男と女は難しい




研究室のドアに手を伸ばしかけたとき、中からスパンと小気味良い音が聞こえてきた。思わず手を止めて、後ろのモブリットと視線を交わす。

「――あ、ちょ、待てって」
「待たない!」

次いで聞こえてきたのは聞き慣れた部下達の声を潜めた喧噪だった。
唐突にドアが開かれ、黒いおかっぱ頭が猛然と私の腹に突進してきた。

「――おっと」

受け止めた私に気づいたニファが、真っ赤になってあわあわと顔の前で両手を振る。

「大丈夫かい?」
「あ、わ、わ、すすすみませんでしたっ! そ、総務班へ行ってきます!」
「ニファ?!」

私の問い掛けも、モブリットの呼び声も聞こえていないのだろう。脱兎の如く駆け抜けて行ってしまった後姿を見送って、私達はどちらからともなく肩を竦めた。部屋に入れば、もう一方の当事者は、頬に真っ赤なもみじ型を咲かせながら、引き留めに失敗したのだろう片手を突き出した格好のまま、呆然としているようだった。

「ケイジー?」
「大丈夫か?」

私達の声にハッとしつつも、鈍く反応したケイジは、いつもより更に難しい顔をして、曖昧に返答を濁して自席についた。
これは所謂男女の縺れというものだろうか。
いつの間にか想いを通わせ合っていた部下の恋路に、どこまで首を突っ込んでいいものか逡巡していると、先に席に着いたモブリットが言った。

「冷やしとけよそれ。いいネタにされる。可哀想だろ」

何の気負いもない言い方だ。
さり気に女性側へ配慮した物言いはさすがとしか言いようがない。手馴れている。フォローの天才か、はたまた女性経験のなせる技か。いいネタにする側の私には咄嗟に出てこない発想だなと感心しながら、私も自分の席に着いた。
モブリットに言われて初めてそこに思い至ったらしいケイジは、慌てて部屋の隅に設置された蛇口から、ハンカチを浸して戻ってくる。頬に当てて、ため息を一つ。

「……あー、ケイジ? 無理にとは言わないけど、良ければ相談に乗るよ?」
「あ、はい、あー……いえ、すみません」

どこか心ここに在らずといった口調で何かを言いかけ、ケイジはふいと視線を逸らす。
随分気になる態度をとってくれるじゃないか。
そのままだんまりを決め込んでしまったケイジの向かいに座るモブリットに視線をやった。これもっとつっこんで聞いてもいいやつかな、と眉を上げて暗に仄めかせてみる。すると彼は何とも微妙な表情をくれた。さしずめ「あまり無理強いをするな」というところか。けれどもケイジの出方を考えあぐねているようにも見えて、私も微妙な顔で首を傾げるに留めるしかない。
まあそうだ。二人ともいい大人なわけだし、こちらが口を挟むこともない。
興味はあるし、気にはなるけど、プライベートは難しい。
手持無沙汰に資料を引っ張り出し、室内が静かに過ぎることしばらく。ケイジがぼそりと呟いた。

「……いな、と……」
「ん?」
「お、何なに、言う気になった!?」
「ハンジさん」

思わず身を乗り出した私に、モブリットがメッというように人差し指を唇に当てる。
渋々引っ込んだ私に代わって「どうした?」と静かな声音で問い掛けられたケイジは、ニファの出ていったドアを見つめた。

「……女って、難しいなと」
「お、おう」

ようやく話す気になったらしいケイジは、しかしやけに抽象的な言葉をくれた。
私もモブリットも咄嗟に掛ける言葉が浮かばない。
難しい……難しいか?
女が、じゃなくてニファの話だろう?
どうなんだ? ニファは難しいか? 結構あの子はわかりやすい方だと思うけど、これはどうすれば――よし、モブリット、タッチ。

「……何したんだ?」

私の無言の視線を受け取って、モブリットが簡潔にまとめた質問をする。
それだ。私もそれを言いたかったんだ。さすがモブリット。わかってる。

「いや、する前の段階っていうか」

記憶を辿るように視線を泳がせたケイジが唸る。
モブリットが僅かに気色ばんだ声を出した。

「ケイジ、お前まさか無理に」
「え、それはダメだろ。そういう行為は常に双方の合意に基づいて行われるべきで」
「違います! そっちは合意済みで問題ありません!」

続きを察して同調した私を遮り、慌てたケイジが反論する。
なんだ、違うのか。それなら何がいったい難しいんだ?

「だから、その……誘い方がなってないと」

尻すぼみになっていくケイジの弁明を受けて、私達は小首を傾げ合ってしまった。

「何て言ったんだ?」
「ニファがあんなに怒るって結構だよね?」

仮にも合意の相手から誘われて、一足飛びに平手打ちを食らわせるなんてよっぽどだ。ニファの剣幕を思い返して聞く私達にそんなことはと反論しかけて、しかしケイジは眉根を寄せて考え込んでしまった。
それからしばらく、ようやく告げられた誘い文句に、私とモブリットは即座に正反対の意見を出すことになる。

「今夜、ヤる時間あるかって」
「最低だな」
「わかりやすい」

ケイジが戸惑い、モブリットから信じられないとでもいうかのような非難の視線を向けられる。

「……え、ちょっと、どっちで」
「は――はあ!?」

質問者の言葉を本末転倒で遮ったのはモブリットだった。
ガタンッと勢い良く立ち上がったかと思うと、何故だかさっきのニファよりすごい剣幕で睨まれる。
向かいの席ではモブリットの勢いに気圧されたのか、ケイジが固まった表情で私達を見上げていた。

「え、何で? ニファはそれでさっき怒っちゃったんだ?」
「普通怒りますよ!?」

何でだ。
ケイジに聞いたのに、モブリットが怒気をはらんだ声で答える。

「わかりやすくて良いのに」
「わかりやすけりゃいいってもんじゃないでしょう。あなたにはムードを解する心がないんですか」
「わかりにくいムードですれ違うくらいなら、わかりやすい方がいいじゃないか」

その言い方にさすがに少しムッとして、思わず剣呑な視線になる。
ムードだ何だと言っていたって、結局行き着く先は同じだろうに。手順が必要な場合があるのは認めるが、互いに生活スタイルも仕事上のスタイルもある。時間の調整が必要なことなら、目的は明確に示して何が悪い。

「あの……」
「ケイジ、よく聞け。その誘い方は好きも嫌いも伝わらない。娼館通いの予定を決めるのと一緒だ」
「誘う相手との関係によるだろうが! その決めつけは良くない!」

おずおずと声をあげたケイジに振り向き、諭すように言ったモブリットへ、私は思わず立ち上がった。ビシッと人差し指を突きつけてやる。
それと一緒にするなバカ。そもそもケイジはニファが好きで、ニファもケイジを好きなんだから、そういう予定とは全く違う。夫婦が排卵日を計算して子作りするのは非難される話じゃないのに、恋人同士の誘いは明確性を欠くべきだなんて、ナンセンスに過ぎるだろうが!

私の真っ当な抗議に対して、モブリットはイヤミなくらいの薄目になった。すう、と長い息を吐き、小馬鹿にしたように片眉を上げる。
なんだそれ、すごく腹立つ。

「なら聞きますが、その誘い方であなたは何が良くてわかりやすいと思ったんです?」
「簡単だ。目的が明確でスケジュールの確認がしやすい」
「な?」

ふんぞり返った私の勝利宣言にも似た回答に、モブリットがケイジを見る。

「目的の置き場を間違えるなよ。したいだけか、誰としたいのか、少し考えるだけで変わるから。普通は」
「……ニファに謝ってくる」
「裏手の花、ひとつ摘んで行くといいぞ」

なんってことだ。
視線だけでなく口調も珍しく私へのイヤミたっぷりに言い含めたモブリットの言葉を受けて、光明を見出したとでもいうかのようにケイジは部屋を出ていってしまった。
最後の一押しのようなフォローを部下の背中に投げてやる気遣いまで見せつけてくれたモブリットの腹立つ態度といったらない。何だよ。むしろ女か。花が欲しいのかモブリットめ。
ダダダ、と走るケイジの足音が遠去かっていく部屋の中で、モブリットがふと私を見て、それからやれやれといった風に息を吐いた。
何なんだ。その全部わかっていますとでもいうかのようなしたり顔!

「――失礼だな! だいたい! モブリットの誘い方はわかりにくいじゃないか。ケイジくらい明確に言ってくれなきゃわからないだろう!?」

さっさと席に腰を落ち着けたモブリットが憎たらしい。
私の言葉に、モブリットはファイリングされた資料を机の上から引き出して、仕事に戻る姿勢を見せた。

「俺はそんな事務的な受け方をしてほしくないだけですし、そもそもそんな誘い方がいいなんて思いません」

そうはさせるか。
この際だ。はっきりさせてやろうじゃないか。
いつもいつも、こういう時だけ人をクラッシャーのように扱うモブリットは、ケイジに見せたフェミニストさを私にも少し見せるべきだ。
これまでの誘われ方にものすごく不満があったわけではなかったが、そういえば、モブリットの方からはよく苦言を呈されていたなと思い返して、私はつかつかと彼のデスクに歩み寄った。
面倒臭いと隠さず顔に張り付けた彼にムッとして、ダンッと机上に掌を打つ。

「じゃあモブリットはどんな誘い方がいいのさ!」
「だからっ、その……、そういう雰囲気というものがあるじゃないですか」
「結局するかしないかだろ!」
「そうですけど! でも、いきなりヤる時間がどうのとかそういう――」
「セックスしようよ、の何が悪いのかわからない!」
「セッ……だから!」

やっとファイルから顔を上げたモブリットは、苛立たしげに机についた私の手を奪うように掴んだ。
ほら、やっぱり。こうした方がわかりやすいじゃないか。
例えば今が休日で、ここがどちらかの自室なら、掴んだ手首を引き寄せて「しよう」と言えばすむだけなのに。
けれどもモブリットは違うらしい。
不満を顔に張り付けて私をきつく見つめるくせに、それ以上の言葉を探して飲み込んでしまった。
彼は私に雰囲気が足りないというけれど、彼は言葉が足りないと思う。
じりじりと睨み合いが続いた末、私は仕方なく肩を竦めた。
仕方ない。モブリットはこう見えて意外と頑固者だ。
そのくせ配慮もこなす繊細少年――そう思えば譲歩するのもやぶさかではない。

「なんだよもう、面倒臭いなあ。じゃあ今夜は雰囲気作りでゆっくりベルト外しながらヤる気になった?とか聞けばいいの?」
「ニファの気持ちがよくわかる!!!」

けれども私のムードに満ちた譲歩の言葉に、モブリットは激しく叫ぶと、机に頭を打ちつけたのだった。

何だもう。
君としたいから時間作ってというのが駄目で、時間あるなら今からどうとか聞くのも駄目で、その気にならないならさせるのありって聞くのも駄目で、君と一緒に過ごしたかったらどう言えばいいの。

「……モブリットとしたいのに」

突っ伏すつむじに、つい言葉が口をつく。
と、モブリットの掴む力が何故だかぎゅっと強められた。

「それをっ! 今夜! 言ってください!!」

やっぱり机に突っ伏したままそう叫ぶ彼は、本当に難しい男だと思う。


【Fin.】