廻る季節の折々に



【秋】


「モブリットって体幹しっかりしてるよね」
「ありがとうござい、ます……っ」

言いながらギチリと関節を極められて、額に嫌な汗が伝った。
どんなにそこを褒められても、寝技に持ち込まれてしまえば軍配はいつも彼女に上がる。
蹴りや四つに組むなら五分より少し俺に利があるはずの対人格闘訓練で、最近やたらと負けが込んできていることには気づいていた。原因はひとえに、彼女に隙をつかれることが多くなっているからだとも気づいている。何故かという自覚はあって、だからこそ俺は今、正にそこが正念場だということも理解していた。

「反射神経もかなり良いし、立体機動を使った交戦になったら勝てる気がしないんだけど」
「俺も、……ッ、それならいける気が、します!」

でももうダメだ。これ以上絞められたら完全に落ちる。
淡々と可能性を示唆してくれるハンジさんもそれに気づいているに違いない。だというのに、まるで容赦のない絞め方は本当にやばい。

「ちょ、あの……っ、すみません、こ、降参ですっ」

しまったなと思いつつ降参を口に出してみたが、彼女はちらりと視線を俺に流してから、けれど力を緩めてはくれなかった。

「気張れよ」
「む、無理で――あ、」

やばい。落ちる。

ふっと意識が暗転するかと思った瞬間、四肢を縛る拘束が解けて、俺は全身にかいた脂汗と共にべしゃりと地面に頽れたのだった。


*****


併設された医務班で傷んだ関節に軟膏を塗られて戻った俺は、無表情に近い不機嫌顔で前を見据えたままのハンジさんの隣に立った。
眼前に広がるむき出しの地面では、後輩や部下達がそれぞれ必死の形相で自分の仮想敵である仲間の隙を伺い、掴み、殴り、蹴り飛ばしている。みな一様に必死で、遊びの余地があった訓練兵時代とはさすがの違いを見せていた。
一度壁外から戻った者なら、おそらく誰もがこうして必死になるはずだ。生き残る為の可能性が例え僅かでも上がるのならばと、対人格闘にも気は抜かない。
それが本能であり、兵士としての義務だということもわかっている。

「君さ、私を馬鹿にしてないかい?」

真剣な彼らの様子をつぶさに見つめていたハンジさんが、硬質な声でそう言った。
やっぱりきたか。こんな調子ではいつか聞かれる。そんな気はしていた。
ハンジさんとの格闘で、最近特に俺は負けてばかりいる。

「そういうつもりでは――」

号令を合図に訓練は終わり、真剣な表情でそれぞれ班に戻り始めた彼らに倣い、俺達も舎前を後にする。
やはりこちらを見ないまま足を進めるハンジさんの隣に並んで、俺は言いにくい謝罪を口にした。

「……すみません」
「謝るってことは、私の不快を察してはいたんだよね。理由は? まさか体面を気にしてるなんてことじゃないんだろう?」

西日に傾き始めた太陽が最後の熱の恩恵をくれて、俺達の陰が長く伸びる。
最近随分日が短くなってきた。空気の澄み具合が季節の変わりを感じさせる合図のようだ。
俺は、日中より冷たくなった風に吹かれて揺れたハンジさんの毛先を眺めながら、何とも言いにくい気分でぼそりと言った。

「……遠からず近からず、といったところかもしれません」

すると、ぴたりとハンジさんの足が止まった。

「マジか」
「すみません」

信じられないと言いたげに眉を顰めて俺を見たハンジさんは、少なからず衝撃を受けているように見えた。
その視線から逸らさずに見返していると、彼女は何かを言おうとして言葉を探して口を開き、それからガシガシと頭を掻いた。

「あー……ごめん、ちょっとよくわからない。モブリット、今時間はある?」
「あります」

今日の予定などわかりきっているだろう彼女に確認されて、俺は覚悟を決めて頷いた。
遅かれ早かれ、こんな日が来るだろうとは思っていた。それが、今日になっただけだ。
ハンジさんが不満と疑問と決意に満ちた目で俺を正面からひたりと見つめる。

「じゃあ話をしよう。君のことを勝手に分かった気になってたみたいだ。ごめん、言葉が足りなかったなら話し合いたい。これは結構私達の根幹に関わることだと私は思っているんだ」
「……俺も、思ってはいます」

思ってはいる。
ただ、この感情と行動がまだうまく合致し切れていないだけだ。
それは俺の未熟さでもあり、多分に本能の一つでもある。

「なら良かった。とりあえず、そこの裏手でもいいかな」

歯切れの悪い同意に、けれどもハンジさんはひとまず納得してくれたらしい。
兵舎の裏口に面した道を示されて、俺は黙って頷いた。二人で黙したまま横道にそれ、訓練帰りの人気もなくなったタイミングで、ハンジさんは振り返った。
壁に背をつき俺を見る目は、ある意味剣呑で、どこか不安そうに揺れて見えた。
そんな顔をさせたくはなかった。だけど、この先この会話の終着に、彼女はどんな顔をするんだろう。
それを思うと、覚悟を決めても少し怖い。

「遠回しは苦手だから率直に聞く」

腕を組んで、彼女が、くん、と顎をしゃくった。

「どうして今更手加減を? 何も殺し合いをしろと言われているわけじゃない。対人格闘の訓練だろう? もっと真剣にかかってこいよ――と正直不満が噴き出してる。君にそのつもりがあろうがなかろうが、手加減は馬鹿にされていると感じる。さっき君は、遠からず近からずって言ってたけど、あれの真意が知りたい。私が君に負けたら部下に示しがつかなくなるとか、そんな馬鹿なこと本気で思っているわけじゃないよね。本気になる価値もないほど弱いつもりもないんだけど」

本当に一息で核心を突かれて、俺は内心で舌を巻いた。
対人格闘の一点でそこまで思い詰めさせていたのかと、そこは大いに反省するところだ。
俺の真意は一つだけ――それもごく単純なもので、おそらく彼女は想像すらしていないに違いない。
だが、単純な戦闘において男女の別だの、そこで見る目の変わる部下だの、そんなことは欠片も意識したことはなかった。それに嘘はないから、誤解は早急に解くことにする。

「さすがにそんなふうには思っていませんし、手を抜いて敵うと思ったこともありません。体力とリーチの差では若干俺に分がありますが、反応速度と関節技はあなたの方が断然うわてです。正直、今日は本気ではずされるかと思いました。訓練なんですから、勝敗が決してからはさすがに手加減してください」
「だってモブリットが話の途中で逃げようとするからつい腹が立ったんだよ。……ごめん、まだ痛む?」

ムッと口を尖らせたハンジさんは、けれども言いながら俺の方に手を伸ばしてきた。
締め上げた肘関節に触れて、それから落としかけた首筋の大動脈を労るように指先でそっとなぞる。

「……いえ、もう、平気ですけど」

顎を引きそうになる自分を叱咤しつつ答えれば、ハンジさんは拗ねたような顔のまま、俺の首から手を離した。

「次からは気をつける。で、君の言い分を聞こうか。どうして加減を?」

憮然と唇を引き結び、もう一度しっかりと腕を組み直したハンジさんに今度はキッと睨めつけられて、俺は触られた首筋に手をやりながらで口を開いた。

「……力量が拮抗している場合、勝敗を決すのは僅かな隙だと思います」
「そうだね。ここ最近の君は、大体おかしなところでした加減のせいでその隙が生まれて、私にそこを突かれて負けている」

ああ、やっぱり全部気づかれていた。
それはそうか。俺だって自分のおかしな行動に気づいていたんだ。彼女に気づかれないはずがなかった。
自分の浅慮に溜息を吐くと、ハンジさんの眉間の皺が深くなった。

「あなたは基本的に隙がありませんので、ごくたまに俺が見つけられるそこは、たいてい急所なんです。もしくは肘の入れられそうな顔面か。または飛ばす予定の場所に、不可抗力で怪我をさせそうな石があったり」
「それは仕方なくないか? そんなことで例え傷が残ってもモブリットを恨んだりしないよ? むしろそこまで気にされている余裕があったことが、今もの凄く悔しいんだけど」

そう取るか。余裕なんてあるはずがないと言っているのに、そこは汲んでくれなかったらしい。
実力が拮抗していて、だから本気の傷を負わせそうだと言ったのに。
それでもそれをさせたくないという真意は解してくれず、あくまでも「手加減の理由」という点に絞って知りたがる彼女に苦笑が溢れる。

「笑うことか」
「違います」

と、より憮然としてしまった彼女に慌てて、俺はすかさず弁明した。

「本当に咄嗟になんです。自分でも驚きますけど、本当にその瞬間までは真剣にあなたと対峙しています。だからその証拠に、それまではどっちが勝ってもおかしくない殴り合いになっているじゃないですか」
「んん〜〜〜……んんん、まあそうなんだけどさあ……!」

もう何度も繰り返した二人の組み手を思い返して、ハンジさんが唸る。
加減をした方がいいのかもしれない、だなんて思い上がった感情を持っていたのは、本当に本当の最初の訓練の時だけだった。
開始の合図が上がってからすぐに急所を狙われて、そんな余裕は霧散した。
訓練でもいつだって本気で俺は彼女に向かっていた。いや、今だって本気で向かっている。
それは彼女もわかっている。
これでもかと頭を捻っていたハンジさんが、それでもわからないというように首を振った。

「じゃあ本当にあれは無意識だったっていうの? 手加減するつもりなんかなかったって? フェミニストなんだって理解しろって? 納得しずらい」
「出来ればそれで納得して欲しいです」
「だって君、つい最近アリシアと組んでた時は思い切り顔面殴り飛ばしてから謝ってたろう?」
「あー……」
「ほら見ろ。納得出来ない!」

別班所属の一つ上の先輩兵士を引き合いに出されて天を仰げば、ハンジさんはそれ見たことかと息巻くように、ずいっと身を乗り出してきた。
見てたのか。というか、なんでそんなことを覚えているんだ。
確かに彼女とハンジさんは、対人格闘においては体格的にも実力的にも近しいと言えないこともない。寝技よりも重い拳が得意な彼女に攻められて、見つけた勝機に思わず顔面を蹴り飛ばしてしまった直近の光景が脳裏に浮かび、俺は情けない気持ちになった。
まだしばらくは気づかれないつもりでいたはずなのに、そこまで顕著な差を見せてしまっていた自分の完全な落ち度だ。
ぐいぐいと迫るハンジさんに胸の前で諸手を上げた俺は、観念して言葉を紡いだ。

「……隙が見えてもあなたのそこを突けないのは、無意識下に芽生えた俺の、個人的な意識のせいだと思います」

きょとんと目を瞬いて、ハンジさんが小首を傾げる。

「何それ? さてはモブリット、私に恋でもしちゃったか?」
「…………無意識でしたけどね」
「…………」

認めた俺に、ハンジさんはやはりきょとんと目を瞬いて、それから理解したのだろう。
諸手を上げたままの格好で見つめる俺から、あからさまに後退った。

「傷つく。ちょっと。そういうあからさまなのやめてください」
「えっ? いや、だって……ええと、なんか、ごめん」

見つけた隙を咄嗟に突けずに負ける俺と反対に、見せた本心からハンジさんは咄嗟に引いた。
くそ。勝機がないとは思っていたけど、目線まで逸らさなくたっていいじゃないか。

「こちらこそすみませんでした」
「いや、ええと、うん。こっちこそ、……あー……ごめん」

芽生えた感情はどうしようもなかった。自覚したのは最近だ。
そんなことを彼女が望んでいないことなど百も承知で、だからもっと上手く折り合いをつけようと思っていたのに。
俺の未熟な態度のせいで気づかれて、突撃されて、お為ごかしの出来ない彼女から早々にお断りの態度をされるのは予想よりも早くなった。
こんな結末はわかっていたはずなのに、思った以上に気落ちしている自分がいる。もしかして後で自室に戻って、しばらく何も出来ないかもしれない。傷は意外と深そうだ。
だが、言うんじゃなかったとは思わない。誤解させたまま彼女を傷つけるよりはずっと良かった。
だけど、うん。これはなんというか意外に辛い。

「謝らないでください。俺の方こそすみませんでした。でも、フッてくださっていっそスッキリ――」
「ち、違う!」

この場だけでも気持ちを切り替えようとした俺は、慌てたように顔を上げたハンジさんと目が合った。
すぐにバッと逸らされて、けれどもその顔が少し赤い――?

「そっちは――ていうか、あんまり得意な分野じゃないんだ。でも、ちゃんと考えて、きちんと答える。から、時間がほしい」

口中でボソボソと呟く歯切れの悪い彼女は珍しい。聞き取りにくさを顔を寄せてカバーすれば、ハンジさんはまた一歩後ろへ引こうとして踏み止まった。
勝ち負けではないと思うのだが、まるで負けまいとするかのようにギッと俺を睨み上げる彼女の顔は、やっぱり珍しい表情をしていた。
もう一度諸手を上げて、俺の方が一歩下がる。

「……次の訓練、加減しないように、そこはきちんと意識しますね」
「うん、頼む」
「了解しました」

睨む彼女に仰々しく頷いてみせると、少しだけホッと瞳を緩ませたハンジさんが、それから照れ笑いのような顔になった。
もしかして、悪くない返事を期待してもいいんだろうか。
この場で結論が出されなかったのは、そういう意味と解釈しても?

「戻ろうか」
「はい」

舎前へと向かって歩き出した彼女の横に少し遅れて並びながら、俺はふむと首を捻った。
兵舎に戻る人の群が近くに見える。ざわざわと人いきれの気配に飲まれてしまう前にと、俺は彼女を呼び止めた。

「ハンジさん」
「ん? 何?」

視線だけ向けてくれた彼女の耳に少しだけ近づき、

「あの、時間っていつまで」
「――君、割と気が短いな!?」

耳を押さえて勢いよく飛び退ったハンジさんの大声に、兵士達が何事かとこちらを見た。けれども俺達の姿を認めるや否や、またかというような視線が波のように引いていく。
呆れられるほど近い距離でのやり取りも、無意識が意識に取って代わればまるで違うやり取りだ。それはどこまで許されるだろう。
憎々しげに舌打ちする彼女に、今じゃないなと理解して、俺は今日三度目の諸手を上げたのだった。