潮騒を君と共に




「またここにいたのか」

振り向かずともわかる声の主に何も答えず、ハンジは茫洋と目の前に広がる海面から視線を逸らさなかった。
風で揺れる湖面とは違い、不規則なようで規則正しい波の飛沫が寄せては返す動きは、見ていて飽きることもない。
ざ、ざざ、という音が波の音だということにも慣れて久しい耳は、それを不思議と思うこともなく、思考を邪魔することもなかった。

「すぐに陽も落ちる。戻らねえのか」

潮の香りが海風と共にハンジの鼻腔をくすぐって、青臭い湿気った空気を纏わせるのにも慣れた。
最初はあんなに肌に張り付くようなこの空気になれなかったというのに、人間とはなんと順応するものだろう。

「ハンジ」

すぐ真後ろに迫った声に名前を呼ばれて、ハンジはそれでも振り返ることなく夕陽を映す海面を見つめていた。
面倒臭そうな舌打ちが、小さいながらも風に乗って、ちょうどよくハンジの耳に届く。

「戻れ。アルミンが心配している」
「アルミンが? ここに行くってちゃんと言ってたのになあ」
「それでもだ。遅すぎるからだろうが。ガキ共にあまり心配かけさせるな、年寄りが」
「ひどいな、リヴァイは」

再びの舌打ちと共に吐き捨てられて、ハンジは苦笑しながらようやく重い腰を上げた。

「ガキといえるような子供ではないよ、彼らは。それに私だって、そこまで足腰の立たない年寄りでもない。ていうか君より若い」
「大して変わらねえだろうが」
「はは。旧人類コンビだもんね」
「うるせえ」

ハンジの少し後ろの位置に立つリヴァイは、決して横に並ぼうとはしなかった。
慣れたいつものその距離に、安堵と僅かばかりの情けないくすぐったさを感じながら、ハンジは夕陽を散らして眩しい海面に目を細めた。

見たいと切望していた風景がここにある。
眼下に広がる無限大の世界には、まだまだ未知が溢れていて、それは未だにハンジの知的好奇心を深く揺さぶる。
こうして見つめているだけでも、風の運ぶ匂い、方角、沈む太陽の行方、沈んだ先、昇る先、あらゆる疑問が渦巻いては、ハンジの脳内を大量の図式が浮かんでは過ぎていくのだ。

「……海を見ていると、色々な可能性が浮かぶんだ」

けれどそれを語り合える仲間は、もう大部分が傍にいない。
あるいはあの戦いで。あるいはあの戦いの後に。

「そうらしいな。アルミンも前に同じようなことを言っていた」
「リヴァイは浮かばない?」

同じ時代を過ごしてきた数少ない仲間を肩越しに気配だけ探るように首を向ける。
リヴァイは少し考えるように間を開けて、それから水平線をじっと見て僅かに目を細めた。

「すごいとは思うし綺麗だとも思う。だが考えるのはお前達の仕事だ」
「心は少年かよ。おっさん少年かよ」
「黙れクソメガネババア」

すかさず吐かれた悪態は、近年一言多くなった。口の中で「クソチビジジイ」と反論して、ハンジはふっと頬を緩めた。
そういえば昔、まだ海が禁書の中の世界だった頃、ハンジは今はここにいない彼に質問をしたことがある。
当時はまだまだ一可能性に過ぎないそれは、期待と希望という空想に思いを馳せたものでしかなかった。
海は塩で出来ている終わりの見えない巨大な水だとして、そこに太陽が沈む時にはその光の反射角度は辺りをどう照らすだろう、といった話をしていた時に、不意に浮かんだ質問だった。手持ちの桶に水を張り、夜中にランプの明かりを散らしながらああでもないこうでもないと侃々諤々の話し合いをした後で、ハンジはおもむろに「海を見たらどう思うかな」と聞いたのだ。
彼は少し考えて、それから想像の中の海を見つめるように少し遠くに視線を向けて、それから静かにこう言った。

『全ての推測が違っていても、とにかくものすごく綺麗だと思ってしまうでしょうね』――と。

科学も技術も関係ない、それは個人的な感想だった。
素直で、純粋で、思わずハンジがまじまじと隣の彼を見つめてしまうほど何の衒いもない可愛らしい感想。
いつも眉一つ動かさずハンジの指示に黙々と従う副長ではない彼の素が、そこにあった。
見つめる視線に気づいた途端、バツが悪そうに瞼を伏せランプを消した彼を揶揄しくすくすと笑うハンジに『絶対あなただって感動するくせに』と口を尖らせた顔も、つい昨日のことのように思い出せる。

「……ちっ。馬鹿にしやがって」
「してないよ」

笑い声は出していないはずだが、気配で察したらしいリヴァイにそう言われ、ハンジはすかさず否定した。

「してない」

するはずがない。
綺麗かどうかだなんて純粋な気持ちを考えなかった自分と同じ目線で話し合いをした口で、綺麗だろうと推測した彼の思考を否定するなんてない。思いつきもしていなかったハンジに感動すると断定した彼の言うとおり、初めてここに出会った時、確かにハンジは感動したのだ。今だって、毎日見ても毎日感動を覚えている。彼の言葉は正しかった。想像の及ばなかった自分の負けだ。言ったとおりでしょう?としてやったりな顔で自分を見下ろす表情が見えるようで、ハンジはゆっくりと肩を竦めた。

「アルミンもね、ここを見つける前に言ってたんだ。きっとすごい光景だと思うって。私も海を見て実際すごいと思った。感動した。してる。だけど、この目で見るまで、そんなことよりもいろんな考察が頭に浮かぶだけだった。……多角的に考えられる柔軟性が私には足りない」
「……」

自嘲ではなく事実として言った言葉は本心だ。
自分はいつも突っ走る。可能性を考えている時の閃きや行動力はなかなかのものだという自負がある。
けれども、立ち止まって考えることは少し苦手だ。それから横道を見つけることも。
いつだって彼がそっと袖を引いていてくれたからハンジは自然と自分の事にだけ没頭できていたのだと、本当はずっと知っていた。

「彼もね、そうだったんだ。絶対綺麗だって。感動するって言っていた。本当にそうだった。見せてあげたかった」

海面に目を奪われている彼の無邪気な横顔を見たかった。
それが意外と強い自分の願望だったとハンジが気づいたのは、初めて海を見た夜だった。
日没は想像を超えて美しく、潮風の不快を忘れるほどに感動して、思考が一瞬時を止めた。誰もが目を奪われ、言葉をなくして立ち尽くした後で、ハンジの心にふと彼が過ぎったのだ。彼がいればきっと自分は絵を頼んだだろうし、彼も自主的に描いただろう。感想を言い合って、感動のあまり今までの推論を実証しようとしなかったことを揶揄し合い、翌日の可能性を話し合ったに違いない。
もういないと分かっているのに、そんなことは昨日今日始まったことではないはずなのに、彼と成し得なかった仮定の話を想像したら、あとからあとから止まらなくなった。次々と浮かぶ光景はあまりにも生き生きとしていて、けれど絶対に居ないと思い知らされた存在に、心臓ではない胸の奥がこんなに痛くなることがあるのだと初めて知った。
咽喉も心も、いっそこの想いで焼き切れてしまえば楽になれると思うのに、一向に収まらない慟哭はその日からひたすらにハンジの中へと降り積もっていくだけだった。

「一緒に見たかったなあ」

だから、こんな未練を口に出来るようになったのは、それでも少し前になる。
痛みは癒えない。穴は埋まらない。
けれども肉体に出来た傷がそうであるように、無常にも過ぎる日常の中で、ひそやかに瘡蓋が出来上がるのだということをハンジは知った。見た目に多少のいびつな引き攣れが出来たとしても、それもいずれは身に馴染む。
それは生を選んだ者にだけ赦された選択の一つだ。
けれども決して忘れることのない渇望だ。
出来上がり成り代わる新しい細胞とは違い、決して代わりを務められない穴は抱き締めていくしか術はない。
この事実も、ハンジの中で改めてそれが穴だと自覚して初めて知ったものだった。

海から上がる風に靡く髪を押さえたハンジの後ろで、黙って聞いていたリヴァイがふとつられたように呟きを乗せた。

「……俺も、見せてやりたかった」
「あ、ペトラに? 喜んだだろうねえ」
「…………てめえは、人様に対する気遣いと情緒が圧倒的に欠けている」
「ん? あ、辛かった? ごめんね?」
「…………クソが」

忌々しげに呟くリヴァイを振り返れば、これでもかというほど眉間に皺を寄せた彼の青灰色の瞳が、波の煌めきを受け止めて不思議な色を踊らせているかのように見えた。この不愛想な男の近くで、屈託のない笑顔を見せていた若い笑顔が浮かび、ハンジの口元が自然と緩む。
ここにいたかったのはおそらく彼女だ。けれどいない。それはもう変えようのない現実だが、思い出す彼女はなかなかどうして、こんなにも生き生きとして鮮やかだ。

「ニヤニヤしてんじゃねえ、気持ち悪い」
「ひどいな。可愛いと何度も言われたハンジさんの素晴らしい笑顔を」
「それはあいつにだけだろうが。絶対可愛いと思うものの基準が違う。あいつと俺はわかり合えねえ」

何度も二人で酒を飲み明かしていただろうに、欠片も譲歩しなかった唯一の箇所は、未だに健在らしい。わかってもらったら困りますけどね、とぬけぬけと言ってのけられた夜の帳も、ハンジはいつだって鮮明に思い出せる。

「私もペトラとはわかり合えないな。君のどこが可愛くて優しいなんて言えるんだ」
「あいつとお前じゃ種族が違う。一緒になれると思うなクソが」
「種族って!」

言うなり踵を返したリヴァイの、少し丸くなったように見える背中を追って、ハンジも海に背を向けた。
潮騒の音が、ざざ、ざざ、と途切れることなく別れの挨拶をしてくれる。
もう一度振り返り、心の中で「また明日」と呟いたハンジが首を戻すと、こちらを見ていたらしいリヴァイがすいっと顔を逸らした。また歩き出す。

「……いっそ柵でも作っちまえば、あいつらも安心するんじゃねえのか」
「あの岬に? でも変に安全性を主張して、寄りかかったら倒れて落ちましたとか洒落にならなくない? 何もない方がみんな自主的に気をつけると思うけど」
「みんなじゃねえ。あいつらが心配しているのはお前のことだ、ハンジ」
「私?」

少し前を行くリヴァイの歩幅を越さないように歩きながら、ハンジは目を瞬いた。
どうして自分が心配される必要があるのか。腕を組み考えて、ハンジは「ああ」と合点がいった。
暇さえあればこの景色を眺め時間を忘れるきらいのある自分を、あの時から知る104期生の面々は、おそらくあらぬ心配をしているのだ。
それに気づいて、ハンジは苦笑を禁じ得なかった。

「死なないよ? ……違うな。人はいつか死ぬ。死は選べない。だけど私は自ら死を選ばない」
「知っている。だが、人は弱い。気持ちはぶれる。魔が差さないとは言い切れない――と、思う奴らの気持ちも俺はわかる」
「そうだね。私もリヴァイが死を選ばないとわかっているけど、もしもそうなったとして、それもわかるところがあるし」
「俺は死なねえ」
「知ってるよ」

ムッと眉を寄せて振り返ったリヴァイに噴き出して答えながら、ハンジは波の音に耳を澄ませた。
夢物語ではなく海という存在に出会えるなんて幸せだ。この音は想像していたどんな音階でもなく、そのくせもうハンジの日常に組み込まれた音になり、違和感もない。
変化のない日常はない。どんなものでも変わりゆくものが日常だ。

「私達が自分で死を選んだりしたら、彼らにはきっと怒るか泣くかされるだろう? そういうのは――……って、ペトラは仕方ないですねとか言ってくれそうかな」
「……あいつは怒ると意外に怖い」
「おお。人類最強を怖れさせる女か。さすが」

まるでそこにいるかのように声を潜めたリヴァイの態度に、ハンジはおどけたように笑って、心の中で亜麻色の髪の少女に語りかけた。

(君のおかげでリヴァイは生きてる)

思い出の中ですら叱咤してくれる存在がいるなんて、ものすごい奇跡だ。
それはハンジにとっても同じことが言える。自身の思い出へも語りかけようとしたところで、リヴァイがふんと鼻を鳴らした。

「むしろ俺にはあいつの方が受け入れそうに見えたがな」
「受け入れ――……? あ、ないない! それは絶対ない!」

一瞬誰のことかと首を捻ったハンジは、思い切り首を振った。
ちらりとハンジを振り返ったリヴァイが、まるで信じられないというかのように眉を寄せている。
ハンジは更にぶぶぶんと激しく首を振った。

「彼は絶対怒るよ。今までを無駄にしたんですねとかすごい冷たい眼で言いそうだし、そんなことして万が一会えても絶対二度と触らせてもくれないだろうし、もしかしたらそのまま軽蔑されて終わるやつだ」
「……いや、終わらねえだろ」
「終わるよ。彼は私よりある意味頑固で曲げないから」

あれだけ長く時を過ごしたリヴァイの中ですら、彼はハンジをとことん甘やかす人間に映っていたところがあったらしい。ハンジは笑い出したくなった。そう思っていた人は、確かにとても多かった。だが真実は違う。ほとんど真逆だ。ハンジの我が儘を許しているように見える部分は、彼も持っている我が儘で、それは共有出来る悪戯のようなものだった。本当に譲れないところでは、ハンジは首根っこを捕まえてでも引っ張り戻されたし、やめてくださいと真顔で懇々と怒られたものだ。
それでも。
あれだけ許容の範囲が被る彼の、深く穏やかな表情を思い浮かべれば、その顔を曇らせることをしたいだなんて思えない。

(私の方が絶対弱いんだよなあ。みんな信じないけど)

ハンジは真っ直ぐに前を見据えた。

「だから死なない。ていうか死んだら会えるなんて保証もないのにそんな簡単に死ねないだろ。生きてさえいれば思い出せるし、思い出してる間は会えているんだ。夢の中なら――夢だから潜在意識的に会話も出来るし、触れることも出来る。覚えているからだ。でも脳が死んだら? この記憶も失うのか? 私はその方が我慢できない」

ある種の恐怖に、ハンジは自分の肘を抱えるように腕を組んだ。
根元的な死への恐怖ではなく、もっと純粋で深層にある怖れ。
今はまだ、考えるだけで足下が崩れるようなおぼろさがある。
もしかしたら小さな子供が部屋の暗闇を怖がるのに似て、いつか慣れることがあるのかもしれない。でもそれは今じゃない。子供が大人になるように、もっとずっと長い時間が必要だ。それこそいつか自分自身が彼に似た穏やかな表情でベッドに横たわり、静かに目蓋を下ろす瞬間までのような長い時間が。
リヴァイは何とも言えない表情でハンジを見やり、それからまた顔を前に戻した。

「……いつまでも生き続けてもいられねえだろうがな」
「まあね。でも出来るだけゆっくり朽ちていきたい。私の中の全部と一緒に。それは彼がくれたものも含まれるから。私は私を否定しない。彼を否定しない。その為に絶対自らの死を選ばない」

この岬から見える景色は彼との記憶に寄り添うに都合が良いからで、死を思っているわけではない。
心配させているらしいアルミン達には申し訳ないと思うけれど、足腰の立つ限り、ハンジがここへ来ることを止めることはないだろう。

「……そういうのを可愛げがないと世間は言うんだろうが、あいつが見たらお前らしいと鼻の下を伸ばしそうだ」
「だといいなあ」

もう振り返っても水平線の見えなくなった場所で、ハンジはくつくつと肩を揺らした。沈みかけた夕陽は今頃海面を眩しく照らし、最後の眩さを放っているだろう。リヴァイの言葉に笑いながら、ハンジは「あなたらしいです」と見つめてくれるヘーゼルの瞳が、胸の奥に柔らかな焔を宿してくれるようだと思った。
思い出は優しいばかりものではないけれど、こういう気持ちになるのは嫌いじゃない。生きていないと得られない確かな彼との温もりを感じる。
だから余計に、ハンジは生を放棄しない。死を受け入れても望みはしない。
どういえば、この真意を心配をかけているらしい彼らに伝えることが出来るだろうと思案するハンジの前で、不意にリヴァイが言った。

「……お前とのことを考えたことがある。と言っても、考えさせられたというのが正しいが。自主的に考えようとしたことはない」

他人が聞けば言い訳めいて聞こえる突然の告白に、けれどもハンジにはそれが単なる事実だとすぐにわかった。
何故なら思い当たる節があるからだ。
前を向いたままのリヴァイの背に、ハンジも事実を淡々と告げる。

「へえ、奇遇。私も考えたことあったよ、最近」
「気持ち悪ぃ」
「おい、クソチビジジイ。この野郎」

自分から口にしといてそれはどうだ。
思わずゲシリと背後からローキックを見舞ったハンジに鋭い視線を向けたリヴァイは、しかしやり返しては来ずに眉間の皺を深くした。

「俺は少し前にコニーにどうなのかと聞かれたからだ」
「偶然を装った計画的犯行だな。それ三日前の昼頃じゃない? 私はサシャに言われたよ」

年頃を微妙に越えた年代に成長した彼らの懸念事項だったのだと、言われて初めてハンジは理解したようなものだ。斜め上の心配事に肩を竦めれば、リヴァイも深いため息で答える。おそらく同じことを思っていたに違いない。

「あの馬鹿どもはすげえことを考えやがるな」
「ね。欠片も考えたことなかったから本気で驚いたよ」
「俺もだ」

本気で呆れ口調のリヴァイに心の底から同意して、ハンジもうんうんと頷いた。
先を歩くリヴァイの視線の奥に、新兵舎が見えてきた。木造と煉瓦造りの新旧の造りを融合した建築様式は、ジャン・キルシュタインの提案によるものだ。旧時代を払拭し新様式のみでと主張していたアルミンを、珍しく理詰めで落としたジャンに新しい時代の形が見えた気がしたのも大分昔のことのように思える。

「仕方ねえから考えてみた。が、お前と手をつなぐことを考えただけで鳥肌が立った。無理だ」
「わかるわかる。君と肩は組めても手はちょっとね。リヴァイとはないなあ。……ん? いや、ていうか鳥肌はヒドくね?」
「事実だ」

さらりと必要以上の拒否を言葉に乗せたリヴァイに片眉を上げ、ハンジはふう、と息を吐いた。
腹立たしい言い方ではあるが、確かに事実かもしれない。
あの日サシャに言われたハンジ自身も、彼女達の斜め上の気遣いへの配慮としてあり得ない想像を捻り出すだけは出してみたのだ。そして同じような感想を抱いたのだから。

「私は君の膝枕で寝ることを考えて、あ、これ無理無理。おっさんの足無理って自分の想像に噴き出したよ。絵面的にシュールすぎた」
「そうだろ――……いや、ちょっと待て。普通それで考えたなら、俺がされる側じゃねえのか。何で俺がお前に膝を貸してやらなきゃいけない」

同意しかけたリヴァイが、やけに怪訝な表情で振り返る。
眉間にこれでもかと皺を寄せたハンジは、さらに怪訝な顔でそんなリヴァイを見返した。

「あ? 何で私がリヴァイに膝を貸すんだよ。やだよ。小さいくせに何かミッチリ詰まってそうで重そうじゃん」
「気持ち悪い言い方すんじゃねえ。……まさかとは思うがお前、あいつにしてやったことねえのか」

何をと聞きかけて、それが膝枕だと理解する。ハンジは何を言い出すのかとばかりに首を傾げた。

「あるけど。圧倒的にされることの方が多かったし」

疲れたと言ってわざと凭れ掛かったり、ベッドに倒れ込んだハンジをどうにかきちんと休ませようとしてくれた彼に無理矢理しがみついたりするのが日常だった。文句を言いつつ膝を貸してくれる彼を見上げれば、どうしましたと語りかけてくる瞳を見るのが好きだった。
けれどそんな内情を知る由のないリヴァイは、すっと細めた視線をハンジに流して前を向き、やれやれと首を振った。

「決定的な価値観の違いだ。やはりどう考えても無理だな」
「それな」

その背にビッと人差し指を突きつけてハンジも大仰に頷いてみせる。
そう。どう考えても無理なのだ。
ロマンチックな物言いをするなら、自分とリヴァイはそういう関係を築く星の元に生まれていない。

「背中合わせで眠れても、向かい合う関係じゃないんだよなあ」
「まったくだ。例えば――……そうか。エレンとジャンのようなもんだと言えば、あいつらにはわかりやすいのかもしれねえな」
「あ、それなら私エレンね。巨人化がいい。リヴァイは馬好きだからいいだろう?」
「……どういう基準だ、てめえ」

互いに認め合い必要性を理解しながら、決して同じ方向に手を取り合うことのない青年達の関係は、確かに自分達とよく似ている。揶揄するように笑うハンジに諦めたリヴァイがチッと低く舌を打った。
夕陽はもう水平線上をだいぶ割り込んでいるらしく、辺りに薄闇が忍び始める。さわさわと風に揺られて鳴る低い草の音が、涼やかな気配を運んでくるようだ。
前を見れば兵舎の窓からチラホラと明かりが灯り出している。
あの元にいる仲間達は、ハンジとリヴァイの戻りを待っていてくれているのだ。

「ねえ。あのさ」

本当にそんなつもりはまるでなかったのだが、彼らに心配を掛けているのは本意ではない。物騒な懸念を手っ取り早く払拭してあげられる手段を選べないことに困ったような笑いが浮かんで、ハンジはリヴァイの背中に声を掛けた。

「幽霊とか生まれ変わりとかさ、非科学的なことを信じているわけじゃないんだけど、でも希望的可能性の一つとしてそれがあり得ると仮定した時、傍にいるのはいつだってどうしたって、私にとって、その相手は一人なんだ」

想像したことのある根拠のない仮定を訥々と口にして、ハンジは歩きながらで目を瞑った。
どこかでまた会えるとしたら。
この肉体が朽ちて、記憶も朽ちてしまったなら、その時のことはわからないけれど。
それでも求める意志をどこかに遺すことが出来るとしたら、きっとまた自分は彼を選ぶのだろう。
仕方ないから膝枕は交互にしてあげてもいい。

「リヴァイもだろう?」

リヴァイの背中に、ハンジは答えのわかりきった質問を投げてみる。

「当たり前だ」

振り返らないリヴァイの答えは想像以上に早くて、ハンジはぶはっと噴き出した。
こんな二人が、どうして互いの相手以外になれるものか。
次へと進むステップは人それぞれで、それを否定するつもりも拒否するつもりもない。幸せの形も感じ方も人それぞれだ。それでいい。自分達は周囲の望むものとは違った。ただそれだけだ。

「ははっ。だよねえ。他が考えられないとか周りが見えないとか、そういう頑ななことじゃなくて、なんて言えば良いのかな。それがごく自然で当たり前すぎて――……こういうのって仕方ないんだって本能が受け入れてる。悪くないなって思うんだ」
「ああ」

この感覚を共有できる仲間がいることも、リヴァイ風に言うなら『悪くない』。幸せの一様式だとすら思っている。
短い返しに目を細めて、ハンジは蒼く瑠璃の絵の具を掃いたような色に染まりだした空を見上げた。
この景色も、隣で一緒に見たかった。
巨人の驚異から解放された新しい世界で、彼の感想に頷いて、綺麗だと笑い合いたかった。
思い出の中で語り合った希望はいつでも甘さを伴いハンジの胸を高鳴らせもする。
それはもう決して叶わない現実で、考える度にやはり胸の奥が切なくなって苦しい音を立てるけども。
瑠璃色の空を見上げるハンジをここに立たせてくれるのも、やはり同じ彼なのだ。

「私は幸せだった。今も、なかなか幸せだよ」
「……ああ。そうだな」

珍しく笑みを含んだ声音で短く同意したリヴァイは、きっと彼女にだけ向ける表情をしているのだろうとハンジは思った。
そしてそれは、おそらく今の自分の表情ととても良く似ているのだろうとも。

「そういえばさ」

もう後100メートルもない先に兵舎から出てきた人影を見つけながら、ハンジは歩調を変えないまま、リヴァイの背中に声をかけた。

「リヴァイはもしかして時代が変われば次にいくこともあるのかもって思ってたことあったんだけど、意外と一途だよね」

男女という括りを殊更意識していたわけではないが、生物学的な都合上、そういうふうに出来ているというのは否めない。戦いの真っ最中はそんな話は二の次になってしまうくらい色々なことが立て続けに起こっていた。だがまさか、ここまで浮いた話一つ寄せつけない生活をするリヴァイに、ハンジは自分のことを棚にあげ、感心と多少の呆れと、それから不器用さの垣間見える性格に妙な仲間意識を感じたものだった。
特に話題にすることもなかったが、もののついでとばかりにそう言ってみれば、リヴァイはやはり振り返りもしないまま、呼気と一緒に口を開いた。

「馬鹿言え。俺は元々結構一途だ」
「ぶふぉっ。うん、そういえばペトラも言ってたわそれ!」

思わず後頭部に向かって盛大に噴き出したハンジの前で、リヴァイの足がぴたりと止まった。
薄暗さでぶつからないようたたらを踏んだハンジに剣呑な視線が振り返る。
笑いすぎで流石に機嫌を損ねたかと目尻にたまった涙を拭ったハンジに、しかしリヴァイはその視線のままチッと舌を鳴らして睨み上げた。

「…………詳細を教えろ」
「ぶふぉ!」

思った以上に素直なリヴァイに、ハンジはまたもやたまらず噴き出し、捩れそうになる腹を必死で抑える。
その昔ハンジが聞いたペトラによるリヴァイの評価は「優しい」「格好良い」「一途で不器用」そして「可愛い」だ。
彼女の語っていたものと同義ではないだろうが、リヴァイが優しいのは知っている。立体機動とブレード捌きは格別で羨ましくなるほどだったから、それを格好良いと評すのもまあわかる。
だけども、なるほど。
残りの二つも、確かにリヴァイはそうらしい。

「やばい……ごめっ、ふははっ、うん、ちょっと待って。苦しい……っ」
「てめえ」

やはり昔、リヴァイをそう評していた彼のことも思い出してしまったハンジは、目尻から溢れてきた涙を拭った。
酒が入れば君の前で可愛くなるんだ?と揶揄すれば、焼き餅ですか?としれっと言ってくれた彼の小憎たらしい表情もすぐ傍でハンジに寄り添っている。

「あ〜笑った笑った。ごめんって!」

今ブレードを装着していたなら確実に抜いていそうな不穏な空気を醸し始めたリヴァイに、ハンジは漸う笑いを引っ込めた。それからふふんと鼻を鳴らして胸の前で人差し指を振ってみせる。

「教えてもいいけど、じゃあ彼との酒の時の会話と引き替えね」
「あ? そんなもん、おまえがどうだこうだ言ってただけで毎度大差ねえよ。俺が興味持って聞いていたと思うか」
「思い出せよ。じゃないとペトラとの会話も片っ端から忘れるぞ」
「クソメガネババアが……」

人に物を頼む姿勢が、相変わらず欠如している。
カウントダウンでもしてやろうかと指降り始めたハンジを忌々しげに見遣ったリヴァイは、これでもかと眉間に深く皺を寄せた。本気で覚えていないだろう会話の幾つかを、必死で思い出そうとしているのだろう。ほんの一言でも思い出してくれたなら、ハンジの中で彼の言葉がまた一つ増える。

「先行くよー」

まだまだ知らないことがたくさんあって、ハンジは生きている限りそれが知りたい。
前を見れば、自分達に気づいたのだろう仲間が、ランプを手にこちらへやってくる姿が見えた。
それにわかりやすく大手を振って、ハンジは力強く地面を一歩、踏み出したのだった。


【END】



こういうリヴァイとハンジさんのブロマンスの極致みたいな関係は大好きです。
モブハンとリヴァペトで、もしも別れがあるのだとしたら、二人にはこうであってほしいという結構ギリギリの感情で書いたお話。でもふっつーに辛くなったwwwハピエン厨なんでww