廻る季節の折々に



【春】

凍える雪の季節を越え、麗らかな陽射しがまだ空気の冷える春を温め始めた桜の季節。
鮮やかな新緑が柔く芽吹き始めた路肩の芝を足元に、訓練を終えた俺は同期と班点呼へ向かう途中だった。
その道すがら、現団長に万が一何か事が起これば、次期団長と目されているエルヴィン分隊長の姿を見掛けたのは偶然だった。その後ろを、肩ほどまで伸びた髪を結ぶでも梳かした様子でもない無造作な状態で振り乱しながら――文字通り、「振り乱し」ていた――彼女の姿を見たのも偶然だ。

「ねえ! ねえ何で!? 何で駄目なのさ! さっきのじゃ納得出来ない!」
「それは君に理解力がないからだ。わかるかい? 観客の納得と理解は今はまだ二の次でいい。煽動でも構わない。周囲を同調させる譲歩という言葉を身につけなさい」
「納得出来ない!」

喧々と突っかかる彼女を、ある者は呆れて、ある者は興味本位で、またある者は怖れ知らずと侮蔑を込めた視線で見つめているのが、俺の目からもはっきりとわかった。
噂には聞いたことがある。
仮にも同じ調査兵団に所属の身だ。彼らをそれぞれ単独で目にしたことなら何度もある。
それでも、二人の歯に衣着せないやり取りをこんな近距離で目の当たりにしたのは初めてだった。
なるほど、と思う。
これは確かに噂にもなる。

座学も体術も立体機動も、「普通にしていれば」卒業成績はおそらく余裕で十位以内だっただろう――とは、俺が師事した座学教官の溢した言葉だ。
講義の後で時間をもらい、巨人の生態についての疑問と可能性を話していた時、彼はそう言って溜息を吐いたのだ。その言葉の意味を詳しく知る前に、次の壁外で彼は逝って、俺は書庫で手にした資料の閲覧記録氏名で、彼女の存在を色濃く知っていったに過ぎない。
それでも彼女の選んでいた本やたまに見掛けるその言動、同期や先輩だという彼らの話を掻い摘んで、勝手にイメージは作られていた。

そうでなくとも優秀な頭脳と秀でた観察眼は当然周りの意識に上がる。けれどすぐさま、それを補って余りある異常な行動力や言動で周囲を顧みず実行しようとしてしまう彼女は、だから兵士としては問題児。そういうレッテルも聞こえてきた。むしろ研究者や座学の聴講生が向いていそうなタイプじゃないか。けれども悲しいかな、恵まれた身体能力が、彼女を枠に押し留めることを良しとしない。生き急ぐそれは、壁外に出る兵士としては、些か浅慮に過ぎるのではと思ったものだ。

「ちょっと待ってよ、エルヴィンのバカー!」

相手によっては今すぐ懲罰の対象になりそうな暴言を吐いた彼女は、そのイメージを強くする。
――はずだった。

「じゃあ捕獲はなし? それであなたはずっといいの、エルヴィン? 前の話と違うじゃないか!」

――捕獲。捕獲? 巨人を、生け捕りにするということか?

前からやって来る二人の距離はまだ大分ある。けれどもその会話は、人目を憚るということをしていない。だから勝手に聞こえてきたその単語に、俺は思わず足を止めた。

「時期ではないと言ったはずだ。結論を急くのは何度も言うが君の現時点で最大の欠点だ」
「だからそれを考えたんだよ! あれのどこがまずかったって言うのさ!」
「全てだ。冷静になれハンジ。そうすればすぐにわかる」
「頭デッカチは禿げるそうだけど、本当だね。後退してるじゃん」

ヒッと周囲で息を飲む声が上がったやり取りを、二人は平然と進めている。
自分の前髪を勢いよく上げて額を見せた彼女を、けれどエルヴィン分隊長はまるで意に介していないようだった。
それが益々彼女の機嫌を損ねたらしい。

何で、嘘つき、どこが、エルヴィン――

おおよそ班長以下の兵士が取る態度ではない勢いのまま、エルヴィン分隊長に食い気味にきつい言葉を投げている。

「今の――」

でもそんなこと、俺はもうどうでも良くなってしまっていた。

「捕獲って言ったよな」

思わず呟いた俺に、同期が気づいて振り返る。

「何やってんだよモブリット。早く行くぞ?」
「なあ、今――」
「あの人あれだろ……ホラ、調査兵団きっての変り種。何て言ったっけ――そうそう、ハンジ・ゾエ! 女か男かわからないって本当だな。骨格的にはー……って、ヤベ! じっくり見てたら巻き込まれるぞ!」

俺より少し背の高い彼が、まだ少し距離のある彼らをあからさまな動きで避けた。そのお蔭ではっきりと二人の姿が見えるようになる。
ザッザッと舎前の薄砂利を踏み鳴らし、彼女の言葉を泰然と流し、しかし邪険にしているわけではないエルヴィン分隊長の動きは、訓練でも何でもない今でさえ、まるで隙が伺えない。新兵誘致のレセプションで初めて見た時に感じた威圧感こそないものの、身の詰まった存在感が彼の揺るがない決意の一端を表しているかのようだ。

「拘束具のワイヤーの件なら――」

その後を一歩も引かず歩きながら、持論を次々に展開していく彼女もまた、俺にはある意味エルヴィン分隊長よりも大きな存在感を放って見えた。
無駄なく引き締まった体躯は厳しい訓練を生き残り、更に壁外を経て尚ここにいる優秀な兵士の証だ。装飾に傾ける気配さえ微塵も感じさせない潔さは、己の意志と信念に邁進している証左にも思える。眉を顰め身振り手振りを交えて興奮気味に語る様は子供のように無邪気でもあり、狂気染みた探求者のようにも見えた。
何度も大きな目がエルヴィン分隊長と、その向こうの何もない空間をひたりと見据える。
それは、彼女にしかまだ見えていない何かを掴むのだという赤黒く迸る決意のようだった。

「巨人の壁内捕獲は、今後絶対必要になるって――」


 ――壁内、捕獲。


イメージが一気に頭を、全身を駆け巡り、俺はその場から動けなくなった。

「おい、モブリット」

同期が俺の肩を叩く。
けれどもそれが遠くに感じる。

何度それを考えただろう。
俺達は巨人を知らない。知らない巨人に脅かされて、やっと得た情報を頼りに、調査と称して食われに行く。
市民の揶揄は尤もだ。巨人の身体は、構造は、弱点は、感情は、言葉は、繁殖は、食性は、生体の全てが不足している。
鹿を狩るのに釣り竿を用意していく馬鹿はいない。
熊から身を守る為に、拳一つで立ち回ろうとするなど自殺行為だ。

人類は、――先んじて調査兵団は。
巨人を知る必要がある。

「次の会議には掛けられない」
「だから何で! 資料なら提出したろう!?」
「足りない。人員も器具も時間も何もかも。そもそもこの案が今後成立の目途が立った時に、多くの協力は必要不可欠だ。立案責任者として君への補佐、賛同者は?」
「そんなもの、私達は兵士だよ? 命令があれば」
「人類に捧げる心臓は、君に捧げるものではない」
「エルヴィン!」


ああ、この人は。


素気無いエルヴィン分隊長の背中に怒鳴り、聞き分けのない子供のように足を踏み鳴らし、それでも下を向かないこの人は、その重要性を確信している。
何度思ったかしれない。
暗く四方を壁に閉ざされた中にあって、それは一筋の、けれど眩い光に見えた。
だけど、俺がその必要性を語った時、誰もが頭がおかしいというような顔をした。

言葉が、資料が、足りなかった。
可能性の話より、目の前に蓄積される問題は、それはそれで死活問題でもあったから、思考にかまけていられる時間は完全に不足していた。
仕方がない。まだ時期じゃない。
そう思わなければならないのかと、ずっと頭の片隅で俺は靄を巣食わせていた。
訓練もあった。座学も。立体機動も。体術も。
壁外に出れば命令を遵守し、生き残るという至上命題もそこにはあった。
その条件は、彼女も同じだったはずだ。

「言ったろう? 頭が軽かったんだ! 蹴った頭が! 質量がおかしいんだよ。だから一旦壁内に入れてさあ!」

思考の片隅に可能性の素晴らしさをひっそりと横たえ、疲労の合間に許される権限内での資料を漁り、それでも誰かに伝える努力を躊躇い始めていた俺とは違う、その人がいる。
お前は彼女のようにはなるな、とあの日教官は俺に言った。


『無駄にするな。
 敵を作るな。
 出来ることと出来ないことを弁えろ。
 すべきことをすべき時に。
 特性を生かせ。
 同じにはなるな。

 ――似て非なるものにこそ価値はある。』


彼が言った言葉は中傷だったのか、それとも教訓だったのか、何かの暗示だったのかはわからない。
けれど言葉は生きている。
人当たり良く、たまに斜めな発言をする、少し変わった、でも仲間思いで悪くない奴。
俺のポジショニングは上々だ。それはこの日の為だったのか。
巨人の質量なんて、切り落とせばすぐに蒸発する彼らのそこにまで意識が回ったことはなかった。
彼女の目に映る景色を見たいと思った。頭の中にある青写真を見たいと思った。俺の中にある青写真を床一面に広げてみせて、彼女の意見が聞いてみたいと、そう思った。

「五メートル級の確保なら――」

いや、まずは三メートル級からが妥当でしょう。万一のことを考えて、被害を最小に抑えるくらいならそう違いはありませんが、場所、人員、器具の補充に、何より壁内の住民の感じる恐怖と興味と人間の優位性が保てる限界の大きさではないでしょうか。

「……イ……オイって、」

――ああ。

次の壁外調査に出たら、俺も巨人の頭を蹴り飛ばしてみよう。それから腕も。出来れば足も。
質量がどこかに集中しているのかもしれないから、本当は細かく調べたいところだ。
けれど一人じゃ蒸発までの時間が足りない。彼女が頭を蹴ったというなら、じゃあ足にすべきかもしれない。
それとも近い場所だけど、削いだうなじでも良いかもしれない。

黒目がちの彼女の瞳が、歯牙にも掛けないエルヴィン分隊長を忌々しげに睨みつける。二人の距離はもうすぐそこだ。
けれども彼らが俺を見つけることはない。今までそうであったように、奇異の目を向ける一兵士という風景として、目の前を去っていくのだろう。
その瞳から目を離せないまま思考が早馬のように掛け始める。

「オイ!」

勢いよく肩が引かれた。
その瞬間――エルヴィン分隊長ではなく――彼女が、ちらりと俺を見た。それはきっと偶然だった。
近場で大きな声を上げた方へ、偶々視線をやった。そんな動きだった。
けれどその偶然で、彼女と俺の瞳は合った。

「行くぞって」

同期の声が素通りしていく。

「モブリット!」

一瞬の交錯で感じたのは彼女の熱量。それだけだ。
けれどたったそれだけのことで、もっとと思ってしまった俺は、この出会いをずっと待っていたのかもしれない。
僅かに歩調を緩めたように思えた彼女が、考え込むように腕を組み、エルヴィン分隊長の後ろを少し遅れて俺の前を通り過ぎた。

「……ット、……ーナー?」

過ぎた彼女がそう言った気がした。
もう完全に目線だけでなく身体ごとで彼女の背中を見送っていた俺は、しばらくして、突然「ああ!」と叫び声をあげるやいなや、エルヴィン分隊長に飛びついた姿にギョッとした。

「エルヴィン! 彼だ! 彼だろ、座学の教官だった彼が前に言っていた――ほら!」
「ハンジ、その件は後だ」
「でも!」

彼? 何だ? また新たな発見でも?
ブンブンと拳を振り回す彼女の様子は、ついさっきまでと少し違い、単純な駄々っ子のようにも見える。
対してエルヴィン分隊長は、何か面白いことでもあったのか、声音が少しだけ揶揄するようなそれに変わって聞こえた。

「まずはこの資料を精査してきなさい。自分で気づく必要性をまた私に解かせる気か? それに今回の件は、君にしては勘付くのが遅かった。その代償だ」
「は――知ってたな!? ヒドイ! 私がどれだけ」
「周囲を顧みてこなかった君の落ち度だ」
「〜〜〜〜〜クッソ!!!」

気になる、知りたい。どうすれば俺は彼女の隣に立てるんだろう――

「もういい加減行くぞって、モブリット!」
「え、あ、ああ」

同期が俺の首根っこを引っ掴み、後ろへ強引に引いたのと、彼女がもう一度こちらを振り向いたのは同時だった。
一瞬交わり、また離れた互いの視線は、必然に導かれた偶然によって、春のこの日、確かに繋がったのだ。