あるところに思春期がいまして


これは、大変由々しき事態だ――。


******


「……い、おい」

カチャカチャとなる食器の音と、食事時特有の静かなざわめきを尻目に、アルミン・アルレルトは理知的な瞳を一点に集中させていた。普段は冷静さと好奇心、それにこの年頃の少年にしては深い思慮を湛えた空色の瞳に、今は少しの欲が滲んで見えなくもない。

「おいって!」

前の席から常より大きな声が届いて、アルミンは初めて意識をそこから戻した。
それでもワンテンポ遅れた動作で視線を戻すと、親友のエレンが身を乗り出すようにしてこちらを睨んでいるところだった。

「アルミン。エレンはずっとあなたを呼んでいた」

どうしたんだろうと不思議に思うアルミンの隣から、もう一人の親友であるミカサにそう指摘され、思わず大きな瞳をぱちくりと音が鳴りそうな程瞬かせてしまった。どうしよう。全然聞こえていなかった。

「え? え、あ、ごめん。何?」

こんなに近くで何度も呼ばれて気づけなかっただなんてどうかしている。
最近少しばかり友人達への配慮が疎かになっている自覚のあったアルミンは、素直に謝罪を口にした。こればかりは完全に自分の方が悪い。心ない態度への反省から、太い金の眉が戸惑ったように下げられる。

「別に何ってことはないけどよ――」

その態度に、今度はエレンが困ったように唇を尖らせた。

「エレンはアルミンを心配している。最近ずっと、心ここに在らずなことが多かったから」
「え?」
「ミカサ! 余計なこと言うんじゃねえよ!」

言葉を濁したエレンに代わり言ったミカサに食ってかかるのは、それがきっと本心だからだ。

「だって本当のこと。それに」

声を荒げたエレンをいつものことと意に介さず、ミカサはじっとアルミンを見つめた。

「私も、心配している」

もっとずっと幼い頃から当たり前のように見てきた漆黒の瞳は、まるで嘘も誤魔化しも真実で塗り潰してしまいそうな色にアルミンには見えた。いや、それは詭弁だ。二人の真っ直ぐな視線を受けて、アルミンはふうっと息を吐いた。本当はわかっている。そろそろ自分が限界なのだ。誰かに――二人に、聞いてもらいたいことがある。

「……実は」

ごくりと緊張で生唾を飲み干して、アルミンは意を決して顔を上げ、

「最近アルミンはハンジさんのことをよく見ている」
「え」

思いも寄らないミカサからの先制攻撃に、思わず言葉を呑み込んでしまう。

「そうそう。今も見てたろ。大丈夫か? 何かあるなら言えよ」
「えええ!?」

息つく間もないカウンター攻撃とはこのことだ。顎でしゃくるように奥の席にいるハンジを示したエレンの言葉に、アルミンは溜まらず大声を上げてしまった。周囲が一瞬注目して、すぐに興味を失っていく。自分の出した声で気づかれていないだろうかとおそるおそる後ろを見たが、ハンジは向かいのモブリットに何かを一生懸命話しかけているところだった。真面目な表情で一言二言交わし、時折頷きながらパンをちぎるモブリットにも、何ら変わったところは見えない。
気づかれなかった安堵と、少しもやもやとした感情を抱きつつ、アルミンは顔を戻した。
と、心配そうに自分を見つめる四つの目の存在を思い出し、同時に急に羞恥心が頭を擡げて、アルミンは思わずガバリと頭を抱え込んでしまった。

「アルミン?」
「どうかしたのか?」

まさか、気づかれていたなんて。
ミカサはともかくエレンは絶対気づかないと思っていた。いや、ミカサにしたってそうだ。自分に向けられるあからさまなジャンの視線にはあれだけ疎いくせに、どうしてこちらが見ている対象まで知っているんだ。そんなに自分はわかりやすかったんだろうか。もしかして本人にもバレている……?どうしよう。どうしたら。
それを聞いてほしかったのは本当なのに、急にどう切り出せばいいのかわからなくなる。

「え、ええと、二人はいつから気づいてたの……?」

机に突っ伏した頭を上げて、アルミンはおそるおそる様子を窺った。
その質問に、親友二人は互いに顔を見合わせる。それから、何てことのない口調でさらりと言った。

「いつからって――結構前からだよな? 会話の中にハンジさんが出てくる回数もやたら増えてたじゃねえか」

そんな自覚はさらさらなかった。いつから――いつからハンジ班ではなく、ハンジ単体の話を二人にしていたんだろう。記憶を手繰りたいのに恥ずかしさで脳が上手く処理しきれない。火照った顔が熱で重みを増すように、またアルミンの頭が徐々に下を向く。
その様子で何かを思ったらしいミカサが、アルミンの肩をそっと叩いた。

「とても思い詰めた顔もしていた。もしもアルミンが何かされたというのなら、私が彼女にしかるべき報いを」
「ち――ちちち違うんだっ。そのことで、そのっ、二人に聞いてもらいたいことがあるというか!」

不穏な空気を隠そうともしないミカサの言葉に、アルミンは慌てて顔を上げた。ハンジを見ていたことはバレていたが、その理由にはまだ気づかれていなかったらしい。それが僅かな救いのようで、聞いて貰いたい告白をするには逆に勇気が必要となる。

「何?」
「何だ?」

言い切ったアルミンに、二人は同時に口を揃えた。
エレンとミカサと。大切な親友達の顔を交互に見つめて、アルミンはごくりと咽喉を鳴らした。真剣な表情に、二人も神妙な顔つきになる。
まだ半分ほどトレーに乗った食事から手を放し、心なし二人がアルミンの方へと寄る。内緒話を聞くような独特の雰囲気の中、アルミンも意を決して声を潜めた。

「僕は――、ハンジさんを好きかもしれない」

ハンジを、好き、――かもしれない。

初めてはっきりと口にした言葉を自分の耳でも確かめる。
緊張と安堵が一気に押し寄せてきて、二人の反応が気になった。

「……」
「……」
「な、何か言ってよ」

無言のまま凝視されて、アルミンは情けない口調でそう言った。この際冷やかしでも嘲笑でも何でもいいから意見がほしい。両手の指をもじもじと合わせたり離したりを繰り返していると、ガタリ、と目の前の椅子が鳴った。

「アルミン、おまえ……」

金緑色の双眸が、信じられないとでもいうかのように震えている。

「ヤバい薬の実験台にでもされたのか!?」
「許せない。上官の笠を着てアルミンになんてことを。やはり私がしかるべき報いを――」

と、同時に横手からもミカサがアルミンの肩に置いていた手に驚くほどの力を込めた。痛い。いや、それよりも。

「ご、誤解だよ! 何もされたりしていない! 本当にすごく良くしてくれてるんだ。禁書に近い文献も見る機会をくれたり、それでまた新たな可能性を模索できるなんて最高だよ。今まで知らなかった知識や見方を教えてくれたりもして、本当にすごい人なんだ……」

親友二人のあらぬ誤解を慌てて説きながら、アルミンは改めてハンジのすごさに思い至った。
そう、彼女はすごい。こんなただの一兵卒に過ぎない、しかも卒業成績だって決して良くもない自分にも分け隔てなく接してくれる。分隊長ともある人が、それだけでも十分すごいことだ。ハンジは人を一般的な側面だけで決めつけない。それだけでなく――

「僕は巨人が地中を這うかもしれないなんて考えたこともなかった。もしもそんな巨人がいたら、人類なんてひとたまりもない。なす統べなく食われてしまうってわかっているから、たぶん恐怖故に思考を放棄していたんだ。なのにハンジさんは考えるんだ。ものすごく真面目に突拍子もない可能性を全部考えようとする。それで恐怖にも向き合うんだ。こんな食べられ方をしたら生存確率は3%くらいだろうか、とか。もし生き残れたら、そこから算出できるあらゆる可能性を考慮して、現場復帰だけじゃなく寄与できるものがないかをも考えてる。後ろを見てるんじゃない。そこからちょっとでも人類の拓ける道の可能性を探り出そうとしているんだ。その知識と情熱は本当に素晴らしくて、僕なんか足元にも及ばないのにそれでも意見を聞いてくれるし、忌憚ない意見を返してもくれて――」

アルミンはそこでふっと息を吐いた。
こんなに一気に話したのは久し振りな気もしたし、いつもハンジがモブリットに話している様と似ているような気もした。さすがにまだ入り込む余地のない二人の論じ合いは眩しくて、聞いているだけで高揚して、そして少し胸の奥がきりりと痛い。
視界の端でまだ食堂にハンジ達がいるのを認めて、アルミンはぱたりと机に突っ伏した。それからゆるゆると顔を上げる。

「――……気がついたら、巨人じゃなくて、巨人のことを考えてるハンジさんのことを考えちゃってるんだ。これってやっぱり変だよね? つまり僕はあの人に恋をしているんだと……思う?」

たぶん。きっと。
そうに違いないというある種の確認めいた質問に、しかし二人はぱちくりと瞬いた目を見合わせて、それから同時に首を傾げた。

「いや、それ違わないか? なあミカサ」
「エレンの意見に同意。断定には早いと思う。気をしっかり持って」
「え、そ、そうかな……」

ミカサの最後の言葉は微妙な気がしたが、思わぬ返しにアルミンは二人に向き直った。これが恋じゃないのなら、いったい二人は何だと言うつもりだろう。
思考を巡らすアルミンに、エレンが呆れたように片眉を上げてみせた。

「だってアルミン、前にクリスタのことを女神だと思ったって言ったことあったじゃねえか」
「いや、あれは……」
「ハンジさんのことそんなふうに思ったことあるか?」

気の置けない幼馴染はいかにも少年ぽく悪戯っ子のように鮮やかな金緑色の瞳をにやりと細める。アルミンは思わず椅子を蹴って立ち上がった。

「え? ……いや、いやいやいや。だってクリスタとは何かいろいろ違うよ!? 女神というより……えええ……? だって、だって、ハンジさんは……汚物みたいな時とかあるし……!」
「それな。普通好きなら汚物なんて言わねえだろ」
「アルミンは汚物が好きなの?」
「ちちちち違うよ!? 今のはものの例えだよ!?」

とんだ不名誉な性癖を植え付けられるところだった。大慌てて否定するアルミンは、どこまで本気なのか半眼の二人に咳払いを一つして、浮き足だっていた腰を椅子に落ち着ける。
確かにそう言われればそうかもしれない。クリスタは可愛いと思うし、それで言うならミカサだって綺麗だと思う。でも、ライナーやジャンのように想っているかと問われれば、アルミンは違うと断言出来る。ただその説明は難しい。

「……でも、あのね」

ハンジのことも、難しいのだ。
机の上で、もじっと指の先を合わせる。

「こう、何て言うのかな。姿が見えたら目で追っちゃったり、話を聞いてるだけで嬉しくなったり、……む、胸が高鳴ったり、するんだ……」

自分の状況を客観視して伝えようとすればするほど、何だか身体全部がこそばゆい。それに顔面に随分熱が集中しているような気もして、アルミンはぎゅっと目を瞑った。二人はこんな自分をどう思っただろう。バカだと思っただろうか。呆れただろうか。これは――本当に恋なんだろうか。

「憧れ、とは違うの? アルミン」

ぽん、と隣から優しく触れた手の先を見つめれば、ミカサがほとんど無表情に見える瞳の中に心配げな色を湛えてアルミンを見ていた。きょとんと呆けた自分の顔をそこに見ながら、アルミンはその言葉をなぞる。

「……あこが、れ……?」
「だな。異性としてどうこうじゃなくて、よくわかんねえけどそれじゃないのか?」

視線を戻せば、向かいのエレンもしたり顔でうんうんと何度も頷いている。呆れたり馬鹿にしたりせずに、二人は真剣にアルミンの悩みと向き合ってくれていたらしい。
出口の見えない迷路のような感情に絡め取られて必死だった心が少しだけ解れて、別の意味で泣きそうになる。
思わず目を擦ったアルミンに気づかず、エレンは難しそうに意志の強そうな眉を寄せ、唇を尖らせた。

「見つけたら追っちまったり、話してると緊張するけど嬉しかったりって、俺ミケさんにそうなるぞ? あと兵長とか」

問答無用で絶対俺達より強えじゃん、と付け加える様はどこか拗ねたような響きにも聞こえる。
アルミンの肩に触れていたミカサが、離すと同時にムッとした気分を隠しもせずにエレンを呼んだ。

「エレンはあのクソチビにそんなこと思わなくていい」
「関係ねえだろ。ミカサだってペトラさんのことよく見てるじゃねえか!」
「あの人は、可愛い、ので、見てるだけ。そういう意味では胸が高鳴ることもある」

反撃のつもりで指摘したそこを受け止めたミカサは、そう言ってまたアルミンの肩にポンと触れた。
可愛いから見て、胸が高まる?
それは、だから――

「……え? 恋?」
「違う」
「違っげーだろ」

出した回答に、すかさず二人から否定が飛んだ。
いつもは何やかんやと喧嘩のような言い合いをしているくせに、いざと言うときのタイミングは驚くほど一致する二人だ。ジャンが見せつけるんじゃねえと怒鳴りながら殴りかかってくるのも頷けてしまう。単なる親友ではなく、まるで家族のような立ち位置に思わず噴き出しそうになったアルミンが、思わず片手で口元を押さえたのと、エレンが頭をガシガシと掻きながら「だから」と言ったのは同時だった。ちらりとミカサを気にするように視線をやって、すぐに逸らす。

「アルミンのハンジさんに対するそれも、そういうんじゃねえの? だってあれだろ? あの人と何かするとか考えてねえだろ?」
「何か、する……」

また素直に反芻したアルミンが意味に気づくより早く、ミカサがダンッと机に拳をめり込ませた。思わず見れば、一見怒気のようでその実拗ねたような、けれどもほぼ無表情のミカサがエレンをギラギラと睨めつけている。

「何かって何? エレンはあのクソチビと何をすることを考えてるの? それとも他の誰かと考えてるの? その『何』を、具体的に」
「だあああっ! うっせえよ! お前にはまだ色々早えっ!」
「違う。エレンに早い。エレンは私のことだけ考えて、胸を高鳴らせていればいい」
「はあっ? 何だそれ!」

わかった。
いや、自分のことはまだよくわからないが、二人のことはよくわかった。
この二人のような関係を想い合うというのなら、自分の感情はまだ足りないような気がしないでもない。

「はは……」

きゃんきゃんと子犬のじゃれ合いのように言い争う二人に思わず笑いながら、アルミンはふとそんな彼らによく似た二人をどこかで見たことがある気がした。
互いが言いたいことを言い合って、けれども一見噛み合っていないように見える、そんな二人をどこかで――

「やあ、楽しそうだねみんな」
「ハンジさん!」

靄の中に誰かの姿が見え始めたところで、後ろから掛かった声にアルミンは椅子から滑り落ちそうになった。驚いて振り向いた目と鼻の先にハンジがいる。ついさっきまで食堂の奥でモブリットと何やら話し込んでいたと思っていたのに、一体いつの間に側にきたんだろう。
話を――自分がハンジを好きかもしれないだなんて相談していたことを――聞かれてしまったり、なんて――
驚きすぎて頭の中がぐるぐると回る。
エレンとミカサが素早く立ち上がり、ドン、と右手を胸につけるのを軽く笑って返したハンジは、そのままアルミンの隣の席に座り込んだ。持っていたトレイを乱暴に机に置く。

「分隊長。同期との語らい中に割って入る上官ほど邪魔なものはありませんよ」

と、間髪入れずすぐ側で呆れたような声が聞こえて、アルミンは慌ててハンジの後ろを見遣った。おそらくいつものように最初からそこに居たのだろうモブリットが、窘めるように眉を寄せている。けれど言われたハンジはぶすくれた顔を隠しもせず、アルミンの肩に手を伸ばすと、ぐいっと自分の方へと抱き寄せた。

「ええ〜、それはモブリットの場合だろう? 私とアルミンの間には深い信頼関係が結ばれてるから大丈夫だよ。ねえアルミン?」
「はっ、はははははいっ」

ねえ、と言いながら額と額がくっつきそうなほど首を傾げて笑うハンジは、ずっと歳上のはずなのに無邪気で真っ直ぐで衒いがない。肩に置かれた手の熱で、身体の中心からカッと体温が上昇する。
顔が脳ごと蒸発してしまいそうなアルミンを全く意に介さず、ハンジは上機嫌でモブリットを見上げた。

「ほら見たか、モブリット! 人徳だよ」
「……どう見ても緊張させてますよ。あと近すぎます。節度を保ってください」

けれどモブリットは笑いも呆れもせず、むしろ無表情に近い顔でそう言った。ごく僅かに寄せて見えるような気のする眉が、ハンジの暴走時以外であまり感情を乗せないと思っていた彼の不機嫌さを匂わせている。

「あ、あの、ハンジさ……」

思わずアルミンの方から離れなければと考えてしまったところで、ハンジがパッと両手を上げた。肩が急に冷えた気がする。何とはなしに熱のあった右肩を見てしまったアルミンの隣で、ハンジは椅子から腰を上げた。

「はいはい。モブリットは焼き餅やきだから困るよ。ねえ、アルミン」
「え」
「誰が焼き餅なんて焼いてますか! アンタはいいからさっさと風呂に入ってきてください!」
「おー、怖! はいはーい。じゃあね、みんな」

軽快な軽口を叩いてトレイを持ったハンジは、片手をひらひらとさせながら跳ねるように食堂を出ていってしまった。まるで暴風のような立ち去り方には思わず呆然としてしまう。

「……ったく。悪かったね。臭ったろう?」

行ってしまったハンジの背中を見送っていたアルミンは、小さな悪態と共に気遣われて、ハッと我に返った。掛けられた言葉を頭の中で反芻して、何だか少し靄が重く沈んだ気がする。

「いえ……」
「アルミン? どうかしたか?」

それがつい表れてしまったのだろう。モブリットが心配そうな口調になった。
いいえ、と言うつもりだった。いいえ、何でもありません、と。

「あの、モブリットさんは!」
「うん?」
「ハンジ分隊長とその……っ」

けれど、飄々としたモブリットの態度とハンジとのやたら距離の近い掛け合いが目蓋の裏にチラついて、ついぐっと腹に力が入ってしまった。親友である自分達のような関係でもなく、信頼される上官と部下より近い距離で、どこかエレンとミカサの雰囲気に近いものを感じる彼らは、もしかして――

「おっ、お付き合い、を、されているんでしょうか!」

言った。とうとう言ってしまった。
本当はずっとそうかもしれないと思っていたことを、アルミンはついに聞いてしまった。
もしかしたら自分はハンジを好きなのではと疑問を抱いた瞬間から、ハンジを見るとき常にそこにはモブリットがいた。甘い関係を見せつけるわけでも、気安い仲間の範疇を超えるわけでもない彼らは、けれどそれだけには見えない雰囲気があるとアルミンは思っていたのだ。
自分がハンジを好きだから気づいてしまったのかもしれない。ハンジはモブリットに甘い。いや、甘いとは違うが、他の部下には見せない甘え方をしているような気がすることが極たまにある。モブリットは――モブリットも、いつも苦言を呈してストイックな部下に徹しているようで、本当に極稀に、仕方がないなと緩めるヘーゼルの瞳から甘さが滲むことがあるような気がしてならない。二人は、だから、本当は――

「……」
「……」
「……」

上官に対する不敬罪で咎められるかもしれない。
ぐっと両拳を膝の上で握り締め目蓋をきつく閉じたアルミンに、三者三様の沈黙が痛い。隣と前から緊張の気配も伝わってくる。
そうしておそらく長くない時が、永遠とも思われる沈黙で苦しくなってきた時だった。

「お付き合いはされてないね」

目蓋を上げれば肩を竦めてみせるモブリットの、やはり飄々としたその答えに、アルミンはどこか激しい脱力を覚えた。誤魔化されたというのではない。それはわかった。けれどもつまり、詳細を自分に答える義理はないとかそういうことだろうか。単なる新兵に過ぎない自分に、二人の間に立ち入る機会はないということを暗に告げられているのだろうか。

「……………………そう、ですか」

力なくそれだけ言って顔を上げたアルミンは、モブリットがじっとこちらを見つめているのに気づいてビクリと肩を跳ねさせた。ヘーゼルの瞳が口調よりも温度をなくして、アルミンを映し出している。それはまるで、アルミンの中にある真意を探り出そうとしているかのように見えた。ぞくりと背筋が嫌な汗を一筋滑らせる。アルミンは知らずごくりと唾を飲み込んだ。口が勝手に言い訳をしようと開きかけた時、エレンが「あの」と小さく右手を上げた。

「なんかすみません。こいつ――アルミンが、ハンジさんを好きかもしれないとか今ちょうどすげえ悩んでふぐっ!」
「エレェェン!!?」
「すみません。エレンはパンを咽喉に詰まらせました」
「うわあああっ! し、白目! 白目むいてるよ!? ミカサ、エレンに呼吸をさせてあげて!?」

いきなり何を思ったのかモブリットにとんでもないことを暴露し始めたエレンの口に、ミカサがものすごい勢いでパンを捻り込んでいる。元々固いパンが、長引いた話のせいでさらに固くなっているものを咽喉の奥まで突っ込まれたエレンが白目を剥くのに慌てて、アルミンはそう叫んでいた。
一瞬騒然となった辺りを後目に、漸くパンを吐き出して咳き込むエレンへ、横手からすっと水の入ったコップが渡される。

「あ、すみませ――」

エレンに代わって礼を言おうと顔を上げ、アルミンはやはり表情の読めないモブリットに言葉を飲み込んでしまった。

「……ええと」
「……」

エレンが口を滑らせたせいで、ハンジへの想いは気づかれたはずだ。けれどモブリットの表情から何を考えているのかはまるでわからなかった。自分のような子供が何をと呆れたのだろうか。それとも分不相応だと怒っている?ハンジに言うつもりだろうか。それとも――

「アルミン」
「は、はいっ!」

必死で可能性を考えていたアルミンは、呼ばれて思わず飛び跳ねた。その場に直立不動で敬礼をしたアルミンの手にモブリットが触れる。
強引ではない優しい強さで胸につけた拳を解くモブリットの手は、十五の少年であるアルミンよりもまだ一回り近く大きかった。
その手から、アルミンの手のひらに小さな鍵が渡される。

「この前読みたがっていた資料、分隊長の閲覧許可を取ったから、この後第三資料室に行くといい。終わったら下の事務で鍵を返して。名前を言えばわかるようにしてあるから」
「え? ――あ、ありがとうございます!」

手渡された鍵と言葉の意味を理解して、アルミンは信じられない思いでモブリットに頭を下げた。
資料のことを忘れていたわけでは無論ない。けれどそれは、無理だろうと半ば諦めていた資料だった。ハンジ班の資料整理に駆り出されていた時に「読んでみたい」と口をついて言ってしまったのは、失言だったと思っている。

「持ち出しはさすがに不可だから、必要ならメモを取るといい」
「はいっ」

あの時――資料整理をしていた時、巨人考察の議論をしているハンジとモブリットの会話が偶然耳に飛び込んできた。壁外での巨人発生に関する内容で、それはかつての要塞都市の状況を紐解くヒントがある気がした。浮かんでは消える仮説のいくつかを証明する為に、禁書に準じた資料を一冊見ることができれば。そう単純に思ったのだ。
けれどアルミンの呟きを拾ったハンジも、さすがに二つ返事はしてくれなかった。難しそうに眉を寄せ「それは、君にはもう少し後かな」と言った彼女の横で、この人は言葉を発していなかったのに。まさか彼が自らハンジの許可を取り付けてくれていたなんて。
資料の内容に思いが先走り、ドキドキと高鳴ってしまった胸に鍵を抱き寄せたアルミンへ、モブリットがふと表情を和らげた。

「読んだら君の見解を出来ればまとめて分隊長に話してほしい。今日ならヒトフタサンマルからあの人フリーだから、執務室にいることになっている。他に来客の予定もないからゆっくり話が出来るはずだ」
「え」
「じゃあ」
「モブリットさん!」

そのままくるりと踵を返してしまったモブリットの背中を、アルミンは咄嗟に呼び止めていた。鍵を持っていない方の手で、思わずジャケットの裾まで掴んでしまっている。

「うん?」
「すっ、すみません!!」

上官に対して気安すぎた。平身低頭するアルミンに、モブリットはまるで気にした風もなく「どうかした?」と声を掛ける。そういえば常にハンジの傍にいるけれどこの人のことはまるで知らないとアルミンは気づいた。ハンジはすごい人だ。そのハンジと常に行動を共にして、時に冷静に、時に予想を超えた動きで周囲を翻弄するハンジを先回りして行動を諫めるモブリットは、そういえばアルミンを一度も邪険にしたことはなかった。
今だってそうだ。
ハンジに対する気持ちを知ったはずなのに、アルミンを彼女から遠ざけようともせず、むしろ二人で話す時間を作ってくれてしまった。少なからず、ハンジのことを悪く思っているとは思えないこの人は、もしかするとハンジに負けず劣らずすごい人なんじゃないだろうか。
静かに次の言葉を待ってくれている優しさに気づいて、アルミンは意を決して背の高い彼の顔を真っ直ぐに見上げた。

「あの、その前に、僕はあなたの見解を聞きたいと、その……っ」
「俺の?」

リヴァイのように他を圧する眼力も、エルヴィンのように他に類を見ない存在感を放つわけでもないごく普通の好青年に見えるモブリットは、驚いたように目を丸くした。
知らなかった。こんな表情もする人なのか。
そういえばいつだったか、ハンジは彼を「可愛いところもあるんだよ」と笑って教えてくれたっけ。
思い出すと少し胸の奥が重くなった気がしないでもないが、先程の靄よりずいぶん軽い。
少しだけ首を傾げて、モブリットがヘーゼルの瞳にアルミンの姿をじっと映した。まるで真意を探ろうとするかのようだ。そうか。これは考えている時のこの人の癖なんだ。
一つ、モブリットのことがわかった。けれどもまだ。ハンジのことを知る為に。

「あなたのことを、知りたいんです」

自然と浮かんだ微笑を乗せて言ったアルミンに、モブリットはまた一つ目を瞬いた。それからぼそりと言葉を溢す。

「……告白されてるみたいだな」
「えっ!? あ、いや、そ、そんなつもりじゃ……!」

とんだ誤解が生じてしまった!
大慌てて顔の前でバタバタと手を振るアルミンに、モブリットはおかしそうに肩を揺らした。

(笑うんだ)

当たり前のことをまた一つ知った。

「ごめん。冗談。わかってるよ。俺の意見でいいのか? ハンジさんより斜め上な見解はないと思うけど」

ハンジに向けるものとはまるで違うけれど、類似の柔らかい表情をくれたモブリットに、アルミンは勢い込んで頷いた。

「はい! モブリットさんの見解はいつも真っ当で、面白味には欠けるけど絶対に無視の出来ないものだと前にハンジさんが言っていましたし!」
「面白味に欠ける意見でいいの?」
「はい――あっ! す、すみません!」
「ぶっ」

またやってしまった。失言すぎて、人によっては上官侮辱罪を問われる類の発言だ。けれどモブリットは堪えきれないというかのように、顔を背けて肩を震わせ笑っている。

「ええと……」

やっぱりすごい人かもしれない。
こんな新兵の隅に鎮座しているような自分に、準禁書の閲覧許可を取り付けてくれたり、失礼極まりに物言いを咎めることなく笑いに変えてしまえるなんて。人と分け隔てなく接するハンジとはまた別の意味で、懐が広く、だからこそ、ハンジは彼を傍に置いているのかもしれないと思った。

「いや、ごめん。いいんだ」
「すみません」

屈託なく笑ってしまえる彼には到底適わない――そう思えば、やはり胸が少し痛む。
この感情は、だから、やっぱり。

「アルミン」
「はっ、はい!」

彼の人に気持ちを向けていたアルミンは、見透かされたのかと裏返った声が出てしまった。しかしモブリットはやはりおかしそうに瞳を細め、けれども決してバカにしているのではないとわかる気安さでアルミンに片手を差し出した。

「俺ももっと君を知りたくなった」
「え」

呆けてしまったアルミンの右手をひょいと繋いで言ったモブリットは、離すときも飄々として、今度こそさっと踵を返す。

「読み終わる頃に資料室に行くよ。じゃあ後で」

肩越しに少しだけ振り向いたモブリットが、柔らかい視線をくれた。ひらひらと指の先だけを振る仕草は、線がいかに兵士然とした体格よりも細く見えているとしても、大の男がするには可愛すぎる。だというのに嫌味なく様になっている。

「……」
「……」
「……」

二人のやり取りを黙って見ていたらしいエレンとミカサをそのままに、やはり黙して見送ったモブリットの背中が食堂から見えなくなってしまうとアルミンはどっと息を吐き出した。

「どうしよう二人とも……」

その場にヘたり込んでしまいそうになるのを辛うじて堪え椅子に座る。

「アルミン?」
「顔が赤い。大丈夫?」

心配そうに覗き込んでくる親友二人に、アルミンは泣きそうな顔で縋るように胸を抑えた。
ハンジはすごい人だ。もっと話をしたい人だ。姿が見えると目で追ってしまうし、もっと色々知りたいと思うし、自分ではない別の誰かと親しげに話している姿を見れば、少しだけ胸が苦しくなる。だけど、モブリットは。
彼もきっとすごい人だとわかってしまった。もっと話を聞きたいと思った。姿を追ってしまうのは今に始まったことじゃないけど、もっと知りたいと思ってしまった。それから胸は――

「む、胸がドキドキしてるよ……!?」
「おまえ、まさか」
「恋したの? 今?」
「そんな!」

どうしよう。
こんな気持ちは想定外で、予測不可能で、全く意味がわからない。
じゃあ後でと言った彼ともう一度会うまでに、この動悸は収まるだろうか。
わからない。
この感情はいったいどんな意味なんだろう。
アルミンは両手で覆った顔を、ワッと机の上に叩きつけた。


これは、大変由々しき事態だ――

【END】


実は人たらし班とか幹部組に思われているといい。
これはシリーズ的にいろんな104期生がハンジさんに思わず惚れる話を!と思って書いていたのに、気がついたらモブリットにかっさらわれてる話になってて、クッソwwwとなりました。


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