵器開発も、かかる時間も、――携わる班員の構成も含め、ある意味全てが想定の範囲内で、同時に想定の範囲外で。 いくつか試作機の改良点を指示した後で、ハンジはふと考えた。 自分は変わっただろうか。想定の範囲内で。もしくは想定の範囲外で。 兵士になる前となってからではそれなりに当然変化はあった。壁外に出る前と生還後なら尚更だ。けど、その根底は。 自分ではわからない。仲間が出来て、大切な相手を想う感情は変化であり成長だ。だがそれは根幹の変化とは違う。モブリットは? 彼も変わったのだろうか。わからない。最初の頃よりいろいろな顔を見ることになったのは想定外と言えなくもないが、これも根底が揺らぐというのとはかなり違う。 (……彼は) 幼稚と叱責したハンジを静かに見つめ、いっそ穏やかと言えるシャーディスの眼差しを思い浮かべながら、ハンジは無意識に拳を握った。 彼は変わったのか――いや、ずっとああだったのだ。自分でそう言っていたじゃないか。 諦観した眼差しで真実を語る男の言葉には、どうしようもなく苛立ちが沸く。 兵士が、増してや調査兵団の長ともなった者が、なる前もなってからもなった後も、ただひたすら己のことしか考えていなかったのだから当然だ。信念を貫いた先の犠牲や失敗ではなかった。それはどうしようもない裏切りに違いない。 「シャーディス団長――元、団長の話を伺いました」 「え?」 「大丈夫ですか?」 ふと、まるでハンジの心を読んだようにモブリットが話題を変えた。 顔を上げたハンジを、何故か苦笑を乗せた顔で見つめている。 シャーディスの件は外部は勿論兵団内でも今は機密事項にされるべき案件だ。が、モブリットはその対象外だ。彼とは共通にすべき事項で問題はない。でも情報が早すぎやしないか。本来ならハンジの口から伝えるのが一番早いこの件を、彼がどこから聞いたかなんて大体察しはついた。 ニヤケ顔で揶揄してきた仲間の態度を思い出して、ハンジは素気無く顔を背ける。それからフンと鼻を鳴らしてやった。 「大丈夫って何が。大丈夫だよ。当たり前だろう? 大丈夫じゃないことなんてあるか?」 「あなたが」 「何」 「傷ついているかなと」 「はあ?」 何を言い出すのかと思ったら。 想定外の言葉にハンジは眉を顰めてモブリットに視線を戻した。 傷つく? シャーディスの件で? 何故。 睨みつけるハンジに苦笑を深めて、モブリットが言う。 「憧れの人だったじゃないですか」 「黙れよ。何なんだよモブリットまで。憧れとかそんなこと関係ないだろうが」 「そうですか?」 何をわかった風な口を。 傷つくなんてあるわけがない。腹が立っただけだ。 モブリットまで揶揄するつもりかと思ったが、困ったように眦を下げた彼のその表情は、悪友の如き仲間の態度とは少し違うようだった。 何となく居心地が悪くなり、無意識の内に唇をほんの少し尖らせながら、ハンジはムッとた顔でモブリットを睨めつける。 「関係ない」 「ならいいです。ただ、俺なら悔しいと思ったものですから」 「……え?」 思わず問い返したハンジに、モブリットが肩を竦める。 「憧れて尊敬していた部分がそんな理由で崩れたら、それはもう悔しくて、今まで抱いていた自分の思いを裏切られたようで、俺なら勝手に傷つきます」 自分の、勝手に――端々に乗せた言葉が微妙に引っかかる物言いだ。 モブリットのいいように誘導されているなとハンジの心が隅の方で警鐘を鳴らしたが、胸の内のもやもやは払拭されることを願っている。 ハンジは仕方なしに乗ることにした。 「私は別に傷ついてない」 「そうですか」 「……」 ならいいです、と再び口にしたモブリットは、その言葉だけで静かに続きを促してくる。まったく可愛くない男だ。いつからこんな性格を見せるようになったんだ。それがわかっていて乗る自分も何て滑稽なんだろう。 そう思いながら、ハンジは小さく舌打ちをした。 「――ただ、腹が立っただけだ。あまりにも勝手な言い分で」 「はい」 「だって……だって、そうじゃないか。いつまで思春期を拗らせてるんだよ。選ばれし人間? 聞いて呆れる。みんな人類の希望をその先に見ていたんだ。シャーディスの命令に従ったのは、彼もそうだと信じていたからだ。彼の掲げる前進が信頼に足ると信じていたから。なのに、彼は見ていなかった。ずっと、見ていなかったんだ」 「そうですね」 それが悔しい。 同じ志を――いや、先人としてそれより高みを見ていたと信じていた相手が、己のことしか見ていなかった。それもほんの最初から。ハンジが彼を見るよりずっと前からだ。ただの普通の、いや、兵士という資質で計るなら普通よりも格段に意識の劣る人間を信じていた。つい数時間前までずっと。 そんな相手に憧れていた自分が悔しいじゃないか。馬鹿みたいだ。 (……モブリットの言うとおり、か) 憧憬の念を裏切られた。腹立たしさの原因はこれだ。 憧れた部分が幻想と知って、認めたくないが自分はやはり傷ついてもいるのかもしれない。 ハンジは細い息を吐いた。ゴーグルに手を掛け、乱暴に上げる。 「エレン達に問われた時、彼は何一つ抵抗しなかった。包み隠さず話してくれたよ。どうしてだ? 簡単だ。己の小ささを悟って逃げて隠居して取り繕って、そのくせ我々からの断罪を待っていたからだ。全て話し終えた後、彼は憑き物の落ちたような顔をしていたよ。……ずるくないか? ずるいだろう? 何だそれ。何なんだよ!」 ぐっと握りしめた拳が手のひらに爪を立てて、ハンジに痛みを訴える。 これは肉体的な痛みなのか、それとも心の代弁か。 ――どっちもだ。 「…………クソッ!」 希望と野望に燃えて見据えていた丘陵が、蜃気楼だと知ってしまった。知りたくなかった。進む道は違っても、目指す先は同じだと信じていたかった。誰かに自分の理想を見るだなんて甘いと言われるだろう。その通りだ。けれどハンジはそう思っていた自分に改めて気づかされてしまった。 若さ故とも言える。けれどそれは確かにあの頃を支えた輝く何かだった。 裏切りだ。失望した。それにすごく――哀しかった。 たった一人の失脚で、ハンジが自分の今までを見失うことはないし、それだけを支えに今日までやってきたわけでは勿論ない。それほど常時心占めていたわけでも無論ない。けれど心のほんの一点が、どうしようもなく切なくて痛い。 だからあんなに腹が立って仕方なかった。 シャーディスには、ずっとハンジの思うシャーディスでいて欲しかったから。 勝手な言い分だとわかってはいる。 ハンジが勝手な思いを持って見ていただけで、シャーディスは何一つ変わってなどいない。いやむしろ、今日全てを晒しただけ、人間として成長したと取るべきだ。 理解はしている。けれど納得する事は出来ない。 それがどんなに身勝手で理不尽でも、憧れとはきっとそういうものなのだ。 「でも」 吐き出すだけ吐き出して、肩で荒く息を吐いたハンジに、モブリットが静かに言った。 そういえばここには彼がいたんだった。 あまりに黙ってハンジから言葉を引き出させた張本人にようやく意識を戻したハンジは、妙に罰の悪い気分でしろりとモブリットを見た。 「良かったです」 「……何がだよ」 いつもの部下然とした表情をして言われた言葉に、ハンジは訝しげに眉を寄せる。 どこが良かったものか。 それともハンジの吐露を笑うつもりか。 書類を受け取るために出された手に資料を戻しながら剣呑な視線を向ければ、モブリットは自身ももう一度捲ったページに視線を沿わせながら淡々と言った。 「あなたが憧れを拗らせて変な好意にいく前で」 「はあ? いくわけないだろ」 やはり笑うつもりか。 憧れていた事実とその後の子供じみた憤りを揶揄するつもりだと判断して、ハンジはモブリットを睨みつけた。鼻で笑ってやり返すつもりが、単に腹立たしげな声音になってしまったのはこの際仕方ない。 笑うなら笑えと言う気分になってふいと横を向いたハンジに、モブリットが肩を竦める気配がした。 「ほら、思春期にはそういう混同多いじゃないですか」 「もう思春期じゃないし、したこともない。そんな違いくらい間違えない。そういう君こそ、混同して変な好意にいったクチじゃないの?」 「俺はそもそも彼に憧れてはいませんでしたし」 「シャーディスにじゃなく! 他の誰かにだよ!」 わかりきった否定をされて、ハンジはムッと声を荒げた。 モブリットがシャーディスに憧れていたなんて聞いたことがない。だから他の誰かに―― 「例えばあなたにですか?」 「……はあ?」 思いもよらない例えをされて、ハンジは面食らってしまった。 ぽかんと開けた口から間の抜けた声が出る。 憧れを拗らせる話で、どうしてモブリットの口から自分が出てくる。 (……ん? え、何? モブリットは私に憧れていたのか?) そんな話も聞いたことがない。けれどももしそうだとしたらと一瞬思考がぐるりと回った。 憧れを抱かれること自体は悪くない。けれどその多くは思い込みだ。その人物の本質を自分の理想に重ねただけ。知っているつもりでわかっていなかったこの事実は、シャーディスの件で今身につまされている。 その理想から外れた時――彼のような大幅な逸脱もそうないと思うけれど――、単純な好意よりももっとずっと簡単に、そして根深い憎悪と痛みに変わるものだ。 (憧れを拗らせた末の好意……?) それは少し――いや、だいぶ嫌だ。 モブリットが自分に向けるあの視線に、自分がシャーディスに抱いた感情の切れ端があったなんて。だとしたら自分はどれだけ彼の期待を裏切っているだろう。これから裏切ることになるだろうか。 そんなくだらないことを考えながら生きるつもりは毛頭ないし、そんなことで巨人に傾ける熱意に水を差すこともない。 でも、嫌だ。 自分がついさっき抱いた感情をいつかモブリットが自分に抱かないとも知れないのは。 (――勝手だ) ――わかっている。自分は随分身勝手だ。ハンジはシャーディスに理想を重ね、憧れ、彼の本質はおそらくずっと変わりはなかっただろうにその事実を知って憤っている。 もしかしてモブリットはそんな自分に失望したのだろうか。 「モブリッ」 「俺はあなたを尊敬はしていますけど憧れてはいませんのでご心配なく」 ああなんだ。 一番の懸念が払拭されて、ハンジは知らずホッと胸を撫で下ろした。 憧れはないと断言されるというのも微妙なものだが、それも身勝手なのだと内心で笑うしかない。 モブリットに穏やかな目で見つめられて、ハンジはむず痒い気分を誤魔化すように両腕を組んだ。 「心配なんてしていない」 「だから俺のあなたへの思いは、拗らせた好意ではなく単純な下心です」 「ふうん、へー。何だ。君のはただの下ごこ――……っ、はあ!?」 表情も変えず告げられた台詞を反芻しかけて、ハンジは素っ頓狂な声を上げた。 何の暴露だ。思春期の憧れを拗らせるよりも直載すぎる。しかも言うかそれ、本人に。 あんぐりと口を開けるハンジを揶揄するでもなしに、モブリットはさっさと資料に視線を戻してしまった。 「それで次の試作機ですが、期限はいつまでになりましたか」 「…………っ、明日夜迄に代案提出だ! 籠もるぞ!」 「はい」 憧れを抱いていない部下は何と上官の扱いが逞しいことか。 やるべきことを示唆されてまで郷愁に囚われてなんていられない。おかげでハンジの心の傷は、薄く覆い隠されてしまった。 目の前に続く道がある。やるべきことも、やれることもまだまだ先は未知数だ。塞いでしまった一つの道をいつまでも考えてはいられない。わかっている。この先を行きながらそれでもふと振り返れば、在りし日に見つめた道程はやはりハンジの心に切ない痛みを覚えさせることだろう。 けれども道は続くのだ。 その道を行き、共に切り開く仲間と共に、仲間の為に、ハンジは進む。進みたいと熱望する。 真新しい用紙を机に広げたモブリットに頷いて、ハンジはゴーグルを元の位置へと戻した。気合いの両手で頬をパシンと挟んで鳴らす。 「――よしっ」 手にしたペン先をインクに浸し、用意された紙面につける。 そうして脳内にある情報と想像とを全開にして、ハンジは次への道を模索し始めたのだった。 【FIN.】 71〜72話を読んでの幕間パテ職人でした! シャーディスについてのもっやもやをこんな感じに抱えてて、モブリットがいい具合に息抜きの方向を示してたらいいなという安定のモブハン脳による妄想でした。 個人的にハンジさんのシャーディスに対する思いというのは、別に恋だ愛だというのではなく、純粋にキラキラしてたんじゃないかな、そうだったらメッチャックチャ可愛いな!?と思って書き始めたら、何でだかモブリットが出たあたりからものすごいモブハン話っぽくなり、しまった。私はモブハンスキーだった……と思い知らされました。 |