廻る季節の折々に 【夏】 ジリジリと空気ごと焦がすような熱線が容赦なく地面に降り注ぐ。 空気を震わせ、声の限りに鳴き喚く蝉の大合唱が、肌だけでなく鼓膜の奥からも熱の侵食を促しているような気にさせられる。 充分な水分を補給しても、その端から蒸発してしまいそうな気温は、午前を過ぎても止まることを知らないらしい。 わざわざこんな日に、好き好んで外を出歩きたくはない。 「……ハンジさん」 「暑いね」 けれども日除けを何も持たず、何かに憑かれたように歩く彼女を見掛けてしまえば、その後を追わずには居られなかった。 呼び声を無視こそされなかったものの、考え込むように先を急ぐ彼女の足は、吹き曝しの小高い丘に作られた兵団の共同墓地に向かっていた。 日光を受けて触るのは憚れるほどの熱さになっているだろう墓石は、ギラギラと鈍い光を放っている。 表面が薄っすらと空気を揺らし、まるで阻まれているかのような錯覚さえ与えてくれる。 「彼らは暑くないのかな」 一つの墓石の前でゆうに数十分立ち尽くしたハンジさんが、不意にぽつりと言った。 彼らとは巨人だ。ここに形ばかりの肉片もなく、眠りを刻まれた名前の持ち主のことではないとすぐにわかった。 彼女の言葉に、俺は頭を巡らせてみる。 寒さも暑さも、彼らが捕食する行動において、目に見える変化は見当たらない。少なくとも文献にもそういった記述はなかったはずだ。 意見を求められているのとは違う彼女の口調は、陽炎のように揺らめいて、そのまま蒸発してしまうような錯覚が起こる。 「……直接、彼らの肉体に負荷がかかっている可能性は限りなく低いかと思われます。とはいえ平均寿命を加味した何かを行えたことはありませんので、季節問わず高温を纏う彼らの生体に、何らかの負荷が蓄積されている可能性も0ではないかと」 「寿命かあ……なるほどね。急進的弱点ばかり考えがちだったから、生命体としての自然淘汰の期限は考えたことなかったよ」 返された返事に、俺は心の底から安堵した。 振り返られはしないが、まずはそれだけで上々だ。 ――彼女は今、こちら側にいる。 彼女の傍で昼夜を問わず行動を密にするようになって早数か月。 今までの人生が夢現に思えるほどの濃密な時間は、潤いと同時に激しい渇望を俺に与えた。焦燥と言ってもいいかもしれない。 彼女と話がしたいと思う。視線の先に、同じものを見たいとも思う。そうして並んで思い知るのは、自分と彼女の世界の違いだ。 飛躍的な発想に思考能力、それに恐るべき集中力――そこには称賛と孤独を同時に感じた。 思考する為に脳があるのではなく、ハンジ・ゾエという存在の為に、脳が、身体があるかのようで。 一瞬の隙をついて彼女は思考の渦に沈んでしまう。 それは寝食を忘れた没頭であったり、周囲を――時に自分の危機さえ後回しにしてしまうほどの暴走であったり、様々な形で現れる。 が、その何れも、俺の入り込む余地はまるで見出せないままに一人取り残された気になるのだ。 「成長速度を計測したこともありませんし、そもそも一般的な寿命そのものが存在するのかも不明ですが」 「そもそもの発生原因がわかっていないんだからね。でもその発想は面白いよ。……個体識別が確立出来れば、限定個体の比較も可能かもしれないな」 それが嫌で引き戻す。この世界に。すぐ傍で。 それは彼女の思考に入り込ませる会話であったり、多少肉体に負荷を掛けての強引な引き戻しであったりするけれど。 「指紋採取でも出来ればいいんですけどね」 巨人に食われてしまわないように。 彼女だけの思考の沼の奥底で、声もなく溺れてしまわないように。 ――この人を、失わないで済むように。 「ぶっは! 指紋か! いいね。モブリットのそういうところ、本当に好きだなあ。尊敬する」 「馬鹿にしてます?」 「なんで。こんなに褒めてるのに」 くつくつと肩を揺らして笑う彼女は、まだこちらを振り向かない。 湿度も高く、時折吹くとはいえ、熱風のような夏風と日光に晒された晴天の墓地の中で佇む背中は、ただ立っているだけだというのに既に汗の洪水だ。 翼を背負うジャケットから覗く彼女の首筋も、灼けて痛々しい程の赤さになっている。 俺よりも色素の濃い彼女の髪は、より熱を含蓄しているに違いない。 「ハンジさん」 せめて木陰に。 俺は、今すぐにでも頭上を手でも何でもいいから、庇で覆ってしまいたくなるその背中に呼び掛けた。 「ああ、うん」 けれども生返事をくれた彼女は、おもむろにその場で腰を少し折ると、墓石に指先を伸ばそうとした。 「……あつくないのかな」 熱で揺れた空気の立ち上る石に―― 「あ――ッツイ! に、決まってるでしょうが!!」 触れる寸前で、俺の手は彼女の手を掴み込むことに成功した。 僅かな隙間をついて奪った代わりに、俺の手を墓石が焼く。ジュ、と一瞬皮膚の灼けた音がした。 思った以上の温度だったようだ。 熱さよりも痛みを強く訴える火傷だ。が、彼女の手は離さずに、俺は墓石を一瞥した。 この下で眠るのは誰だ。刻まれた名前に目を走らせる。ジェシカ・ロレンス――彼女は確か、前回の壁外調査で遺体が見つからなかった。一度隣に配置されたことのある赤毛の子だった。巨人の壁内捕縛にはどちらかといえば反対派で――。 火傷も厭わず、思わず墓石に触れたくなるほどの想い人が眠る石というわけではなさそうだ。 (いやもう――そういうことじゃなくて) あまりの痛さで、俺の思考は支離滅裂になっているらしい。 熱い。暑い。すごく痛い。 「……火傷、しませんでしたか?」 「な――し、してるの君だろう!? 何やってるの!」 涙目になりそうな自分を上手く取り繕ったつもりで笑いかければ、ハンジさんは零れんばかりに目を見開いて俺の手を取り返した。 ようやく向き合えた彼女は、慌てたように火膨れを起こした手の甲と俺とを凝視している。 「うわ……大丈夫? これ早く帰って冷やさないと――」 「とりあえず木陰に入りましょう。あの木の下にでも」 「でも」 「これくらい針で突いて、舐めておけば治りますよ」 じわりじわりと水膨れが出来始めた様子に、不安げにアンバーの瞳が揺れたのを認めて、俺は強引に彼女の手を引いた。 整然と並べられた無機質な悲しみと決意の対象を抜け、少し離れた大木の下に到着するまで、彼女はその手を振り払いはしなかった。 繁る葉に陽射しが遮られ、ようやく人心地つけた気分になる。 湿度も熱風も何も変わりはしないのに不思議なものだ。 青い下草の生えた地面に促せば、おとなしく腰を下ろした彼女の横に、俺も腰を落ち着ける。 ゴツゴツとした木の幹が、ジャケットの上から少し痛くて、それが妙に落ち着いた。 不意に、彼女が俺の火傷した手に触れた。 「痛む?」 水膨れの端ギリギリを確かめるように触れられれば、ピリッとした痛みがあった。 「大丈夫です」 本当は痛い。だけど、この痛みを与えるのが彼女なら問題ない。 俺の手が届かず、一人耐える彼女の姿を見なければならないよりもずっとマシだ。 今、無事な彼女がここに居て、俺を認識しながら話をしている。 「いつも、君には驚かされる。止める間もなく飛び出すのやめてよ。吃驚するだろ」 「――はあ?」 思わず間の抜けた声が出た。 それは俺の台詞だろう。あなたと出会ってから、俺がどれだけ肝を冷やしてきたことか。 彼女は伏せた視線で水膨れの表面にそっと指を滑らせた。 「教官から話を聞いて、ずっと興味を持っていた。君の事だよ、モブリット」 「教官?」 彼女が告げた名前は、俺に彼女と同じにはなるなと何度も忠告してくれた彼だった。初耳だ。彼が、俺の話を彼女に。どんなことを。 驚いている俺に構わず、彼女が続ける。 「殲滅だけでなく、生体そのものに興味を持っているような奴がいるって。本当はすぐに話したかった。でもまだだ急ぐなって随分勿体つけられてさ。段取りを整える前に彼は死んでしまったから、機会を失ったままだったんだ」 それで、あの日彼女は俺のフルネームを知っていたのか。 視線が交錯した初めての日を思い浮かべながら、俺は痛みを訴える手を彼女に取られたままで納得した。 彼は俺にもそのチャンスを与えてくれていたのだと、今唐突に理解した。 俺の突拍子もない疑問に溜息を吐きながら、それでも向かい合ってくれた彼は、彼女と同じにはなるなと言った。 特性を生かせ、似て非なるものに価値があるとも。 俺がその意味を正しく理解出来なかったから、彼は彼女に俺を会わせられなかった。あの時の俺では、ただ引きずられてしまっただろうから。 今でさえ、彼女の思考の深淵を臨めないことに地団太を踏んでしまう俺が、出会えた時期が正しかったかと言われればわからない。 けれど、出来ないことを認め、こちら側に引き戻す手立てがあることは、おそらく正しいのだと思う。 「さっきのさ、寿命と指紋の話だけど」 「え?」 顔を上げた彼女の視線が、真っ直ぐに俺を射抜く。 「尊敬してるって本当だよ。君の存在を知ってから、ずっとそういう話をしたかった。だから今毎日がとても楽しくて。でも君は、気づくと違う世界を見ているように見えることがある」 その瞳に浮かんだ感情を、俺はよく鏡の中に見たことがある気がした。 くすんだ金髪を真ん中分けにした、良くも悪くもない平凡な男の顔の中に。 いやでもまさか、と内心が否定の言葉を紡ぐ。 「そういう時、いつも私は出遅れてしまって、一人取り残された気分になるんだ」 それは――俺が、いつもあなたに感じていることで。 彼女の瞳に、渇望と嫉妬の炎が揺れた。 「君の見ている世界が知りたい」 「俺の、世界――って……」 それから突然、彼女の下頬がぷくりと膨れた。 「話したくないなら聞かないから。でも、私がそれを見つけるまで、あまり駆け足で生き急ぎ過ぎないでいてほしい。こんな怪我しょっちゅうしてるだろう君。心配でたまに集中出来ないことがあって、すごく困るんだよ本当」 そもそも怪我の発端は、あなたの無茶を止めた為だったということは、全て忘却の彼方らしい。 言い掛かりを堂々と言い放った彼女は俺を睨みつけている。 心配、されていたのか。それも知らなかった。初耳だ。俺が怪我をすると困るのか。 深淵の底に一緒に降りることは出来なくても、淵から伸ばした手にはいつも気づいていたのだと、初めて知った。 それから、彼女も俺の深淵を覗きたいと思っていてくれていたということも。 「ぶっ」 「馬鹿にしたな!」 思わず噴き出してしまった俺に、彼女が掴みかからんばかりに怒鳴った。 ほとんどふくれっ面のその顔も、初めて見る表情だ。 「す、すみません。そうではなく、あまりにも驚いて」 「嘘が下手だなモブリット!」 本当です。まさかこんなに同じことを思っていたなんて。 俺達は、本当はとても良く似ているのかもしれない。互いの世界を覗きたくて、覗けなくて知りたいと思う。 「……あなたこそ一人であまり生き急ぎ過ぎないでください」 けれど心配は俺の専売特許だ。たまに、程度の彼女には譲れない意地くらいある。彼女を引き上げるのは俺の役目だ。 「俺も、あなたの世界が見たい」 似て非なるものだからこそ、互いを求め、離し、戻って進める道があるのだろう。 素直に認めた欲求を伝えれば彼女は目を丸くして、それからもごもごと口籠った。 「ハンジさん?」 「……これ、あとで潰させて」 自分の欲求には明け透けなくせに、人の欲には戸惑ったらしい。 水膨れを指の腹で柔く押し付けて誤魔化す彼女から、俺は手を引き抜いた。 これくらいの意地悪は可愛いものだ。 「嫌ですよ。痛くされそうだし自分でやります」 「ケチ。ケーチー! 優しくするから!」 立ち上がれば、汗が背中と額を伝う。彼女の頬も、同じように汗が流れた。 その頬が赤いのは何故か。それは、今ようやく少しだけ、同じ世界を覗いたせいなのかもしれないと思った。 |