廻る季節の折々に



【冬】

ようやく視界の見える程度に、降雪は落ち着いてきたらしい。

「う〜〜さっぶい!」
「冬の早駆けに、タオルも飲み物も用意しないとか自殺行為ですよ」
「モブリットが来てくれて助かったよ」
「偶然ですからね!?」
「命拾いしたなあ」
「あんたね……」

コートの上から大判のタオルを肩に羽織らせ、上気した頬でしみじみと言ったハンジさんに、俺は思わず肩を落とした。
冷え込んだ空気に締まった積雪が、足を置く度キュッキュッと高い音を上げる。
何故だかはしゃいで見える彼女が先に行きすぎてしまわないように手を引くと、わかってるよとばかりに肩を竦めてハンジさんは俺の隣に並んでくれた。

***

特に用があったわけでもないのに、何故か早くに目が覚めてしまったのも、朝焼けに煙ぶる兵舎の窓から見えた景色へ視線を上げて、そこに雪が舞い始めたと気づいたのも、そこでふと愛馬の様子が気になったのも、本当にただの偶然だった。
壁外調査のなくなる雪の季節は、通常の騎馬訓練に加えて馬達の運動不足解消を兼ねた放牧や雪道乗馬もあるにはある。
厩当番もより念入りになる季節だと理解はしていたけれど、それでもやはり自分に宛がわれた分身ともいうべき愛馬を気にかける範囲は別腹だ。
様子見がてら雪道を少し走らせようと思い立ち、防寒具や駆け足後の汗拭き用タオル、それにもしかしてどこかで腰を落ち着かせたら飲もうと思って熱い紅茶も用意した。
そうして向かった早朝の厩で、軽快な地響きとテンションの上がったハンジさんを乗せた彼女の愛馬に出会ったのも偶然だ。というかまさかの邂逅に俺は心底驚かされた。
昨夜は会議で遅くなっていたはずだから、てっきりまだ眠っていると思っていたのだ。

「……モブリット? おおおい! モーブリットオオオ!!」

結構なスピードはそのままに、馬上で思い切り腕を振るハンジさんに俺はぎょっとした。危ない。万一バランスを崩したりしたらどうするつもりだ。
俺が何かを言うより早く、背中の主を気遣った馬がスピードを緩めて俺の前で立ち止まる。
彼女の馬も俺の愛馬に負けず劣らず、本当に頭が良くて機転の利く良い子だと思う。
すぐ側まで来ると、褒めてとばかりに鼻を伸ばしてきた牝馬を感謝の気持ちを込めて撫で叩いてやりながら、俺は空気を震わせた。

「走行中に! 手綱から手を離さない! 基本中の基本でしょうが! 雪道ですよ? 馬だって足下で何が起こるかわからないんですから――」
「ごめんごめん。気をつける! あなたもありがとうね」

ひらりと降りたハンジさんはまるで悪びれなくそう言って、愛馬の鼻を優しく叩いた。
軽く嘶き彼女の方へ鼻を寄せ直した牝馬は、褒められて嬉しそうに何度も頭を擦りつける動作を繰り返す。
彼女の愛馬がそんな主人を許しているなら、俺にこれ以上言う資格はない。
当てつけられたような気分で一人と一頭の様子を見ていると、後ろで俺の愛馬が嘶いた。

「ああごめん、お前もブラシしような」

そうだ。俺は俺の愛馬を見に来たんだった。
忘れるなと言わんばかりに見つめてくる愛馬に謝って、持っていたザックを足下に置く。それから馬房の壁に備え付けられているフックからブラシを取り、その艶やかな毛に当てた。隣の馬房に入れて水や飼い葉を変えたハンジさんが不思議そうに俺を見る。

「あれ? 君も乗りに来たんじゃなかったの? ブラシ掛けだけ?」
「そうしようかとも思っていたんですけど何だか気持ちが削がれました。見てるこちらの息が上がります」

あんないい笑顔で息咳きって名前を呼ばれてしまった後では、気もそぞろな乗馬になってしまう。
そもそも駆け足程度で舎前を回れれば、くらいの気持ちでやってきていた俺の気持ちを汲んでか、俺の愛馬はブラシで十分満足してくれているようだった。
彼女の牝馬と違い、今は駆け足の気分ではないらしいことに助けられる。
そんな気分を知らないハンジさんはぱちくりと目を瞬いて、いつの間にか俺の愛馬の分まで用意してくれていたらしい飼い葉と水桶を換えながらで俺に言った。

「お? 私達のせいか? 何だよー。待ってるから乗ってくれば――……って、雪すごくなってきたね」

どんな絡み方だと反論しかけた俺の横で、ハンジさんが空を見上げる。
つられて視線を向けた俺は、一変した景色にあんぐりと口を開けた。

「うわ、本当ですね……」

ついさっきまでチラチラと白い景色を舞っていただけの雪は、もうもうと吹き荒れる風を伴い、一面銀世界で覆ってしまっていた。
これでは駆け足なんて出来やしない。それ以前に少し落ち着くまで兵舎へ戻るのだって待たなければ。

「っくしょい!」

ブラシを終えた愛馬に寒くないかと語りかけていると、隣から盛大なくしゃみが聞こえてきた。
見れば鼻をすすり上げたハンジさんが、肩を両腕で抱き締めているところだった。
嫌な予感がする。
そういえば乗馬を終えた彼女は、馬の世話しかしていないような――

「ハンジさん、タオルは?」
「忘れた。というか急に思いついたから、持ってきてなかったんだよね」
「あなたという人は!」

何でいつもそういうところを生き急ぐんだ。
冬なのに。よく見たら、この人コートは着ているけれど手袋はどこだ? まさか素手で乗っていたのか? 馬鹿じゃないのか?

「髪の毛! 拭いてください! そこに座って!」

素早く指示を出しながら、同時にザックからタオルを取り出す。

「おわっ! モブリット、痛い痛い! 乱暴だ! 馬への優しさの半分くらい私にも欲しい!」

空の飼料箱に座らせたハンジさんの頭は思った以上に濡れていて、余計腹立たしさが増長する。痛い、優しく、と抗議の声に耳も貸さずタオルを縦横無尽に動かす俺を、愛馬達が励ますように嘶いた。

***

そうして、激しさを増す風雪を肴に二人で紅茶を回し飲み、ようやく現れた雲の切れ間を見つけた俺達は、並んで兵舎へと来た道を歩いている。
太陽はまだ重く垂れ込めた白い雲の奥にあるようで――ということは、また雪が降るということだ。
サクサク、キュッキュッと音を鳴らして歩きながら、ハンジさんはおもむろに地面の雪を掬い取った。

「ハンジさん?」

慣れた動作で雪玉を一つ作った彼女は、それを思い切りよく放り投げた。
何もない場所に落ちたらしい雪玉の軌跡は、白一面の世界では近くに行かなければわからないくらいだ。
俺の渡した手袋は、そんなことをしても良いつもりで貸したわけじゃなかったのに。
飛んでいった雪玉の行方を満足気に見送って、ハンジさんは両手を叩いて雪をほろった。

「来年はどんな作戦が成功するかな」

失敗よりも成功を。
前を見据える瞳には一点の曇りもない。いや、あえて曇らないところを見ようとする彼女の強い意志は、まるで雪玉の軌跡のようだ。
無駄かもしれない。明確ではないかもしれない。
けれど、確かな一歩を俺達は毎日歩いている。ハンジさんの見据える未来に、俺も「ええ」と頷いた。

「巨人捕獲の許可も下りるといいですね」
「ああそれは――」
「ハンジさん?」

てっきり当然頷くと思っていたハンジさんは、言い掛けて一瞬立ち止まり、俺が止まる前にまたすぐに歩き始めた。真っ直ぐに視線を向けた先には雪で煙る世界しか見えない。
けれどまるで何か明確なものを見ているかのように視線をずらさない彼女の口から、決意の声が出た。

「来春、私は正式に分隊長に就任する」

それは何も目新しいに過ぎた話ではなかった。おそらく上層部は当然に、その下に控える俺達も大部分がその可能性を知っていた。
それでも、事実そうなる日の確実さが彼女の胸の内を奮わせているのを感じる。
高揚と責任と、期待と不安と。
凛としたアンバーの瞳が、白く厚ぼったい雪雲の切れ間を捉えたかのように煌めいている。
眩しさと誇らしさが、当然のように静かに積もり、俺は自然に言葉を紡いだ。

「おめでとうございます」

胸に拳を当てなかったのは、単に彼女がまるで足を止めなかったからだ。歩調を変えないままで、ハンジさんは続ける。

「新しく発足させる班構成も既にエルヴィンの承諾を得た」
「はい」
「それで、モブリット」
「はい」
「辞令は――これも来春正式に発表されるけど、その前にきちんと打診をしておけってエルヴィンからも言われているから今言うんだけど」
「はい?」

何の打診だろう。
発足予定の班構成は、前々から彼女が思い描いていた彼らだろうと察しはついたが、その話とは違うのか。
粛々と肯定していた俺の語尾が上がって、ハンジさんの足が止まった。

「君には、私の副長になってほしい。というか、なれ。断るなら来春まで言い続ける。納得できる理由がないなら他の班には渡さない」
「了解しました。拝命します」

光栄だ。今度こそトンと右手を胸につけて答えると、返礼をくれたハンジさんはホッとしたような、まだ何かを口の中に隠しているような微妙は表情を覗かせて、再び歩きだしてしまった。
先ほどよりも少し早い歩調に合わせつつ、俺は内心で首を傾げる。
他に何があるんだろう。春の人事とそれに沿った新しい構成。彼女の頭をチラツかせている不安は何だ?
またおもむろにしゃがみ込んで雪玉を作ったハンジさんに手渡され、なんとはなしに片手で出来るだけ遠くへ放り投げる。
手袋のない手は冷たさに慣れず、かじかんだ指先は雪玉を持ったせいか少し痛い。

「それで来春のことを思っていたら気分が昴って、突発的な早駆けに出たんですか?」
「いや、まあ、それもそうなんだけど」
「ハンジさん? ――分隊長?」
「それは春からでいい」

煮えきらない彼女を呼ぶと、何故だか少しだけぶすくれた声でそう言われた。
それから俺の渡した手袋を右手だけ脱いで着けるように促される。
意図が読めないまま、受け取った右手袋を装着すれば、着けていた彼女の体温で中はじわりと温かい。

「そういうのもあるだろう?」
「はい?」

ふわりふわりと空気に舞う雪と温かさに気を取られ、ハンジさんの言葉を聞き逃したのかもしれない。
俺は隣に聞き返した。そういうの、とはどういうのだ。

「だから、ちゃんと考えたっていうか、いつまでも君に甘えて乗っかってるのもないなって思って――いや、ずっと思ってはいたんだよ!? いたんだけど、タイミングがさ……」

まだ暴風雪で声が聞き取りにくい状況でもないはずなのに、ぶつぶつと文句を言うように唇を尖らせたハンジさんは、ハアッと白い息を吐いて立ち止まった。
目の前に広がる白い雪原を睨むように見つめて、それから俺を振り返る。

「あの、ハンジさ」
「言っていいよ。今、ちゃんと答えるから」

決意を秘めたアンバーの瞳が、雪と、俺とを映し出した。
真剣なその瞳が、何を示しているのかはすぐにわかった。――それは、あの秋の日の続きだろう。

「……」
「わ――すれてるなら別にいいんだけど」

じっと見つめ返していた俺は、どんな表情をしていたのかわからない。
けれどハンジさんは言うなりさっと踵を返して、再び兵舎へと続く道を歩き出してしまった。
なんだよ、くそ、と呟く彼女の鼻頭が赤い。雪が少し舞い降りる量を増して、手袋を脱いだ右手が冷たそうだった。
だから、俺は同じように手袋のない左手で彼女の右手を取った。
思った以上に冷えていたらしい俺の左手には、ぼんやりとした彼女の手の輪郭が伝わってくる。

「な、に――」

俺の行動に顔を上げた彼女の唇も同じように冷たそうで、――それはきっと、俺の唇も同じだったことだろう。

「……」
「……」

思わずといった体で立ち止まった彼女から顔を離して、繋いだ手を軽く引き、俺は自分のコートのポケットにつっこんだ。
ぎゅっと指先に力を入れてまた歩く。
無言のまま隣を歩いていたハンジさんが、ハッとしたように声を上げた。

「こ、断られる可能性考えてないのか!?」
「考えましたよ。断られたらこういうこと二度と出来ないじゃないですか」
「な……っ、は、ハア!?」

もしかしたら雪道を並んで歩くくらいは出来るかもしれない。
けれどこうやって手を繋ぐことも、唇を重ねることも、きっと温める為が理由では出来なくなってしまうから。
彼女の用意した答えはきっと、たぶん、おそらく――だよな?
ここに来るまで自惚れられないことばかりではなかった。だけど確信を持ててはいない。
彼女の突飛な行動はいつも大抵不意打ちで、予測の斜め上を行くからだ。

「モブリットの行動はいつもいきなりすぎるんだよ!」
「ハンジさん」

不本意な文句に、俺は前を向いたままで彼女を呼んだ。
いきなりすぎるのはあなたでしょうに。俺の台詞を取らないでください。

「何だよっ」

ふんっと鼻息荒く答える彼女がポケットの中で俺の手を強く握る。それに一度握り返して、俺は指を絡め変えた。ハンジさんの指先が挑むように俺の指の間にするりと絡む。

「好きです」
「知ってる! 私もだ!」

今度は俺が思わず立ち止まってしまう番だった。そんな俺の手を引いて、ハンジさんはこちらを見ずに大股になる。
ポケットから出された途端に外気を思い出した左手が、急に冬の寒さを思い出して、俺は慌てて並び直すと、またポケットに入れた。
ハンジさんは俺を見ないまま、ぶすっと唇を尖らせていた。
その頬が、鼻先が、目元が、耳が、全部赤い。

「……………………まさかの」

告白の回答ならイエスかノーか。
それ以外のシチュエーションまで考えていなかったのは認めるが、まさかそんな喧嘩腰で。
やっぱり斜め上を行ってくれた。

「ぶふっ」
「笑うところか!?」
「――いえ、すみません」

思わぬ告白に肩を震わせてしまった俺は、咳払いを取り繕って真面目な顔で謝罪した。
その態度が気に入らないのか、またぶつぶつと口中で文句を呟く彼女の横顔を盗み見れば、やっぱり色々な場所が赤くて少し痛々しい。
ポケットに入れた片手のように早く温めてあげたくなる。

「寒いですね」
「……よ」

けれどもそう言った俺に、ハンジさんはポケットの中の手に力をこめたようだった。

「え?」

聞き取れなくて顔を見る。
前を向いているとばかり思っていた彼女の瞳がすぐそこにあった。

「あの――」

きゅっと、繋いだ手が僅かに下に引かれたのと、唇に感触を感じたのは同時だった。
さっき、俺からした時よりも唇の感触を感じるのは、ハンジさんの白い息が空気に溶けた分だけ温度を上げたからか。

「熱いよ」

呼吸を忘れたようでしていたらしい俺の息が彼女の吐いた息と混じり合って、冬の空気に馴染んでいく。
行こう、とハンジさんがポケットの中で手を引いた。
また激しくなる気配の雪に押されて歩く俺達の足跡は、どんどん新雪に埋もれていく。だから今はどんな足跡でもかまわない。
大股でも、小走りでも、近すぎる距離でも。
いつかこの雪が溶けた後、俺達のつける足跡はどんな歩幅になるだろう。
今はまだ試すように手探りの歩幅で歩きながら、それでもこのポケットの中、俺達が繋いだ指先の距離だけはきっとずっと変わらない。
痺れるような指先の熱にじわじわと身体の芯を焼かれながら、当然のようにそう思った。



【 Fin. / タイトル別案 :『モブハンde春夏秋冬』】


モブリット視点の捏造過去で、接点のなかった二人が会って、一緒に行動するようになって、意識して、意識し返されるまでの小話を春夏秋冬に絡めて四編。秋冬以外は単独で読めるかなと思います。
特にこれといってすごい盛り上がのない日常ターンなので甘さもとても低めです。
春夏秋冬で一話ずつモブハンで何か書きたいな〜と春頃からぼんやり考えて書き始めて、結局1シーズンに1話しか書けてないじゃん!?と自分につっこみながらUPしてみました。遅筆…_:(´?`」∠):_